弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2010年8月19日

内奏

日本史(近代)

著者:後藤致人、出版社:中公新書

 上奏とは、大日本帝国憲法を最高法規とする明治憲法体制に位置づけられた奏のこと。大日本帝国憲法で上奏という用語は1ヶ所しか出てこない。
 「両議院は、各々、天皇に上奏することを得」(49条)
 上奏とは、首相・国務大臣・統帥部・枢密院・議会など国家諸機関による、法律・勅令など、天皇裁可を必要とする公文書の天皇への報告手続きであった。
 奏上は、天皇に申し上げる行為全般を指す。
 近代以降の上奏は、天皇大権と密接に関係している。
 輔弼(ほひつ)とは、憲法上、国務大臣が行う天皇の補佐を表す用語である。ほかに内大臣と宮内大臣に輔弼規定がある。それ以外の天皇補佐には、輔翼という用語を用いる。参謀総長・軍令部総長については輔弼とは言わず、輔翼と表現する。
 惟幄(いあく)上奏とは、統帥部が軍機・軍令について、直接、天皇に上奏すること。この惟幄上奏には、二つの問題があった。第一に、惟幄上奏が拡大解釈され、本来は統帥部だけであったものが、内閣の一員である軍の大臣が首相を超えて惟幄上奏した。第二に、統帥部と陸海軍省が対立したとき、惟幄上奏が軍内部の調整を経ずに行われ、政治問題化すること。
 陸軍統帥部は天皇からの御下問を極度に畏れていた。そこで御下問が、陸軍の暴走の歯止めとの一つとして作用していた。
 御前会議によって最高国策が最終決定されるのではなく、天皇の退出後、あらためて政府・統帥部が上奏手続きをして、天皇の裁可を得る必要があった。御前会議の法制上の位置づけは明確ではなかった。
 内奏とは、正式な上奏に先だち、内意をうかがうもの。そこで、これでよろしいとなると、その後、正式な上奏の形式に現れた「勅旨」になる。
 戦前そして戦中、帝国議会について、首相は天皇に内奏する習慣があった。
 天皇が発する言葉には、御下問(ごかもん)、御沙汰(ごさた)、御諚(ごじょう)、優諚(ゆうじょう)など、さまざまな表現がある。どう違うのでしょうか?
 優諚とは、天皇のめぐみ深い言葉のこと。
 昭和天皇は、上奏前の内奏段階では、かなり踏み込んだ御下問をする。しかし、上奏については、必ず裁可を与えている。
 天皇の御下問は、宮中の人間の助言を受けず、直接、内奏する統帥部の軍人に行われていた。昭和天皇は、統帥関係の御下問については、木戸幸一内大臣に相談せず、直接、統帥部に対してするのが普通だった。
 昭和天皇は、上奏については裁可すべきだと認識していたが、内奏段階では御下問を通じ、輔弼者らに意見を表明してもよいと考えていた。天皇は、参謀総長・軍令部総長の上奏・内奏に対しては、強い口調でその矛盾をつくことがあった。
 宮中側近の助言を受けずに発せられる天皇の御下問は率直であり、軍を悩ましていた。
 戦後、日本国憲法が施行されてから、内閣から天皇に法律の公布を求めるときの用語が、かつての上奏から、「奏上」「奏請」に変わった。
 日本国憲法の施行後、上奏は消滅した。しかし、内奏のほうは生き残った。
 昭和天皇は、人事への関心が深く、佐藤首相にしばしば意見を言った。
 1966年、認証式や叙勲などの天皇の国事行為の機会の前後に、佐藤首相は一般政務の内奏を行っていた。昭和天皇は、この内奏によって人事や政情について、より深く情報を得て、御下問していた。
 1969年1月の東大紛争の際の秩父宮ラグビー場での大衆団交についても、佐藤首相は天皇に内奏した。うひゃあ、これには驚きました。私は駒場に残って待機していたように思います。それにしても、こんなことまで首相は天皇と会話していたのですね。なんと言ったのか、知りたいところです。
 昭和天皇は、長く政権を担当して気心が知れる佐藤首相に対して、御下問を通じて率直に政治的な意見表明をすることに慣れていた。昭和天皇は、保革対立に揺れる保守政権を励まし、あえていうと保守政治の精神的な核のような存在であった。警察庁長官も、定期的に(年1回)天皇に報告している。そして、天皇への内奏、天皇による御下問の内容を外にもらさないことは、政府部内で暗黙の了解事項だった。
 この本を読むと、戦後日本においても天皇に対して政治情勢等について政府の説明が定期的になされ、そのことが政府の確信ともなっていたことを知ることができます。私たち一般国民にとって意外なほど、天皇の言葉は政府にとって重い意味をもつもののようです。
(2010年3月刊。760円+税)

 ディジョンからSNCF(フランス国鉄)に乗ってオータンを目ざしました。12世紀に建立されたサン・ラザール大聖堂のある大きな町です。ところが、日本で買って持っていったトマス・クックにある乗り継ぎ列車がありません。途中のエタンで立ち往生しました。駅前にタクシーが1台とまっているのを見つけて交渉し、なんとかオータンに辿りつくことができました。
 曇り空だったのが一時的に快晴になりましたので、絶好のシャッターチャンスとばかりに写真を撮りました。
 オータンにはローマ時代の劇場跡が残っていて、今も野外劇場として活用されています。背後に湖があり、階段式の観客席が大部分残っています。
 2万人収容というフランス最大の劇場跡ということでしたが、成るほど広大なものです。ローマ軍団の偉大さを偲びました。

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