弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年7月22日

日露戦争

著者:軍事史学会、出版社:錦正社
 日本軍に捕虜となったロシア人は8万5千人をこえます。ロシアの捕虜となった日本人は2千人ほどでした。日本は、7万2千人ほどの捕虜を日本国内29ヶ所に分散して収容しました。大阪に2万2千人、千葉に1万5千人などです。久留米市内にも多数収容されました。日本は第二次大戦のときと違ってロシア人捕虜を厚遇したのですが、その有力な原因のひとつが外国の観戦武官や記者が多く従軍していたということにあります。つまり、虐待して国際社会に報道されることを恐れたのです。日本軍には英米仏などの将校30人が2班に分かれて従軍していました。第二次大戦では考えられないことだと思います。
 日露戦争の勝因のひとつに日清戦争の結果、日本が中国(清)から得た3億5千万円もの巨額の賠償金があげられています。当時の日本の一般会計の4倍にものぼる賠償金です。これで、日本は金本位制度へ移行することができましたし、軍備拡張に投入することができました。陸軍のために6千万円近くを、海軍のために1億4千万円ほどつかっています。これによって、日露開戦の4年前(1900年)に日本は陸軍を13個師団体制とし、海軍も6.6艦隊体制を確立し、十分な運用訓練時間を確保することができたのです。
 うーん、そうだったのか・・・、と思いました。

江戸城の宮廷政治
著者:山本博文、出版社:講談社学術文庫
 熊本藩主の細川忠興が、その子、忠利と相互に送りあった書状が2900通ほど残っているそうです。このほか幕府の老中や旗本そして他大名などにあてた書状もふくめると1万通をこえます。
 この本は、その2900通の父子間の書状をもとに大名の生活の様子を紹介しています。
 たとえば父(忠興)は、子(忠利)に対して、島津殿とあまり仲のよさそうな様子を他人に見せてはいけない。互いに並の関係であるようにふるまえと忠告しています。
 島原の乱のとき、細川勢は奮闘していますが、それをねたむ勢力も多かったようです。ですから、父は子に対してあまり手柄話はするなといさめ、子は大いに不満を覚えました。
 大名同士の足のひっぱりあいが絶えずあったなかで、生き残るために卑屈なほど徳川将軍の意向を先まわりする必要があったのです。細川家は、そうやって江戸時代をしぶとく生き残りました。

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