弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年5月31日

周恩来秘録(下)

中国

著者:高 文謙、出版社:文藝春秋
 周恩来は、林彪が家を出たのを確認してから毛沢東に報告し、措置を仰いでいる。とにかく強行に阻止するよう命じることなく、林彪専用機の離陸を阻止する指令を出さず、結局のところ、みすみす逃亡を許してしまった。
 もし周恩来が即刻決断して徹底的な措置をとっていたら、林彪のいた北戴河から山海関空港まで少なくとも車で40分かかるから、山海関空港を制圧するよう命令を下していたら、林彪に逃げるすべはなかったはずだ。
 周恩来は、このときただちに全国に飛行禁止令を出したと言われているが、実際はそうではなく、華北地区のすべてのレーダーをつかって、林彪専用機の行動を監視させただけである。管制官を通じて林彪に戻るよう呼びかけ、どこに着陸しようとも、この周恩来が迎えに行くと告げた。
 林彪墜落については、公式発表のいうように、燃料が足りずに専用飛行機が強行着陸しようとして失敗したというのは真相ではない。ここにはまだ秘められた事実がある。機は突然Uターンして中国に向かって引き返し、その途中で墜落している。乗っていた9人の死因は燃料タンク爆発後の激しい炎による窒息死である。燃料不足で、どうやってこれだけの燃料が引き起こせるものか。
 専用機は、強行離陸したあと、何度か無理な旋回をくり返した。行き先に迷っていたというのは、林彪の矛盾した心のあらわれ、考えを変えて命じたものなのか、それとも操縦士が抵抗して、混乱のうちに強行着陸しようとしたものなのか・・・。
 中国は、今に至るも、ロシアに資料を公開するよう要求していない。何かを隠しているからだ。
 毛沢東は、文化大革命を誰かが否定するのではないかということを常に気に病んでいた。周恩来にさえ、気を許せなかった。毛沢東はまた、文化大革命が党や軍の多くの老幹部から恨みを買っていることを知っていた。
 それで、毛沢東は、文革中に老元帥たちが迫害された責任をすべて林彪に押しつけた。毛沢東は病気してから、自分が周恩来より長く生きられないのではないかと心配するようになった。周恩来が、もし自分の死後に率先して文革の評価を覆したら、周の党内外における声望と手腕によって、皆が一斉に周恩来に賛同し、庇護を失った党内文革派はまったく相手にならないだろう。毛沢東は、そう考えて、周恩来のガンが判明したとき、その治療をさせなかった。毛沢東は周恩来の死を明らかに早めた。
 周恩来は自分の身体の病気治療について、一般人と異なり、自分の希望を通すことができず、すべて毛沢東の考えに従って行動するしかなかった。周恩来の体重は、ついに30キロでしかなかった。毛沢東が妨害したため、治療が遅れてしまったせいだ。それでも、周恩来は文句ひとつ言わなかった。1976年1月8日、周恩来が死亡したとき、77歳だった。
 毛沢東は林彪事件によって面目丸つぶれになった。そこで外交でなんとしても勝利を手に入れ、国内の視線をそちらに振り向け、文革の敗勢をごまかさなければいけなかった。キッシンジャーが秘密裡に訪中し、ついにニクソン大統領が訪中するに至るのは、こういう背景があった。
 毛沢東は、周恩来をずっと中国共産党のなかで儒教思想をもっとも強く受けていると見なしてきた。表面上はいかにも謙虚で君子然として自制心があり、完璧を求め、何ごとにもバランスを保っているが、しかし、その実は狡猾で世故にたけ、欺瞞に満ち、政治信条をもたず、常に流れを読んでふらふらしていると見た。
 毛沢東が内心おだやかでないのは、周恩来のような者が党内外で非常に好感をもたれ、国際社会でも賞賛されていることだった。
 批林批孔運動は、実は毛沢東が周恩来を批判する運動だった。このとき、周恩来は次のように言った。
 一、人に打倒されそうになったら、どんなに打たれようと、決して倒れてはならない。
 二、人に追い出されそうになったら、自分から去ってはならない。
 三、人にやられそうになったら、どんなにやられようと、自分から死んではならない。 これって、周恩来の日頃のイメージとはかけ離れていますよね。
 ?小平が復活した。これについて、長いあいだ、?小平の捲土重来は周恩来のおかげだと言われてきた。しかし、実際には、毛沢東こそ?小平の復活を裏で推しすすめた黒幕であった。しかも、それは周恩来の追い落としが本当の目的だった。
 毛沢東は政治闘争において、古い友情などにほだされたことなど、一度もない。毛沢東が決心を渋ったのは、周恩来が劉少奇や林彪よりずっと難敵であることをよく承知していたからだ。
 毛沢東は政治に波風を立てることを習慣としていた。まず周恩来をつまみ上げ、徐々に権力の中枢から退け、?小平にとってかわらせるつもりだった。
 毛沢東は周恩来の追悼会に体調不良を口実に欠席した。周恩来の追悼活動は、党内外の「名誉回復」派が?批判に抵抗する隠れみのになっていた。
 毛沢東はこう語った。
 なぜ私が周総理の追悼会に参加しなければならないのか。私には参加しない権利があるだろ。偉大なマルクス主義者などとは、誰が周総理に贈った呼称か?私と、このマルクス主義者の総理とは、10回以上も闘争した。無理強いしてはいけない。
 毛沢東は1976年9月9日に82歳で亡くなりました。
 この本に書かれていることがすべて事実なのかどうか分かりませんが、この本を読むと周恩来に対するイメージがかなり変わるのは間違いありません。

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