弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年7月17日

ティムール帝国支配層の研究

世界史

著者:川口琢司、出版社:北海道大学出版会
 チンギス・ハンのあとに中央アジアに広大な帝国をうちたてた有名なティムールとその帝国についての研究書です。本格的な内容ですので、難しいところも多々ありました。
 ティムール帝国の時代は、空前絶後の領土を有したモンゴル帝国が解体したあとに到来した。このころ、日本は室町幕府、足利尊氏から義満にかけての時代。中国では明帝国の前半の時代。ヨーロッパでは、百年戦争やバラ戦争を経て、大航海時代に入ったころ。ロシアでは、モスクワ大公国が力をつけ、モンゴル支配の桎梏から自立しようとしていた。
 ティムール帝国は、中央アジアのモンゴル国家チャガタイ・ウルスの領域に成立し、中央アジアから西アジアに及ぶ広大な領域に、6代140年間にわたって続いた。
 ティムールは、青年時代に右手と右足に終生の傷を負い跛者となったが、その類いまれな才覚と人望により、祖先の名望や所属部族の力をあてにすることなく、一代で広大な大帝国をうちたてた。1360年代、ティムールは、旧来の部族に頼らない新しい家臣団を組織しながら、有力部族たちを巧みに味方につけ、宿敵フサインとの権力闘争を制し、1370年、ついにサマルカンド政権を樹立した。
 ティムールは、チンギス・ハンを意識し、モンゴル帝国の再興を目ざしていた。   
 ティムール自身はチンギス・ハンの子孫ではない。バルラス部族の出身である。しかし、当時の中央アジアでは、チンギス・ハンの子孫でなければ君主になれないというイデオロギー(チンギス統原理)が生きており、支配の正当性の根拠となっていた。
 そこでティムールは、チンギス・ハンの子孫を実権のないハンとして擁立し、チンギス・ハンの子孫の女性と結婚して婿(キュレゲン)の地位を獲得することにつとめた。モンゴルの権威を利用して支配の正当性を得ようとしたわけである。
 ティムールは、チンギス・ハンの子孫である4人の女性と正室とした。しかし、その正室から生まれた嫡子は次男のみで、長男も三男、四男もみな側室を母とする。ところが、この4人の息子たちは、いずれもチンギス・ハンの子孫にあたる女性と結婚している。
 ティムール帝国では、明確な後継制度が定められていなかったため、実力で君主位継承争いに勝利した者が新しい君主になる場合が多くみられた。ティムールの遺言は無視された。
 ティムール帝国では、チュルク・モンゴル的な要素とイラン・イスラーム的な要素が融合し、きわめて高度なイラン・チュルク・イスラーム文化が花開いた。ティムール朝の人々はイスラーム教徒であった。
 ティムールは積極的な建築活動を展開した。そこで、チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した、と言われた。
 ティムール帝国の末期には、北方のキプチャク草原からウズベグ族が侵入し、1507年にティムール帝国は崩壊した。1991年、ウズベキスタンが独立すると、ティムール帝国を滅ぼしたウズベグ族の子孫たちが、ティムールを英雄視し、自分たちの文化的系譜をティムール帝国にまでさかのぼらせている。
 ティムール帝国についての本格的な研究書です。素人にも分かるところだけを飛ばし読みしました。
 梅雨空の晴れ間に蝉があわてたように鳴いています。このところ例年より雨が多くて、蝉の出番がなくて、焦っている気がしました。庭にサルスベリのピンクの花が咲いています。お隣の家には、合歓の木が二度目の可憐な花を咲かせています。梅雨明けが待ち遠しいこのごろです。

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