弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2009年3月 6日

いくさ物語の世界

日本史(中世)

著者:日下 力、 発行:岩波新書

 いくさ物語、つまり、軍記物語として、保元(ほうげん)物語、平治(へいじ)物語、平家物語、承久(じょうきゅう)物語の4作品が取り上げられています。いずれも鎌倉時代、1230~1240年ころに生まれた作品です。
過去の戦いをふりかえり、文字化しえた背景には、久しぶりに訪れた平和があった。
 平家物語が成立当初より琵琶の語り物だったとは考えがたい。その文体と語りとを結びつけるのは難しい。1300年ころには、琵琶法師が、「保元」「平治」「平家」三物語をそらんじていた。さまざまな過程で、口頭の芸と交渉をもった軍記物語は、民衆の中に受け入れられていき、かつ、庶民の望む方向へ成熟させられた。正しい歴史事実を伝えるよりも、人々と感動を共有することが求められた。
 軍記文学には年齢の記述が欠かせない。熱病に冒されながら頼朝の首を我が墓前にと言い残して死んだ清盛は64歳。白髪を黒く染めて見事な討ち死にを遂げた斉藤別当実盛(べっとうさねもり)は70有余歳。人々は、その実人生に思いを馳せる。年齢の記述は、その人物の現実社会における生と死を、具体的に想像させる重要な機能も果たしている。とくに年齢が強調されるのは、戦いの犠牲となった幼い子どもたちの悲話。
「平家物語」の一の谷の戦に出てくる敦盛(あつもり)、師盛(もろもり)、知章(ともあきら)、業盛(なりもり)の4人は10代、16歳前後だった。16という年齢は、若くして戦場に散った薄幸の少年たちを象徴するものであった。いくさの無情さが、この年齢に託されている。
 軍記物語が扱うのは内戦に過ぎない。そのためか、勝敗を相対化する社会が内在している。少年平敦盛(あつもり)の首を取った熊谷直実(なおざね)は、武士の家に生まれた我が身の出自を嘆く。勝つことが絶対的価値を持つものではなく、勝者も単純には喜びえない戦いの現実がものがたられている。
 東国から改めて上がる武士たちの行動には、皇室の権威などに臆せぬ小気味の良さがある。「鎌倉勝たば鎌倉に付きなんず。京方勝たば京方に付きなんず。弓箭(ゆみや)取る身の習ひぞかし」
つまり、勝つ方に付くのが武士の常道であることを堂々とこたえた。
 現在を生き抜く計算、功利的な価値観が、武士の行動の原点であった。
武器使用に心得のある者は等しく「武士」である。貴族のなかにも、自らを「武士」と称する人物がいた。力をもつことへの渇望が、社会全体に偏在していた。
 平家が壊滅した一の谷の合戦は、平家群万に対して、源氏軍はその10分の1ほど。にもかかわらず、平家はあっけなく壊滅した。なぜか?
平家軍に対して朝廷側が平和の使者を派遣し、平家側は、それを受け入れようとしていたところに、突然、源氏の軍勢が襲いかかってきたためである。幕府の記録である「吾妻鏡」が、宮廷貴族の姑息な策謀に乗って手中にした勝利を、素直にこう書くはずはない。武士の活券にかかわるからである。「平家物語」には、実際にあった醜いかけひきの影はみじんもない。物語は、この合戦を、勲功に野心を燃やして果敢にふるまう、熊谷のごとき東国武士たちと、その野心に欠けるゆえに悠長な、かつ、駆り集められたゆえに団結力にも欠ける平家武士たちとの戦いとを描いた。
 一方で、集団を誘導する人心掌握術にたけた総大将義経を描くと同時に、他方、集団から守られることなく、非業の死を遂げていく歌人忠度(ただのり)や笛の名手敦盛といった、野蛮な東国人と気質を異にする教養ある平家の人々の姿を描いた。その見事な作劇のため、今日まで歴史記述をも誤らせてきたのだ。うむむ、なるほど、そういうことだったのですか・・・。面白い本です。


(2008年6月刊。740円+税)

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