弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年4月14日

暗殺・伊藤博文

著者:上垣外憲一、出版社:ちくま新書
 伊藤博文暗殺事件と大逆事件がほぼ同時期だということを初めて自覚しました。
 韓国併合を推進していた桂太郎総理と小村寿太郎外相にとって、伊藤博文は最大の障害であった。といっても、伊藤が韓国で行ったことはひどいものだった。しかし、伊藤が死んだあと、中心になると思われる桂や寺内はもっと過酷なことを行うのではないかと心配する。中国の新聞は当時、このように的確に論評しました。まさに、そのとおりのことがおきました。伊藤博文はつねに対外軟弱論者として攻撃の対象になっていました。内治優先型の志向をもっていたからです。といっても、対外戦争も同時に想定していたのですから、平和主義者ではありませんでした。世論の動向には決して逆らわず、権力の中心に居つづけるのが伊藤博文の習い性だったのです。
 明治天皇は、日清戦争について、「朕(ちん)の戦争ではない」として、伊勢神宮への戦況報告を拒んだそうです。これも初めて知りました。聖裁を仰いだと称して、勝手に戦争を始めた軍部の者たちに怒っていたというのです。
 日本軍は日清戦争のときにも旅順要塞を攻撃し、占領しています。そして、そのとき市民を多数虐殺したことが欧米の新聞に報道され、非難をあびました。この虐殺には、乃木希典少将のひきいる歩兵第一旅団も加わっていたそうです。乃木将軍の影の部分です。
 伊藤博文は日清戦争が始まったときに、軍部の謀略にしてやられたことを知って、真っ赤になって怒り出しました。同じことが閔妃殺害時件のときにも起きたようです。
 いえ、伊藤博文が日韓併合に反対していたというのではありません。もっと抵抗の少ない巧妙な方法で朝鮮半島を支配すればいいと考えていただけです。ところが、日韓併合を即時断行しようという右翼や軍部の強硬派からみると、伊藤博文の対韓政策は穏健策に過ぎ、手ぬるいものであり、日韓併合を容認しないものと見えていたのです。朝鮮を日本の純然たる領土にしなければ気がすまないというのですから、まさに狂信的な連中です。
 その連中に伊藤博文は消されてしまったのではないか、というのが著者の考えです。福岡の玄洋社、とくに杉山茂丸が関わり、また、明石元二郎の指揮する韓国駐在の日本憲兵隊の手先である韓国憲兵隊補助員が実行犯だというものです。それは安重根がもっていたブローニング拳銃ではなく、フランス騎馬銃(カービン銃)によるものだということによります。
 手にとったらいかにも軽い新書ですが、歴史の闇が深いことを実感させられる、ずっしりと重い本ではありました。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー