弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年2月25日

ケネディ

著者:土田 宏、出版社:中公新書
 1963年11月22日、テキサス州ダラスでアメリカのケネディ大統領が暗殺されたことを知ったのは、私が中学3年生のときでした。暗澹たる気持ちになって、すぐ上の兄に「これから、世界はどうなるんだろう。また戦争が始まるのかな?」と、不安気にたずねたことをはっきり覚えています。兄の答えは覚えていませんが、そんなに心配することじゃないよと、私をなぐさめる言葉だったと思います。
 43歳でアメリカの大統領となり、ニューフロンティアを切り拓いていこうと呼びかけた大統領就任演説は、いまも名高い演説として語り継がれています。その3年後、わずか46歳で凶弾に倒れたわけですが、アメリカが今も昔も見かけ以上に、いかにも凶暴な国であることが、この本を読むとよく分かります。
 それにしても、清新溌剌としたケネディが、プレーボーイとしても名高いのにもかかわらず、実は虚弱体質で、何度も死にかけたことがあることを知って、私は大変驚きました。
 ケネディの母ローズは、17年間に男4人、女5人の計9人の子どもを産んだ。ほぼ毎年、妊娠・出産をくり返していた。敬虔なカトリック教徒の生活を実践したわけだ。しかし、夫婦の仲は、恋愛結婚と子宝に恵まれたことから想像されるほど親密ではなかった。父・ジョセフは、結婚直後から、出世欲と権力欲に取りつかれたように仕事に夢中で、家庭をかえりみなかった。夫は妻ローズに子どもを産むことだけを要求した。妻ローズは、夫が外で女をつくろうが、夫の富と社会的名声を共有して人生を楽しめばいいと割り切り、家庭にとどまるふりをした。
 ジョン・F・ケネディーは、兄ジョーに何ごとによらず勝つことができず、劣等感にさいなまれた。ジョンは、父親から期待されず、母親からも見捨てられていた。ジョンは体調を崩してしまった。精神的なストレスから来るものだったかもしれない。
 病弱なジョンに父親は期待しなかった。ジョンは、見捨てられたと感じていた。ジョンは、アーサー王伝説という哀しい話を好んだ。
 ジョンは、倦怠感と激しい下痢に悩まされ、体重は50キロほどしかなかった。
 ジョンがハーバード大学に入学できたのは、成績優秀な兄が在学していて、金持ちの父親が大学の有力なスポンサーだったことによる。
 ジョンは大学生のとき、政治的、社会的行動にまったく関心を示さなかった。
 ジョンの父親はルーズベルト大統領への政治献金の大きさから駐英大使に任命された。しかし、反ユダヤ主義、親ヒトラーそしてヨーロッパの戦争への非介入の主張がアメリカ国内で反感を買い、ルーズベルト大統領も抑えることができずに、1940年10月、解任された。
 1943年8月、ジョンは海軍に入り、PTボートの指揮官としてソロモン諸島に配属された。小さな魚雷艇に乗っていると、レーダーもないなかで日本の駆逐艦と衝突し、魚雷艇は沈没してしまった。13人の乗組員のうち2人が即死し、1人が重症を負った。ジョンは、残った部下と近くの島にたどり着き、なんとかアメリカ軍に救出された。これが、ジョンの英雄伝説をつくり出した。
 ジョンは、生涯を通じて、他人(ひと)と親しく接するのが苦手で、大勢の人のなかにいるのを嫌った。遠慮っぽくて、引っこみ思案だった。
 ところが、小さなグループのなかでは、そんなジョンの性格がすべて利点になった。ティー・パーティーに参加した女性の心をジョンはつかんでしまった。
 ジョンは、自分で考え、自分で結論する。あえて政治生命をかけてでも、守るべき自分がある。それが理想とする政治家だった。それはきわめて新しいタイプの政治家だった。
 反共主義の信念をもっていたジョンがユニークだったのは、ソ連と共産主義の武力による拡大を阻止するために武力を行使することを嫌ったことである。ジョンは、共産主義が貧困を栄養として拡大するなら、先に貧困をなくし、貧困が生じないようにすれば、その拡大は防げると考えた。
 1947年夏、ヨーロッパ旅行中にジョンは体調が悪化、カトリックの臨終の秘蹟までほどこされた。なんとか回復したものの、アジソン病と診断され、余命1年と宣告された。これは、長年にわたる多量のステロイド摂取による副作用の結果と思われる。
 朝鮮戦争のころ、ジョンはアメリカ国内での共産主義の拡大を恐れ、共産主義者の登録の義務化や国家の危機状況下での身柄拘束はやむなしと考えていた。マッカラン法に賛成した。
 ジョンは、大統領になって、アメリカ全土に核シェルターを設置する提案をした。
 私がアメリカを初めて訪問した20年前、ワシントンで、普通の民家の地下に核シェルターがあるのを知って大変驚いたことを思い出しました。こんなちゃちな核シェルターで核戦争の下で生きのびられると考えたアメリカ国民の無知を笑ったものでした(もちろん、笑ってすまされる話ではありませんが・・・)。
 ロバート・ケネディは、性格が母親ゆずりの真面目さで、恵まれない人々の苦しみを自分のものとして受けとめる優しさがあった。ロバートは、アメリカの敵は共産主義ではなく、むしろ国内に存在する貧富の差であり、社会が人々に強いる不平等であり、貧困と病気だという考えをもっていた。
 素晴らしいですね。ロバートの行動はこの考えにもとづくものだったのです。だからこそ、暗殺されてしまったのですね・・・。
 ジョンが上院議員に当選した1953年、ジャクリーンと結婚した。しかし、実のところジョンは結婚相手を選ぶ自由はなかった。父が相手の女性を認めない限り、ジョンは結婚できなかった。ところが、12歳という年齢差にもかかわらず、ジョンとジャクリーンは互いに強くひかれあっていた。2人とも、心の底では家族愛に恵まれなかった寂しさを抱えていたからだろう。
 結婚生活について、ジャクリーンはジョンに不満をもっていた。ジョンは新婚早々から女遊びをしていた。ジョンにも悩みがあったようです。
 ジョンは、このころ2つの問題をかかえていた。一つは、根拠のないアカ攻撃をしてきたマッカーシーを非難するかどうか、もう一つは身体の不調である。
 ジョンは、マッカーシーに対する非難にふみ切れず、民主党内のリベラル派の支持が得られなかった。また、黒人の地位向上に向けての行動にもジョンはふみ出す勇気をもてなかった。ジョンは自分と南部の白人を結ぶ絆を完全に断ち切れず、優柔不断だった。
 ジョンの大統領就任演説は、わずか15分間。1355語でしかない。歴代で5番目に短い。しかし、それは、時代を経ても高い評価の得られるように願ったジョンの思いがあふれた文章だった。ジョンは声に出して何度もくり返し読み上げる練習をした。
 それゆえに、わが同胞であるアメリカ国民諸君。国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え。
 わが友である世界の市民諸君。アメリカが諸君のために何をしてくれるかではなく、我々がともに人類の自由のために何ができるかを問い給え。
 この部分だけが極端な文語調だった。うーん、そうなんですか・・・。この演説は誰が書いたのか、ということを問題にしています。スピーチ・ライターの文章を読み上げただけではないのか、という疑問に対して、著者は違うだろうと言います。
 臨機応変に即興の演説をすることのできる文章家だったジョンがスピーチ・ライターの下書きを修正・編集したものとして、やはり、ジョンの書いたものだと考えるべきだ。
 ジョンは大統領として、カストロの支配するキューバ侵攻作戦にゴーサインを出します。1961年4月のことです。ところが、この作戦はみじめな失敗に終わり、1189人もの上陸部隊が捕虜になってしまいます。その失敗を打ち消すために弟のロバート司法長官とともにカストロ暗殺計画にふみこみますが、これまた失敗してしまいます。カストロ暗殺計画は、5年間に8回も立案されたというのです。
 1962年にキューバ危機が発生します。ソ連がキューバに攻撃用ミサイルを持ち込んだというのです。軍人たちは、キューバへの軍事行動を強硬に主張します。
 お偉いさんたちの話を聞いて、そのとおりにした、お偉いさんに間違っていたことを指摘しようにも、誰も生きていないというときが来てしまうよ。これはジョンの言葉です。
 ジョンの戦争回避努力を非難した、ときのアメリカ空軍参謀のカーチス・ルメイは、日本から最高の勲章をもらった米軍人でもあります。ルメイは、ジョンに対して、史上最大のアメリカの敗北だと非難しました。
 ジョンを暗殺したのは、リー・オズワルドという24歳の元海兵隊員だということになっている。しかし、オズワルドの経歴が逮捕直後から詳しく公表されたのは、かえって不自然だ。しかも、オズワルドは、2日後にはマフィアと関係のあるジャック・ルビーによって警察本部の地下駐車場で射殺された。
 ジョンの脳の状態は2度の検視のときに大きく異なっていた。要するに、銃弾が回収されていたのだ。真犯人が誰かを隠すために、権力による工作がなされたということです。
 著者は、ジョンの暗殺の主犯はアーレイ・バーク提督だと指摘しています。この人物は、日本の自衛隊が発足するときに大きく貢献した人物だということです。このとき、厚木基地でオズワルドとも面識があったというのです。
 久しぶりにケネディ大統領を思い出しました。アメリカを知るうえでは欠かせない人物ですよね。
(2007年11月刊。840円+税)

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