弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年10月13日

「諸君!」「正論」の研究

社会

著者   上丸 洋一 、 出版   岩波新書

 戦後の「保守」論壇の主張の変遍をたどり、分析した貴重な労作です。
 それにしても「保守」理論家の言説のレベルの低さには呆れます。
 渡辺昇一、上智大学名誉教授は次のように語った。
「シナ文明は朝鮮半島まで到達したが、日本には及んでいない」
 ええっ、日本に中国文明が入っていないだなんて・・・。そして、また次のようにも言っています。
「日本の皇室は男系で続いてきた」
 日本には過去にさかのぼれば、女性天皇が何人もいます。江戸時代まで、皇室の伝統として男性しか天皇にはなれないと言うことはありませんでした。
 「サンケイ」を出している産経新聞社には社史がない。また、縮刷版もない。その理由は、社主だった鹿内信隆とそのファミリーの位置づけが難しく、出すに出せないことにある。
 憲法改正を叫んでいる「サンケイ」に社史も縮刷版もないというのは、よほど過去の自社の歴史を知られたくない、恥ずかしいということなのでしょうね。
 「サンケイ」は自民党の組織をつかって購入を呼びかけてもらった。つまり、「サンケイ」は要するに自民党の準機関誌だというわけです。なーるほど、ですね。
 1973年10月、雑誌「正論」が創刊された。鹿内は、毎号のように誌面に登場した。
 ところが、鹿内が1990年10月に78歳で亡くなると、1992年7月、サンケイの取締役会は鹿内宏明会長を解任した。
 日経連(現在の日本経団連の全身の一つ)は1960年代に「共同調査会」という名前の反共秘密組織をつくっていた。反共産党、反総評、反日教組を目標として、1955年から1968年まで活躍していた。13年間に25億円ほどの大金をつかっている。マスコミ・世論の「偏向」是正対策にも3億円ほど使った。
 保守の論者は、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験について何も語らない。また、沖縄戦の犠牲者も無視している。
『諸君!』に小田村四郎・日銀監事は次のように書いた。
「開戦の全責任を東条個人に帰して、当時の議会や新聞の論調・世論を無視してはならない。大東亜戦争は、一握りの指導者が独裁的に起こしたのではない。全国民の支援の下にやむなく受けて立った悲劇の戦争である。その責任者が誰かと問われれば、ABCD(米、英、中国、オランダ)包囲陣の各国と答えるしかない」
 むしろ、ABCD包囲陣は、日本軍部の膨張主義、植民地拡大路線に対抗して作られたものですよね。白と黒というような言説を真に受けて教科書がつくられたら、それこそ日本の将来はお先まっ暗です。
 昭和天皇は戦後、靖国神社への参拝を拒否した。昭和天皇はA級戦犯の合祀、なかでも日独伊三国同盟を推進した松岡洋右(元外相)そして白鳥敏夫(元駐伊大使)の合祀に不快感を表明していた。
 天皇のために命を捧げた軍人・軍属らを神と祀る靖国神社は、天皇が参拝することで初めて「完結」する神社だ。それが天皇に嫌われたとあっては、神社の存立を否定されたにもひとしい深刻な状態である。
 戦後の天皇制は、天皇制にひたすら忠誠を尽くした東条らA級戦犯を占領軍に差し出して「勝者の裁き」を受け入れ、天皇の地位を統治権の総換者から「象徴」へと大胆に転換することによって初めて存続を許されたのであり、天皇自身もまた、そのことを容認するのとひきかえに「平和主義者」として立つことが可能となった。そうした象徴天皇制の存立の根拠を靖国神社はA級戦犯を合祀することによって否定した。東条英機らを神と祀る靖国神社を天皇が参拝する気になるだろうか。
 天皇は、戦後まもない時期に、自身の戦争責任をまるごとA級戦犯に移し替えていた。それは天皇個人の意思でもあったが、マッカーサー司令官との日本政府の意思でもあった。そうすることで、天皇は戦後を「平和主義者」として生き抜くことができた。
 彼らが国を握った。私は立憲君主として、憲法に従って行動しただけ。天皇は、おそらくそう信じていた・・・。
 これは、なるほどと思わせる見事な分析です。私の長年のもやもやの一つがすっきり解決したような気がします。大変な労作で大いに勉強になりました。
(2011年6月刊。2800円+税)

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