弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年5月17日

真説・阿部一族

江戸時代

著者:升本喜年、出版社:新人物往来社
 森鴎外の『阿部一族』は読みましたが、もう何十年も前のことですので、『五重塔』は最近再読しましたから記憶に新しいのですが、ちっとも覚えていません。ただ、同じ肥後藩士の阿部一族に襲いかかった苛酷な運命を描いたというので読んでみました。武士の世界も大変なんだとつくづく思いました。山田洋次監督の武士三部作映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」を思い出します。ああ無情という感じです。
 時代は江戸時代初期。寛永14年(1637年)、島原の乱が始まった。肥後熊本藩の細川軍は攻撃軍のなかで最大の損失を蒙った。戦死者270人あまり、戦傷者1800人。
 阿部一族の当主、阿部弥一右衛門は、豊前国宇佐に土着し、勢力をはる豪族だった。細川忠利の父・細川忠興が慶長5年、豊前の領主に封じられた。領内の土豪たちの強大な存在をみて、逆利用することにした。
 その後、細川忠利は肥後に封じられ、阿部も一緒に豊前から移った。このとき知行100石(すぐ300石)の武士となった。肥後は、秀吉でさえ「難治の国」といったほどの大国である。幕府は忠利の肥後入国にあたり、小倉城から武具や玉薬の一切を持ち出すことを許しただけでなく、大阪城から石火矢3、大筒10、小筒1000、玉薬2万を出した。肥後は「一揆どころ」といわれるほど一揆の多い国として知られた。惣庄屋だけでも100人以上いる。土豪あがりのほか、大友、小西、加藤の遺臣もいる。細川氏に反発し、簡単に心を評するとは思われない。そこを忠利は治めた。阿部も力を尽くした。
 その殿様・忠利が病死した。その直前、殉死を禁ずると言い渡していた。だから、阿部も殉死する気はなかった。それに忠利の子・光尚は殉死を禁じた。
 忠利亡きあと、阿部のように忠利に眼をかけられて取立られていた者と細川藩譜代の者たちの対立が目立ってきた。ところが、忠利は実力第一主義で、実力のある者なら、家柄や血統などに関係なく眼をかけ、思い切って仕事をやらせ、大胆な抜擢も断行するし、十分の待遇も惜しまない。多少、性格に欠陥があったり、悪い前歴が多少あったりす者でも、能力があり、ひたむきに働く者であれば、その者を認め、眼をかけた。反面、肩書きだけで実力のない者や積極性のない者は極端に無視し、冷遇した。だから、無視された方には、嫉妬と怨念が蓄積する。反動が来るのも当然だ。
 阿部弥一右衛門が忠利の遺訓を守って切腹しないことに対して、怨みをもつ者たちが嘲笑しはじめた。「卑怯者」「臆病者」「あれは百姓だ」と・・・。さすがの弥一右衛門も耐えきれない。
 光尚は熊本城に初登城したその日に、弥一右衛門が殉死したとの報告を受けた。なんたること、言語道断。家臣としてあるまじきこと。怒りを抑えきれない。
 殉死者19人の相続人全員が登城して、相続を許された御礼を光尚に言上した。跡式相続が内定してから、もう二ヶ月目に入っているが、このお目見えがあって、はじめて相続の正式決定となる慣わしだ。阿部権兵衛は、このとき、相続人代表として言わずもがなのことを光尚に申し立てた。
 光尚の下で権勢を誇る林外記にとって、今や阿部一族は邪魔者としかうつらない。これをたたきつぶせば、他の者への見せしめになる。ついに阿部一族みな殺しが決まった。討手総数17人が選ばれた。
 夜明け前からの討ち入りが終わったのは午後3時過ぎ。阿部一族全員が殺された。その討ち入りの凄惨な情景が活写されています。映画でも見ているような感じです。
 ところが、まもなく光利が31歳の若さで倒れた。阿部一族が誅伐されて6年目のこと。林外記は無用の邪魔者となった。そして、早朝、四人組に襲われて、林外記は討ち果たされてしまった。
 阿部一族の忠実をふまえた小説です。なかなか迫力がありました。因果はめぐるという話になっています。森鴎外の小説は忠実と違うところがあるという指摘もあります。

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