弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年11月 6日

江戸八百八町に骨が舞う

著者:谷畑美帆、出版社:吉川光文社
 花のお江戸では、水辺の屍(しかばね)は、町の風景のなかにすっかり溶けこんでいる。江戸の辻番所の規定には、池や川に死体が漂っているのを目の当たりにしても、とりあえずは届けなくてよいとなっていた。つまり、水死体は、きちんと処理しなくてもよく、たとえ見つけても、ぽーんと遠くに突き流してもよかった。ええーっ、ウソでしょう。と、言いたくなる話です。時期によるが、江戸の町は、実際、水辺を中心に死体がごろごろしていたと考えてもよい。なんと、なんと、そんなー・・・。
 江戸時代、火葬は土葬に比べて少なかった。二代将軍秀忠の正妻お江与(えよ)の方が1628年(寛永5年)に火葬され、埋葬されたのは、当時としては非常に珍しいことだった。墓が飽和状態になると、墓域全体に盛り土して、人工的に新たな埋葬地をつくりあげていた。
 町人層の人骨から骨梅毒が11.5%認められたのに対して、武家層からは3.5%だった。梅毒は江戸時代に大流行していた。杉田玄白は、年間の診療患者1000人のうち、700〜800人は梅毒にかかっていたと回想録で述べている。
 日本人の平均寿命は、1960年代までは、せいぜい50歳程度だった。19世紀までは、死産や早世などで、子どもが死ぬのは当たり前だった。人が成人まで生き残る確率は、きわめて低かった。江戸時代、死亡率全体の7割が乳幼児であった。
 江戸に出て来て白米を食べるようになると、江戸煩(えどやみ)になった。今でいう脚気(かっけ)にかかったということ。
 江戸時代の人々は義歯(入れ歯)をつかっていて、お墓にも入っていた。
 老人(60歳以上)が23%を占める墓地がある。長寿者は、地域の知恵袋として尊敬の対象となっていた。
 老人が楽しく生きられる社会は楽しい。老人が幸せに生きているということは、将来、老人になるであろう、いま壮年期を迎えた人たちにとっても、先々への不安を払拭することになるから。まことにそのとおりですよね。いつのまにか老人になるのも間近な私は、つくづくそう思います。
 江戸時代の定年は自己申告制だった。自分で仕事を続けていけるかどうかを自らで判断し、隠居願いを出した。その後の生き方を自分自身で決めていくことができた。なるほど、それもいいですよね。といっても、弁護士である私は、あまり早々と隠居したくはありません。ボケ防止のためにも、隠居は先送りするつもりです。
 江戸時代の庶民層の身長は、男性が155〜156センチ、女性では143〜145センチだった。ところが、縄文時代には、男性が158センチ、女性が147センチというのが平均だった。そして、弥生時代になると、男性163センチ、女性150センチに伸びた。古墳時代には、さらに男性163センチ、女性は152センチだった。なぜ、江戸時代に身長が低くなったのか。それは、食生活で油脂・タンパク質の摂取量が極端に少なかったからだろう。
 葛飾北斎の描く庶民の顔は、丸顔で低い鼻をもち、反っ歯の強いもの。これに対して喜多川歌麿の描く美人画に登場する人々は、細面で高い鼻をもっている。
 江戸時代、ハンセン病の治療薬として、漢方薬の大風子(だいふうし)が中国から輸入されていた。この輸入量からして、日本には50万人のハンセン病患者がいたとみられている。
 江戸時代に日本を訪れた外国人は、日本人には皮膚病と眼病を患っているものが多いと驚いている。江戸には下水道がなかった。というのも、排水のなかでもっとも大きな問題となる糞尿を下肥(しもごえ)として再利用していたから。生活排水は道にまいて地下に浸透させていた。排水として出されるものは、せいぜい米のとぎ汁くらいだったので問題とならなかった。
 江戸時代の人々の生活に改めて目を開かせる本でした。

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