弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年12月 2日

自民党政治の終わり

社会

著者:野中 尚人、 発行:ちくま新書

 小沢一郎は、1980年代の終わり、自民党システムが完成した時期にその頂点に立った。しかも、自民党の支配体制が本格的に動揺し始めた1990年代の初期にも主導権を握って、その舵取りを行った。このように、小沢一郎は、かなり長い期間にわたって、自民党システムの中枢にいた。
 その小沢一郎が、小選挙区制の導入を柱とする政治改革を強引に推し進めた。なぜか?
 小沢一郎は、国会議員になってから、佐藤派に入りつつ、実質的には田中角栄に師事した。小沢一郎と田中角栄の関係は極めて緊密だった。小沢一郎の結婚式で、田中角栄は父親がわりをつとめた。田中角栄のロッキード裁判は、6年9ヶ月間、191回あったが、小沢一郎のみ全部を傍聴した。
 金丸信が小沢一郎を重用したため、小沢一郎は1989年8月から1991年4月まで、自民党幹事長として、まさに君臨した。
 その小沢一郎が今や自民党と対立する民主党の党首というのですから、なんだか信じられないのも当然です。2人だけでコソコソ隠れて対話するのではなく、堂々と国会で大いに論争すべきですよね。
 小泉純一郎が「派閥を壊す」というのは、経世会を標的とした攻撃であり、「自民党をぶっこわす」というのは、経世会の支配する自民党は解党的な出直しが必要だということ。
 小泉純一郎は、清和会という自分の派閥を最大限に利用した。つまり、小泉純一郎は、派閥というものを原理的に否定していたとは、とうてい言えない。
 小泉純一郎は、単純小選挙区制には必ずしも反対ではなかったが、少なくとも小選挙区比例代表並立制には強硬に反対していた。
 しかしながら、小泉純一郎によって、結果的に自民党は、全体として、派閥システムが後戻りがきかないほどに崩れた。人材を育成し、難し意思決定を支えるという派閥の役割がなくなった。これまで、当然のように自民党を支持してきた人々が、初めて、そのことに疑いをもつようになった。自民党は、もっともコアな支持層の離反に直面するようになった。決して野党に流れるはずのなかった固い支持層の流動化、これこそが自民党の圧倒的優位が崩壊したことを物語っている。
 自民党の最大の特徴の一つは、巨大な党本部機構である。その巨大な組織が、政策面での役割分担のために、きわめて細かく分化している。自民党内部は、政策を所管する省庁への対応と、外部の利益団体への対応がクロスする形をとりながら、きめ細かい組織を組み上げていた。
 自民党組織のもう一つの大きな特徴は、党自体の地方組織がきわめて脆弱で、事実上ほとんど存在していないこと。
 派閥は、全体として非常に分離的な自民党が最後に統制力を発揮するためのみちでもあった。人事権を握る派閥会長が、自民党システムのなかで、重要な権力核だった。
 自民党は崩壊寸前だと言われながら生き延びている。その理由は2つ。一つは、自民党システムが社会の隅々まで根を張って、きわめて強靭なこと。もう一つは、自民党システムの存続期間が長かったので、そこからの移行プロセスも長くかかるということ。
 国会解散・総選挙という政治日程が、どんどん先送りされています。しかし、ともかく生活再建・景気回復とあわせて、「人間らしい生活を取り戻せ!」ということが主要なスローガンでなければならないと私は思います。 
(2008年10月刊。760円+税)

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