弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年12月21日

戦後政治の軌跡

著者:蒲島郁夫、出版社:岩波書店
 自民党システムとは、経済成長を進めながら、その成果の果実を、経済発展から取り残される農民等の社会集団に政治的に分配することによって、政治的支持を調達しようとするシステムである。
 高度経済成長を前提としてきた自民党システムは、経済の長期的な停滞によって維持不可能になってきた。都市居住者にとって、農村への手厚い予算配分は、税金のムダづかいであり、環境破壊でもある。また、それにともなう利権構造もウサンくさく見える。
 1960年代に登場した自民党システムは70年代に強固なまでの完成をみて、その後も自民党政権の存続を支え続けた。皮肉なことに、自民党の経済成長があまりにも成功し、それにともなう都市化によって保守票が減少し、自民党システムそのものがジリ貧になっていくという現象が見られた。問題なのは、自民党政権の長期化が構造汚職と深く結びついていることである。党のスキャンダルが、浮動票に頼っている都市の自民党候補者を直撃する。そして、利益誘導型の政治家が相対的に栄える。この悪循環のなかで田中角栄型政治家が栄え、自民党そのものが弱体化する。
 逆説的だが、自民党が経済発展を成功させるほど、自民党の首を絞めるような政治的な帰結果がもたらされたのである。他方、このような社会的変動により台頭したのが、新中間層である。この新中間層は、自民党の経済発展政策によって恩恵に浴する集団である。その意味で、彼らは基本的には自民党政権の存続を望んでいた。ただし、彼らは日本の経済発展によって利益を受けるのであって、自民党システムから直接的な利益配分を受けているわけではない。彼らは、自民党体制維持のために資源を過大に浪費することを望まないし、また、その権力乱用や政治腐敗にも嫌悪感をもっている。そのため、もっとも合理的な行動として、自民党政権の継続を前提に、自民党を牽制すべく投票する、いわゆるバッファー・プレイヤーとなった。
 私は、このバッファー・プレイヤーという言葉を初めて知りました。すでに使い慣らされた業界用語なのでしょうか?
 自民党一党優位体制のなかで、保守的で、かつ自民党に批判的なバッファー・プレイヤーは、これまでは社会党に投票するか、棄権するかの選択しかなかったが、保守新党の誕生は、このような有権者にもうひとつの選択肢を与えた。
 ふむふむ、なるほどなるほど・・・。なかなか鋭い分析ですね。
 バッファー・プレイヤーとは、基本的に自民党政権を望んでいるが、政局は与野党伯仲がよいと考えて投票する有権者のこと。自民党政権が長く続き、野党の政権担当能力が不足している状況のなかでうまれた、日本独自の投票行動を示す有権者である。これが80年代から90年代にかけての日本人の投票行動の特徴である。
 こうしてみると、2005年9月の総選挙では、バッファー・プレイヤーが残念なことに眠っていたことになるのでしょうね。
 日本の政治参加の特徴は、「持たざる者」が比較的多く政治に参加していること、世界的にみて、日本における政治参加と所得との相関関係はきわめて小さい。所得水準の低い農民が政治により多く参加するため、全体的にみて所得と政治参加の相関関係がほとんどなくなる。アメリカでは所得の高い人ほど政治に多く参加しており、所得と政治参加には強い正の相関関係が見られる。アメリカは自ら登録しなければ投票できない仕組みですから、社会に絶望した低所得層は登録せず、投票もしないわけです。
 沈黙の螺旋とは、多数派の意見が沈黙を生み、多数派の支配が螺旋状に自己形成されていく状況をさす。人々は自分が少数意見の持ち主になることをなるべく避けたいという気持ちがあり、多数意見に同調したり、声高な意見に逆らわず沈黙を保ったりするようになる。この同調や沈黙がますます多数派の声を大きくし、少数意見を小さくする。
 これまでの自民党政治は経済成長の利益をいかに分配するかという「分配の政治」であったとすれば、小泉政権の登場は、それからの訣別を意味している。小泉政権の業績が上がれば上がるほど、自民党は支持基盤を失っていく構造になっている。小泉が自民党総裁ひいては首相に選ばれたのは、自民党が党内革命が必要なほどに危機的状況にあったからである。
 著者も団塊世代の1人です。団塊世代は激しい学生運動の波をかぶっているので、政治的意識が高いかというと、全然そうではない。ただし、大卒については脱イデオロギーが顕著だということは言える。無党派層の大きさ。民主党への投票は自民党への2倍。政治的関心は高いものの、特定の政党への帰属は弱く、イデオロギー的にも中間に位置している。大卒の団塊世代は政治的関心の高い無党派層の中核に位置し、日本の政治に一定の流動性と変化を与えている。
 どうして、かつての社会参加の情熱が団塊世代になくなってしまったのか。不思議でしようがありません。やはり内ゲバによる挫折感や連合赤軍事件の悪影響がいまだに尾を引いているのでしょうか。
 著者は熊本出身でネブラスカ大学農学部を卒業して今や東大法学部教授です。「運命」(三笠書房)に、その経過が述べられていますが、感動的な本でした。

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