弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2011年1月 4日

中世民衆の世界

日本史(中世)

 著者 藤木 久志、 岩波新書 出版 
 
 のっけから衝撃的な問題提起がなされています。年貢納入を前提として、百姓の
 逃散を認める、その年の年貢さえ払えば、百姓はどこへ行ってもかまわない、というのは、中世を一貫して近世に至っていたのではないか。「百姓は土地に縛りつけられた者」と断定すること自体が、もともと間違っていたのではないか。
 ええっ、な、なんということでしょうか・・・・。欠落人(かけおちにん)の田畠は、あくまでも「惣作」(村による耕作の維持管理)が建て前で、家財のように分散はしない、というのが焦点であった。
 村を捨てた欠落百姓を近世では「潰れ百姓」ともいった。この「村の潰れ百姓」もまた、本来、「かならず再興されるべき百姓株(名跡)」とみなされ、そのための積極的な再興作(賄い)が問題になっていた。
 村はずれに、村人たちが寄りあって建てた堂、惣堂があり、そこなら村の「方々」の断って借りるまでもない。だから、村人も気軽に旅人にそこを勧めた。惣堂は、「みんなのもの」でありながら、「だれのものでもない」と広く見なされていた。
 領主が地主に断りもなく村を他人に売り払ったとき、地元の住民は「逃散」という反対運動を起こし、売買を破棄させる。これは特異な出来事ではなかった。
 戦国の村から人夫を調達するには、その労働の程度に応じて、社会的にみて適当と思われる額の「代飯(だいは)」が支給されるのが通例となっていた。
 百姓の夫役は有償だったのであり、タダ働きではなかった。金額の多少を問わず・・・・。中世の軍役は、兵粮自弁ではないのである。
 領主側は、もっぱら朝廷に訴え、裁判によって解決するという道を選んでいた。これに対して村側は、一貫して実力行使によって解決しようとし、鎌を取る行為と、その返還要求が焦点になっていた。
 中世の日本で、百姓は意外にもしたたかで、しぶとく領主権力とたたかっていたのですね。改めて日本史を見直し、考え直してみる必要があると思いました。
(2010年5月刊。800円+税)

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