弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年8月30日

囁きと密告(下)

ロシア

著者  オーランド・ファイジズ     、 出版  白水社 

 スターリンの大テロルの直接の犠牲者は大人たちですが、当然のことながら子どもたちも犠牲となりました。大量の親なし子が生まれたのです。
 大テロルは家庭を押しつぶし、家族をバラバラに引き離したが、生き残りのメンバーを再び結び合わせる努力の中心には、いつも祖母たちの働きがあった。ロシアのおばあちゃんも、たくましいのです。当局を前にして一歩も引かずに孫たちを守り通していったのでした。
両親の無実を一瞬たりとも疑ったことはなかった。両親への信頼を維持することができたのは祖母のおかげだった。祖母はソヴィエト権力の本質を理解しており、何を言われても負けなかった。革命が起こったとき、祖母は既に40歳に近かったからだ。
多くの場合、親が逮捕されると、残された子どもは一夜にして大人になった。
 両親が逮捕されたとき、頼る先をもたない子どもの数は数百万人を下らなかった。多くは孤児院に収容されたが、中には浮浪児となって街をうろつく子どももいた。少年ギャング団が出来た。
 孤児たちは、自分たちが世界で一番幸福な孤児だと思い込んでいた。なぜなら、すべての子どもを愛する国父スターリンに率いられる国家が孤児たちにすべてを与えてくれるからだ。なんという皮肉でしょうか・・・・。
10代後半の年齢を迎えた「人民の敵」の子供たちにとって、「ソヴィエト市民」としての社会復帰を象徴する最大の出来事はコムソモール(青年共産同盟)への加盟だった。流刑地や特殊居住地で育った「クラーク」の子どもたちにとって、出征の汚点を克服する唯一の道は、ソヴィエト社会の価値観を全面的に受け入れることだった。
 1938年終わりころから政策が変更された。「クラーク」の子どもたちの「鍛え直し」と社会復帰が強調され始めた。
1939年8月、スターリンは英仏両国への期待を維持できなくなった。スターリンは欧州戦争が勃発することを確信していたが、同時に現状ではナチス・ドイツに抵抗する軍事力がソ連にないことも理解していた。とくにかなりの兵力を満州国境に配置しなければならないという条件が対独戦争を困難にしていた。そこで、スターリンはヒトラーと協定を結ぶ以外に選択肢はないという結論に達した。独ソ不可侵条約を結んだのは、長期的な計算からではなく、目の前に発生していた事態への対応策だった。
独ソ戦が始まったときのソ連の壊滅的敗北は、スターリンが情勢の把握に失敗して防衛体制の準備を怠ったというだけでなく、それまでのスターリンのテロル支配が恐怖と不信を生み、その結果、国家の有機的な防衛能力が事実上の機能不全に陥っていたことによる。
 赤軍の指導部に対して発動されたテロルは指揮官たちの権威を失墜させ、彼らを萎縮させていた。指揮官たちは処罰されることを恐れ、彼らの一挙手一投足を監視しているコッミサールなどの政治将校たちによって告発されることをひたすら避けようとしていた。そのような指揮官が適切な軍事的判断を下し、主導権を発揮することは不可能だった。指揮官たちは、いきおい消極的になり、上部からの命令を待つだけになった。しかし、命令は常に遅きに失し、現場の軍事情勢に能動的に対処するには、何の役にも立たなかった。
 1942年9月、スターリングラードの戦いのとき、優勢なドイツ軍に圧倒されながらも、廃墟となった街路とビルを守ろうとして必死に戦うソヴィエト軍兵士の異常なほど高い士気は記者を驚かせた。厳しい軍規によっても、イデオロギーによっても説明のつかないこの戦意こそがスターリングラード戦の帰趨を左右し、ひいては戦争全体の命運を決した。
 テロルより効果的だったのは、ソヴィエト国民の愛国的心情に訴えるというやり方だった。兵士の圧倒的多数は農民の息子だった。彼らには農村を破壊したスターリンや共産党に対する忠誠心はなかった。彼らが愛していたのは、家族と故郷であり、イメージのなかの「祖国」だった。政府は国民の愛国的心情に訴えかけようとして、そのプロパガンダから、次第にソヴィエト的なシンボルを引っ込め、古い「母なるロシア」のイメージを全面に押し出した。
 国民が自己犠牲の精神に慣れ親しんでいたことこそがソ連邦の最大の武器だった。とりわけ1941年夏の開戦から1年後、ソ連が全面的な敗北をこうむりつつもなんとかして生き延びようと悪戦苦闘していた時期に、国民の自己犠牲の精神は決定的に重要な役割を果たした。軍事指導部の度重なる失策と政府機能のほぼ全面的な麻痺状態を埋め合わせたのは、膨大な数の兵士と一般市民の自己犠牲だった。自己犠牲の精神がなかでも強かったのは、1910年代から20年代前半にかけて生まれた人々だった。つまり、国家のために自己を捨てたソヴィエトの英雄たちの神話を常に聞かされて育った世代だった。
 兵士がその開戦能力を最大限に発揮するのは、何のために戦うのかを知っているときであり、自分自身の運命と戦争の目標を一体のものとして意識するときである。
 1943年からソヴィエト軍に勝利をもたらした要因は、兵士の勇敢さと粘り強い抵抗力に加えて、赤軍内部の指揮系統が変更されたことも重要だった。スターリンは開戦後1年間のみじめな敗北を経験して、軍事指導権に対する党の介入が(最高司令官としての自分自身をふくめて)戦闘能力を引き下げていること、軍人たちを信頼して一任するほうが有効であることを認めざるをえなくなった。
 1942年8月、スターリンはジューコフ将軍を最高司令官代理に任命して、自分は軍事指導から一歩引き下がった。戦略計画と戦争努力遂行の責任は、次第に政治家の手から参謀本部の軍事評議会の手に移り、主導権を握った参謀本部は党指導部に情報を伝えるだけとなった。コミッサールらの政治将校が軍事的な意思決定に関与する機会は大幅に減少した。党による監視と管理から解放された軍事司令部は新たな自信を獲得した。自立性が勇気ある発意につながり、安定した軍事専門家集団を生み出した。
 戦時経済の発展には、グラーグ管理下の収容所の労働力が大きく貢献した。ソヴィエト軍の全弾薬の15%、軍服の大部分、軍の糧食のかなりの部分が労働収容所の囚人労働によって生産されていた。収容者人数は1941年から43年にかけて減少した。50万人の囚人が「罪をあがなうために」前線に送られた。
 戦争中、党は党員数でこそ倍増したが、戦前の党の特徴だった自発的精神は大幅に失われた。党の中核を形成していたボリシェビキの多くが1941~42年に戦場で消えていった。1945年になると、600万人の党員の半数以上が軍人であり、3分の2は戦争中に入党した党員だった。党の気風は1930年代とは大きく変わった。
 テロルによって労働収容所に入っていた母親と、孤児院育ちの子どもが再会しても、それまでの人生で受けた傷が深すぎて、互いに心を開くことができず、親密な関係になれなかった。
 戦後スターリンは、すばやく手を打って、政治改革を求めるあらゆる動きを抑制した。終戦直後の最初の粛清の標的としてスターリンが選んだのは、赤軍幹部と党指導部だった。まず、赤軍幹部が狙われた。ジューコフ元帥は改革を求める国民の希望の星だった。そのジューコフは降格され、左遷された。レニングラードの指導者たちも狙われた。
終戦と同時に、国家が無給で利用できる労働力は膨大な規模に増大した。既に存在していたグラーグ管理下の囚人と労働軍に徴用された労働者に加えて、200万人のドイツ軍捕虜とその他の枢軸国軍の捕虜100万人が手に入った。戦後のソ連経済はグラーグ経済と通常の民生経済とが分かち難くからみあう形で発展した。
ソヴィエト・ロシアで生き残るためには、どの 時代であれ、自己を隠して偽装する技術が必要だった。しかし、仮面をかぶって自己を偽る技術が完成の域に達したのは戦後期になってからだった。人々は人前での演技があまりにもうまくなったので、ついには自分が演技をしているのか、それとも、それが本来の自分の姿なのかの区別がつかなくなる有り様だった。ソヴィエト国民の典型的な心理状態は自己分裂だった。
新しいソヴィエト官僚は、必ずしも党と党の理想の信奉者ではなかった。ただし、党の命令に忠実に従うという意味で従順な出世主義者だったことは間違いない。スターリン体制は大小の権力者を通じて機能していた。
スターリンの死が何を意味するにせよ、大多数のソ連国民にとって、それは恐怖からの解放ではなかった。むしろ、恐怖が強まった。次に何が起きるのか分からないという恐怖だった。
囚人たちがスターリンの牢獄から帰還しはじめると、彼らを収容所に送り込んだ側の人々は、当然ながら、恐怖におののいた。
自分たちの運命を左右する力が何であるかを知らないソヴィエト国民の大多数は、依然として混乱したまま、自制心を発揮し、過去についての沈黙を維持していた。
この本で描かれていることの多くは、決してスターリン体制下のソ連だけのものではないと思いながら最後まで興味深く一心に読みふけりました。おかげで、上下2巻の紹介がこんなにも長くなりました。それほど、刺激的な本なのです。この労作を書き、また翻訳した人たちに心から拍手を送ります。

(2011年5月刊。4600円+税)

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