弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年6月 7日

スペイン内戦(上)

ヨーロッパ

著者    アントニー・ビーヴァー  、 出版   みすず書房

 第二次大戦直前に起きたスペイン内戦の実情を詳しくたどった大変な労作です。上下2巻の分厚い本を読み通すのに苦労しました。なんといっても、重すぎる内容なのです。
『誰がために鐘は鳴る』など、いくつもの文学作品に登場するスペイン内戦ですが、その内容はあまりにもおぞましいものがあり、人間の理性がもっと働いていれば・・・、と思わせるところが多々ありすぎました。ともかく、たくさんの人が無情に殺されていく記述に出会うたびに、それが頁をめくるたびに出てくるので辟易させられますが、前途ある有為な人々がかくもたやすく抹殺されてしまうのか、涙と怒りが噴出してくるのを抑えることができませんでした。
スペイン内戦は、左翼と右翼の衝突としてさかんに描写されるが、それは割り切りすぎで、誤解を招く。他に二つの対立軸がある。中央集権国家対地方の独立、権威主義対国家の自由である。
共和国政府側の陣営は対立と相互不信のるつぼであり、中央集権主義者と権威主義者、とくに共産主義者と地方主義者と反国家自由主義者とが反目しあっていた。
無政府主義者が早くからスペイン労働者階級の最大多数を獲得したのには、いくつかの理由があった。それは、腐敗した政治制度と偽善的な教会に対する強力な道徳的選択肢を提供していた。
マルクス主義者が他と比べて成功しなかった理由の一つは、中央集権国家を強調しすぎたせいである。スペインでは、工業の大部分はカタルーニャに集中していながら、そこは無政府主義の牙城となっていた。1919年末までに、社会党系UGTの組合員は16万人、無政府労働組合主義系CNTの組合員は70万人までに増えた。
1933年11月、共和国新憲法はスペイン女性に参政権を認めた。
1936年。左翼の革命蜂起と軍・治安警備隊による左翼への残酷な弾圧のせいで、両者に妥協の余地はまったくなかった。どちらの側にも感情の傷が深すぎた。双方とも、終末的な言辞を弄し、どちらの追従者にも政治的結果ではなく、暴力的結果を期待させた。
コミンテルンの幹部たちは、中産階級をひきつけることにほとんど無関心だった。人民戦線は権力の手段にすぎなかった。
1921年に結党したときのスペイン共産党はたった数十人しかいなかったが、その影響は相当なものがあった。そして1936年半ばには、3万の党員が10万に増えていた。
1936年の選挙で、人民戦線は15万票の差で勝利した。1936年初夏、ヨーロッパ情勢は緊張していた。ヒトラーはベルサイユ条約を破ってラインラント地方に軍隊を再配備した。
スペイン軍は、1936年に10万人から成っていた。そのうち4万人がモロッコに駐屯する手強くて有能な部隊だった。本土にいる残りの部分は無能だった。
右翼側が蜂起を準備している証拠がたくさんあるのに、共和国派指導者は恐ろしい真実を信じようとはしなかった。反乱将軍の行動に対して共和国政府はためらい、逡巡して行動せず、それが命とりとなった。共和国の首相は労働組合を武装させる決心がつかなかった。
スペイン軍の将校には自由主義的な思想の持ち主はまずいなかった。それは、植民地に勤務していると、自分たちの信じる国家価値なるものを誇大視しがちだったからだろう。彼らは政治家を軽蔑し、アカを憎悪した。
内戦に入ったとき、地面に潜って戦うなど、スペイン人の戦争哲学から言えば、もってのほかだった。勇猛果敢こそが勝利に導くという確信を持っていた。
国民戦線軍(右翼)の最大の軍事的強みは、実戦経験を積んだモロッコ駐屯軍4万の兵士だった。それに加えて、訓練が乏しく装備も貧弱だが、本土部隊5万の兵士がいた。さらに17人の将軍と1万人の将校が蜂起に参加した。総数で13万人の将兵に達した。
これに対して、共和国は、5万人の兵士、22人の将軍、7000人の将校、などで総勢9万人だった。
フランコ将軍は、内戦が終わったとき、こう言った。
私には敵は一人もいない。私は一人残らず殺した。
国民戦線軍による殺害と処刑は、あわせて20万人にのぼる。
1931年から32年の共和制の最大の成果は教育と非識字退治の面で実現された。共和国の成立する前22年間に、学校はわずか2000校しか建てられなかったのに対し、共和国になってから1700校が建てられた。その結果、非識字率は50%だったのが劇的に減少した。
フランコは、実は非常に月並みの人物だった。労働者民兵は市街戦にあっては、集団でいることの勇気に押されて、向こう見ずな勇敢さを発揮した。しかし、障害物のない開けた場所では、砲撃と爆撃にはかなわないのが普通だった。というのも塹壕掘りを拒否したからだ。スペイン人にとって、地面を掘るなんて沽券にかかわることだった。
民兵制度最大の短所は自己規律の欠如だった。無規律は、それまで外部からの強制と統制にしばられていた工場労働者のような集団でとくに顕著だった。逆に農民や職人のように自営だった人々は、自己規律を失わなかった。
ほとんどの将校は、共産党と協力するほうを選んだ。その理由は、民兵組織に恐れをなしたからだ。一般に政府に忠実な将校は年配者で、本国軍に勤務していた官僚的な人々だった。若い、積極的な将校はフランコ側の反乱軍についた。
共和国軍指揮官には、第一次大戦の時代遅れの理論しか持ち合わせがなかった。コミンテルンは、スペイン内戦中に、国際旅団を組織した。国際旅団の志願兵の動機の無私無欲は疑いようがない。イギリス志願兵の80%が、職を辞めたか失業中の肉体労働者だった。その多くは、戦争とは何を意味するのかほとんど分かっていなかった。その指揮者であるアンドレ・マルティは陰謀強迫観念にとりつかれていた。スターリンによって始まったモスクワの見世物粛清裁判に影響されて、ファシスト=トロツキス=スパイがそこらじゅうにいると信じこみ、このスパイを根絶やしにする義務があると思い込んだ。その結果、マルティは国際旅団兵士の1割にあたる500人もスパイとして射殺した、このことを内戦のあとで認めた。
スペイン内戦に従軍したソ連要員の正確な人数は判明していないが、800人を超えたことはなかった。ソ連軍顧問の多くが、実は指揮経験の乏しい下級将校でしかなかった。
スペイン内戦が始まって1ヵ月ほどしてスターリンによる大粛清裁判が始まった。
スターリンの犯罪的行為と判断の誤りがスペインにも多大の被害をもたらしたことを改めて認識しました。スペイン内戦の恐るべき実情が語られている本です。
(2011年2月刊。3800円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー