弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年6月 8日

マラーノの武勲

アメリカ

著者 マルコス・アギニス、 出版 作品社

 17世紀、南米はアルゼンチンにおけるカトリック教会の異端審問の実情、そして、それに耐え抜いたユダヤ教徒の生涯を描いた本です。上下2段組みで、500頁を超す大作。決して読みやすい本ではないのですが、辛抱して読んでいると、実にすばらしい、知的刺激にみちみちた本だということが分かって、読書の楽しみを堪能させてくれました。
 武勲という言葉からは、戦場で騎士が華々しく刀剣をかまえて戦うという内容を想像してしまいますが、この本では、その期待はあっさり裏切られます。いつまでたっても戦闘場面は出てきません。そうではなく、すさまじいばかりの精神的たたかいが親子二代にわたって繰り返されるのです。それは、新カトリック教徒、実は偽装転向したユダヤ人の、生存をかけた戦いなのです。その凄まじさには思わず息をのみます。アルゼンチンのユダヤ人である著者が、17世紀の実録をもとに小説化したものだけあって、すごい迫力にあふれています。
 異端審問所の職権濫用は目に余った。巧みな策略と恐怖を武器に、王の勅令を手にして、次から次へと排他的利権を獲得していった。その横暴ぶりは度を越している。異端審問所は、組織の一員となるだけで、天使の位につけるという、盗賊のような集団であった。
 イエスやパウロ、その他の使徒はみなユダヤ人であった。キリスト教徒はそのことに耐えられず、認められない。だから、イエスたちがユダヤ人であることを忘れて崇め、ユダヤの血を尊ぶ人々との間に眩惑の境界線を引いて差別し、絶滅させようとする。
 自分の意志に反して洗礼を受けさせられた者は、心からその信仰を信じられるものではない。まるで、誰かに対して忠誠を誓うことを要求するようなもの、それも、本人の代わりに他人がそれをするようなものだ。それなのに、一度たりとも忠誠を誓った相手に忠実でなかったという理由で、今度は背信者と呼ばれる。
 ユダヤ人として生きることは、徳の道を歩むのと同様、容易なことではない。ペルー副王領内では、多種多様な権力、世俗、教会、異端審問所、修道会のあいだに皮肉な抗争が繰り広げられていた。これは万人周知の事実だった。
 ユダヤ人は、死者の遺体をぬるま湯で洗い、可能なら純粋なリンネルの白布でくるむ。埋葬後には手を洗い、塩をかけずに固ゆでの卵を食べる。卵は生命の象徴とされているからだ。ゆで卵は移りゆく生命とユダヤ民族の抵抗の象徴である。ほかのものと違って、ゆでるほどに固くなるからだ。同時に、卵は服喪に欠かせない要素であり、近親者を埋葬したあとにも、これを食する。
 ユダヤ人は、敵すら憎んではならない。なぜなら、すべての人間は神の姿を映しているという前提があるから。
 イエス・キリストは生粋のユダヤ人だった。母親がユダヤ人で、何世紀も続いた純粋なユダヤ人の子孫で、ユダヤの割礼を施し、ユダヤの習慣を身につけ、ユダヤ人のあいだで暮らし、ユダヤ人たちに説教をし、ユダヤ人の身を弟子にした。だから、キリストは、まさにユダヤの王に他ならない。
 改宗の強要は道徳上の暴力である。考えたり、信じたりする権利は、みな同じはず。その信念が神に対する罪なら、それを裁くのは神の仕事のはず。異端審問所はそれを横取りし、神の名のもとに数々の残虐行為を働いている。恐怖に基づいた権力を維持するために、改宗したと装うことさえ強要する。
 人間としてのキリストには心が動かされる。犠牲者であり、従順な神の子羊であり、愛であり、美でもあったキリストには。しかし、神であるキリストは、ユダヤ人を迫害の対象とし、その名のもとに不公平な扱いを受けている者にとっては、猛威をふるう権力の象徴としか映らない。兄弟たちを密告し、家族を見捨て、祖先を裏切り、自分の信条をも焼きつくすことを強要する象徴にしか。
 唯一の真理なるものを強制するのは、傲慢で無益な行為ではないか?
 主人公は、キリスト教会に対して、このように問いかけるのです。すごい問いかけです。
 そして、主人公は1639年1月23日、リマの異端審問所の主催によって、他の囚人10人とともに火刑に処せられたことが記録に残っています。このリマの異端審問所は、1569年から1820年までに1442人を処罰したのですが、そのうち32人に死刑を執行しています。この建物は今も現存していて、いまでは宗教裁判所博物館として一般公開されているそうです。
 キリスト教が博愛の宗教だなんてとても思えない、すさまじいばかりの迫害の歴史がいやになるほど語られています。
 
(2009年2月刊。4800円+税)

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