弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年11月17日

幻日

日本史(江戸)

著者  市川 森一    、 出版   講談社   

 島原の乱について、またまた読ませる小説の登場です。先に紹介しました『出星前夜』(小学館)も読ませましたが、今回もなかなかの力作でした。さすがは天下に名高い脚本家だけあります。
 島原と天草は、旧領主の有馬晴信と小西行長がキリシタン大名だった影響もあって、キリシタン信徒の多い地域だった。そこで公布された禁教の触れは、逆にキリシタン信徒の結束をうながした。為政者が改宗させるために試みる残忍な拷問の数々も、かえって邪宗の門徒を増やしていくという不思議な現象を生んだ。
 キリシタンにとって、信仰のための死はパライソ(天国)の狭き門をくぐる免罪符にほかならない。一揆軍の指揮者たちは、戦闘を指揮する評定衆と、信仰生活の指導にあたる談合衆に分かれている。
 高来郡の口之津からキリシタンの布教活動を開始したイエズス会は、ポルトガル語で「コンフラリア」という信徒組織を導入した。その仕組みは、村々のキリシタン信徒が男50人に女子どもを加えた単位を一つの小組として、その小組が10組で大組となる集団をつくり、その大組の長を組親と称し、ほとんどは看坊が組親を兼ねた。
 看坊(かんぼう)は、信徒の懺悔(ざんげ)の聞き役とし、「水方」(みずかた)は洗礼を授ける役。教え方はキリシタンの教理を伝授する役を務めた。
 コンフラリアは、浄土真宗の「講」の仕組みと共通するところも多く、日本人信徒に無理なく受け入れられた。
 幕府・支配層はキリシタン摘発に躍起となったが、その先頭にたつ庄屋層がキリシタンの元締めの看坊であり、コンフラリアの組親だったから、これでは盗賊に夜警を命じるようなものだった。
 庄屋たちは、代官所には「わが村には、もはや一人のキリシタンもおりません」と何年も偽りの報告をしていた。そして、島原半島のキリシタン組織は、強靭な団結の根を芋づるのように地底に張りめぐらしていた。
 島原一揆勢も天草一揆勢も、背後に、有馬勢には有馬家の遺臣団が、天草勢には小西家の遺臣団が、それぞれ参謀格でついていた。
 ローマのイエズス会本部は、慶長2年(1597年)4月、ヴァリニャーノ宛に在日イエズス会宣教師たちの日本での軍事介入を厳禁する指令を公布していた。
 交易商人とポルトガル船長はポルトガル対日本の全面戦争を目論んでいた。ローマから帰国した4人の遣欧使節のうち、3人は司祭に叙任され、千々岩ミゲルだけが棄教して俗界に戻った。このドン・ミゲルこと千々岩清左衛門こそ、天草四郎の実父である。四郎の母親は、イザベルといって、ポルトガルのリスボアから流れてきた、船乗り相手の娼婦だった。天草四郎は、慈悲屋(枚貧施設)の施設で育てられた。つまり、背教者ミゲルが異国の娼婦に生ませた罪の子を、天命をかけた大反乱の棟梁に担ぎあげているというわけだ。
 4人の遣欧使節のうち、伊東マンショは、長崎の教会で司祭に叙任された直後に病死した。39歳だった。
 原マルチノは、慶長19年のキリシタン大追放令で、マカオに追放され、その地で60歳の生涯を閉じた。
 千々岩ミゲルは棄却したあと、ひっそりと63歳のときに長崎の貧民窟で息絶えた。
 ローマに渡った少年たちのなかで、中浦ジュリアンだけが64歳まで生きのびて、殉教した。
原城の籠城者は122万7千人ほど。およそ1万人が決戦前後に原城を脱出した。
 一揆鎮圧の戦費は、40万両、ざっと600億円、1日に7億5千万円も消耗した。
 その結果として、松倉藩は改易され、松倉勝家は斬首の末路をたどった。寺沢賢高は発狂して悶死し、この両家は断絶した。
 原城跡にもう一度行ってみたくなりました。
(2011年6月刊。1700円+税)

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