弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年12月21日

日本の原像

日本史(古代史)

著者:平川 南、 発行:小学館

 5世紀の倭国王は、稲荷山古墳出土鉄剣や江田船山古墳出土鉄刀の銘文にみられるように、仕え奉っている人からは「大王」と呼ばれていた。しかし、鉄剣銘に「王賜」と見えるように、倭国王自身は日本列島の内外で「王」と名乗っていた。王の一字だけでもオオキミと読まれる。
 607年に派遣された小野妹子が携行した国書を見て隋の煬帝は怒った。それは、中国の皇帝と同じ「天子」を蛮夷の国である倭国王が名乗っているのを無礼としたのである。煬帝は、「天子」という対等関係を記した国書を許さなかった。つまり、煬帝は「日出づる処」とか「日没する処」というのに怒ったわけではないというわけです。
 推古朝のときは、国内的には「王」か「大王」を、対外的には「天子」を用いていて、まだ「天皇」という言葉は使っていなかった。
 日本の君主の称号が公式に「天皇」と定められたのは、「皇后」の呼称と同じ飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によってのこと。(689年)。
中国の唐朝において、高宗を「天皇」、武后を「天后」と称した。天皇というのは、本来、宇宙を統治する天帝という意味である。武后は皇帝より一階級下げた意味で「天皇」号を定めた。つまり、中国では「天皇」号は「皇帝」の称号より下位に位置づけられていた。したがって、日本が「天子」「大王」にかわって「天皇」号をつかっても中国にとって何ら不都合はなかった。
 天皇の和訓はスメラミコトである。スメラとは「澄む」に由来し、聖別された称号である。ヤマトの大王は天子またはアメタリシヒコと称していたが、天武朝に至って、このアメタリシヒコから「清浄な神」スメラミコト=天皇へと昇華した。
 古事記には一例も「日本」が出てこない。日本書紀の「日本」に対して、古事記は「倭」と呼んでいた。「天皇」号も「日本」国号も、その大前提として中国の承認が必要だった。中国にとって不都合でないと認められたものを選ばなければならなかったのである。
 日本は、仏典の説く「日出ずる処は是れ東方」という位置づけに置いた。あくまでも中国的世界像の東方に位置づけたことから、中国側も容認したのであろう。
 うむむ、日本という国名も、天皇という称号も、ともに中国の許容しうる範囲内のものであったというわけなんですね。驚きました。知りませんでした。
 稲の品種名は、古来、和歌や農書など、さまざまな文献に記されてきた。国家経済の根幹である稲作に対して、人々が常に関心を寄せてきたことの表れである。
 出挙(すいこ)は、毎年、春3月と夏5月に国家が農民に稲を貸し付けて、秋の収穫時に普通は5割の利息とともに徴収する制度である。この5割の利息は、国家財政にとって魅力的なものであった。
稲の品種改良が多かったことは、品種ごとの成長時期のずれによって、風倒などの被害の危険性が分散されるわけである。風水害だけでなく、病害虫に対する備えとしても多品種の作付けは有効である。
 古代日本と中国の関係について、さらに認識を深めることができる本でした。

(2008年9月刊。933円+税)

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