弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年10月25日

西海の天主堂路

社会

著者:井手道雄、出版社:星雲社

 長崎の有名な大浦天主堂をはじめとする北九州一円の天主堂が写真とともに紹介されています。聖マリア病院の院長としての仕事のかたわら自ら車を運転して写真を撮ってまわったというのですから、すごいものです。惜しいことに、著者は2004年7月に亡くなられました。
 ここでは、福岡の筑後平野のど真ん中に戦国時代以来の潜伏キリシタンがいたこと、そして、今も今村天主堂という壮麗なる天主堂があることを紹介します。
 戦国時代、16世紀後半から17世紀初めにかけて筑後地方には数多くのキリシタンがいた。教会堂が久留米に二つ、柳川に一つ、今村(大刀洗)に一つ、秋月に二つ、甘木に一つ建てられた。
 今村のキリシタンには大友宗麟の影響がある。1600年(慶長5年)ころ、筑後のキリシタンは7000人に達し、1605年には、久留米から秋月に至る地域のキリシタンは8000人をこえた。今日の筑後地方のカトリック信者は2900人ほどなので、当時は今よりはるかに多かった。
 キリシタン禁制以降も、大刀洗の今村は潜伏キリシタンとして残った。宗門改めはあったが、久留米藩は他藩に比べると緩やかなものだった。明治になって、早い時期に村をあげてカトリック教会に復帰した。
 今村の潜伏キリシタンは仏教徒を装いながら、祈りや教会暦を正しく継承して、純粋にキリシタン信仰を守った。
 洗礼。子どもが生まれると、できるだけ早く水方がバブチズモ(洗礼)を授けた。水方は茶碗に水を汲み、上等の紙を細かく折って茶碗の水に浸し、子どもの額と胸につけて洗礼の言葉を唱え、洗礼式には代父か代母を立てた。葬式のときも、仏式の葬式をして、ひそかに紙で十字架を折り、懐のなかに入れて埋葬した。今村では、宿老、水方、聞き方、帳方などの役職者のいる秘密の組織体制が確立していた。
 藩当局からすると、年貢のためには、重要な穀倉地帯の農民を殺すわけにもいかず、とくに目立ったことをしなければ、おとがめないと黙認していたのではないか。
 潜伏キリシタンが発見されたときの問答が面白いですよ。小斎には肉を食べないという習わしこそ教会の掟であった。お互いに必死で探りあったなかで確認しあった。
 ところが、今村の潜伏キリシタンが露見したとき、明治新政府は弾圧した。これを今村邪宗門一件という。今村の信者は三回も入牢させられたが、改心を申し出たので、釈放された。信者も改心届や血判状を出して出牢したら、すぐに信仰に戻るなど、あくまでしたたかだった。
 このとき、868人が潜伏キリシタンだったといいますから、すごいですね。
 明治14年に最初の今村天主堂が建てられた。このときの信者は1402人だった。
 明治の末に今村天主堂の信者は2070人となった。
 現在の今村天主堂は1913年(大正2年)に完成したもの。ロマネスク風の堂々たる建物です。残念ながら、私はまだ見ていません。
 この本は、2006年に出版されたものが絶版になっていましたので、ここに新装再版となったものです。私のフランス語仲間の弥栄子夫人より贈呈していただきました。お礼を申し上げます。ぜひ、一度読んでみて下さい。
(2009年8月刊。2000円+税)

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