弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年6月25日

アイヒマン調書

ドイツ

著者 ヨッヘン・フォン・ラング、 出版 岩波書店

 ナチス・ドイツが何百万人ものユダヤ人を強制収容所へ連行して、ガス室などで抹殺していった過程で、アイヒマンは実務的な官僚としてそれに深く関わり、遂行していた。
 アイヒマンは、アウシュヴィッツとマイダネック強制収容所を視察し、そこでのユダヤ人抹殺工程を考えだした人物である。ただし、アイヒマンは他人が苦しむのを見て快楽を覚えるサディストではなかった。
 アイヒマンは、ほとんど事務所の中で自らの仕事に専念し、結果として数百万の人間を死に追いやった。一官僚として、アイヒマンは死に追いやられる人間の苦痛に対して、何の感情も想像力も有してはいなかった。
 アイヒマンはドイツの敗戦後、1950年春まで偽名と偽の身分証明書でドイツ国内に潜伏していた。アメリカ軍の捕虜となったこともあったが、2度も逃走に成功した。逃亡資金を貯め、バチカンルートでアルゼンチンへ逃亡した。バチカンのカトリック関係者によって元ナチ戦犯の海外逃亡支援が行われていたのだ。多くの元ナチ親衛隊員がこれによって旅券の交付を受けた。アイヒマンを支援したのは、ローマのカトリック司祭、アントン・ヴェーバーだった。1950年から、アイヒマンはアルゼンチンに居住し、偽名で働いていた。そこでは、ユダヤ人の大家に助けられていた。なんという皮肉でしょうか……。
 1960年5月。アイヒマンはイスラエルのモサドの手によって、イスラエルへ連行され、警察による取り調べが始まった。このとき取り調べにあたった警察官の第一印象は、次のようなものでした。
 目の前に現れた人物は、自分より少し背が高いだけの、細身というよりやせぎすで、頭の禿げあがった平凡な男に過ぎなかった。フランケンシュタインでも、角の生えたびっこの悪魔でもなかった。外見だけでなく、そのきわめて事務的な供述は、事前に抱いていたイメージとかけ離れたものだった。
 アイヒマンにはユーモアが完全に欠如していた。その薄い唇に何回か笑いが浮かんだことはあったが、目は決して笑わない。その眼は、いつも嘲笑的で、同時に攻撃的だった。
 とくに印象的だったのは、アイヒマンが自分の犯した凄惨な罪に対して明らかに何の感情も持っておらず、まったく悔恨の情を示さないことだった。自分のなした行為について、まったく鈍感だった。ふむふむ、ユダヤ人を大量殺害する機構の歯車は、こんな人物だったのですね。ということは、隣人がいつ大量殺人鬼になるかもしれないということです。
 アイヒマンは、取調の途中、いつも食欲旺盛だった。アイヒマンは、ヒトラーの主張に賛成はしていたが、『わが闘争』を通読したことは一度もなかった。実のところ、アイヒマンは読書をしない人間だった。犯罪小説も恋愛小説も読んだことがなかった。
 アイヒマンは、自分はユダヤ人の殺害とは何の関係もない、一人のユダヤ人も殺していない。ただ、ユダヤ人の移送に関与していただけだと言い張った。アイヒマンは、ユダヤ人を安住の地へと移住させることに専念していたと何度となく主張した。
 実際には、アイヒマンは当時30代であり、非常に活動的でエネルギッシュな人物だった、ユダヤ人絶滅のために常に新しい計画を考案し、方法の改良に熱意を示した極めて勤勉な男だった。アイヒマンは、ユダヤ人問題の最終解決に関する命令を受けていた。
アイヒマンの尋問はすべて録音され、その反訳調書は本人がチェックして間違いないことを確認した。275時間、3564枚の調書がある。その一部が再現されていて、大変興味深い内容となっています。日本でも、戦犯に対しこのような責任追及がきちんとなされたのか、心配になりました。

 
(2009年3月刊。3400円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー