弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年6月16日

「終戦」の政治史、1943-1945

日本史

著者    鈴木 多聞  、 出版   東京大学出版会

 終戦に至るまでの日本の政界上層部の動きを、昭和天皇や軍部の言動を含めて詳細にたどって分析した本です。とても面白くて、3.11大震災のあと久しぶりに上京する機中で、一心に読みふけりました。
 統帥権の独立とは、内閣が軍の作戦計画に干渉できないこと。戦前の日本では、統帥部と内閣とが政治的に対等の関係で並立し、国内には二つの政府があったと考えられる。敗戦色の濃い1944年2月、東条英機首相・陸相が参謀総長を、海軍大臣嶋田繁太郎は軍令部総長をそれぞれ兼任した。陸軍大臣が陸軍の参謀総長を兼任し、海軍大臣が海軍の軍令部総長を兼任するというのは異例の事態であり、これはそれまでの総帥権独立の伝統に反したものであった。軍人が軍の特権を自ら破壊したということである。この統帥権独立の伝統が破られたため、重臣や議会そして国民は統帥権の独立を楯として、公然と東条と嶋田を批判することが可能となった。これは、逆説的に、戦時内閣を解させて、戦争終結への近道への道を開いたと言える。
ラバウルなどの地域は、「確保」から「持久」する地域へ改められた。「持久」とは、一見すると聞こえが良いが、要するに長期的には「確保」しないこと。前方の作戦地域の将兵を見捨てて、時間稼ぎの捨て石にすることだった。
 1943年9月30日に開かれた御前会議は、昭和天皇を落胆させた。合理的悲観論と観念的強硬論が入りまじり、示された対策は「決意」の表明でしかなかった。昭和天皇の戦局に対する失望は、相反する報告をする陸軍参謀本部と海軍軍令部に対する怒りに転化していった。
 そりゃあ、そうでしょうね。軍部はいつも自分に都合のいいことしか報告しない、そしていつのまにか敗色ばかり濃くなっていったのですから・・・。
 陸軍の参謀本部と海軍の軍令部は相互に秘密主義をとり、陸海軍省には戦況の一部を知らせる程度だった。だから、陸軍省は軍令部の作戦計画を、海軍省は参謀本部の作戦計画を知ることができなかった。つまり、日本軍には、「協同作戦」はあっても、「綜合作戦」というものは存在しなかった。海軍側には陸軍を統制できる人材がいなかった。
実際、航空機が主力兵器となったことから、海軍は次第に空軍化しつつあった。
 1944年7月、サイパン島が陥落した。これは日本本土がB29の爆撃圏に入ったということを意味し、この時点で日本が戦争に勝つ見込みはなくなった。
 7月20日、ヒトラー暗殺計画が失敗した。このころ、日本にも東条暗殺計画があったが、同じ7月20日が予定日であった。ええっ、うっそー、嘘でしょ、と叫んでしまいました。
 日本はドイツの勝利を前提として日米戦争へと踏み出していたのである・・・。
昭和天皇は、「アメリカ軍をぴしゃりと叩くことはできないのか」「どこかでもっと叩きつける工面はないものか」と言って米軍に一撃を与えることを期待していた。つまり、好機講和論であった。
昭和天皇は、参謀総長としての東条には不信任であったが、首相としての東条は信任していた。東条内閣崩壊が戦争終結につながらなかったのは、反東条運動が必ずしも和平運動、終戦工作ではなかったからである。それは戦局打開運動をうみ出し、東条や嶋田では戦争に勝てないという人事刷新運動になった。
 昭和天皇は、沖縄戦までは軍事的な期待を捨てきれないでいた。
「もう一度、戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいと思う」
 2.26事件で側近を殺された昭和天皇は、事件に関与した皇道派の軍人、宇垣、香月、真崎、小畑、石原といった人々には強い不信感を抱いていた。
沖縄戦について、昭和天皇は、「なぜ現地軍は攻勢に出ないのか。兵力が足りないのなら、逆上陸をやったらどうか」と攻勢作戦を督促した。そして、戦後になっても、「作戦不一致、まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と強い口調で不満を述べている。
大本営と政府の首脳部は、国民に対しては特攻精神を怒号しながら、肝心の航空用ガソリンが10月以降にはなくなることを知っていた。この石油要因は大きく、戦後になって昭和天皇は、「石油のために開戦し、石油のために敗れた」と語った。
 昭和天皇は、7月上旬になっても対ソ外交に進展がないのに不満をもち、7月7日、モスクワへの特使派遣を提案して政府を督励した。昭和天皇は、万が一の場合には、長野の松代大本営において、三種の神器と「運命を共にする」気持ちだった。昭和天皇は、ある一定の状況下においては本土決戦の可能性があると考えていた。昭和天皇と陸海軍にとって、完全な無条件降伏は絶対に受け入れられないことだった。
 沖縄の陥落によって本土決戦が現実味を帯びたとき、昭和天皇は戦備の実態を聞いて、本土決戦不能論者となった。そして、国体護持を目的として、本土決戦を回避しようとした。
 一般に、日本はソ連参戦を予想できなかったと言われるが、正しい歴史理解ではない。日本の予想が外れたのは、ソ連参戦の有無ではなく、参戦の時期だけだった。
 昭和天皇は、「勝算の見込みなし」の理由を、原爆投下でもソ連参戦でもなく、本土決戦不能論に求めた。うひゃあ、そうだったんですね。まあ、まともに考えればなるほど、そうでしょうね。改めて大変勉強になる本でした。
(2011年2月刊。3800円+税)

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