弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年12月18日

パリ・娼婦の館

世界(フランス)

 著者 鹿島 茂、 角川学芸出版 出版 
 
19世紀のパリの娼婦の館、メゾン・クローズ(閉じられた家)についての実証的な研究書です。この当時、パリにいた日本人の体験記も、ふんだんに引用されていますから、臨場感があります。
このころ、パリの娼婦について真面目に取り組まれた公的な調査の結果が紹介されています。それによると、娼婦になった原因の第一は、貧困と劣悪な家庭環境、第二は贅沢へのあこがれ。娼婦は、その性器が普通の女性と異なっているわけでも、性欲が異常に強いものでもなく、欲しているのは「愛」であることも明らかにされています。
 パリの当局が娼婦についての規制を徹底しようとしたのは、性病とくに梅毒のまん延を防ぐ目的のためだった。
娼婦として体を張っても、客の払う50フランのうち、女主人が30フランを取り、自分の手には20フランしか残らない。これでは割りにあわない。女中の方がまだましと考える女性もいた。
 娼婦予備軍をもっとも簡単にリクルートでできるのは、実は性病患者用の施療院だった。そして、そこで性病は感知しないまま退院していた。うむむ、なんということでしょうか・・・・。
高級なメゾン・クローズは、かつて王侯貴族や大ブルジョアの住んでいた大邸宅を改造したところが多かった。
 メゾン・クローズでは、公開オーディション方式がもっとも一般的である。これに対して、日本では、どんなに破廉恥な風俗が普及しても、根本のところに羞恥と謙遜という美徳があるせいか、ずらりと整列した複数の娼婦のなかから一人だけ自分の好みの敵婦(あいかた)を選び出すという「公開方式」は採用されない。そして、このとき娼婦は、全員、靴だけははいている。これが娼婦としての「正装」であり、これで客と対峙するという礼儀があった。
 女の子たちの勤務時間は午後2時から午前2時までの12時間。一晩に30人から40人の客をとる。客からもらったチップも店として折半する。
娼婦は、病気と弁当は自分もちの原則がある。娼婦の楽しみは食事だけだったから、食事は概して手の込んだ美味しいものだった。ここで、客にケチると娼婦が居つかないので、女将も食事にだけは気をつかっていた。
日本では、擬似恋愛を核としたキャバクラや高級クラブが単独で成立しているが、これは日本独特のものである。フランスに限らず、どの国でも、接待役の女性が横にはべるタイプの社交的サービス業は、これ単独で成立することは少なく、合法非合法の別はあっても、その後の客の要望をみたす直接的サービスを用意していた。二次過程のない一時過程というのは、欧米ではおよそ考えつかないような業態なのである。
うひょう、そうなんですか・・・・。ちっとも知りませんでした。
メゾン・クローズに住み込んでいる娼婦でも、2週間に一度は外出の許可を与えられ、その日は恋人かヒモと一緒にピクニックに出かけたり、ダンスホールで踊り明かしたりして楽しんだ。娼婦にとっては、恋人やヒモと外出する瞬間だけが、つらい「労働」に耐えるための生き甲斐となっていた。というのも、メゾン・クローズの生活は息が詰まり、単調な繰り返しの連続だった。そんな生活になんとか耐えていくには、ガス抜きが不可欠だった。
娼婦たちは、外出させないと逃げるし、外出させても逃げた。メゾン・クローズにとって、娼婦の外出は両刃の剣だった。 
江戸・吉原の花魁の話と似ていますよね。私と同世代の著者ですが、よくぞここまで調べあげたものです。 
 
(2010年3月刊。2500円+税)
 私がパリに泊る時は、カルチェ・ラタンのプチホテルにしています。毎回ホテルは変えています。おかげでカルチェ・ラタンの通りには随分詳しくなりました。セーヌ川沿いには古本を売る露天商が並んでいますし、ノートルダム寺院も歩いてすぐのところにあります。見事なプラタナスの街路樹のサンジェルマンデプレ大通りもすぐ出たところにあります。
 ルーブルもオランジュリーも、美術館には歩いて行けるのでとても便利です。そして、レストランもカフェーもたくさんあります。

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