弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年4月 5日

庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし

著者:成松佐恵子、出版社:ミネルヴァ書房
 江戸時代末期の日本では、成人男子の識字率が50%近くありました。これって、すごいことですよね。だから、日本全国いたるところに、武士から町人から村人まで、日記を書く人が多かったのです。今の日本人にブログがはやるわけが分かるでしょ・・・。
 この本は、今の岐阜県輪之内町、昔の美濃地方に住む庄屋の日記をもとに書かれたものです。西条村では、全世帯の6割以下が2石以下の零細農家でした。士農工商という身分は固定していたイメージがありますが、実は、農民出身の者が武家に養子に入り、郡奉行にまで出世するということもありました。婚姻を通しての社会移動というのがあったのです。
 庄屋を筆頭に、その補佐役の組頭と村民を代表する百姓代の三者を村方三役と呼んでいました。年貢は、江戸時代のはじめに5割をこえていたのが、年がすすむにつれて低下し、4割代になっていました。検見法は毎年の検見が必要でしたので、手間や費用がかかり、村側の賄賂による不正も少なくありませんでした。役人接待マニュアルまであったのです。それで、過去10年間の収穫から平均高を割り出し、租率を定めるのを定免法といい、これで村側は役人へ贈賄する必要もなくなりました。免とは租率のことです。
 一般に男子は成人するまでに、また成人してからも改名することがしばしばでした。一生のうちに3〜4回というのも珍しいことではありません。女性も結婚して名前を変えることがありました。乳幼児の死亡率は高かったのですが、60歳以上の人は少なくないし、80歳をこえる長寿の人も珍しくありませんでした。出産時に母親も死亡することは多く、生まれた子が死んでも、母体が無事であったら、それを感謝するお祝いもありました。母親死亡によって継母や腹違いの兄弟や後添(のちぞえ、後妻)は普通のことでした。
 妻がよく里帰りし、実家の姉妹と旅行に出かけるなど、自由を楽しんでいる様子もうかがえます。大勢の人が集まるときの料理づくりや跡片づけは男性が担当し、女性はしていませんでした。女性が台所仕事をしないというのは必ずしも非難されることではなかったのです。女性が家に拘束され、裏で下働きをさせられていたというイメージは実像からほど遠いようです。
 庄屋は生け花を見物に出かけ、菊づくりに励み、俳諧を楽しんでいました。そして、俳諧の交流のため遠方へも旅に出ていたのです。それは、近くの名古屋や大阪だけでなく、九州との交流もありました。旅行は一泊程度のものを含めて、50年間に計61回も記録されています。本当に日本人は昔から旅行がすきだったんですね。
 明治維新になっても、大きな混乱もなく、庄屋が戸長に名前を変えただけでした。そうなんだ・・・。江戸と明治が本質的なところで連続しているとなると、要するに今の日本人と江戸時代の日本人とで、そんなに変わってはいないということなのです・・・。

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー