弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年12月28日

黄金国家

著者:保立道久、出版社:青木書店
 太宰府に流され、怨みのうちに死んだといわれる学問の神様・菅原道真を取り巻く当時の社会状況を、この本を読んではじめて知りました。
 菅原道真は対外関係に対処するための有能な官僚と認められ、出世していった。895年(寛平7年)には、東宮大夫の藤原時平にならぶ異例の権大夫に任命され、897年(寛平9年)、醍醐天皇が即位すると、藤原時平とならんで補佐する位置についた。900年(昌泰3年)、宇多上皇の息子・斉世親王と道真の娘のあいだに宇多の初孫が生まれるや、王位をめぐる争闘に巻きこまれ、醍醐天皇の側が警戒して太宰府に流された。そこで怨みをのんで死去することになる。宇多天皇と次の醍醐天皇という父子関係の矛盾に悩まされていたわけである。
 このころ、朝鮮半島から新羅が日本に来襲するという危惧が高まっていた。朝鮮半島では、当時、後三国の内乱といわれる本格的な内乱の時代が到来していた。新羅からの日本来襲は893年(寛平5年)から翌年にかけて急に激化した。肥後国松浦郡に新羅の賊が来襲し、翌月には肥後国にまで押し寄せた。奈良時代以来はじめて、西国における明瞭な戦争状態が現出した。894年には対馬へ、新羅から大将軍3人、副将軍11人、大小船百艘、乗人2500という大軍が侵攻してきた。
 この状況で、宇多天皇は菅原道真を大使とする遣唐使を発表した。まもなく、それは取り消されてしまった。やがて(907年)、唐は崩壊する。道真が死んで4年後のことである。
 菅原道真が死んだあと、朝廷に不幸が連続した。まず醍醐天皇の皇太子が21歳で死去(923年)。すぐに道真左遷の詔書を取り消し、右大臣に復し、正二位を追贈した。ところが、925年に代わった皇太子も5歳で死亡。930年に、清涼殿に落雷し、そのショックから醍醐天皇は病気となって、3ヶ月後に死去した。
 菅原道真が朝廷で活躍していた当時、朝鮮半島も中国も大きくゆれ動いていたのでした。そのなかで外交手腕を発揮した有力官僚としてメキメキ出世していったということを初めて知ったというわけです。
 ところで、この本の表題である黄金国家というのは、8世紀初めまでは日本にとっては新羅こそ黄金の国であったが、陸奥に金が発見されてから、日本は一転して新羅の商人の中継なしに、直接に唐の海商を相手に豊かな黄金を支出するようになったということです。
 まだまだ日本史にも知らないことがいっぱいあると、つくづく思ったことでした。

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