弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年5月25日

真田三代・風雲録

日本史(戦国)

著者  中村 彰彦 、 出版  実業之日本社

真田(さなだ)幸隆・昌幸・幸村という真田三代の武勇と知略で血湧き肉躍る武勇伝の数々です。700頁もの巨編ですので、東京往復2日間かけてじっくり読み尽くしました。
 『業政(なりまさ)走る』という小説を読んでいましたが、初代の真田幸隆は業政に助けられたのでした。戦国時代は「合従連衡」(がっしょうれんこう)の世の中です。武士は二君に仕えず、というのではありません。強い方についてもよいのです。なぜなら、基本的にそれぞれ独立した存在だったからです。明日に生き残るためには、昨日の友も敵とせざるをえません。
 真田幸隆は、結局、武田晴信(信玄)の配下に組み込まれます。そして、武田軍のなかで鬼謀をめぐらして頭角をあらわしていきます。その有力な敵は越後の上杉勢でした。
 川中島の合戦のころは、真田幸隆は武田軍の有力武将だったのです。
 昌幸は真田家の二代目。武田勝頼に仕えます。しかし、勝頼は自らに甘い近臣を重用し、有力な重臣を遠ざけてしまうのでした。それが長篠の戦いでの武田軍惨敗につながるのです。
真田昌幸は、武田家が滅亡したあと、徳川家康と豊臣秀吉の間で苦労させられます。そして、秀吉亡きあと、昌幸そして幸村は家康と相手に戦うことになるのです。しかし、昌幸の子は徳川方と秀頼方の二手に分かれて戦うのでした。
 この本によると、昌幸が、その子を二手に分けたというのではないとしています。私も、そう思います。成り行きで、そうなってしまったのだと思います。
 関ヶ原の合戦のとき、家康の長男・秀忠軍4万を信州・上田城にくぎづけにした真田軍は、なんと2500にすぎなかった。秀忠軍は上田城を攻略できずにぐずぐずしていて、ついに関ヶ原の決戦に間にあわなかった。怒った家康は、秀忠に会おうとしなかった。有名な話です。家康は、関ヶ原で必ず勝てるという自信はなかったはずだと指摘されています。初代の真田幸隆は鬼謀ただならぬ才人だった。二代目の真田昌幸について石田三成は「表裏地興(ひきょう。卑怯)の者」という厳しい評を下した。三代目の幸村は「日本一の兵」(つわもの)と評された。
 大阪夏の陣で真田勢は、家康本陣に斬り込んでいったのです。とても面白く読み通しました。ただ、石田三成が襲われて家康の館へ逃げ込んだというのは史実に反するように思います。間違いとして訂正してほしいところです。
(2012年12月刊。1900円+税)

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