弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2008年1月17日

氷川下セツルメント

社会

著者:氷川下セツルメント史編纂委員会、出版社:エイデル研究所
 徳川直の小説『太陽のない街』の舞台となった東京・本郷の氷川下地域にあった学生セツルメントの活動を元セツラーたちが語った記念誌です。私は同じ学生セツルメント活動をしていましたが、地域は違い、神奈川県川崎市でした。そこは貧困地域というより、労働者の多く住む古市場という町で、若者サークルの一員として活動していました。
 氷川下にも古市場にもセツルメント診療所(病院)がありました。古市場には今も存続していますが、氷川下のほうは2000年4月に閉鎖されたことをこの本で知り、大変ショックを受けました。ええーっ、なんでー・・・、と思いました。
 氷川下セツルメントは東京教育大学(今の筑波大学の前身)に隣りあわせだったようです。1953年4月に40人でつくられスタートしました。
 氷川下の町は貧しい町ではありませんでした。みるからに可哀相な人もいません。
 全セツ連は、全国30あまりのセツルメントから成り、セツラー3000人が所属していた。全セツ連書記局のを構成するセツルメントは、北から宮城の中江、千葉の寒川、東京の亀有と氷川下、神奈川の川崎、愛知のヤジエ、そして大阪の住吉だった。
 全セツ連大会には600人のセツラーが参加した。1965年の仙台での全セツ連大会では分裂していた川崎セツルメントの中島町と駒場のどちらに代表権を認めるかが議論になった。生産点論を主張したT君はその後、体制側の中枢の裁判官になった。地域を大切にする本間重紀(おやじ)の活動する中島町の方に軍配はあがった。
 多くの元セツラーたちは学生時代にセツルメント活動をして大変学ばされた、そして今もその経験が人生の多くの原点になっていると書いています。私もまったく同感です。
 当時、何を考えたのか、何を学んだのか、地域の人々の暮らしや子どもたちの本当の姿に接しながら、毎日を過ごし、自らの実感にしていたこと。社会に出る前に、エリートの大学生のなかだけで過ごすのではなく、地域の実態に接しながら、社会全体を構造的に見る視点をもつことができたことが大きい。
 実際に社会で出会うさまざまな場面で、自らの意思で選択していく視点と困難から逃げ出さない楽天性を、セツルメント活動を通じて大学時代に身につけることができました。
 40数年前のセツルメント活動を体験して人生観が変わりました。
 医師としての38年間を支えてきた原点は、学生時代の6年間のセツルメント活動にあったと言っても過言ではないくらいに、私の人生にとっては大切なセツルメントでした。
 みんな本当に真面目で、一生懸命で、世の中にこんな純粋な人たちがいるのかと思うようなサークルでした。
 弱い者いじめを連想させるようなゲームをして盛り上がったとき、「セツラーが、こんな資本主義的な遊びをするのか」と叫んだ人がいた。それを聞いて、ああ信頼を裏切ってしまった、やってはいけないことをした、大変なことをしてしまった、と悄然とした。
 弱者を蹴落とす、一生懸命やっている人を表で励まし、裏では笑う。そんなことをしてしまった。それを自覚して、もっとも純粋に誠実になれるよう、自己改造をはじめた。
 20歳まで誰にも言えないこと、一番こだわっていたことをセツルメントのなかで話すことができた。一人に話せると、そこから扉が開いて、外の世界に進んでいくことができる。人間(ひと)は信じてもいいのだと思えるようになった。自分だけで抱えこんでいた悲しみ、苦しさから、それに共感してくれる人たちと出会えたこと。それがセツルメント時代のもっとも大きなドラマだった。
 男女学生が一緒に活動していましたから、男女の共同・協力がすすむセツルメントでは、自然に愛が芽生えることも不思議なことではない。愛の問題がセツルの中心問題となって、屋根裏部屋の恋愛教授と目された学生もいた。結婚にこぎつけたカップルも少なくない。ただ、他人の相談にはよいけれど、自分のことはからきしダメで、愛を実らせることはできないセツラーもいました。なるほど、そういうセツラーがたしかにいましたよね。私も他人(ひと)のことは言えませんが・・・。
 それはともかく、ほのぼの論と命名された雰囲気がセツルメントはあった。セツルメント集団の中には、自然のうちに誰も気づかないうちに醸成されていた。
 女性を真剣に好きになる経験も初めてしました。好きな人と話すときの心の弾みと、切なさを初めて知り、また、失恋の痛切な痛みも知りました。
 セツルメントこそ、私の大学だった。つくづくそう思う。いろんなヒトが、そのように語っています。OS会(オールド・セツラーの会。つまり、学生セツラーであった人々のこと)は、セツルメント大学同窓会である。
 元セツラーで、裁判官なり、いまは弁護士になっている人が次のように語っています。
 セツルメントの経験は、たとえば大学の中で相談をするというのではなく、地域で、生活している現場で相談していることに意義があった。セツルメント法律相談部は、いつか廃部になったそうであるが、今でも存在価値は十分にある。
 私が今年(2008年)受けとった年賀状に、元セツラー、元裁判官で、今は弁護士の人から、東京の亀有セツルメントの法律相談に通っていると書かれているのを読んで、うれしく思いました。学生セツルメントも全滅したのではないようです。
 セツルメント法相部の指導教授は、民法と法社会学の川島武宣、民法学の来栖三郎、加藤一郎の三氏であり、助教授クラスで学生セツラーの相談に乗っていたのは、OSでもある村上淳一、稲本洋之助の両氏だった。
 ところが、セツルメント時代を単に楽しい思い出だと言えない人が想像以上に多いことに気づきます。それは何より、書いた人の年齢で分かります。私と同世代、つまり団塊世代をふくめて、それ以降の人々がきわめて少ないのです。まだ、人生を総括するには早すぎるということでしょうか。過去を振り返りたくないと思っているのでしょうか・・・。
 セツルメントが自分をどう変えたかと回顧する気にはどうしてもならなかった。それを整理する時間と余裕も持ちあわせていない。
 ちゃんと向きあうことが怖いからなのかもしれないと思う。若さにまかせて思い切りいろんなことをした。思い出すだけで恥ずかしくなること、真剣に思い出したら今でも胸を締めつけるような思いに囚われてしまいそうなこと、ああすればよかった、こんな風にふるまえばよかったと後悔ばかりしそうなことがたくさんある。思い出すと胸が苦しくなるばかりだ。だから、それらに触れないようにしているのかもしれない。1966年入学以降の元セツラーからの寄稿が少ないのは、そのせいかもしれない。
 全体的な気分は物悲しさだ。
 私と大学同級生のセツラーであるボソは次のように語っています。身体で学んだ青春だった。民宿の夜は、男女が雑魚寝で話し続けた。いろんな人といっぱい話したかった。いっぱい聞いてほしかった。可能性を信じて、働きかける魅力は捨てがたいものがあった。人生の価値を考えたとき、転職は避けられなかった。少しでも自分の実践を展開するため、ささやかな努力を積み重ねてきた。
 法学部卒業のボソは、民間企業に入り、8年間そこでがんばったが、教職に転じ、今も私立高校の社会科教師としてがんばっている。ときどき実践記録を送ってくれますが、高校生の書いた文章のレベルの高さには毎回驚かされています。
 『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)を読むと、懐かしさとともに、少しこそばゆさもどこかに感じてしまう。自己変革という言葉に当時、大いに惹かれた・・・。
 2007年夏に出版された本ですが、1967年以降に入学した元セツラーの寄稿がとても少ないのです。年に2回の全セツ連大会には全国から1000人以上ものセツラーが参集して大変な熱気を毎回感じていました。あのころの熱気はどこへ行ったのでしょうか。私は、もっともっと大勢の人に、回顧趣味でもいいから、ともかく当時のセツルメント活動を気軽に振り返ってほしいと思っています。きっと、今の自分と過去の活動の接点が見えてきて、それは明日にプラスになることだと思うのです・・・。
(2007年8月刊。3333円+税)

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