弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年7月19日

新採教師の死が遺したもの

社会

著者   久冨 善之・佐藤 博之 、 出版   高文研

 2004年9月、静岡県で小学校の新任教師となって半年後、24歳の女性教師が自らの命を絶った。9月29日、秋雨の降る早朝、車中で灯油を全身にかぶっての焼身自殺。
本来、教育は子どもたちの人生を左右する。その全人格にかかわるすばらしい仕事。児童教育は知・情・意、とくに心を育てていく大切なもの。教室は人の心の価値基準をつくる大切な場所。にもかかわらず、それに携わっている教師たちが必要以上のストレスを抱え、孤立させられ、追い込まれている。
 それは、子どもや保護者は言いたい放題、同僚の無関心、成果主義に日々追われている上司。さまざまなキャラクターのモンスターが登場する学校というリングに新規採用の教師が一人、セコンドなしに闘う状況と似通っている。
 新採教師の大変さは理解できる。支援してあげるべきだけど、学校にその余力はない。自分が支援しようとすると、今度は自分のほうがつぶれてしまう。
これは女性教師の自殺を知って寄せられた教師の声です。なんという悲しい悲鳴でしょうか・・・。
 教頭は「同じ教室にいて、なんで子どものチャンバラを止められないんだ。おまえは問題ばかりおこしやがって」と怒鳴り、先輩教師は、「おまえの授業が悪いから生徒が暴れる。アルバイトじゃないんだぞ。しっかり働け」と叱りつけた。
 いずれも当の本人たちは争っていますが、このように言われたとしたら、新採教師の心は相当傷つきますよね。たまりませんね。
 現代の教師の苦しさは、まず、対象である子どもの抱える困難であり、子どもとの関係である。子どもは誰しもが素直に真っ直ぐに成長するものではないし、けっして教師の思い通りにならない存在である。それぞれに生育と生活の重さを背負い、発達の困難を抱えて学校に来ている。だから経験を積んでも教師はつねに難しい仕事である。
 学校は、この自死した新採教師に対して、「思い込み激しい。つまらぬプライド強し」として、教師に向いていないと判断していたようです。夏休みに気分転換しようとして企画した外国旅行も、学年主任から「教えてもらっている身だからよくない」と言われて取りやめました。教師って、休みも自由にとれないんですね。
 8月下旬の日記には、「他の先生の協力をあおぐことに疲れた。私の心が傷つき、さらに疲弊してきた。生きているのが、つらい」と書かれていた。
 両親は、娘の死が労災(公務災害)にあたるとして、不支給決定の取り消しを求めて裁判を起こした。そして、2011年12月15日、裁判所は公務災害にあたるという判決を下した。
「学級運営に関する困難な問題に対して、反省と工夫を繰り返し、懸命に対処しようとしていたものであり、結果的には、児童らによる問題行動の内容やその頻度、新規採用教員としての経験の乏しさから事態が改善するに至らなかったという経緯等を踏まえると、クラスの運営については、もはや一人では対処しきれない状況に陥っていたというべきである。そして、このことは学校側においても十分把握することが可能であったし、指導困難に直面するなかで、教師が疲弊し続けていたことは十分察知できたはずである。
 このような事態の深刻性にかんがみれば、少なくとも管理職や指導を行う立場の教員をはじめ、周囲の教員全体においてクラス運営の状況を正確に把握し、問題の深刻度合いに応じて、その原因を根本的に解決するための適切な支援が行われるべきであった」
「新規採用教員の指導能力ないし対応能力を著しく逸脱した過重なものであったことに比して、十分な支援が行われていたとはとうてい認められない」
「そうすると、公務と精神障害の発症及び自殺との間に相当因果関係を肯定することができる」
 このような認定がなされたというのは、日本の教育現場の現実を反映した正当なものであるだけに、悲しいことです。もっとゆとりをもって、相互に暖かく助けあえる教師集団であってほしいものです。そうであってこそ子どもたちは学校で伸びのび育っていくことができます。
 ところでこのクラスには被虐待児がいたようです。虐待されて育った子どもは、周囲そして自分自身、つまりは人間に対する基本的な信頼感がないため、自らの感情をコントロールできず、激しい攻撃傾向があるようです。そのまま大きくなったら、人格異常と呼べる大人になるのでしょうか・・・。
 いやはや、教育の現場の大変さがよく分かりました。
 私の修習同期で親しい仲間である浜松の塩沢忠和弁護士も裁判に関わっています。控訴されたようですので、引き続きがんばってくださいね。
(2012年4月刊。1500円+税)

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