弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年11月 6日

震える学校

社会

著者   山脇 由貴子 、 出版   ポプラ社 

 本のタイトルは学校のホラー映画でも紹介されるようで、なんだかとっつきにくいのですが、読みはじめると、とても真剣に子どもたちのことを考えているのがビンビン伝わってくる本です。わずか120頁ほどの本ですが、たくさんの親と教師に読んでほしいと思ってことでした。
 教員も子どもたちからいじめられるのです。しかし、校長は教員がいじめの被害にあっていたなんて、大人として恥ずかしいことだし、ましてや教師なんだ・・・。今まで対処できなかった学校の責任だって問われることになる。それに、教師の質が悪いからだと責められても仕方がない。と言って、見て見ぬふりをしようとするのです。
現代のいじめは、教師すらもターゲットになりうる。ネット社会の匿名性が、「子どもから大人へ」のいじめを可能にしている。
 いじめの解決に大人が取り組みはじめたとき、子どもたちは、まず疑う、そして罵倒する。これが本音だ。
保護者から学校への苦情は増え続けている。学校と保護者のコミュニケーション不足で悪循環に陥っているケースが少なくない。苦情が頻発すると、学校は対処に追われる。ネガティブな言葉を浴びせかけられ、心身ともに疲弊し、早く「片付けたくなる」。謝って許してくれるのならと、むやみに謝る。すると今度は、今度は別の苦情が出る。「謝り方が悪い」「誠意が感じられない」。そのうち、教師の仕事が「教育」ではなくなり、「処理」業務に終始することになる。
 もともと対話のないところで一方が不満を言い出すと、あっという間に関係性は悪化してしまう。「子どものため」にできることは、一方的な要求や文句ではなく、話し合いと互いに協力することだ。
静まりかえった職員室の意味するものは何か?
 校長は現場の教師をかばっているように見えるが、実はかばっているのではない。問題を起こしたくない。問題として認めたくないだけ。何か問題が起きても放置される。教師は何もしない。それを生徒も保護者も、十分に体験していた。この学校は悪が悪としてまかり通ってしまっていた。思いはただひとつ、卒業までの我慢だ。
 教師は生徒に関心がない。教師同士は同僚ではなく、他人同士だ。だから職員室は静かだったのだ。生徒に関心がなければ、教員としてのつながりは持てないのだから当然だ。校長も、生徒にも教師にも関心がない。
 現代のいじめの典型的なパターンは、「いじめっ子」と「いじめられっ子」という固定した関係ではなく、いじめの被害者がしばらくすると加害者にまわる。加害者だった子が、今度は被害者になる。一度いじめが起こると、「傍観者」でいることは許されず、被害者以外は、全員が「加害者」となっていく。
 いじめがひどい学校ほどいじめのターゲットは次々に変わり、すべての子どもが、「今度は自分かもしれない」と怯えることになる。安心していられる子はいない。この構造こそが、子ども社会のいじめの現実である。
 インターネットとケータイは、子ども社会のコミュニケーションを二重構造化した。現実の対面的コミュニケーションは、常にネット世界の目に見えない悪意に脅かされている。
 多くの子どもは「親友にだけはホンネが言えない」と言う。どんなに親しげにふるまっていても、ネットでは悪口を言われているかもしれない。そんな不安が消えない。いつも怯えている。子どもたちは、人と人の心と心のつながりを信じられなくなっている。継続的で、安心できる人間関係がないのだ。だから、学校でいじめが起こっていても、子どもはどこにも頼る相手がいない。
いじめは異常な集団ヒステリーであり、善悪の判断は倒錯してしまっている。集団の中では善と悪とが完全に逆転し、子どもは時として、楽しんで、いじめを行う。人に対する痛みも、共感も、想像力も、善悪の判断も奪い去り、猛威をふるう。人間を非人間化するのが、いじめだ。
 だから、問題の当事者を排除するだけでは、いじめの本当の解決にはならない。大人社会の信頼の復興こそが、なによりもいじめ防波堤になる。
 改めて問題の本質と対処法を考えさせてくれる本でした。
(2012年9月刊。880円+税)

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