弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年12月24日

われとともに老いよ、楽しみは先にあり

アメリカ

著者:リング・ラードナー・ジュニア、 発行:清流出版

 タイトルの文句はロバート・ブラウニングの言葉である。著者は、80歳になっても、自分を年寄りだとは考えていない。その理由の一つは、生涯を通して、どのようなグループ属していても、いつも最少年者だったという感覚が残っているから。また、自分が余計ものであるとか、他人の邪魔になっているとか、そういう感覚がないからだ。なーるほど、ですね。
 この本は、ハリウッド・テンの一人として、アメリカの強烈なアカ狩り時代の犠牲者となったシナリオ・ライターが、自分の一生を振り返ったものですが、その楽天的ともいえる処世観には感嘆するほかありません。すごいです。その才能も偉大なものです。というのも、著者とその友人たちがシナリオをつくったという映画は、いずれも私たちもよく知る、今も見たい映画として必ず登場するようなものばかりなのです。そんな才能のある人々を、アカ狩りの対象としてハリウッドから追放しようとしたなんて、狂気の時代のアメリカとしか言いようがありません。著者の映画として有名なのは、1942年の「女性No,1」と1970年の「M☆A☆S☆H」です。残念なことに、私はどちらも見ていません。
 著者はアメリカの国会に喚問され、当時6万4000ドルと言われた質問を次のように投げかけられた。
「あなたは、今、共産党員ですか。あるいは、これまでに共産党員であったことはありますか?」
その答えは、「質問に答えようと思えば、答えられるでしょう。でも、答えてしまえば、あとで自分が嫌いになる」というものだった。トーマス委員長は、著者に退廷を命じた。
著者はアメリカ共産党員だった。しかし、ソ連のスパイでは決してなかった。そして、アメリカをソ連の路線にそって再建させようとは考えてもいなかった。アメリカにおいては、合理的な経済システムへの転換は、選挙によって平和のうちに成し遂げられるものと信じていた。むしろ、ソ連のスパイにとって愚行中の愚行は、アメリカ共産党に入ってFBIの対象となることだった。
 ところで、著者に退廷を命じたトーマス議員は、3年後、連邦刑務所で著者と同じ受刑者仲間として顔を合わせた。著者はトーマス委員長の質問に答えなかった罪で1年の服役を命じられていた。そして、トーマス議員は部下の職員をでっちあげて給与を着服したとして、横領罪で刑務所に入って来た。なんということでしょう。皮肉ですね。
 それまで、ハリウッドでは、共産党員の脚本家ほど、高い生活水準を維持し、社会と融合で来ていた者はいなかった。共産党員であることに伴う不文律のひとつに、党員であることを喧伝しないという暗黙の了解があった。
 著者は、プリンストン大学に入ると、社会主義研究会に入り、活動を始めた。著者が共産党に好意を寄せたのは、ファシズムに対して、真っ向から反対の姿勢を守り通していたからである。
著者は、ハリウッドで共産党に入党した。その当時、25人ほどの党員が、5年後には200人をこえていた。25人の半数は脚本家で、ほかは俳優、監督、スクリプト・リーダー、事務職員だった。党活動には、やたらと時間を奪われた。出席しなければならない夜の会合や行事などが週に4回も5回もあった。
 ただし、誰もソ連と同じ政治体制をアメリカに持ち込もうとは考えていなかった。独裁判はごめんだったし、批判者に対する圧政も、ごまかし選挙も、芸術のプロパガンダ化も、みなお断りだった。アメリカを社会主義に変えられると確信していたが、それは現在もっているアメリカの自由を損なわず達成できるものであり、ロシアにはそもそもそんな自由がなかった。
スペイン市民戦争の激化とナチスの強大化にあわせて、ハリウッドの共産党は党員を増やし、勢力を拡大した。党員は、いわゆるリベラリスト・確信主義者と良好な関係にあった。ところが、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、翌月、第二次世界大戦が勃発すると、左翼リベラル連合はまっぷたつに引き裂かれた。
 この困難な時期に共産党を離れる者は増え、新しく入党する者は少なかった。その入党者の一人に、著者の友人のドルトン・トランボがいた。
 トランボは、『ジョニーは戦争へ行った』の作者である。私も、この映画を見ましたが、強烈な印象を受けました。
 戦争中、アメリカ国民に同盟国ロシアの美点を理解させるための映画がつくられた。ローズベルト政権の肝入りで、ワーナーとMGMが映画を作った。
 うひゃあ、そうだったんですか……。
戦後、アカ狩りが始まったとき、共産党員であるか否かの質問にどう答えるのかが問題だった。トランボと著者は、唯一悔いを残さない答え方は、質問に答えないことだと主張した。
 ところが、カリフォルニア州の前検事総長だったロバート・ケニー弁護士は、証言拒否に反対した。それぞれの方法で、質問に答えるべく努力したと主張できるようにすべきだというのである。ケニー弁護士の策戦に従った結果、同情的だった第三者には、ハリウッド・テンの狡猾でがさつな姿を印象付けただけだった。そのため、応援していたリベラリストたちに深い落胆を与えてしまった。このとき、一切の質問に答えないという単刀直入の姿勢のほうが、もっと威厳を得たし、著者たちの主張をはっきりさせるうえで、もっと効果的だった。
うむむ、なるほど、なるほど、そうでしょうね。でも、当時のアドバイスとしては難しい判断だったろうとしか、言いようがありません。
著者を含めたハリウッド・テンは刑務所に入り、やがて1951年に出所した。戻っていった先のハリウッドは、まだパニックの渦中にあった。著者もゴースト・ライターとして生きるしかなかった。ゴースト・ライターとしてハリウッド・テンの人々が脚本を書いた映画の題名がすごいんです。『戦場にかける橋』『スパルタカス』『アラビアのロレンス』『野生のエルザ』『M☆A☆S☆H』などなど。
ハリウッド内のアメリカ共産党の影響力の大きさとその活動の実情がてらいなく紹介されている本として特筆されます。それにしても、彼らの才能のすごさには脱帽します。
東京・四谷にある小さなフランス料理店で食事してきました。筑後市出身のシェフががんばっていて、本で紹介されていましたので、一度ぜひ行ってみたかったのです(北島亭)。ついた時は先着の客は1組のみでしたが、やがて6つほどあるテーブルが全部埋まりました。オードブルは生ガキでした。ほっくり身の厚いカキを久しぶりにいただきました。口中に入れてとろけると、うむ、今夜の食事はいけそうだと幸せな予感で一杯になります。ワインはこの夏にはるばる行ったシャトー・ヌヌ・デュ・パープです。05年のハイ・ベルナールを注文します。見事に大きなワイングラスにワインの赤い色がよく映えます。おいしいワインは料理とともに舌になじみ、食欲をそそります。お任せコースで次々に魚料理、そして肉料理が出てきます。しっかりした味付けでした。ああ、おいしい……。
(2008年5月刊。2500円+税)

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