弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2016年1月10日

特攻―戦争と日本人

(霧山昴)
著者  栗原俊雄 、 出版  中公新書

 1944年3月、陸軍航空部隊は組織的な「特攻」に踏み出した。後宮(うしろく)淳大将が航空総監・航空本部長に就任してからのこと。後宮は東条英機首相とは陸軍士官学校17期の同期で、東条とは関係が深かった。このころ東条は権力の絶頂期にあり、首相、陸相、軍需相そして参謀総長まで兼任していた。
 これって、まるでナチス末期のヒトラーと同じですね・・・。権力集中は権力失墜の一歩手前です。アベ首相も同じようになるでしょう。
 東条の意を受けた後宮は、着任して早々、「体当たり攻撃」の計画を指示した。
 本当に無責任ですよね。自分は安全なところにいて、自らは死地に出向くことはなく、全と有為の青年を死に追いやるのですから・・・。
命令された今西六郎師団長(少将)は内心、特攻作戦に反対だった。
 「体当たり部隊の編制化は、士気の保持が困難で、統御に困り、かえって戦力が低下するだろう」
フィリピン戦線ではじめられた特攻は、兵士が死ぬことを前提とするもの。この特攻隊を最初に送り出したのは、大西瀧治郎・海軍中将だった。
 パイロットがひとりだちするのには膨大な時間がかかる。300飛行時間程度では、なんとか飛べるくらい。毎日3時間とんでも100日(3ヶ月)かかる。
 ミッドウェー海戦のとき、日本軍は一挙に216人もの搭乗員(パイロット)を失った。致命的だった。
 航空機の生産量は、日本は最大時(1944年)に2万8180機だった。これに対してアメリカは、その4倍の10万725機だった。
 フィリピン戦線で初の神風特攻隊の隊長となった関大尉は、不満だった。
 「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら、体当たりせずとも、敵母艦の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させる自信がある・・・」
 そして、初めての特攻隊を送り出した猪口参謀、玉井副長、中島飛行長は戦死することなく、戦後を生きた。関大尉は23歳で死ぬことを迫られた。
 わすれてはならないことは、この特攻作戦が昭和天皇によって認可されていたということ。
 昭和天皇は、特攻作戦を聞いて、「よくやった」という、「お褒めの言葉」をもらした。これが、特攻遂行のエネルギーになった。昭和天皇は、特攻を褒めたたえたのだ。
 特攻作戦によって昭和天皇が停戦に動くどころではなかった。それどころか、昭和天皇が喜んだということなら、もはや特攻は中止されるはずもない。
 特攻機は、アメリカ軍の主力艦を一隻も沈めていない。アメリカ軍の迎撃能力の向上、そして特攻機のパイロットの心理状態が効果をあげることを許さなかった。
 昭和天皇は、戦艦「大和」の出動について、戦後、「まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と語った。この無謀な作戦の犠牲になった4000人が、これを知ったら、どう思うだろうか・・・。そして、まぎれもなく「特攻」であった大和艦隊の戦死者は誰も特進の対象とはならなかった。
戦後まで生き残り、自民党の参議院議員までなった源田実は、「特攻で死んだ人々は、ほとんどすべて満足感をもって死んでいる」と書いた。いったい、どこに「満足感」の根拠があるのか・・・?
 自民・公明による安保法制法は日本を戦争する国へ推進しようとしています。戦争は不合理、狂気がひとり歩きしてしまいます。走り出す前に止めなくてはいけません。今なら、まだ十分まにあいます。
 ご一緒に戦争法反対の声をあげましょう。運用させることなく法を廃止させなければなりません。

(2015年8月刊。820円+税)

2015年12月28日

第二次世界大戦1939-45(上)

(霧山昴)
著者  アントニー・ビーヴァ― 、 出版  白水社

  本書について、半藤一利氏が、「東西の戦史の全容を網羅した決定版」だとオビに書いていますが、読んだ私もそう思いました。
  正しい「歴史認識」のために必読書なのです。アベ首相も読むべきです(どうせ、読まないでしょうし、読んでも理解できないのでしょうが・・・)。
  なにしろ第二次世界大戦を上・中・下の3巻にまとめていて、上巻だけで530頁もあるのです。とても全容を紹介することはできません。ヨーロッパ戦線から、日本をめぐる戦線までトータルに紹介しているのです。
  著者の戦史ものは、「ノルマンディー上陸作戦」「パリ解放」など、いくつもあり、それなりに読んでいますが、いずれも本当に読みごたえがあります。
  ヤン・キョンジョンという人物がいます(いました)。戦前、18歳のとき、朝鮮人のヤンは大日本帝国に徴兵され、満州の関東軍に配属された。ノモンハンの戦いでソ連赤軍に捕えられて収容所に入れられた。そして、対ドイツ戦の戦力補充のためソ連赤軍の兵士として、ハリコフの戦いに投入された。そこで、ドイツ軍の捕虜となり、今度はドイツ軍の「東方兵」の一員としてノルマンディー上陸作戦のときにはドイツ軍の守備隊の一員になった。そして、連合軍のノルマンディー上陸作戦が成功すると、アメリカ軍の捕虜となって、ついにアメリカへ渡った。アメリカで1992年、72歳で亡くなった。本当でしょうか・・・。実際、彼の半生を描いた映画をみた覚えがあります。信じられないほど劇的な人生ですよね・・・。
  ヤンが24歳のとき、ノルマンディーで捕虜になったころの写真があります。ふてぶてしい顔は、歴戦の勇士とは、こんな顔をしてるのかと思わせます。
  ヒトラーとナチ党は、ユダヤ人を孤立させる施策を講じ、一般市民の圧倒的多数を説得することに成功した。それ以降、人々はユダヤ人の運命に関心をもたなくなっていった。それがあまりにも簡単だったため、その後は、多くの人々がユダヤ人の家財の略奪、アパートの巻き上げ、ユダヤ系企業の「アーリア化」に狂奔した。
  イギリスのチェンバレン首相は、虫垂が走るほど共産主義者が嫌いだったので、スターリンと交渉する気になれず、またポーランドの力量を過大評価していた。
  要するに、イギリスはヒトラーとナチスをあなどっていたのです。ナチス・ドイツはスターリンとの協定によって多大なる恩恵をうけた。穀物・石油・マンガンはソ連が提供した。そしてゴムはありがたかった。
  ソ連赤軍は、ポーランドに進入すると、ポーランド、ナショナリズムの延命に貢献しそうな人物、すなわち地主・法律家・教師・聖職者・ジャーナリスト・将校などをすべて摘発し、処刑した。階級闘争と民族去勢の同時達成が企図された。
  フィンランド軍は15万人、しかも予備兵役と若者が占めていた。しまし、この15万人の兵士が100万人をこえるソ連赤軍に立ち向かった。赤軍の司令官は、粛清の恐怖におびえ、やみくもに将兵を前線に駆り立て、死なせていった。
  日本軍は、1937年12月、すべての捕虜を殺せとの命令を受けて南京城内に入った。第16師団のある部隊だけで1万5千人の中国人捕虜を殺害した。南京事件の被害者は20万人近い。  
  その構成員から人間性を奪っていく帝国陸軍の矯正プロセスは、日本人兵士が中国に致着した瞬間から、さらに一段と強化される。
  日本軍と戦っていた中国の国民党軍は、ソ連から500機の軍用機と150人の「志願」パイロットを受けとっていた。中国で常時150~200人のソ連パイロットが活動していて、2000人のソ連人が中国の空を飛んでいた。
  ダンケルクの撤退戦において、イギリス海軍本部は、せめて4万5000人は救いたいと考えていた。しかし、現実には、33万8000人をイギリス本土へ運ぶことができた。うち19万3000人がイギリス人で、残りはフランス人だった。8万人のフランス人兵士が置き去りにされた。
  ヒトラーがドイツ軍の進撃を停止させたのは、手持ちの装甲部隊が担当劣化していて、ここで虎の子を使い果たしたくなかったから。
  バトル・オブ・ブリテンは、イギリス軍とドイツ軍との空軍同士の戦いだった。このとき、イギリス空軍は723機を失った。しかし、ドイツ空軍は2000機も喪失した。ドイツ空軍はイギリスを夜間爆撃して2万3000人が亡くなった。しかし、イギリス国民の戦意は喪失するどころか、高まる一方だった。
  よくぞ調べあげ、まとめたと驚嘆するばかりです。

(2015年9月刊。3300円+税)

2015年12月20日

満州と岸信介

(霧山昴)
著者  太田 尚樹 、 出版  カドカワ

  アベ首相の憧れの祖父・岸信介を美化した本です。ただ、岸信介が満州国づくりに深く関わっていたことを再認識することができる本でもあります。
  満州国の表の顔は、満州産業開発5ヶ年計画によって、東洋一の規模の豊満ダム、鴨緑江水電、重工業、製鋼所、浅野セメント、住友金属、沖電気・・・、そして満鉄「あじあ号」、ヤマトホテル、関東軍司令部・・・。このようにして、広大な原野に大都市が出現した。
岸信介にとって、満州にいた3年間は、革新官僚・岸信介が政治家・岸信介に変貌していく3年間でもあった。
夜の満州は甘粕正彦が支配していた。甘粕はアナーキストの大杉栄一家を関東大震災のときに虐殺した張本人である。岸は甘粕を頼りにしていた。
  満州国の裏の顔は阿片。岸信介が阿片による金もうけ無縁だったはずはない。岸の側近であった古海忠之は、自分が阿片に深く関わっていたことを認めている。
  満州国というのは、関東軍の機密費づくりの巨大な装置だった。謀略に使われる機密費を阿片によって捻出していたのが総務庁だった。岸信介は総務庁の次長として、それを取り仕切っていた。
  阿片の上がりは、満州中央銀行、上海と大連の横浜正金銀行、台湾銀行の口座に預けられていた。中国大陸に広く展開する総勢100万の日本軍を維持するのに、国家予算ではとうてい追いつかない。そればかりか、内地の陸軍部隊も阿片から収益に頼る部分が大きかった。
  阿片を吸引していた中国人が廃人となっていったのです。その悲惨な状況をつくり出した責任は日本軍にもありました。本書は、その点に触れることはありません。あくまで岸の手柄話に終始しています。良心に欠けているところがあるようで、とても残念です。

(2015年9月刊。1700円+税)

2015年12月19日

『昭和天皇実録』を読む

(霧山昴)
著者  原 武史 、 出版  岩波新書

  昭和天皇は、生まれてすぐ沼津に行った。東京生まれ、東京で育ちながら、かなりの
時間を沼津で過ごした。川村純義(すみよし)という伯爵の家に預けられるが、川村の別邸が沼津にあり、1年のうち3ヶ月も沼津で過ごした。そこで、多くの女性に囲まれていた。母親も、皇后も、実の祖母も曾祖母まで沼津にいて、4人の叔母たちもいた。
  昭和天皇は幼少のころ、キリスト信者者が保母だった。
  昭和天皇は天皇家のしきたりを改めようとするが、母親や側近の女性たちの抵抗にあう。昭和天皇はヨーロッパ訪問したあと、ライフスタイルを西洋風に改める。これが母親との確執の原因となる。母親は、日本の伝統や皇室のしきたりを蔑ろにして、西洋かぶれになってしまったと昭和天皇を心配(批判)した。
  昭和天皇には女性的なところがある。かん高い声や話し方など、だから、政府は、1945年8月の玉音放送まで一般国民に対して声を聞かせることがなかった。
  戦前、神功皇后を天皇として認めなかったのは、昭和天皇が天皇になる前に、母親が自分のかわりに天皇となる可能性があったから、それを恐れていた。
  「昭和天皇実録」という本は昭和天皇の実像を知る手掛かりにはなるようですね。といっても、61冊、1万2千頁にもなるというのですから、とても実物を読もうとは思いません。
  そこで、その内容をコンパクトに紹介してくれる便利な本です。

(2015年9月刊。800円+税)

2015年12月 9日

遺骨

(霧山昴)
著者  栗原俊雄 、 出版  岩波新書

  アベ首相とその取り巻き連中は靖国神社の参拝には執着していますが、遠く異国の地で埋もれてしまったままの旧日本軍の将兵の遺骨の回収には冷淡そのものです。
  それこそ自己責任理論を持ち出すのでしょうか・・・。許せません。
  そして、東京大空襲を仕掛けたアメリカ空軍の責任者に対して、なんとなんと勲一等というとんでもない勲章をうやうやしく授与したものです。大虐殺された被害者側が加害者の親玉に感謝の勲章を送るなんて、前代未聞ではないでしょうか・・・。このカーチス・ルメイ将軍は、ベトナム戦争のとき、ベトナム北爆を指揮し、北ベトナムを原始生活の国に戻してやると嘘ぶいた札つきの軍人なのです。日本の権力ってどうして、こんなにアメリカに卑屈になるのでしょうか、信じられません。それでいて「美しき日本」を取り戻せなんてカラ叫びをするのですからね・・・。
  硫黄島の戦いによる日本軍の戦死者は2万人、生き残ったのはわずか1000人。アメリカ軍は戦死者6821人、戦傷者2万1000人。地上戦で、アメリカ軍の犠牲者が日本軍を上まわった珍しい例。硫黄島には、今もなお1万人柱以上の遺骨が残っている。今も、ほそぼそと遺骨回収作業が続けられている。
  沖縄本島にも、回収されていない遺骨がある。モノレールの「おもろまち駅」のところは、「シュガーローフヒル」と呼ばれた激戦地跡だ。1週間も戦闘が続き、アメリカ軍の死傷者だけで2662人にのぼった。日本軍の死傷者は不明のまま。ここも、掘れば、今も人骨が出てくる。
  戦前・戦後ずっとずっと戦争してきたアメリカは、戦死者の遺体・遺骨はすべてアメリカ本国に帰還させることを原則としている。それはそれで立派な原則ですよね・・・。
  戦争しない、平和な日本で今日まで来た日本も、アベ政権の下で戦争する国・ニッポンへつくり変えられようとしています。そして、その危険性が今なおピンと来ていない日本人が少なくありません。それこそ「平和ボケ」していて、努力しなくても平和でいられるものと錯覚しているようです。
「抑止力」に名をかりて日本の自衛隊が戦争しかけに海外へ出かけて行ったら、戦場で戦死者が出るだけでなく、国内でもテロ攻撃の被害者が続出することになるでしょう。絶対にそんなことにならないよう、今、声を上げるべきです。
  2011年度の海外戦没者の遺骨収集の予算は15億円。帰還した遺骨はわずか1500柱ほど。自衛隊の戦車一両が10億円というのですから、あまりにも少なすぎます。せめて戦車を減らしてでも遺骨収集にお金をまわすべきでしょう。
  いったい、この狭い日本に戦車なんか持っていて、誰と戦うというのでしょうか・・・。馬鹿げています。

(2015年5月刊。740円+税)

2015年12月 8日

石の証言、八紘一宇の塔の真実

(霧山昴)
著者  八紘一宇の塔を考える会 、 出版  みやざき文庫

  宮崎市街地から少し離れたところに平和公園という小高い丘陵があり、そこに高さ36メートルほどの巨大な石造りの塔が立っています。戦前、八紘一宇の塔と呼ばれていました。昭和15年(1940円)に建立されています。中国への侵略戦争を日本が始めた3年目です。すぐに日本軍が勝利して終わるはずでしたが、泥沼化していたころです。翌年(1941年)12月8日に、日本は太平洋戦争へ突入していきます。
  この八紘一宇の塔は日本国民の戦意高揚のために建立されました。私も一度だけ現地に足を運んでみましたが、なるほど異様な塔です。
  この塔には、世界各地から寄せられたという切石1789個がある。そのうち364個は、当時の日本の植民地や占領地からのもの。中国からは198個、朝鮮半島から123個、台湾の41個が目立つ。
塔の正面左手にある像「荒魂」は、武神像であり、「戦の象徴。
八紘一宇という言葉は古くからあったものではない。大正2年(1913年)に田中智学という国家主義者が初めてつかったもので、「日本書紀」から造語した。八紘とは世界であり、一の宇すなわち家にする。つまり、天皇を中心として世界を一つの家のように統一するという意味。
  1930年代になって、八紘一宇という言葉を軍事が使うようになった。
  軍部は、自作自演の暴挙や専横がもたらす国民の軍部への反感や離反を阻止・回避し、天皇と軍部を中心とする世界秩序を基礎づけるものとして田中智学の造語である「八紘一宇」を利用した。
  1940年7月、近衛文麿内閣は、「八紘一宇」を国是とし、大東亜の新秩序の建設を宣言した。こうして、「八紘一宇」は帝国日本を象徴する用語となった。
  「八紘一宇」のものとで、中国侵略が着実に進行していた。これが、「八紘一宇」の実像だった。ところが、1941年3月の国会(秘密会)で「八紘一宇」について議論され、否定的な意見が多く、以降、対外的な公式声明からは姿を消した。
  本年(2015年)3月、自民党の議員が「八紘一宇は建国以来の大切な価値観」だと発言しましたが、まったく歴史認識を欠いたものです。
  それにしても、塔の石材の一つひとつの由来が明らかにされています。よく調べてあります。恐るべきことです。その根気強さに敬服しました。
(2015年7月刊。2000円+税)

2015年11月26日

関東軍とは何だったのか

(霧山昴)
著者  小林 英夫 、 出版  中経出版

 泣く子も黙る関東軍。威張りちらして、市民の安全なんか気にもとめない横暴な軍隊というイメージの強い関東軍の実体に迫った本です。
関東軍は生まれ落ちたその日から、戦争というよりは外交、軍事というよりは政治に多くのエネルギーを割く集団だった。
鉄道守備隊であったから、関東州の旅順、大連から満州中央部の奉天(藩陽)、新京(長春)へと中国東北の懐に奥深く食い込んだ軍事集団であることから、現地東北の政治勢力との折衝を余儀なくされる宿命を胚胎していた集団だった。
関東軍は、45年8月のソ連参戦で圧倒的兵力を前に衆寡敵せず、完敗を喫して短期に解体された。日ソ中立条約を盾に北方への守りを楽観視し、ソ連参戦の時期を続み誤り、60万人に及ぶ将兵を捕虜としてシベリア抑留させることとなる失態は、政治と外交重視で、軍事面での錬成を欠いたこの軍団の末路を飾るにふさわしい結末だった。
関東軍の「関東」とは、中国の山海関、すなわち万里の長城の東端の要塞の東の意味である。
関東軍の前身は、満鉄(南満州鉄道)の沿線付属地を防衛する軍隊である。
満鉄の設立総会は1906年11月。資本金2億円、うち1億円は日本政府の現物出資、残り1億円は日本での様式募集とロンドンで募集された外債に依存していた。満鉄は日米の共同経営ではなく、日本の国策を実現する株式会社として、その産声(うぶごえ)をあげた。
敗戦時の満鉄従業員は40万人に近く、うち日本人が14万人ほど、残りが中国人など。
1906年に満鉄が営業を開始すると、関東都督府、満鉄、領事館の三者による満州統治の歴史が始まった。
1914年、原敬内閣は関東都督府を廃止し、関東庁と関東軍を創設した。1919年4月、関東都督府から軍事部が分離する形で関東軍が設立された。
関東軍は、当初は満鉄沿線を警備する独立守備隊6個大隊と日本から派遣された駐劄(ちゅうさつ)1個師団から編成された。
1931年9月の満州事変までの関東軍は、控え目で、つつましやかだった。1931年9月、満州事変が勃発し、翌32年3月までの半年足らずで関東軍は満州全土をほぼ手中におさめた。
関東軍は、周到な作戦と奉天軍閥・張学良の無抵抗主義に助けられて、満州全土を占領し、1932年3月に満州国を作りあげた。
満州国で実権を握ったのは国務院であり、その中核は総務庁だった。関東軍参謀部第三課が中心になって総務庁に伝達した。
関東軍は、正面には中国人を立てながら、背後から日本人がこれを制御する「内面指導」を実施した。
関東軍の幹部は、ソ連赤軍で進行していたスターリンによる粛清(テロル)を過大評価し、日満と極東ソ連軍の兵力差を深刻には考えなかった。
関東軍は、満州事変の直後から満州国の主要な財源としてアヘン収入を当て込んでいた。歳入の8分の1はアヘン税だった。
軍人に政治をまかせると、その無責任さによって社会は崩壊してしまうという実例が満州国でしょう。古き良き日本、なんてものではありません。アベ首相は単なる妄想に走らされているだけです。
(2015年3月刊。2500円+税)

2015年11月13日

移民たちの「満州」

(霧山昴)
著者  二松啓紀 、 出版  平凡社新書

  アベ首相のいう「美しい国「」は戦前の満州をかかえた日本をさしているようです。
  では、その満州に夢を持って渡っていった日本人が、結局、どんな悲惨な目にあったのかを今の私たちが思い出すのも意味があることでしょう。
  京都府は長野県に後れをとったが、10ヶ年で20万人を満州へ移住させるという壮大な目標をかかげた。しかし、幸か不幸か(幸に決まっていますが・・・)ほとんど実現していない。
  1933年3月、第一次の武装移民425人が満州に入植した。大阪市の2倍、横浜市の広さの土地450平方キロが日本人の土地になった。しかし、武装集団から襲撃され、屯懇病(ホームシック)で、まもなく半数ほどが退団した。ここは満州開拓発祥の地と喧伝されたが、その実態は失敗の連続だった。
  1936年当時の日本の人口は7000万人。満州移民500万人という計画は、人口の7%を移すという、とんでもない計画だった。
  日中戦争がはじまり、移民消極論が再び台頭し、最終的に青少年義勇軍は3万人あまりで、6割の達成率だった。ほとんどの道府県で割り当てを下まわり、達成したのは、石川、佐賀、大分の三県のみ。九州から佐賀、大分の二県があるのは興味深いところです。
  同じ海外移民でも、南米ブラジルは遠いけれど、匪賊は出ない。満州は近いけれど匪賊が出る。
国策とか天皇を錦の御旗にかかげたとき、ごく普通の人々が想像力を失い、思考停止に陥り、良識なき選択を繰り返していった。
  満州開拓は、無人の地に入植したのではない。現地の中国人を追いだして日本人の土地にしたのである。
  大分県日田市から行った大鶴開拓団は、一人の残留者もなく引き上げることができた。すなわち在籍者220人の8割の176人が戦後の日本に生還した。その主たる理由は、現地の中国人と良好な関係を築いた点にあった。だから戦後に、避難するのに現地の人々に協力してもらったという。
  誰かのものを奪えば、あとで生命か何かを奪われることになるのです。海外植民地の悲劇を繰り返すのはゴメンですよね。

(2015年7月刊。840円+税)

2015年10月29日

ひいばあちゃんは中国にお墓をつくった


(霧山昴)
著者  飯島 春光 、 出版  かもがわ出版

 「中国では日本人と言われ、日本では中国人と言われる」
「自分は、いったいどこの国の人間なのか、、、」
中国残留日本人が、日本に帰ってきてからの苦労をあらわす言葉です。誤った国策によって中国へ送り出され、心ならずも中国に残ってしまった人たちが少しずつ日本へ帰ってきました。しかし、日本政府は冷遇します。日本の社会だって決して温かく迎え入れたわけではありません。
いま、ヨーロッパではシリア難民の受け入れが大問題となっています。この大量のシリア難民を生み出したのは、果てしない内戦に原因があります。そして、そこには、軍事大国アメリカの政策が大きく影響しています。結局、「抑止力」とか言って、武力一辺倒では、何事も解決することは出来ず、むしろ社会を解体してしまい、国際的な問題を生み出すのです。日本の好戦的な「抑止力」論者は、この現実をしっかり受け止めるべきではないでしょうか、、、。
日本が無理矢理につくった「満州国」に、日本全国から27万人もの満州移民(満蒙開拓団)が送り込まれた。
 「開拓」といっても、それは、現地にいた中国人農民を追い出したあとに入植しただけのこと。つまり、典型的な植民地である。
「五族協和」とは、日本を中心として、漢・満州・蒙古・朝鮮の民族が融和した理想の国家。そこに「王道落土」を築くのだと日本の少年たちは教育されていた。「昭和の防人(さきもり)「昭和の白虎隊(全員、死んでしまいましたよね、、、」と大宣伝され、大きな希望と使命感をもって満蒙青少年義勇軍に志願した。 
 しかし、中国現地の人からすれば、一般の開拓団も青少年義勇軍も、先祖代々の土地を奪って居座る侵略者でしかない。そのことを義勇軍のメンバーである少年たちは、誰ひとり知らなかった。
 中国(満州)の富山県では、80%以上の土地が開拓団に取り上げられた。中国農民は、その地に居続け、中国人の地主のもとで働いていたのが、日本人のもとで働くようになった。日本では貧しかった農民も、満州では豊かになり、中国人をいじめたり、欺いたりした。
ここには、日本人の典型的な悪いところがあらわれていますね、、、。弱いものには、あくまで強く。強いものには、どこまでもへいこら服従して逆らわないという弱点です。
 それでも、安保法制法案反対に立ち上がったFYMやシールズなどの日本人の若者たちの行動を見ていると、日本にも、まだ救いがあるような、光明を持てる思いをしたような気がします。


(2015年8月刊。1600円+税)

2015年9月27日

遊廓のストライキ

(霧山昴)
著者  山家 悠平   出版 共和国
 
戦前、女性を縛りつけていた遊廓でストライキが頻発していただなんて、驚きます。
第一の波(ピーク)は、1926年5月から10月までの半年間。このとき、広島、大阪、下関、品川などで娼妓たちの集団逃走と自由廃業要求が続いた。第二のピークは、1931年2月から2年間も続いた。全国9ケ所の遊廓でストライキが起こったが、うち半数が九州だった。佐賀武雄、小倉旭町、門司馬場、佐世保勝富、大牟田新地町。
1930年(昭和5年)、遊廓が全国に542、娼妓が5万2千人、芸妓8万人が働いていた。当時、日本には公娼制度があった。公娼制度とは、政府公認の管理売春制度である。
女性たちは、所轄の警察署に娼妓として登録し、鑑札を受けることで売春営業が許可された。鑑札料として、「賦金」と呼ばれる特別の税金を月々納める義務を負っていた。
遊廓の女性は、奉公契約をむすんだ奉公人であり、多額の前渡金に拘束されていた。奉公契約の形はとっていても、鞍替え(実質的な転売)の権利は抱主にあり、実際には人身売買だった。
娼妓たちは、貸座敷免許地内に居住しなくてはならず、警察署の許可がなければ、免許地の外に出ることも出来なかった。
女性たちには強制的な性病検査を義務づけられた。この目的は女性の保健・治療ではなく、兵士の保護にあった。
女性が前借金を返すためには、1日平均して3人の客をとる、年間1000人近い客をとらなければいけない。これが6年のあいだ続く。多いときには一晩で10人以上の客を相手にすることも珍しくはなかった。
6年で遊廓のなかの女性はだいたい入れ替わっていた。
娼妓の9割が10代後半から20代の女性で、30代後半になると遊廓を離れていた。
戦前、全国各地にあった遊廓の実情を調べた本です。大正期の労働運動の高揚期にあわせて遊廓でもストライキなどがあっていたとはまったく知らず、呆然としてしまいました。
(2015年5月刊)

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