弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年11月29日

雲の都、第2部、時計台

著者:加賀乙彦、出版社:新潮社
 1949年、19歳の小暮悠太が東大医学部に入学した。これは著者の自伝的大河小説の第2部です。先に出版された第1部の方が時間的に先ということでないことに途中で気がつきました。
 医学部ではまず人体解剖の実習をさせられる。ホルマリン漬けの人体を解剖する。その臭いが全身に染みついてしまう。死体がたくさん並んでいる部屋に入っていくんですね。私には耐えられません。つくづく医学部なんかに入らなくて良かったと思いました。
 大学内で学生運動が分裂している。共産党は国際派と主流派に分かれて対立している。
 1950年。東大本郷の五月祭の展示に悠太たちは原爆展に取り組んだ。アメリカ(ABCC)の禁止令がまだ生きているときのことで、市民からも大きな反響があった。
 6月25日、朝鮮戦争が始まった。しかし、日本にとって経済回復には寄与したとしても、他国の戦争でしかなく、平和な日々が続いていた。この年の4月、東大セツルメントが発足した。戦前の東京帝大セツルメントを復活させたのだ。
 セツルメントは、完全にパルタイの下部組織だ。今に徴発されて北朝鮮解放軍の兵士に仕立てられる羽目になるぞ。そんな会話が出てきます。ちょっとオーバーですけど、セツルメントの雰囲気は伝えています。
 1951年。東大セツルメントは大井町と江戸川区葛西のほかに新しい拠点として川崎の古市場と亀有の大山田地区に進出することに決めた。悠太は亀有セツルに入った。
 私は、もうひとつの川崎古市場のセツルに入りました。1967年のことです。この年、同時に入ったセツラーは少なくとも30人はいたと思います。東大だけでなく、学芸大学や津田塾大学そして横浜市立大学、神奈川栄養短大など、多いときには20以上の大学から集まり、セツラーも100人を軽くこえていました。
 悠太は土曜の昼から日曜日いっぱいをセツルに通った。診療にあたるのだ。それでも悠太は、ある種の貧困者が住む、それだけで青春の時代を喜んでささげるという彼ら(セツラー)の夢を十分には理解できなかった。発言の端に革命とかプロレタリアートとかアメ帝とか、情熱を支えるキーワードが衣の下の鎧のように見え隠れしていたが、悠太には無縁の言葉だった。悠太は未知の土地を見るという楽しみ、好奇心で動いていた。
 セツルメントを五月祭の展示に出しても見る人は少なかった。まだ世間からは認知されていない言葉だった。
 これは私がセツルメントに入った1967年当時もそうでした。実際、セツルメントって何のことやら分かりませんでした。先輩に誘われて面白そうだと思ったのですが、地域の現実を知ってみたいなと思ったのです。その地域とは、ドヤ街とか最底辺の人々が生きるというより、フツーの労働者が多く住んでいる町のことでした。そして、私が丸々3年間以上もセツルメント活動を続けたのは、心魅かれる素敵な女子大生がたくさんいて一緒に活動できたことも大きかったと思います。今思えば、夢のように楽しい日々でした。悠太も同じように看護婦に好感をもち、好かれるようになりました。
 悠太は卒業後、精神病院に入り、また東京拘置所に入ります。そこで、書物から得た知識とはまるで違う現実を見せつけられました。犯罪者の人々と向きあう毎日を過ごすようになったのです。すごい体験です。私も、法廷で、被告人が人を殺すためには憎悪の念をかき立てる必要があると語るときの被告人を見て、その表情の怖さにゾクゾクしてしまいました。まるで夜叉のように表情が固まり強張っていました。
 さらに、人妻との恋も進行していきます。悩み多き青春を生きる精神科医。本のオビにそう紹介されています。当時の世相と学生の心理状態がよく分かります。
 私の親しい友人が、1968年の東大駒場にいた学生群像を描いた自伝的小説を出版しました。東大闘争の実情とあわせてセツルメント活動の様子も紹介しています。加賀乙彦のように高名ではないので、どれだけ売れるのか心配ですが、せいぜい販売に協力したいと考えています。みなさんもぜひ買って読んでやって下さい。花伝社「清冽の炎」第1巻です。1968年4月から1969年3月までの1年間を5巻に分けて描いていく第1弾なのです。第1巻がまったく売れなかったら、第2巻以降の出版が危ぶまれるところではあります・・・。どうぞ、よろしくお願いします。

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