弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年5月18日

謎とき平清盛

日本史(平安時代)

著者   本郷 和人 、 出版   文春新書

 著者はNHK大河ドラマの時代考証も担当する学者です。その指摘には、はっとさせられる鋭さがありました。
日本の歴史には二つの特徴がある。
第一に、平清盛が鎌倉に幕府を開いて以降、明治維新に至るまで、700年間ものあいだ武士が社会の支配者として、大きな役割を果たした。
 第二に、伝統が重んじられ、世襲が社会の基本原則として機能してきた。
 第一の点では、戦前の日本で軍人が偉そうに威張って、日本という国を破滅に導いた愚をくり返したくないものです。昔も今も自衛隊出身の国会議員がいますが、彼らが偉そうに言っているのを聞くと、虫酸が走ります。
 第二の点では、会社はともかくとして政治家の世襲なんて嘆かわしい現象だと思います。これは日本だけではなく、ブッシュ父子のようにアメリカでも起きています。
 黄櫨染(こうろぜん)と黄丹(おうだん、おうに)。前者は赤みを帯びた肌色で、天皇だけが用いることのできる色。後者は赤みをおいたオレンジ色で、皇太子だけに許されている。いわゆる禁色(きんじき)の色である。うひゃあ、こんな色が禁色だったのですね。
 中世の本質は、統一性ではなく、多様性にある。
 税を徴収するために、郡司(ぐんじ)、郷司(ごうし)、保司(ほうし)が任じられた。彼らは、存置の有力者で、国の役所である国衙(こくが。現在の県庁)の役人である在庁官人に任じられた。国衙では太田文(おおたふみ)という台帳が作成されていた。米で収める「年貢」、特産品で収める「公事」(くじ)、労働力を提供する「夫役」(ぶやく)の三つが当時の税を構成していた。幾内の国では「夫役」は、「京上夫」(きょうじょうふ)として、実際に京に行っていた。
 国司に任じられた貴族は、自身は京都にいて、家礼(けらい)を現地に派遣した。この家礼は目代(もくだい)とか眼代(がんだい)と呼ばれ、在庁官人を指揮して、国を統治した。
朝廷は官僚をもたなかった。日本では中国・朝鮮・ベトナムのような科挙の制度を導入しなかった。そのため、才能よりも世襲が政府における支配的な原理となり、貴族だけが政治に関わった。
 また、朝廷は軍隊も保有しなかった。常備軍は消滅した。
朝廷の正式な儀式においては、天皇よりも上皇がえらい。政治の実権を握っているのも上皇だった。
 「精兵」(せいひょう)と形容した強い武士、優れた武士とは、まずは強弓を引ける人。弓の上手に大変な敬意が払われている。戦いで倒れる兵は多く、古くは弓で射られ、また、鉄砲でうたれて命を失っていた。
 日本列島の西方を重視する政権づくり、経済重視、海外交易の推奨。そして改革者だという武士として、平清盛と織田信長の2人があげられる。
 平清盛は、既存の知行国制を有効活用し、いわば朝廷のなかに将軍権力を生み出そうとした。ただ、身分の低い武士が結集する場としては、伝統ある京の都はふさわしくなかった。そのため、清盛は福原への遷都を強行したのではないか。
 平清盛と武士たちについて、いかにも鋭い分析がなされていて、驚嘆しながら面白く読了しました。
(2011年11月刊。750円+税)

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