弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2015年8月28日

朝鮮王公族

(霧山昴)
著者  新城 道彦 、 出版  中公新書

 1910年、日本が韓国を併合したとき、天皇は詔書を発して「王族」、「公族」を創設した。大韓帝国皇室の人々についての身分である。これは、戦後の1947年まで存続した。
 日本が1910年に韓国を併合して以降、補助金が不要だったのは1919年の1年のみで、あとは、ずっと赤字だった。台湾は、日本の編入からわずか10年で補助金を辞退するまでに経済的に発展し、宗主国(日本)に金銭的な利益をもたらした。韓国とは、まったく対照的だ。日本の財界や言論界では、韓国併合による財政負担増を非難する声が少なくなかった。
 それでも、経済性を度外視して日本が韓国帝国を支配下に置こうとした目的は、国防にあった。危機意識があった。とくに北方にはロシアという明確な仮想敵国が存在していたので、朝鮮半島の確保は急を要する課題だと考えられていた。
 大韓帝国では、1903年ころ経済支出の43%を軍事費が占めていて、財政紊乱(びんらん)の原因となっていた。そのうえ、兵員は1万人にみたなかった。
 朝鮮貴族令が定められ、朝鮮貴族には日本の華族と同一の礼遇が保障された。ただし、朝鮮貴族のなかに、公爵になった者はいない。
 日本の皇族が朝鮮の王公族に嫁いでも、めとることはできなかった。朝鮮人の血を皇族に入れないという考えが宮内省にあった・・・。
 日本の首相として韓国併合を成立させた桂太郎が国葬にならなかったのに、併合された側の李太正が国葬になった。なぜか? この答えは単純であり、朝鮮人を懐柔するためだった。
 李太正の国葬のとき、寂寞たる国葬に比べて、内葬は盛況だった。1万5000人以上の人々が集まった。国葬の会場では、朝鮮人のほとんどがボイコットしたため、会席は空席だらけになった。国葬を押しつけたのは失敗だった。
 どこの国だって、他民族から支配されたとき、独立を目ざしてがんばるものですよね。生半可な日本の懐柔策は朝鮮の人々を完全におさえこむことは出来なかったわけです。そりゃあ、そうですよね。
 帝国日本に準皇族の身分が存続していたなんて、ちっとも知りませんでした。
(2015年3月刊。840円+税)

2015年8月11日

テキヤと社会主義

(霧山昴)
著者  猪野 健治 、 出版  筑摩書房
 
 テキヤのなかに社会主義者がいただなんて、信じられませんよね。
 この本は、テキヤの生態を紹介するとともに、社会主義者やアナキストとの関わりを教えてくれます。
 なかでも私が注目したのは三宅正太郎判事の行動です。今の時代にはとても考えられない行動を裁判官がとったのでした。
香具師(やし。てきや)の社会は、今や崩壊の危機にある。トランク一つをぶら下げて、どこにでも行く、「寅さん」のような自由な空間は存在しない。香具師の社会には、次の厳守事項があり、これを破ると「破門」される。それは全国の同業者に回状がまわされ、業界から締め出される。
 バヒハルナ・・・おカネをごまかすな。
 タレコムナ・・・警察そして部外者に身内や内輪のことを漏らすな。
 バシタトルナ・・・仲間の妻女や交際相手に手を出すな。
 香具師の社会は閉鎖社会なため、内部のことは部外者にはうかがい知れない。
 バイネタ・・・商品。ロクマ・・・特殊な才覚、技術がないとできないもの(街頭易者)
 大ジメ・・・口上で人を多数集めて商売すること。
 ギシュウ・・・主義者。社会主義者や無政府主義のこと。
 香具師の稼業は、毎日が修行なのだ。その積みかさねで、不退転の度胸と根性が磨きあげられていく。警察との駆け引きも自然に上達する。
 香具師の世界には、「メンツウ」の習慣がある。面通。初対面の挨拶。
 「寅さん」のような純粋な一匹狼は、実は存在しない。どこかの一家に所属していないと、香具師としての商売はできない。
 てきやは一家とか組を名乗っているが、それはヤクザ組織を意味するのではない。本来は単なる稼業名であって、商売の「屋号」のようなもの。
 「友だちは5本の指」という言葉が香具師の世界にある。同じ青天井の下で商売をやっているのだから、みんな仲間だという意味。同類意識は非常に強い。ただ、そこでも、兄弟分の関係や親分子分関係は重視される。
 昭和61年に91歳でなくなった高嶋三治は、アナキストであり、香具師の世界に君臨した大御所である。アナキストたちは、関東大震災のさなかに軍部によって虐殺された大杉栄夫婦と一緒に殺された橘宗一少年までもが軍によって殺害され、古井戸に遺体が投げ込まれたことに激昴した。その復讐戦にたち上がったのが、アナキスト団体ギロチン社だった。
 ギロチン社のテロ行動がことごとく失敗するなかで、高嶋三治は、いきなり警察に逮捕された。強盗殺人島の罪で・・・。まったく自分の身には覚えがない高嶋は真相を究明しようとした。一審の名古屋地裁は無罪。検察控訴がなされ、高裁の審理が始まる前、突然、三宅正太郎・裁判官が高嶋の独房にやってきた。
 「私は、高裁の三宅正太郎だ。きみは間違いなく無罪だと思う。しかし、私がきみを無罪で釈放しても、警察は、次々と新しい手をつかって、きみを逮捕するだろう。一生を鉄格子のなかで過ごしていいものか・・・。やたら若い命をそんなに、空しく燃やし尽くしていいのか・・・。私が生きている間だけでも、アナーキストであることを読みとどまってほしい。シャバで自由に生きてみろ。必ず世の中の人のために役立つ男になれる。私は、きみに賭けてみたい」
 三宅正太郎は、高嶋の過去の調書を見て、この男は骨がある。ぜひ会ってみようと思ったのだろう。そして、高嶋を博徒(ばくと)である本願寺一家の高瀬総裁に預け入れた。
 昔の裁判官のなかには、このように留置場のなかにいる被告人のところへ押しかけ、将来展望を語ったというのです。今では、とてもそんなことは考えられませんね。この三宅正太郎は、「裁判の書」という、昔から有名な本を書いています。
(2015年2月刊。2000円+税)

2015年7月14日

日米開戦の正体

(霧山昴)
著者  孫崎 享 、 出版  祥伝社

 著者は、集団的自衛権の行使容認に反対しています。私も同感です。そして、今の安倍政権のやっていることは、戦前の日本が犯した間違いをくり返そうとしていると鋭い口調で警告しています。
 「真珠湾攻撃の愚」と、今日の「原発、TPP、消費税、集団的自衛権の愚」とを比較すると、驚くべき共通性がある。
 ①本質論が議論されない。
 ②詭弁(きべん)、嘘で重要な政策がどんどん進められる。
 ③本質論を説いて邪魔な人間とみなされた人は次々に排除されていく。
 本当に、そのとおりです。安倍政権は怖いです。絶対に、そのうしろからついて行きたくはありません。そこに待っているのは「死」です。
 戦前、日本の軍部と結びついていながら、戦後になると一転してアメリカと結びついた一群の人々がいる。その一人が牛場信彦。外務次官そして駐米大使を歴任した。もう一人が吉田茂。田中義一首相のもとで、満州での軍の使用を主張していた。戦後は首相となって、アメリカにべったり。
 主義主張よりは、勢力の最強のものと一体になることを重視するという日本人の行動の悪い側面を体現している。
新聞で戦争報道が一番の「娯楽」となってしまうと、どうしても強硬な意見を吐く人たちがヒーローになっていく。戦争に批判的な人たちは、「腰抜け」とか「卑怯者」と叩かれる。
 今まさに、現代日本がそのようになりつつあるのが怖いです・・・。
 陸軍はロシア(ソ連)との戦争は考えていたが、アメリカと戦うなんてまったく考えていなかった。だから、対米戦略はない。ところが、その陸軍が「アメリカと戦うべし」と主張したのだから、状況は倒錯していた。
 昭和天皇と側近の木戸幸一がもっとも恐れたのは、内乱、そして昭和天皇排除に動くことだった。この指摘には、強くなるほど、そうだったのか・・・、と思いました。
 昭和天皇といえども、単なる掌中の玉でしかなく、絶対専制君主ではなかったのです。ですから、軍部は、もっと使い勝手のいい天皇をうみ出すのではないかと心配していたのです・・・。
 木戸幸一は内乱を恐れたが、戦争は恐れなかった。自己一身の生命に対する危険は恐れたが、国家の生命に対する危険は、いささかも恐れなかった。日露戦争のあと、日本の国家予算の30%が国債費で、さらに30%が軍事費である。このような状況では、社会不安が出てくるのは当然。
 日露戦争が真珠湾攻撃につながっていった大きい理由は、経済問題と、それに起因する社会不安だ。政府は、増税し、物価は高騰する、国民の不満が高まり、現状変革を望む。この不満から、左翼運動が活発化し、それを抑える弾圧が強まる。急進的な勢力が「革新」を求める。その代表が軍部の「革新」グループ。
 戦前の吉田茂は、中国への派兵を先頭切って論じていた。戦後には「反軍の代表」だったかのような顔をしているが、実は正反対のことを提唱し、軍部にとり入っていた。
 軍にとって、統帥権とは、軍に反対するものがいたときに遣う言葉であって、天皇の意向を最大限に尊重して動くのではないことを、熱河作戦が示している。天皇といえども、その一線をこえたときには、「大なる紛擾と政変」を覚悟せざるをえない。熱河作戦は、天皇でも軍の意向に逆らえないことを示した。
 いま、戦後70年の平和が、安倍政権によって「強制終了」させられようとしています。とんでもないことです。昨日と同じ平和な明日が保障されない日本になりそうです。戦争反対の声を、みんなが国会に向けて突き上げるときです。
(2015年5月刊。1750円+税)

2015年6月16日

戦艦大和講義

                                (霧山昴)
著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  人文書院

 戦艦大和は、世界一の威力ある主砲を積んで、1941年に就役し、1945年4月、沖縄へ来襲したアメリカに渡航して沈没された。このとき、乗組員2700人が艦とともに死亡した。
 日本人は、「大和」の物語を通じて、「あの戦争」の記憶を自分の都合にあうようにつくり直してきた。
 「宇宙戦艦ヤマト」は、日本人が地球を救う話だ。1970年代につくられたのは、高度成長を終えた日本人の優越感と劣等感が背景にある。完膚なきまでに負けた戦争を、空想の世界でやり直すことによって、心の傷の回復を試みたのだ。
 私も、幼かった息子と一緒に、この「宇宙戦艦ヤマト」に夢中になったことがあります(もちろん、息子ほどではありませんでしたが・・・)。
なぜ、「大和」は沖縄へ出撃したのか?
 沖縄にたどり着く前に、米空母機に撃沈される可能性が高いことは、その前にレイテ沖開戦で沈められた「武蔵」で実証ずみだった。だから、「大和」への出撃命令は、軍事的合理性を欠いていた。
 海軍にとって、「大和」などの戦力を沖縄で使い切ることによって、「海軍には、もう戦力がないのだから、戦争は止めるべきだ」という発言権が得られることになるという考えがあったのではないか・・・。これって、恐ろしい官僚的発想です。人命軽視そのものです。
 「大和」は、4月7日、九州沖で米機動部隊の放った攻撃機300機から攻撃され、撃沈されてしまった。3056人が死に、276人が生還した。
 「大和」は、最後まで日本国民に名前を公表されることがなかった。
 「大和」の艦長も乗組員も、一億国民が後に続いて死ぬと思ったからこそ、先に死地へ向かったのだ。そのとき、内地の日本人の命や安逸な生活を守ることは念頭になかった。すなわち、死の平等性が特攻の推進力となっていた。これを現代日本人は、すっかり忘れ去っている。
 その余の日本人は、特攻せず、敵国アメリカに降伏して生きのびた。広島・長崎に落とされた原子爆弾が、それまでの「1億総特攻」という強がりを止め、生きのびるための格好の口実となった。
 「大和」の生存者には、生き残ってしまったことへの罪悪感をかかえながら、戦後を生きていった。
 「大和」とは、日本にとって、そして日本人にとって何だったのか、戦後それはどう変容したのか、面白い視点で考え直してみた画期的な本です。
(2014年10月刊。860円+税)

2015年5月27日

ドクター・ハック

                               (霧山昴)
著者  中田 整一 、 出版  平凡社

 ドイツ人であるフリードリッヒ・ハックは、1887年10月にドイツのフライブルグで生まれた。大学で経済学博士になったことから、ドクター・ハックと呼ばれるようになった。
 まさしく波瀾万丈の生涯を送りました。第一次大戦では中国の青島にいて、27歳で日本軍の捕虜となります。すでに日本にいたことがあり、日本語を話す捕虜として貴重な存在でした。このとき、日本はドイツ将兵の捕虜を虐殺するどころか、高給優遇したのです。
それでも、将兵は脱走を試みるのです。ドクター・ハックは脱走の手伝いをしました。5人のうち1人は捕まりましたが、残る4人は無事にドイツに帰り着いたのでした。
 ドクター・ハックは、逃亡幇助の罪で懲役1年6ヶ月の有罪となりました。収容された習志野俘虐収容所の所長は、53歳で病死してしまいましたが、西郷隆盛の長男でした。
 ドクター・ハックは、1920年に釈放された。そして、33歳のドクター・ハックは、日本海軍や兵器産業のためにドイツの先進技術導入のエージェントになった。
 ドイツに日本を紹介する映画が企画されました。そのとき、日本をよく知るドクター・ハックが活躍したのです。はじめは田中絹代が日本の女優として考えられていました。しかし、ファンク監督が原節子を見て、そのトリコになってしまったのです。
 原節子は、日本を代表する大女優ナンバーワンだと思いますが、その引退後、今なおご存命にもかかわらず、一切その姿が報道されていません。立派ですね。個人情報の秘匿というのは、こうでなくてはいけないと私もつくづく思います。
 ドクター・ハックは、満州国の溥儀皇帝にも面会しています。そして、ナチス・ドイツのカナリス提督の下で、スパイ活動をしていました。これは、ヒットラー・ナチスに共鳴していたのではなく、むしろ逆なのです。カナリスはドイツ敗戦前の直前にヒトラーによって処刑されています。
 ドクター・ハックは、突然、ドイツの秘密警察「ゲシュタポ」に逮捕された。罪名は「同性愛」。まさしく、冤罪。ナチスの権力機構内の抗争によるもの。そして、ドクター・ハックを日本海軍が救った。
 ドクター・ハックは、日本の終戦工作にも関わったようです。
いま、日本では戦前に間違ったことなんかしていないなどと開き直った言説があり、それをもてはやす人々がいます。しかし、日本人の権力者が間違いを犯し、日本という国の内外であまりにも大きな被害を与えたことは消せない事実です。それを無視して、日本はアジアにとっていいことをしたのだと言い張っても、まったく説得力がありません。もう少し、勇気をもって事実をみてほしいものです。
(2015年1月刊。1700円+税)

2015年5月17日

星砂物語

(霧山昴)
著者  ロジャー・パルバース 、 出版  講談社

 アメリカ人による戦争中の沖縄は、鳩間島で起きた戦争体験記と称する小説です。
 すごいです。登場人物になりきった思いで読みふけってしまいました。
 ハトマ島は、沖縄本島ではないので、直接の戦闘行為はありません。ところが、そこに、日本の脱走兵とアメリカの負傷兵が同じ小さな洞窟に隠れているのです。さすがに昼間からうろうろするわけにはいきません。そこに16歳の日本人少女が登場します。アメリカで暮らしていて日本へ戻ってきたので、英語が話せます。負傷したアメリカ兵はこう言います。
 人を殺すと、人間の性格は変わる。そのため兵隊がアメリカに帰って、母親や妻や姉たちとまた一緒に暮らすようになったとしても、彼自身が故郷へ実際に帰ることはできない。つまり、帰ったのはそれまでの彼ではないのだ・・・。
 井上ひさしも亡くなる前に読んで絶賛したとされていますが、たしかに戦争の悲惨さを読み手が実感できる形で再現した小説だと思いました。しかも、それを「敵国」アメリカ人が日本語で書いたというのですから、驚嘆するしかありません。
 自民党や公明党の幹部連中に読んでほしいと思いますが、恐らく彼らは見向きもしないのでしょうね。戦争の悲惨さなんて語ってほしくないでしょうから・・・。
 でも、戦争になったら、いつ殺されるのか分からないのですよ。そして、いま自民・公明の安倍政権がすすめているのは、まさしく戦前への「回帰」なのです。本当に恐ろしい、怖い世の中です。
(2015年3月刊。1400円+税)

2015年4月21日

言論抑圧


(霧山昴)
著者  将基面 貴巳 、 出版  中公新書

 著者の名前は、「しょうぎめん」と読むそうです。珍しいですね。そして、貴巳は「たかし」です。アメリカの大学で准教授をしているとのことです。
 矢内原(やないはら)事件というのが、戦前の1937年(昭和12年)に起きました。矢内原東大教授が「筆禍事件」を起こしたとして、東大教授を辞職した事件です。
 私にとって、矢内原という名前は、矢内原門という小さな門に結びつきます。
 東大駒場寮で2年間ほど生活していましたが、夜遅く腹を満たすために寮を出て下方にある商店街へ繰り出すときに必ず、この小さな門を通るのでした。門といっても何もありません。ただ、ここが矢内原門と呼ばれていると、先輩の寮生から教えられただけです。九州にはないタンメンを食べたり、少しぜいたくするときには、レバニラ炒めを食べたものです。当時は、私も20歳前ですから、食欲旺盛で、夕方6時に寮食堂で夕食をとると、午後10時過ぎたらお腹が空いてくるのです。
 戦前・戦中の論壇を主として支えたのは、日刊新聞ではなく、総合雑誌だった。
 矢内原は、総合雑誌を舞台として、徹底した平和の主張を展開していった。
 キリスト教の信者である矢内原にとっての愛国心とは、あるがままの日本をアイすることではなく、日本が掲げるべき理想を愛することだった。したがって、現実の日本が、その掲げるべき理想とくい違うときには、現実を批判することこそが、愛国心の現れだと考えた。
 矢内原にとって、国家を国家たらしめる根本原理としての理想は正義にほかならないかった。その正義とは、国家のつくった原理ではなく、反対に正義が国家をして存在せしむる根本原理である。国家が正義の内容を決定するのではなく、正義が国家を指導すべきなのである。正義が国家の命令であるとしたら、国家の命令するところであれば、何でも正義であることになってしまう。したがって、正義は国家を超えるものでなければならない。
 政府にとって、その政策を遂行するうえで、もっとも望ましいのは、国民のなかに反対者がいないことである。したがって、批判を弾圧し、政府の施策を宣伝することに政府はつとめることになる。
 政府の決定が理想に反する場合には、これに異議申し立てすることこそが、真に愛国的なのである。
 矢内原は、聖書にもとづいて、このように主張した。
 矢内原論文で「国家の理想」を論じた時に、決して激しい政府攻撃を意図したのではなく、むしろ穏当なものだった。それだけに、矢内原の論文が筆禍事件のきっかけを作ることになろうとは本人は夢想だにしていなかった。
 キリストの教えによれば、キリスト者たるもの「血の塩」である。現実の不義を批判しない者は、味のない塩である。このように述べて、矢内原は、政治への態度決定を聴衆に迫った。
 「今や、キミが感じるよりはるかに険悪なる時代になった。きのうの講演も、会場できいたら当たり前のようなことが、文章で読んだら意外の感を受けるだろう」
 今の日本で、ひょっとして、同じようなことが進行中なのではないでしょうか・・・。ヘイトスピーチが横行し、安倍首相の「我が軍」発言が大問題にもならず、自衛隊が海外へ戦争しに出かけようとしています。とんでもない状況なのですが、マスコミは、その危険性を国民に強く訴えていません。あまりにも引け腰です。インチキな与党協議ばかりが大きく報道されています。本当に「戦前」に戻りそうで、怖いです。
 蓑田胸喜という戦前の狂信的な右翼イデオローグがいました。今でいうと、桜井○○子にでもあたるでしょうか・・・。
 矢内原は、この蓑田からの批判に対して、まったく応答しなかった、見事と言えるでしょう。しかし、やはり反論の事由があれば反論すべきだったと私は思います。
当時の東京帝大経済学部内では、教授陣に派閥があって、激しく抗争していたようです。
 それにしても、矢内原教授がまともな論文を書いて、それが攻撃されたとき、東大当局が矢内原をかばいきれなかったのは残念です。時流におもねってしまったのです。
 矢内原事件の教訓は、戦後70年の平和が安倍内閣によって「戦前」に変わりつつあるという昨今の状況のなかで生かされるべきだと思いました。
(2014年9月刊。840円+税)
 庭にビックリグミの木のてっぺんにカササギが巣をつくっています。初めてのことです。下で見上げていると、さすがに人間が見ている前では具合が悪いと思うようで、枝を口にくわえたまま別の木の方へ飛んでいきます。隠れて見ていると、二羽でせっせと巣作りに励んでいます。初めての小枝の組み合わせが難しいと思います。よく落ちないように、しかも強風で飛ばされないように見事につくるものですね。感心します。
 アスパラガスを毎日つんで、食べています。濃い紫色のクレマチスが咲きはじめました。

2015年4月12日

指の骨


著者  高橋 弘希 、 出版  新潮社

 大岡昇平の『レイテ島戦記』を思い出しました。レイテ島の密林でアメリカ軍に追い込まれた日本軍の哀れな情景が描かれた本ですが、それは作者の実体験に裏付けされています。
 ところが、この本は、なんと30代の青年が戦場を見事に「再現」しているのです。
 まさしく見てきたような「嘘」の世界なのですが、真に迫っていて、体験記としか思えないのです。作家の想像力とはこれほどの力があるのかと思うと、モノカキ志向の私などは、おもわずウーンと唸ってしまい、次の声が出なくなります。
腹の上には、小さな鉄の固まりがあって、それを、両手で強く握りしめていた。あたかもそれが、自分の魂であるかのように。そして、背嚢のどこかにあるだろう、指の骨のことを思った。アルマイトの弁当箱に入った、人間の、指の骨。その指の骨と、指切りげんまんしたのだ。
 衛生兵は患者が死ぬたびに、指を切り取っていた。何本も切り落としているので、コツを摑んでいるようだった。骨の繋ぎ目に小刀の刃を当てて、小刀の背に自分の体重を乗せて、簡単に指を落としていく。
 死体から指を落としても、出血は殆どなかった.切断面から赤黒い血が、ベニヤ板へとろりと垂れるだけだった。
 いつか小銃も失った。南方とはいえ、山地の夜は寒い。衰弱した兵は、それだけでも簡単に死ぬ。常夏の南の島で凍死するのだ。
 その一帯の密林から毒草と電気芋しか採れなかった。電気芋を食べた兵は、全身を痙攣させて地べたを爪で掻き毟って死に、毒草を食べた兵は、口の周りを燗れさせ緑色の泡を吹いて死んだ。
果たしてこれは戦争だろうか。我々は、小銃も手榴弾も持たず、殆ど丸腰で、軍靴の底の抜けた者は裸足で、熱帯の黄色い道を、ただ歩いているだけだった。
 これは戦争なのだ。呟きながら歩いた。これも戦争なのだ。
 わずか122頁の戦争小説です。まるで、南国の密林に戦場に一人置かれた気分。戦争なんて、イヤだ、と叫びたくなる小説です。
 安倍首相は、こんな戦場のむごたらしさを描いた本は絶対に読まず、目をそむけてしまうだろうと思いました。だって、典型的な口先男だからです。
(2015年3月刊。1400円+税)

2015年4月10日

明と暗のノモンハン戦史


著者  秦 郁彦 、 出版  PHP研究所

 戦前の939年に起きたノモンハン事件について、旧ソ連側の最新の資料をふまえた今日における到達点です。
 ノモンハン事件は、形のうえでは満州国とモンゴル間の国境紛争であり、満蒙両軍も出動したが、実質的には日本の関東軍と極東ソ連軍との4ヶ月にわたる激戦となり、双方とも2万人前後の人的損害を出して停戦した。規模からすると、小型の戦争並みであった。
 そして、人的損害の面では、ソ連軍が日本軍を上まわったことは確実なので、日本人の一部には、「日本軍の大勝利」と言ってよいとする。しかし、戦闘の勝敗は、人的損害だけでなく、目的達成度や政治的影響などもふまえて総合的に論じる必要がある。
関東軍には、「負けていない」「もう一押しで勝てた」と強弁する幹部も少なくなかったが、1万8千人以上の死傷者を出し、ハルハ河東岸の係争地域を失った事実から、陸軍中央部は敗戦感を持ったものが多かった。
 ノモンハン事件の師団長であり、後始末にあたった沢田茂中将は、「陸軍はじまって以来の大敗戦」「国軍未曾有の不祥事」だとした。大本営の作戦課長だった稲田正純大佐は、「莫大な死傷、肺尖の汚点」とし、畑俊六・陸軍大臣も、「大失態」と認識していた。
 事件の最終局面で、ソ連軍は680両の戦車を擁していたのに、日本軍の戦車は60両に過ぎなかった。わずか一割である。
 著者は、ノモンハン事件の総評として「関東軍の勇み足と火遊びのような冒険主義。それは奇妙で残酷な戦いだった。どちらも勝たなかったし、どちらも負けなかった」(半藤一利)というのがあたっているとしています。
 ノモンハン事件で、日本陸軍は戦車対戦車の対決を初めて経験した。
 ソ連軍の戦車は、火炎びんにやられたのは事実だが、それ以上に対戦車砲、そして75ミリ野砲によって撃破された。火炎瓶は武勇伝の類でしかない。
 日本軍(関東軍)は、手持ちの兵力と資材でたたかった。それに対してソ連軍は、中央の積極的支持を受けて、3ヶ月にわたって、兵力の集中と補給物資の蓄積を進めた。
 ノモンハン航空戦については、飛行機と人員の損失数では、日ソはほぼ均等だった。日ソともに、航空戦は、戦局の帰結に結びつくほどの影響は与えなかった。
 ノモンハン事件が、日本軍の一方的敗北でなかったことは確かのようです。しかし、それまで、ソ連軍なんてすぐにもやっつけられると思っていた関東軍の思いあがりが叩きのめされたのも事実なのです。それにもかかわらず、日本軍の責任者は辻政信参謀をはじめとして、のうのうと戦後まで日本軍を指揮していたのです。これまた許せない思いです。
 敵をバカにして、戦争に勝てるはずがありませんよね。軍事指導部の独走はひどいものがありました。
(2014年7月刊。2800円+税)

2015年3月19日

日本国最後の帰還兵


著者  深谷 敏雄 、 出版  集英社

 戦国の中国に潜伏13年、獄中20年の日本軍スパイだった深谷(ふかたに)義治氏とその家族の歩みを紹介する本です。著者は、この日本兵の二男です。中国に生まれ、今は日本で生活しています。私と同じ団塊の世代となります。中国での苦労とは違っていますが、日本でもかなりの苦労を余儀なくされたようです。
 深谷義治は大正4年(1915年)島根県太田市に生まれた。召集令状で軍隊に入り、戦時憲兵となった。そして、諜報謀略工作に従事するという特別任務についた。軍参謀部直属の謀略憲兵。敵にばれたら、直ちに銃殺されるのは必至という任務である。
 人相を変えるため入れ歯(特殊なマウスピース)を入れた。中国人に成りすまして密輸集団に加わって、工作資金を稼いだ。また、中国(国民党)軍の紙幣の精巧な偽紙幣をつくって大量の物資を購入し、中国軍の経済を破綻させて、日本軍への投降を早めた。
 このようにして、一人でいくつもの師団に匹敵する貢献をしたので、27歳の若さで勲七等瑞宝章が授与された。昭和18年(1943年)のこと。
 終戦後も、上海で任務を続行せよという極秘の任務が命じられた。そこで、中国人に成りすました生活が続いた。中国人の妻と結婚し、4人の子どもをもうけて生活していた。そして、1958年(昭和33年)5月、ついに中国の公安に逮捕された。
 深谷義治は、日本国に命を捧げてきた軍人であり、日本が戦後までスパイを中国大陸に置いていたという汚名を死んでも日本に着せてはならないという確固たる信念があった。だから、戦後日本のスパイではないと答え続けた。その結果、拷問を受けた。
 中国政府は日本人戦犯に寛大な措置をとっていましたが、それに逆らったわけです。
 深谷義治は刑務所で一日一食となり、やせ細った。カルシウムを補うため、年に1個か2個もらう卵は、殻まで、きれいに食べ尽くした。そして、生きて日本に帰るため拳を立てて、腕立て伏せを続けた。しかし、178センチあった身長が168センチに縮んでしまった。
 文化大革命の嵐のなかで、深町義治の家族は日本人スパイの家族として、ひどい苦痛を味わされた。16年ぶりに、妻と再会したとき、自分の家族とは思えなかった。妻は49歳にして、すっかり白髪になっていた。
 そして、父親は、背の低い眉毛が完全に抜け落ちていた。16年ぶりの再会のとき、娘は最後まで「お父さん」とは呼ばなかった。ようやく「お父さん」と呼んだのは、4回目の面会のときだった。娘は、一家が離散して貧困と差別という二つの苦しみを受け続けた原因が、父親ではなく、その戦争にあり、父親は戦争の犠牲者だと思うようになった。そして、父親の言葉から、自分と家族のことを誰より案じてくれていることを知った。
 そうして、4度目の再会のとき、娘は囚人である父親の悲愴な姿をついに受け入れられるようになった。娘は16年の歳月をかけて探し続けた父を、やっと暗黒の刑務所で見つけ、慣れない口調で、生まれてはじめて、「お父さん」と呼んだ。呼ぶと同時に、娘の月から涙が流れた。
 深谷義治は、勾留された20年間、風呂はもちろん、シャワーさえ浴びることがなかった。深谷の父親は1951年に亡くなったが、そのとき大田町の町長だった。
 深谷義治は、獄中記録8冊を監獄から持ち帰った。釈放までの4年間に書き続けたもの。もう一つ、ボロボロのズボンを持ち帰った。妻が差し入れた服は20年間、一枚も捨てず、寒さから実を守るため、五重六重に縫いつけ、厚みと重みのある原始人顔負けの服をつくり出していた。重さはズボン2枚で3キロほどもあった。
 拘禁される前には針など使ったことのない手で縫いつけたのは、単なるボロ布ではなく、20年間の苦しみだった、無数の縫い目は悲惨をきわめた地獄絵そのものだった。ボロ服に残されたのは、拷問の爪痕、滲み出たのは望郷の涙だった。
 深谷義治とその家族は昭和53年11月に日本に帰国した。
これだけ苦難の生活を余儀なくされながらも99歳の長寿だというのです。すごい生命力に驚嘆します。440頁ほどの分厚さにも圧倒される感動的な長編ドキュメンタリーです。
(2015年1月刊。1800円+税)
 夜、マイカーで帰宅していると、目の前をウサギがぴょんぴょんと跳んでいきました。先日は、ほぼ同じところにタヌキが2頭いるのをみました。1頭が道路を横断し、すぐにもう1頭が道を横切りました。
 山に近い団地なので、タヌキはときに見かけるのですが、野生のウサギを見たのは初めてです。
 わが家の庭にチューリップが一斉に咲きはじめました。

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