弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2016年10月 5日

戦争まで

(霧山昴)
著者 加藤 陽子、 出版  朝日出版社

 30人ほどの中高年に向けて、大学教授が日本が対米戦争に踏み切るまでの経緯を問答形式をとり入れながら語っている面白い本です。心と頭の若くて柔らかい中高生時代をとっくに過ぎた私ですが、最後まで面白く読み通しました。
話を聴いていて、ときにある著者からの問いかけに対する中高生の答えの素晴らしさは声も出ませんでした。これって、ヤラセじゃないのと、つい頭の固いおじさんは疑いたくなるほど見事な回答なのです。
戦争とは、相手方の権力の正統性原理である憲法を攻撃目標とする。
戦争は、相手国と自国とのあいだで、必ず不退転の決意で守らなければならないような原則をめぐって争われている。相手国の社会の基本を成り立たせてる基本的な秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ。
天皇は2015年8月15日の全国戦没者追悼式の式辞において、戦後の日本の平和と繁栄を築いたものは、「平和の存続を切望する」国民意識と国民の努力によると語った。
この点、私もまったく同感です。安倍首相の言葉には、まったく欠落している視点です。
1931年9月の満州事変のあと、国際連盟は現地にリットン調査団を派遣した。そして、翌1932年10月にリットン報告を発表した。
日本側は、中国国内の国共対立、日本製品ボイコットの実情をリットン調査団に見せようとした。必ずしも日本の不利になるとは考えていなかった。
リットン報告書は、日本軍の軍事行為は自衛の措置とは認められない。満州国は日本のカイライ国家であり、現地の人々の支持を受けていない。日本製品ボイコットは国民党政府が組織したもの。この三つが持論だった。
リットン報告書は、十分過ぎるほど、日本側に配慮していた。そして、中国側はこの報告書に不満だった。つまり、リットン報告書は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざま工夫したものだった。
戦前の日本の外交・軍事の暗号がアメリカ軍にあって解読されていたことは、有名です。山本五十六元帥も、そのため撃墜されてしまいました。ところが、この本によると、日本側もアメリカの外交電報の9割は解読していたというのです。
アメリカほどではないにしても、かなり高い解読能力を有していた。これは、ちっとも知りませんでした。
戦争が、相手国の権力の正統性原理への攻撃であったとすれば、その攻撃の為に敗北し、憲法を書き換えられることとなった当事者である日本人として、戦争それ自体の全貌をちゃんと分かっていなければならない。しかし、沖縄を例外として、戦場が主として海外であったこと、戦争の最終盤があまりにも悲惨だったことで、日本人は戦争を正視するのが、なかなか難しかった。
飛耳長目の道。あたかも耳に翼が生え、遠くに飛んでいって聞いているように、自国にいながら他国のことを理解することであり、また、あたかも望遠鏡のように遠くを見通せる「長い目」で眺めるように、現在に生きながら昔のことを理解できること、という意味。つまり、自国にいながら他国にことを理解し、現在に生きながら昔のことを理解するのが学問であり、その極めつけが歴史なのだ。
中高生を目の前にして戦前の日本を振り返ると、話すほうにも得られるものが大きい。このように書かれています。なるほど、そのとおりだろうと、この本を読んで思いました。
巻末に参加した中高生全員の氏名が学校名とともに紹介されています。すごい子たちです。日本も、まだまだ見捨てたものではありません。
(2016年8月刊。1700円+税)

2016年10月 4日

大本営発表

(霧山昴)
著者  辻田 真佐憲 、 出版  幻冬舎新書

 いい加減な政府当局の発表を今でも大本営発表と言いますよね。安倍首相は、いくつも大本営発表しています。たとえば、オリンピックを東京に誘致するとき、原発事故は完全にコントロールしていますなんて、真っ赤な大嘘を高言しました。また、アベノミクスで国民生活が豊かになる(なっている)かのような幻想を今なお振りまいています。
 この本を読んで、堂々たる嘘を戦争中ずっと高言してきた大本営発表の本質を知ることができました。それは、一言でいうと、軍部と報道機関の一体化にある。でしたら、今の日本のマスコミも、NHKをはじめとして、権力にすり寄ってアベノミクス礼賛がほとんどですから、似たような状況にあるってことじゃないですか・・・。恐ろしいです。
 大本営発表は1941年12月8日からと一般に言われ、846回の発表がなされた。しかし、実は、その前の1937年12月の南京攻略のときにもあった。
昭和の大本営は、敗戦の年まで首相の参加を認めていなかった。その実態は陸海軍の寄合所帯にすぎなかった。参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営海軍部と名乗っていた。統合されたのは、1945年5月のこと。敗戦の3ヶ月前だった。
 当初は陸軍が熱心で、海軍将校は報道を無用なおしゃべりとみなし、チンドン屋と呼んでバカにしていた。
当初は、軍当局は新聞をよくコントロールできていなかった。それは新聞各社の部数拡大をめぐる熾烈な競争があったから。そして、報道合戦に勝ち抜くためには、軍部との協力が不可欠だった。
新聞はジャーナリズムの使命感というより、単なる時局便乗ビジネスに乗っていただけ。これは毒まんじゅうだった。軍の報道部と新聞は、いつのまにか持ちつ持たれつの関係になっていた。
 1941年12月8日からの大本営発表は戦争報道を一変させた。新聞に代わってラジオが全国に速報する役目を担った。聴く大本営発表の時代が到来した。同時に軍歌が流された。
「ソロモン海戦に関する大本営発表は実にでたらめであり、ねつぞう記事である」
これは、昭和天皇の弟である高松宮(海軍中佐)が日記にかいた文章。
日本軍は情報を軽視していた。事実を確認することなく(確認できず)、戦果を誇張して発表し、それに自ら騙され、しばられていった。
 ミッドウェーでの敗北を発表すると、国民の士気が衰えることを心配した。大本営は国民を騙しただけでなく、海軍にも正確な情報を伝えなかった。
サボ島沖海戦で手痛い敗北を受けると、作戦そのものをなかったことにしてしまった。
国民は三重に目隠しされた。日本軍の情報軽視により、戦果の誇張がおきる。そして、損害の隠蔽が起きる。さらに、ジャーナリズムの機能不全に陥る。
軍部の感覚はマヒしていた。前回もやったことだから、今回も損害を隠蔽してしまおう。これも士気高揚のためだ。いまさら嘘を覆すわけにもいかない。マスコミは自由自在に動かせるから、どうせ国民にばれることもない。
「玉砕」という言葉は、大本営から反省する機会を奪った。ただし、「玉砕」という言葉のごまかしは1年間のみ。戦局があまりに悪化したため、美辞麗句ではもうごまかせず、「全員戦死」とストレートに表現されるようになった。
 ジャーナリズムが軍部当局、ときの権力にすり寄り、一体化してしまうと大変な不幸を日本にもたらすのですね。最近、アメリカのF35戦闘機を購入するというニュース映像が流れましたが、一機いくらするのか、何のために日本がこんな戦闘機を購入するのか、欠陥があるとの指摘はまったくありませんでした。ひどいニュースは、もう始まっています。
(2016年8月刊。860円+税)

2016年7月21日

わが少年記

(霧山昴)
著者  中野 孝次 、 出版  彌生書房

 日本敗戦時に20歳。戦前に生まれ、小学校高等科を卒業したものの中学校には進学できず、父親の下で大工見習いをした。しかし、独学で勉強して、高校(熊本の五高)に入り、勉強の途中で召集令状によって兵隊にとられたという体験が小説化されています。
 ここでは、わずか4ヶ月間ではあったけれど、苛酷な軍隊生活について紹介します。
 軍隊という特殊な閉鎖社会にいた120日の体験は、ただ陰惨な奴隷の日々以外の何物でもなかった。みずからの意思も判断力もない一個の単位として、古兵たちの命じるままに動き、古兵の脚にとびついてゲートルをとらせてもらい、ひたすらその気まぐれを怖れる存在でしかなかった。そこには、一切の「私」の時間がないばかりか、「私」というものは許されなかった。
軍隊教育とは何か・・・。それは、人間の個性、個体差、感情、自主判断、思考力など、あらゆる「私」の部分を削りとって、人間を命令どおり均一に行動する戦闘動物に仕立てる教育である。そこでは、個人の尊厳などは一切認められず、いわば、人間を戦う奴隷に仕立て直す教育である。
 日本陸軍には、「しごかなければいい兵隊にならない」という奇妙な教育観が伝統的にあって、陰湿なイビリが黙認されていた。殴れば殴るほど、兵隊はよくなるという、暗黙の了解が軍隊にはあった。
 軍隊とは、兵隊の中の「私」を徹底的に摩滅せしめ、規格的な戦闘員に仕立てる組織であった。そのことを可能とする根拠として、絶対的な階級制度と命令系統とがあり、それを貫く精神的原理として「天皇の股肱」たる軍隊という考え方があった。
 敗戦後、きのうまで天皇の軍隊と称し、すべて天皇からの賜りものといっていた将兵たちが、敗戦と聞いたとたんに、軍の物資を略奪しはじめた。個にかえった兵とは、こんなにも醜いものだったのか・・・。
戦前に多感な思春期を過ごした著者の無念さ、やるせなさが惻々と伝わってくる本でした。本棚の奥にあった古い本を探し出して読んでみたのです。
(1997年3月刊。1553円+税)

2016年7月15日

昭和史のかたち

(霧山昴)
著者  保阪 正康 、 出版  岩波新書

 昭和という時代は、62年と2週間のあいだ続いた。明治は45年までですからね。
 東條英機は陸軍士学校出身の高級軍人、吉田茂は東京帝大法学部出身の外交官、
田中角栄は自らの力でのし上がっていった庶民。この三人の総理大臣の共通点は何か...。三人とも獄につながれた経験があるということ。
 東條は巣鴨プリズンに収容され、絞首刑となった。吉田は敗戦の年(1945年)4月に陸軍憲兵隊から逮捕された。目黒区の小学校の教室が牢獄代わりになっていた。田中は、戦後まもなく逮捕されたのは、一審有罪、二審無罪になったが、ロッキード事件で逮捕され、その裁判の途中で亡くなった。
なぜ特攻を、海軍兵学校や、陸軍士官学校で軍事教育を受けた軍人たちが、行わなかったのか...。
1人の軍人を育てるために、国がどれだけのお金を使うか。一般の給料が40円とか50円の時代に、軍の学校では一人1,000円とか2,000円を使っていた。そうして育てた軍人を、なんで特攻なんかで死なせることができるものか...。軍事のためにどれだけ役に立つか、それこそが戦時下における「人間の価値」であり、「値段」なのだ。つまり、軍事的な価値のない者から先に死んでいけというのが日本軍国主義の考え方なのだ。学徒兵や少年兵には、国はお金を使っていない。
軍部は天皇に対して真実を伝えないようにしていた。「統師権の独立」というのは、天皇からも「独立」していた実態がある。
 陸軍当局は、エリート意識に凝り固まって、戦争とは自分たちの面子(メンツ)を賭けた国策であるとし、そのために「天皇の名において」国民の生命と財産を恣意的に用いて戦争を続けた。戦争とは高級軍人の存在を確かめるための愚劣な政治行為でしかなかった。
 太平洋戦争が進められていた3年8ヶ月のあいだに、大本営発表は、846回あった。1941年(昭和16年)12月には、88回の発表があった。しかし、戦況が不利になっていくにつれ、虚偽、誇大、日本の被害を逆にする捏造などに、変化していき、最終的には、まったく発表せず、沈黙に逃げ込んだ。
 戦争という国策を選択したのは、議会でも国民でもなく、軍官僚とその一派だった。
 憲法上に明記されていない大本営政府連絡会議が決定し、それを御前会議が追認するという形の決定だった。
 東亜新秩序をつくるという意味は、ヒットラーや、ムッソリーニと共に世界新秩序を作る戦いであり、「東亜解放」など、露ほども目的とされていなかった。
 特攻作戦を国家のシステムとして採用した国は第二次世界大戦では日本だけ。
 天皇に戦争責任はあるか...。責任はあると考えるのは、当たり前のこと。なにより昭和天皇自身がそう考えていた。責任があるということを否定すること自体、昭和天皇に非礼なのである。
よくよく考え抜かれた新書だと思いました。
(2015年10月刊。780円+税)

2016年7月10日

父の遺言

(霧山昴)
著者  伊東 秀子 、 出版  花伝社

 北海道で現役の弁護士として活動している著者は衆議院議員を2期つとめています。孫を可愛がっていた優しい父は、1987年に85歳で亡くなりました。その遺言書には次のように書かれていたのです。
 「子どもたちよ、ありがとう。日本に帰ってからの私の人生は、本当に幸せでした。兄弟仲良く過ごしなさい。絶対に戦争を起こさないように、日中友好のために、力を尽くしなさい。父より」
 明治35年に鹿児島県に生まれ、陸軍士官学校から憲兵隊に入って、満州に渡り、憲兵隊長(憲兵中佐)として活動した。日本の敗戦後、シベリアに送られ5年間すごしたあと、中国の撫順戦犯管理所に入れられた(1950年7月)。そして、1956年7月に特別軍事法廷で、禁固12年の刑に処せられた。その犯罪事実のなかには、731部隊に中国人22名を送ったということもあげられていた。
 731部隊とは、陸軍(関東軍)の秘密部隊であり、中国人などを生体実験の「材料」とし、残虐なかたちで死に至らしめた。少なくとも3000名以上もの人々が名前を奪われ「マルタ」と呼ばれ、全員殺害された。
 著者の父親は憲兵部隊長として44名もの中国人を731部隊に送ったことを認めた。中国から帰国したあとは、家族のために一所懸命に働き、子や孫にあり余るほどの愛情を注いでいた父親が、軍人時代に、中国で凄惨な生体実験にこんなにも多くの中国人を送り込んでいたとは・・・。
「戦争は、人間を獣にし、狂気にする」
「戦局が悪くなると、ますます指揮官も兵隊も狂っていく。そして歯止めが利かない」
ごくごく普通の人間が、同じ人間なのに、虫ケラとしか思わないようになり、むごたらしく殺して平気になる。それが戦争の狂気です。そんな世の中に再び逆戻りさせようとする自民・公明のアベ政権を許しておくわけにはいきません。それを実感させてくれる本でした。
(2016年6月刊。1700円+税)

2016年6月25日

安高団兵衛の記録簿

(霧山昴)
著者 時里 奉明 、 出版 弦書房 

すごい人がいたものです。自らのしたこと、生活のすべてを刻明に記録していたのです。
私も、それなりに記録魔のほうですが、この本の主人公はケタ違いです。私など、その足元にはるか及びません。
私の場合、小学4年生以来つけていた日記やノート、メモを捨てずに今も手元に残しています。記録をとるときに忘れてはいけないのは、「年」です。そして、出来たら「時刻表示」もしたほうがいいのです。始まりが何時何分で、終了したのは何時何分だったと記録するのです。これは、旅行記をまとめるときに役に立ちます。
私は、それを活用して、大学生のころ何をしていたのか(セツルメント活動、寮生活そして東大闘争)について、8冊の本を刊行しました(売れなかったのが残念です)。弁護士になってから受けた税務調査実の顚末も2冊の本にしました。そして、先日、司法修習生のころを小説にしました。日記を書いていたのではありません。メモを書いて残しておいたのと、当時の資料のほとんどをダンボール箱に入れて保存しておいたのをベースとしました。もちろん、それだけでなく、同期の人たち、そして先人の書いた本などを広く参照しました。
この本の主人公は福岡県芦屋(あしや)町に生まれました。安高(あたか)という名前です。典型的な農家の生まれ育ちでした。
著者は安高家の長男として生まれ、家業の農業に従事した。地域のさまざまな団体組織の役員をつとめ、社会的な活動にも熱心だった。
団兵衛(著者)の日記は11歳のときに始まり、60年間、ほぼとぎれることなく続いている。
団兵衛は睡眠時間を削ってまで働いた。そして、何時間ねたかも記録していた。その平均した睡眠時間は5時間40分だった。
団兵衛は、農業をはじめてみると、農業ほど面白い仕事は他にないと思うまでになった。農業ほど楽しく、しかも聖なる仕事はない。
団兵衛は読書につとめた。それは修養のためだった。団兵衛にとって、近郊の市場へリヤカーに品物を積んで牛馬にひかせて歩いていくときの読書が唯一の「読書タイム」だった。
私は、本を読むのは車中と機中に限っています。机に向かったときは、もっぱら書きものをしています。
一人で仕事をすると、競争相手がいない。そこで、時間と競争をする。つまり、時間を相手にすることによって、競争心理が生じる。こうすることで、精神が緊張し、仕事の能率が向上する。
日本人のなかには、こんなに記録を残したい人がいるのですよね。それでルポルタージュも売れるのでしょうか・・・。私は、やっぱり小説を書きたいです(主人公になった気分で大きくはばたきたいのです・・・)。
一冊の手頃な本にまとめていただいた著者に感謝します。
(2016年3月刊。1900円+税)

2016年6月14日

731 日本軍細菌戦部隊

(霧山昴)
著者  15年戦争と日本の医学医療研究会 、 出版  文理閣

 日本軍の捕虜となった連合国の軍人やスパイ視した中国人を残酷な人体実験の材料として平気だった日本人の医者たちがいて、戦後の日本で戦犯にならずに平気で医者を続けていた、そんな連中がいたのですね・・・。そして、日本に医学界は、それを是認してきたのです。これは許されることではありませんよね。これって、自虐史観とかいうものではなく、「戦争責任」が問われるべき当然のことではありませんか・・・。
 731部隊にいた医学者たちは、そこでの人体実験の結果を医学論文として戦後の医学雑誌に書き、受理され、掲載されていた。731部隊(石井機関)の人体実験を日本の医学界は容認していた。
 石井四郎は、京大医学部を卒業したあと、近衛歩兵連隊、軍医中佐となった。石井は、京大の荒木総長の娘と結婚し、社会的な信頼と活動の基盤を得た。石井は、予算を過大に使い込んだが、お金が人を動かすことを学んだ。
 石井は、1933年(S8)、東郷部隊(加茂部隊)を組織し、捕虜を材料として炭疽菌接種などの人体実験を行った。この人体実験では、飢餓状態で水だけでどれくらい生きるかを見る実験、高圧電流でヒトがどのように死ぬか、青酸化合物でヒトをどのように殺せるかなど、さまざまな人体実験を試みた。このときだけで、200人の捕虜、政治犯を人体実験に使い、殺害した。
 内藤良一も、京大医学部卒業で、石井の「片腕」だった。英語が堪能で、戦後、アメリカ軍との免罪交渉で中心的な役割を果たした。
 北野政次は東大医学部卒で、戦後は、北里研交所の病理部長になった。
 戦後、かの有名な帝銀事件が起きたとき、青酸化合物を使い慣れた犯人として、石井部隊にいた人間の関与が疑われ、石井四郎も、それを認めた。ところが途中で、GHQから尋問中止命令が出た。おかしい、怪しい話です・・・。
731部隊には、家族・子どもふくめると3000人もの日本人集団が付属していた。だから、大都会ハルビンの近接(20キロ)に位置した。
 石井四郎はハルビンにある旧ロシア豪邸に住み、お抱え運転手で731部隊の基地に自動車で通っていた。石井四郎の放蕩生活は名高く、料亭や遊郭のない日常生活は考えられなかった。
731基地の工事費110万円というのは、関連軍司令部庁舎の100万円、満州国国務院庁舎の工事費150万円に匹敵するものだった。 
 石井四郎は、建設業からも巨額のリベートを受けとっていた。
 731部隊の基地建設を請け負ったのは、今もゼネコンである大林組だとこの本は推測しています。
大林組は、戦前、日本陸軍と関係がとくに深かった。満州国の主な建築物をほとんど手がけている。それは、上原・陸軍大臣と親密な関係にあることからくるものだった。
弁護士会も戦前戦中は戦争に協力させられたわけですが、この医師たちは自ら人体実験をしていますので、関与の度合いがまるで違いますよね。このような歴史はきちんと明らかにして今後に生かす必要があると思います。
(2015年8月刊。3600円+税)

2016年6月11日

光陰の刃

(霧山昴)
著者 西村 健 、 出版 講談社 

 九州新幹線の新大牟田駅は田圃のなかにポツンとたっていて、周囲には店らしい店は何ひとつありません。在来線の駅から車で20分以上も離れていますので、乗り継ぎは考えられません。しかも、1時間に1本くらいしか停車しませんので、とても不便です。
その新大牟田駅前に巨大な銅像が佇立しています。そう、大牟田の三池炭鉱を三井の「ドル箱」にした団琢磨です。
団は75歳のとき、日本の経済界のまさに総帥だった絶頂の時点で、右翼(血盟国)の「一人一殺」によって暗殺されてしまいました。
この本は、団琢磨と井上日召(にっしょう)の生きざまを詳しく描きながら、交差させてたどっていきます。
なにしろ557頁もある大作です。しかも、活字が細かくて、読み通すのに骨が折れます。
でも、明治、大正そして昭和のはじめころの時代情景が詳細に書き込まれていますので、
団琢磨の苦労ぶりが手にとるように読めます。
 井上日召は、苦労したあげく予言者として名高い存在になったのですね。
 団琢磨は暗殺されたときに75歳。井上日召は、死刑にならず無期懲役となっていたが、早くも昭和15年10月には仮釈放となって刑務所を出た。死刑どころか、昭和42年3月まで生きていた。
 団琢磨と井上日召には、それぞれ詳しい研究書がありますが、この二人を組み合わせた読み物として完成度は高いと思いました。
(2016年2月刊。1900円+税)

2016年6月10日

回想、二人で生きた36年

(霧山昴)
著者  神戸 直江 、 出版  文芸出版

 神戸と書いて、「こうべ」ではなく、「ごうど」と読むそうです。
著者の夫・神戸今朝人は1952年(昭和27年)4月30日に長野県の辰野(たつの)警察署と駅前派出所そして伊那税務署など5ヶ所をダイナマイトで爆破、あるいは火焔瓶で放火したという事件(辰野事件)の犯人として逮捕された12人の被告人のうちの一人だった。
 この刑事裁判は20年あまりをかけて無罪となりました。この1952年には、2月に青梅事件、4月に辰野事件、5月に皇居前広場でのメーデー事件、6月に大分県で菅生(すごう)事件、6月に大阪で吹田(おいた)事件が相次いでいます。いずれも、ほとんどアメリカと日本の支配層による謀略事件です。
 著者は被告人とされた夫と結婚し、苦難を共にした53年を明るく回想しているので、読んでいて救われます。じとーっとした、じめじめ感というより、からっとした爽快さが伝わってきます。
 著者は昭和33年2月、会費制の結婚式をあげました。実は、私の結婚式も会費制でした。私のときは月末で暑いのに、エアコンもない労働会館の会議室を会場としたのです。式の映像が残っていますが、みんな暑そうです。若さからの配慮のなさを恥じいるばかりです。
 著者は、新郎が被告人だというのを承知のうえだったのですから、よほど肝がすわった女性だったのでしょうね・・・。新婦26歳、新郎30歳でした。結婚するにもお金のない新郎に結婚資金カンパが取り組まれたようです。その呼びかけ人の一人に、林百郎弁護士がなっています。
 私も結婚するときにお金がないので、親から10万円をもらい、別に10万円を借りました。司法修習生になった翌年で、本当にお金がなかったのです。弁護士になって数年して、金利をつけて返済しました。ちなみに、会費制の結婚式は余剰金が出ましたので、ペンタックスの一眼レフカメラを購入できました。
 辰野事件の一審判決は有罪でした。裁判官の書いた判決文は目を疑うものです。当日、法廷で訊かされた被告人たちは心の底から怒ったと思います。それが、有名な「さしあたり有罪にする」という判決です。
 警察が提出した証拠では、鑑定した結果、発火しないことが明らかになった。被告人と弁護人は発火しないと言っているが、警察官と被告人の一部自白では発火して爆発したと言っている。どちらが正しいか、にわかに判断できないが、警察官と被告人の一部の自白が正しいと思うから、さしあたり有罪にする。
 とんでもない判決です。裁判官によほど勇気がなかったのだと思います。理屈をこねくりまわすことは出来ても、上を見てタテつくまでの勇気はないという裁判官がいかに多いか、弁護士生活も40年以上になっていますが、本当にいやというほど見聞きし、体験してきました。
 辰野事件の裁判は、こんなこともありました。
「導火線というのは、シュッシュッと音をたてていたと検察官は言っていますが、導火線は音を立てないで燃えるものです。芯が燃えていくと、色が少しかわるだけで、音なんかしません。私は鉱山で働き、工事現場で、いつも導火線を扱う仕事をしています・・・」
そうなんですね。映画では、いつも「シュッシュッ」とか「シュルシュル」という不気味な音を立てて導火線が燃えていきますが、あれって視覚と聴覚に訴える映画用の仕掛けだったのですね・・・。大衆的裁判闘争ということで、広く市民の声を裁判に反映するなかで貴重な証拠(意見)を得たのでした・・・。
 歌集もたくさん出している著者の本なので、すっと読むことができました。お元気にお過ごしください。大阪の石川元也弁護士のおすすめで読んだ本です。石川先生、ありがとうございました。

(2015年12月刊。1429円+税)

2016年6月 1日

生き残る、関東軍・最後の新兵さん

(霧山昴)
著者  宗広 有蔵 、 出版 東銀座出版社 

米寿をすぎた著者が中国大陸(満州)での苛酷な実体験を、分かりやすい小説の体裁にして伝えてくれる本です。150冊ほどの薄い本ですが、ずっしり重たい内容が詰まっています。
「自虐史観」とか言って、日本が戦前の中国で、どんなひどいことをしたのか、その反動で日本人がどんな苛酷な状況に置かれたのか、それを直視しないなんて、自らを盲目にするだけです。やはり、歴史は大切にして、自分のものとすべきだと思います。
主人公は、17歳で満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社しました。
ところが、親しくなった12歳の中国人ボーイが、こう告げるのです。「あんたにだけに言うけれど、日本は、もうすぐ負けるよ。早く日本に帰ったほうがいい」
うひゃあ、そ、そんなことを言われたのですか・・・。でも、17歳の日本人が、すぐに日本(内地)に帰れるはずもありません。案の定、日本はやがて敗戦になるのですが、それからが大変でした・・・。
ソ連軍が満州へ侵攻してきたとき、満州にいた関東軍はたちまち降伏するしかありませんでした。主人公も捕虜となり、奴隷労働で酷使されます。ところが、体力が衰弱していたおかげでシベリア行きは免れるのです。
そして、今度は中国軍の管理下に置かれるのでした。中国国内では国共内戦が激しく展開し、進行していきます。主人公の運命もそのなかで漂っていくしかありません。
実は、私の叔父(父の弟)も同じ運命にあいました。中国の共産党の八路軍(パーロー)に収容され、器用な日本人技術者(工兵)として、八路軍とともに満州(中国東北部)各地を転戦したといいます。
主人公は死線をさまようほどの重病に陥りながらも、死地を脱して日本に帰国できました。ところが、昨日まで元気だった同年輩の若者がコロリと亡くなったりもするのです。人生のはかなさを20歳前後で見過ぎてしまった著者の話を聞いたことがありますが、この人は並みの人生を歩んできていないなと思わせました。オーラというのでしょうか、かもし出す雰囲気がまるで違うのです。
とてもいい本でした。なにより小説風に書いてあって読みやすく、感情移入できるところがいいですね・・・。ご一読をおすすめします。
(2016年1月刊。1400円+税)

前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー