弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年9月 1日

慈しみの女神たち(下)

ドイツ

慈しみの女神たち(下)
著者   ジョナサン・リテル   、 出版  集英社 

 プロパガンダは、確かにある役割を果たしているが、実際はもっと複雑だ。SS看守が乱暴になり、サディストになるのは、被拘禁者が人間でないからではない。逆に、被拘留者が他人から教わったような下等人間であるどころか、詰まるところは彼自身と同じ一人の人間なのだと気づくときに、看守の怒りは激化してサディズムに変化する。看守に耐えられないのは、他者が無言で持続していることなのだ。
 看守は自分たちと共通する人間性を消し去ろうとして、被拘留者を殴る。もちろんそれは失敗に終わる。なぜなら、看守は殴れば殴るほど、被拘留者が自らを非=人間とは認めまいとしていることに気づかずにいられないからだ。ついに、看守は相手を殺すより外に解決法がなくなるが、それは取り返しのつかない失敗の証なのである。
 ユダヤ人を殺すことによって、私たちは私たち自身を殺し、私たちのなかのユダヤ人を殺し、私たちのなかにある私たちのユダヤ人についての考えに似たものをすべて殺したかったのよ。私たちのなかのブルジョワ、お金を勘定し、名誉を追いかけて、権力を夢想する、そんな太鼓腹をしたブルジョワを殺し、ブルジョワ階層の偏狭で強固な道徳を殺し、勤倹を殺し、服従を殺し、奴隷の隷属根性を殺し、ご立派なドイツ的美徳をすべて殺す。なぜかというと、下劣さ、無気力、吝嗇、貪欲、支配欲、安っぽい悪意などと称して、私たちユダヤ人に特有とみなしている性質は、実は完全にドイツ的な性質であるし、ユダヤ人がそういう性質を身につけているのは、彼らがドイツ人に似たようになりたい、ドイツ人でありたいと渇望してきたからである。
 これって、言い得て妙なる指摘ではないでしょうか。ユダヤ人とはドイツ人そのものだったと私にも思われます。
元ナチ親衛隊将校の回想記という体裁の小説です。2段組400頁を超し、改行もない文章が続きますので、読みにくくもありますが、そこで描かれる生々しくも残酷な現実が目を逸らさせません。いえ、目をそむけるのを許さないのです。
 主人公は戦中を生きのびて、戦後はフランスで何十年も平穏な生活を過ごしたという設定になっています。戦争犯罪の追及が甘かったということを意味するのでしょうか・・・・・。
(2011年5月刊。4000円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー