弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年5月22日

蘇我氏四代

日本史(古代史)

著者:遠山美都男、出版社:ミネルヴァ書房
 蘇我入鹿は王位の簒奪という許されざる野望を抱いたため、それを阻止しようとした中大兄皇子に大極殿で討たれた。そして、その父蝦夷もまた討伐軍に滅ぼされ、ここに権勢を誇っていた逆臣蘇我氏は滅亡し去った。これが通説です。しかし、著者はこれに対して敢然と挑戦します。わずかの資料を手がかりに想像力をフルに発揮して謎解きをしていきます。学者って、すごい才能とくに想像力と総合力の持ち主だということを痛感します。
 蘇我氏の活躍した時代はまだ天皇とは呼んでいなかったので、大王と表記されています。ですから、皇子も王子です。この時期、王宮内に「大極殿」はない。
 蘇我氏を百済系の渡来人とする説がありますが、著者はそれを否定します。
 5世紀の日本では、大王位は後世のように特定の一族に固定はしていなかった。この時期、大王を出すことができる一族は複数存在した。ところが、5世紀後半から6世紀半ばは欽明大王の時代には、大王位が特定の一族、すなわち欽明の子孫で限定、固定されるようになった。ここに初めて、厳密な意味での王族(大王家)が成立した。
 蘇我氏とは初代の稲目が葛城氏の娘と結婚し、葛城氏の血脈に連なることによって成立した豪族だった。稲目は、かつて大王を出すことができた一族で、その資格をもっとも早く否定された葛城氏の血脈を相承する存在だったからこそ、彼の娘は大王の妃として迎えられる資格を存在的に認められていた。
 蘇我氏とは大和国高市郡の曾我の地名に由来する。曾我というのは、この一帯がスゲ(菅)の繁茂する地として知られていたことによる。スゲは事物を浄化する呪力を秘めた神聖な植物と見なされていた。蘇我というウジナは、大王に奉仕する一族の政治的な称号だった。
 初代の稲目は、今では、その祖父の名前すら伝わらない、その限りでは氏素性の分からない人物だった。そのような稲目が大王の政治・外交を補佐する筆頭である大臣という住職に就任できたのは、やはり稲目に代表される蘇我氏が葛城氏の血脈を継承していたから。厩戸は王位継承資格者の一人ではあったが、皇太子ではなかった。この時期にはまだ摂政と呼ばれる公的な地位もない。唯一の皇位継承予定者としての皇太子の地位が成立するのは100年後の689年のこと。
 厩戸の両親は、いずれも蘇我稲目の娘を母としていたから、彼が蘇我のテリトリーのなかで育てられたことは疑いない。
 蘇我蝦夷は、その母を介して、自分は物部氏の一員であるという意識をもっていた。当時のこの階層の者は等しく、父方・母方いかなる一族に属するかということで自己を認識していた。
 皇極大王と軽王子という姉弟は、いわば共謀して入鹿を殺害し、中大兄皇子の即位資格を否定した。入鹿暗殺の責任は皇極大王と、皇極の同母弟である軽王子(のちの孝徳大王)だった。
 斬りつけられたときの入鹿の言葉が、有名な次の言葉です。
  臣、罪を知らず。
 この言葉は、蘇我家が大王家乗っとりなどとはまったく無縁であったことを反映するものだというのです。うむむ、これだから歴史書を読むのは大変楽しいんですよね。

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