弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2015年4月21日

言論抑圧


(霧山昴)
著者  将基面 貴巳 、 出版  中公新書

 著者の名前は、「しょうぎめん」と読むそうです。珍しいですね。そして、貴巳は「たかし」です。アメリカの大学で准教授をしているとのことです。
 矢内原(やないはら)事件というのが、戦前の1937年(昭和12年)に起きました。矢内原東大教授が「筆禍事件」を起こしたとして、東大教授を辞職した事件です。
 私にとって、矢内原という名前は、矢内原門という小さな門に結びつきます。
 東大駒場寮で2年間ほど生活していましたが、夜遅く腹を満たすために寮を出て下方にある商店街へ繰り出すときに必ず、この小さな門を通るのでした。門といっても何もありません。ただ、ここが矢内原門と呼ばれていると、先輩の寮生から教えられただけです。九州にはないタンメンを食べたり、少しぜいたくするときには、レバニラ炒めを食べたものです。当時は、私も20歳前ですから、食欲旺盛で、夕方6時に寮食堂で夕食をとると、午後10時過ぎたらお腹が空いてくるのです。
 戦前・戦中の論壇を主として支えたのは、日刊新聞ではなく、総合雑誌だった。
 矢内原は、総合雑誌を舞台として、徹底した平和の主張を展開していった。
 キリスト教の信者である矢内原にとっての愛国心とは、あるがままの日本をアイすることではなく、日本が掲げるべき理想を愛することだった。したがって、現実の日本が、その掲げるべき理想とくい違うときには、現実を批判することこそが、愛国心の現れだと考えた。
 矢内原にとって、国家を国家たらしめる根本原理としての理想は正義にほかならないかった。その正義とは、国家のつくった原理ではなく、反対に正義が国家をして存在せしむる根本原理である。国家が正義の内容を決定するのではなく、正義が国家を指導すべきなのである。正義が国家の命令であるとしたら、国家の命令するところであれば、何でも正義であることになってしまう。したがって、正義は国家を超えるものでなければならない。
 政府にとって、その政策を遂行するうえで、もっとも望ましいのは、国民のなかに反対者がいないことである。したがって、批判を弾圧し、政府の施策を宣伝することに政府はつとめることになる。
 政府の決定が理想に反する場合には、これに異議申し立てすることこそが、真に愛国的なのである。
 矢内原は、聖書にもとづいて、このように主張した。
 矢内原論文で「国家の理想」を論じた時に、決して激しい政府攻撃を意図したのではなく、むしろ穏当なものだった。それだけに、矢内原の論文が筆禍事件のきっかけを作ることになろうとは本人は夢想だにしていなかった。
 キリストの教えによれば、キリスト者たるもの「血の塩」である。現実の不義を批判しない者は、味のない塩である。このように述べて、矢内原は、政治への態度決定を聴衆に迫った。
 「今や、キミが感じるよりはるかに険悪なる時代になった。きのうの講演も、会場できいたら当たり前のようなことが、文章で読んだら意外の感を受けるだろう」
 今の日本で、ひょっとして、同じようなことが進行中なのではないでしょうか・・・。ヘイトスピーチが横行し、安倍首相の「我が軍」発言が大問題にもならず、自衛隊が海外へ戦争しに出かけようとしています。とんでもない状況なのですが、マスコミは、その危険性を国民に強く訴えていません。あまりにも引け腰です。インチキな与党協議ばかりが大きく報道されています。本当に「戦前」に戻りそうで、怖いです。
 蓑田胸喜という戦前の狂信的な右翼イデオローグがいました。今でいうと、桜井○○子にでもあたるでしょうか・・・。
 矢内原は、この蓑田からの批判に対して、まったく応答しなかった、見事と言えるでしょう。しかし、やはり反論の事由があれば反論すべきだったと私は思います。
当時の東京帝大経済学部内では、教授陣に派閥があって、激しく抗争していたようです。
 それにしても、矢内原教授がまともな論文を書いて、それが攻撃されたとき、東大当局が矢内原をかばいきれなかったのは残念です。時流におもねってしまったのです。
 矢内原事件の教訓は、戦後70年の平和が安倍内閣によって「戦前」に変わりつつあるという昨今の状況のなかで生かされるべきだと思いました。
(2014年9月刊。840円+税)
 庭にビックリグミの木のてっぺんにカササギが巣をつくっています。初めてのことです。下で見上げていると、さすがに人間が見ている前では具合が悪いと思うようで、枝を口にくわえたまま別の木の方へ飛んでいきます。隠れて見ていると、二羽でせっせと巣作りに励んでいます。初めての小枝の組み合わせが難しいと思います。よく落ちないように、しかも強風で飛ばされないように見事につくるものですね。感心します。
 アスパラガスを毎日つんで、食べています。濃い紫色のクレマチスが咲きはじめました。

2015年4月12日

指の骨


著者  高橋 弘希 、 出版  新潮社

 大岡昇平の『レイテ島戦記』を思い出しました。レイテ島の密林でアメリカ軍に追い込まれた日本軍の哀れな情景が描かれた本ですが、それは作者の実体験に裏付けされています。
 ところが、この本は、なんと30代の青年が戦場を見事に「再現」しているのです。
 まさしく見てきたような「嘘」の世界なのですが、真に迫っていて、体験記としか思えないのです。作家の想像力とはこれほどの力があるのかと思うと、モノカキ志向の私などは、おもわずウーンと唸ってしまい、次の声が出なくなります。
腹の上には、小さな鉄の固まりがあって、それを、両手で強く握りしめていた。あたかもそれが、自分の魂であるかのように。そして、背嚢のどこかにあるだろう、指の骨のことを思った。アルマイトの弁当箱に入った、人間の、指の骨。その指の骨と、指切りげんまんしたのだ。
 衛生兵は患者が死ぬたびに、指を切り取っていた。何本も切り落としているので、コツを摑んでいるようだった。骨の繋ぎ目に小刀の刃を当てて、小刀の背に自分の体重を乗せて、簡単に指を落としていく。
 死体から指を落としても、出血は殆どなかった.切断面から赤黒い血が、ベニヤ板へとろりと垂れるだけだった。
 いつか小銃も失った。南方とはいえ、山地の夜は寒い。衰弱した兵は、それだけでも簡単に死ぬ。常夏の南の島で凍死するのだ。
 その一帯の密林から毒草と電気芋しか採れなかった。電気芋を食べた兵は、全身を痙攣させて地べたを爪で掻き毟って死に、毒草を食べた兵は、口の周りを燗れさせ緑色の泡を吹いて死んだ。
果たしてこれは戦争だろうか。我々は、小銃も手榴弾も持たず、殆ど丸腰で、軍靴の底の抜けた者は裸足で、熱帯の黄色い道を、ただ歩いているだけだった。
 これは戦争なのだ。呟きながら歩いた。これも戦争なのだ。
 わずか122頁の戦争小説です。まるで、南国の密林に戦場に一人置かれた気分。戦争なんて、イヤだ、と叫びたくなる小説です。
 安倍首相は、こんな戦場のむごたらしさを描いた本は絶対に読まず、目をそむけてしまうだろうと思いました。だって、典型的な口先男だからです。
(2015年3月刊。1400円+税)

2015年4月10日

明と暗のノモンハン戦史


著者  秦 郁彦 、 出版  PHP研究所

 戦前の939年に起きたノモンハン事件について、旧ソ連側の最新の資料をふまえた今日における到達点です。
 ノモンハン事件は、形のうえでは満州国とモンゴル間の国境紛争であり、満蒙両軍も出動したが、実質的には日本の関東軍と極東ソ連軍との4ヶ月にわたる激戦となり、双方とも2万人前後の人的損害を出して停戦した。規模からすると、小型の戦争並みであった。
 そして、人的損害の面では、ソ連軍が日本軍を上まわったことは確実なので、日本人の一部には、「日本軍の大勝利」と言ってよいとする。しかし、戦闘の勝敗は、人的損害だけでなく、目的達成度や政治的影響などもふまえて総合的に論じる必要がある。
関東軍には、「負けていない」「もう一押しで勝てた」と強弁する幹部も少なくなかったが、1万8千人以上の死傷者を出し、ハルハ河東岸の係争地域を失った事実から、陸軍中央部は敗戦感を持ったものが多かった。
 ノモンハン事件の師団長であり、後始末にあたった沢田茂中将は、「陸軍はじまって以来の大敗戦」「国軍未曾有の不祥事」だとした。大本営の作戦課長だった稲田正純大佐は、「莫大な死傷、肺尖の汚点」とし、畑俊六・陸軍大臣も、「大失態」と認識していた。
 事件の最終局面で、ソ連軍は680両の戦車を擁していたのに、日本軍の戦車は60両に過ぎなかった。わずか一割である。
 著者は、ノモンハン事件の総評として「関東軍の勇み足と火遊びのような冒険主義。それは奇妙で残酷な戦いだった。どちらも勝たなかったし、どちらも負けなかった」(半藤一利)というのがあたっているとしています。
 ノモンハン事件で、日本陸軍は戦車対戦車の対決を初めて経験した。
 ソ連軍の戦車は、火炎びんにやられたのは事実だが、それ以上に対戦車砲、そして75ミリ野砲によって撃破された。火炎瓶は武勇伝の類でしかない。
 日本軍(関東軍)は、手持ちの兵力と資材でたたかった。それに対してソ連軍は、中央の積極的支持を受けて、3ヶ月にわたって、兵力の集中と補給物資の蓄積を進めた。
 ノモンハン航空戦については、飛行機と人員の損失数では、日ソはほぼ均等だった。日ソともに、航空戦は、戦局の帰結に結びつくほどの影響は与えなかった。
 ノモンハン事件が、日本軍の一方的敗北でなかったことは確かのようです。しかし、それまで、ソ連軍なんてすぐにもやっつけられると思っていた関東軍の思いあがりが叩きのめされたのも事実なのです。それにもかかわらず、日本軍の責任者は辻政信参謀をはじめとして、のうのうと戦後まで日本軍を指揮していたのです。これまた許せない思いです。
 敵をバカにして、戦争に勝てるはずがありませんよね。軍事指導部の独走はひどいものがありました。
(2014年7月刊。2800円+税)

2015年3月19日

日本国最後の帰還兵


著者  深谷 敏雄 、 出版  集英社

 戦国の中国に潜伏13年、獄中20年の日本軍スパイだった深谷(ふかたに)義治氏とその家族の歩みを紹介する本です。著者は、この日本兵の二男です。中国に生まれ、今は日本で生活しています。私と同じ団塊の世代となります。中国での苦労とは違っていますが、日本でもかなりの苦労を余儀なくされたようです。
 深谷義治は大正4年(1915年)島根県太田市に生まれた。召集令状で軍隊に入り、戦時憲兵となった。そして、諜報謀略工作に従事するという特別任務についた。軍参謀部直属の謀略憲兵。敵にばれたら、直ちに銃殺されるのは必至という任務である。
 人相を変えるため入れ歯(特殊なマウスピース)を入れた。中国人に成りすまして密輸集団に加わって、工作資金を稼いだ。また、中国(国民党)軍の紙幣の精巧な偽紙幣をつくって大量の物資を購入し、中国軍の経済を破綻させて、日本軍への投降を早めた。
 このようにして、一人でいくつもの師団に匹敵する貢献をしたので、27歳の若さで勲七等瑞宝章が授与された。昭和18年(1943年)のこと。
 終戦後も、上海で任務を続行せよという極秘の任務が命じられた。そこで、中国人に成りすました生活が続いた。中国人の妻と結婚し、4人の子どもをもうけて生活していた。そして、1958年(昭和33年)5月、ついに中国の公安に逮捕された。
 深谷義治は、日本国に命を捧げてきた軍人であり、日本が戦後までスパイを中国大陸に置いていたという汚名を死んでも日本に着せてはならないという確固たる信念があった。だから、戦後日本のスパイではないと答え続けた。その結果、拷問を受けた。
 中国政府は日本人戦犯に寛大な措置をとっていましたが、それに逆らったわけです。
 深谷義治は刑務所で一日一食となり、やせ細った。カルシウムを補うため、年に1個か2個もらう卵は、殻まで、きれいに食べ尽くした。そして、生きて日本に帰るため拳を立てて、腕立て伏せを続けた。しかし、178センチあった身長が168センチに縮んでしまった。
 文化大革命の嵐のなかで、深町義治の家族は日本人スパイの家族として、ひどい苦痛を味わされた。16年ぶりに、妻と再会したとき、自分の家族とは思えなかった。妻は49歳にして、すっかり白髪になっていた。
 そして、父親は、背の低い眉毛が完全に抜け落ちていた。16年ぶりの再会のとき、娘は最後まで「お父さん」とは呼ばなかった。ようやく「お父さん」と呼んだのは、4回目の面会のときだった。娘は、一家が離散して貧困と差別という二つの苦しみを受け続けた原因が、父親ではなく、その戦争にあり、父親は戦争の犠牲者だと思うようになった。そして、父親の言葉から、自分と家族のことを誰より案じてくれていることを知った。
 そうして、4度目の再会のとき、娘は囚人である父親の悲愴な姿をついに受け入れられるようになった。娘は16年の歳月をかけて探し続けた父を、やっと暗黒の刑務所で見つけ、慣れない口調で、生まれてはじめて、「お父さん」と呼んだ。呼ぶと同時に、娘の月から涙が流れた。
 深谷義治は、勾留された20年間、風呂はもちろん、シャワーさえ浴びることがなかった。深谷の父親は1951年に亡くなったが、そのとき大田町の町長だった。
 深谷義治は、獄中記録8冊を監獄から持ち帰った。釈放までの4年間に書き続けたもの。もう一つ、ボロボロのズボンを持ち帰った。妻が差し入れた服は20年間、一枚も捨てず、寒さから実を守るため、五重六重に縫いつけ、厚みと重みのある原始人顔負けの服をつくり出していた。重さはズボン2枚で3キロほどもあった。
 拘禁される前には針など使ったことのない手で縫いつけたのは、単なるボロ布ではなく、20年間の苦しみだった、無数の縫い目は悲惨をきわめた地獄絵そのものだった。ボロ服に残されたのは、拷問の爪痕、滲み出たのは望郷の涙だった。
 深谷義治とその家族は昭和53年11月に日本に帰国した。
これだけ苦難の生活を余儀なくされながらも99歳の長寿だというのです。すごい生命力に驚嘆します。440頁ほどの分厚さにも圧倒される感動的な長編ドキュメンタリーです。
(2015年1月刊。1800円+税)
 夜、マイカーで帰宅していると、目の前をウサギがぴょんぴょんと跳んでいきました。先日は、ほぼ同じところにタヌキが2頭いるのをみました。1頭が道路を横断し、すぐにもう1頭が道を横切りました。
 山に近い団地なので、タヌキはときに見かけるのですが、野生のウサギを見たのは初めてです。
 わが家の庭にチューリップが一斉に咲きはじめました。

2015年3月10日

プーチンはアジアをめざす


著者  下斗米 伸夫 、 出版  NHK出版新書

 ロシアのプーチン大統領も目が離せない人物ですね。そのプーチンの祖父がレーニンコックだったというのは、初めて知りました。
プーチンの祖父、レニムグラードのマストリア・ホテルでコックをつとめたあと、晩年のレーニン家のコックに選ばれた。プーチンの祖父は、古儀式派だった。これは、ロシア正教会以前の古い信仰を保つ正教一派(異端的潮流)である。
 ロシア正教会では、三位一体論にもとづき、三本指で十字を切る。これに対して、古儀式派は二本指(人と神をあらわす)で十字を切る。同じ古儀式派出身の政治家として、エリツィン大統領の祖父、グロレイコ外相の一族、モロトフ外相の一族などがいる。ちなみに、日本にも100年前に北海道・函館に古儀式派が集団で移住してきたが、今はいない。
 ウクライナは、ソ連の崩壊後に誕生した人口4500万人の国。ロシアに次ぐ、スラブの大国。
 ウクライナとは、本来、「隅」とか「辺境」を指す普通名詞である。ただし、これはモスクワからみた「隅」ではなく、ポーランドの「辺境」を意味してきた。
国連は1945年に設立されたとき、ウクライナは51の原加盟国の一つで、憲章に署名した国でもある。さらに、ウクライナは2度にわたって国連安保理の非常任理事国だった。つまり、ウクライナは、ソ連の構成国でありながら、同時に国連では独立国でもあるという、「半主権国家」とでもいうべき立場だった。
 アメリカがロシアに対して強気に出られるのは、アメリカにとってロシアとの関係がそれほど重要ではなくなったから。とりわけシェールガス革命のあと、アメリカの天然ガス開発がすすみ、エネルギー大国のロシアを気にする必要はさらに薄まった。
プーチンが「強いロシアの復活」と言うとき、それは、ロシアがもはや超大国ではなく、むしろ崩壊の可能性すら秘めている国だという認識もある。安全保障上も、対外脅威というより、チェチェン問題や、人口減少といった国内問題に重点を置いている。
 プーチン政治のポイントの一つは、富裕なオリガルフを政治の世界から排除したこと。プーチンはオリガルフを国外へ追放した。
 現在、ロシアの国富の71%は、トップの1%が所有する。ちなみに、アメリカは37%、中国は32%。
 1億ドル以上所有する資産家は、アメリカ4754人、中国983人、ロシア536人。
プーチン大統領は、ロシアの生き残り戦略としてアジアを重視しているというのです。なるほど、と思いました。
(2014年12月刊。740円+税)
 日曜日は、春うららかな陽気の下でジャガイモを植えました。実は、1月に植えた種ジャガイモから芽が出てこないので、失敗したと思って植え替えようとしたのです。1月は早過ぎると、いろんな人から言われ、あきらめたのでした。それでクワを入れてみると、なんと、これから芽が出ようとしているのです。あわてて、元通りにしました。そこで、新しく別の畝をつくって、ジャガイモを植え込みました。キタアカリとダンシャクです。
 今日はジョウビタキがやって来ないな、もう北国へ帰っていったのかなと思っていると、ジョウビタキがやって来てくれました。近くでよく聞いてみると、小さなさえずり音をたしかに発しています。本当に可愛いらしい小鳥です。
 庭のあちこちに黄水仙が咲いています。チューリップの花のつぼみも2本だけ見つけました。もう少しでチューリップ祭りが全開となります。

2015年3月 8日

小説・青い日々


著者  堤 康弘 、 出版  日本民主主義文学会福岡支部

 92歳になる著者が青春の日々を思い出し、小説にした本です。
 戦前の軍国主義的風潮が強まるなかで、天皇とはいったい何者なのか、軍部の横暴はくい止められるのか、自問自答していた、若き日の葛藤が再現されています。90歳を超えて、10代の日々をこれほど情景こまやかに描き出しているのに、驚嘆するばかりでした。
 著者は八女中学校から、熊本の五高に進み、九州帝大法科に入ります。九大に在学中に兵役にとられ、2年間休学します。戦後は、平和活動などに挺身してきました。
 八女中学の1年生のとき、2.26事件(1936年)が起きて、首相らが軍人に殺害された(岡田首相は人違いによって殺されなかった)。満州事変も起きていて、日本全体が戦争へまっしぐらに進んでいるかと思うと、それに不安を覚えていた国民も実は少なくなかった。
 中国で日本軍が残虐な行為をしていることを知り、それに批判的な人も少ないながらいたが、声を上げることは出来なかった。あくまで、ひそかに身近な人に言うだけだった。そして、権力に歯向かう人は「主義者」(共産主義者)として、問答無用式に官憲が逮捕し、連行していった。
 やがて日本は国際連盟から脱退した。そして、貧しい日本人が大挙して満州へ開拓民として渡っていった。
 「満州は日本の生命線」
 「行け満蒙の新天地」
 「600万の民族大移動」
 「満州に行けば、一人、10町歩もらえる」
 それでも、暗い話ばかりではなく、主人公は4泊5日の阿蘇キャンプ旅行を敢行するのでした。男ばかりの4人組です。久住から阿蘇山をまわって、無事に帰り着くのですが、途中で図工の教師がスケッチ旅行しているのに出会います。
 そして、弁論部に所属します。軍事教練にも参加させられます。銃の分解組立も強制されるのでした。
 中学4年生のときには、実弾射撃訓練があり、また夜間遭遇演習に参加させられます。
 主人公は熊本にある五高に入学して寮に入った。同室者には朝鮮出身の朴がいた。英語とドイツ語の授業はネイティブの教師から受けた。
 陸軍大将の荒木貞夫が五高に来て講演しようとするときには、五高生は椅子に座ったまま一斉に脚を踏みならして、激しい反軍闘争を展開した。荒木貞夫は怒って、「貴様らに聞かせる話はない」と言って帰っていった。
 そして、ついに日本は開戦し、太平洋戦争に突入した。寮のラジオを聞いて主人公たちはそれを知った。主人公は五高在学中に召集令状が来て、軍隊に入った。
 戦争というものは、じわじわと忍び寄って来ること、世論をかきたてあおり、一気に戦争へ国民を巻き込んでいくことを改めて思い知らされる本でもありました。安倍首相のすすめている「この道」は、戦前のような無謀かつ無意味な「戦争への道」です。
 今の日本が戦争への道にじわじわと具体化していっていることは、シリアの日本人二人がついに殺害されてしまったことからも裏付けられます。戦争だけは絶対に繰り返してほしくないという著者の叫びが小説として結実していると思いました。
(2014年7月刊。1620円+税)

2015年3月 3日

獄中メモは問う


著者  佐竹 直子 、 出版  道新選書

 作文教育が罪にされた時代。作文や紙芝居が罪になるなんて、どうしてですか。治安維持法とは、何を処罰する法だったのですか・・・。本当にひどい話がありました。
 治安維持法が制定されたのは、第一次世界大戦後の1925年8月(大正14年)のこと。
 1935年8月、北海道内の教員有志16人が札幌に集まり、北海道綴方(つづりかた)教育連盟を設立した。メンバーは60人あまりにまで広がった。酪農、農作、漁業、炭鉱・・・。子どもたちの綴方(作文)に、しっかりマチの特性が表れていた。
 1940年、綴方教育に特高警察の手が伸びた、2月に山形県の教員2人が逮捕されたのが最初だった。11月に北海道綴方教育連盟事件が発生した。
 綴方事件で逮捕された道内の教員は1941年4月までの累計で56人。そのうち12人が起訴され、死亡した1人を除く11人の有罪判決が確定した。綴方教育の実践で逮捕された教員は全国で137人。このうち北海道が75人と、半数をこしている。
 逮捕された教員に押された共産主義者という「赤い烙印」は、残された家族も苦しめた。通りを歩けば、後ろ指をさされ、友人に道であって目礼しても無視される。
 起訴された12人の教員の多くは、拘束中に依願退職した。慕っていた「先生」を突然失った教え子たちの動揺も大きかった。
 この本は、逮捕・勾留された教員のメモや日記が最近になって発見され、それを解読して紹介しています。逮捕された教員たちは、警察・勾留所にいたとき、メモをひそかにやりとりしていたのです。それには、理不尽にも逮捕された教員たちに同情する警察官や職員の助勢があったようです。
 旭川刑務所では、廊下の掃除を担当していた模範囚が食事の出し入れのために小窓から、こっそり独房間のメモの受け渡しをしてくれていた。
 戦後になって、逮捕されていた教員の一人は、次のように当時を振り返った。
 「治安維持法は悪法であったが、しかしそれは当時の国法である。実際に違反したのであれば、処罰を受けてもあきらめようがある。だが、明らかに冤罪を承知のうえで、多数の教師を共産主義に仕立てた彼ら(警察・検察官)こそ、まさに法を愚弄するものと言ってよい」
 子どもの作文で、犬殺しに殺された犬をかわいそうに思っているところを書いているのは、弱者への同情心を養うため。それが、やがて階級闘争心になる。
こんな論法で処罰されたというので、たまりませんね。風吹けば桶屋がもうかるどころの騒ぎじゃありません。こじつけがひどすぎます。
 また、紙芝居を実演して児童を左翼的に導くべく努めた、というのもあります。
高田富与弁護士(当時50歳)、浜辺信義裁判長の素晴らしい活動が紹介されています。
 高田弁護士は、市議も兼ねていて、3期目。他の仕事を断ってまで綴方事件の弁護に集中したため家族の生活費にまで事欠いていた。浜辺裁判長は、不当な弾圧の実態をあばこうとした。浜辺裁判長は、公判中に被告人を呼び出して面談した。
 高田弁護人が申請した50人のうち、浜辺裁判長は12人を採用した。治安維持法事件で弁護側の求める証人が認められたこと自体が異例だった。しかも12人が採用されたことは・・・。
 高田弁護士の最終弁論は200頁に及んだ。浜辺裁判長は、公判のあと11人の被告人を一人ずつひそかに呼び出して面談した。
 「無罪判決では必ず検事が上告する。・・・実刑を受けないのだから、早く世の中で働いたらどうか?」
そして、判決は、求刑3~5年のところ、懲役1年から2年だった。そして、執行猶予もついていた。
貴重なナマの記録を掘り起こして、この本のように誰でも読めるようにしてくれた著者たちの努力に対して心より感謝します。それにしても、戦前の悪夢をよみがえらせようとする特定秘密保護法は早く廃止しないといけません。安倍政権はひどすぎます。
(2014年12月刊。1296円+税)
春になりました。庭のあちこちに黄水仙が咲いています。チューリップもぐんぐん伸びて、花を咲かすのも間近となりました。
 日曜日は、午前中に雨も止んでくれましたので、午後遅くから球根の植え替えに取りかかりました。すると、まもなく、いつものジョウビタキがやってきて、すぐ近くの枝にとまって、じっと私の作業を見守っています。私も畑仕事を中断して、じっとジョウビタキを見つめます。愛するもの同士の見つめあいは、至福のひとときです。そのあと、私が掘り起こしたあとに地虫がいるようで、今日もついばんでいきました。といっても、私には、ミミズ以外の地虫は発見することができません。
 枝にとまっているジョウビタキを、じっと観察していると、何やら小さなさえずり音が聞こえてきます。いつもの叩く音とは違います。軽快な鳴き声です。
 夕方6時半まで外は明るく、植え替えに精を出し、終わって湯舟につかります。気分爽快な春の一日でした。

2015年2月22日

東京ローズ


著者  ドウス昌代 、 出版  サイマル出版社

 東京ローズとは、戦争中にラジオ東京から聞こえてくる日本の対米宣伝放送に従事した女性アナウンサーに、太平洋にいたアメリカのGⅠたちがつけたニックネームのこと。戦後、日本に進駐してきたアメリカの従軍記者たちにその名を一人押し付けられたアイバ戸栗ダキノ夫人は、日系2世であったため、アメリカ政府から反逆罪として裁判にかけられ、有罪とされた。
東京ローズ反逆罪裁判は、建国以来のアメリカで起きた24の反逆罪裁判のうち、もっとも悪名高いものの一つと言われている。
判決によって、ダキノ夫人はアメリカ市民権を失い、無国籍者となって、アメリカに住んでいてもアメリカ市民としての権利をすべて否定された。
 東京ローズとは、戦場という異常な状態に置かれた男たちの極度の精神の緊張、不安、心配、ヒストリーから生まれた伝説の女性であると同時に、実際にラジオ東京から聞くことのできる、なかなかユーモアのある女性アナウンサーでもあった。
 アイバの声を実際に聞いた者は、いわゆる東京ローズの声ではないと感じたものは多かった。
アイバには、宣伝放送には従事していたが、何も悪いことはしていないという確固たる自信があった。
 アイバは、1916年7月、アメリカ・ロサンゼルスで日本人夫婦の長女として生まれた。アイバは日本戸籍に登録されたが、あとで抹消し、アメリカ市民権だけをもっていた。アイバはUCLAに入学し動物学を専攻した。アイバは、見るからにヤンキー娘として育った。アイバの日本語は、実に下手で、話すのはお粗末、読み書きはまるで出来なかった。
 GHQが逮捕状もなくアイバの逮捕に踏み切ったのは、東京ローズに対するジャーナリズムの常軌を逸した騒ぎと、その後に続いたアメリカ一般大衆のヒステリックなリアクションを黙過できなかったことによる。GHQは面子を重視したのだ。
 アイバの裁判は、50万ドルかかるとみられていた。しかし、それをはるかに超えた。期間も6~8週間の予定が13週間もかかった。アイバに言い渡された判決は、禁固10年、罰金1万ドルだった。これは、アメリカ政府が音頭をとった東京ローズという名の魔女狩りだった。
 1976年に発刊された本を、久しぶりに手に取って読んでみたのです。
(2014年10月刊。780円+税)

2014年12月30日

「戦場体験」を受け継ぐということ


著者  遠藤 美幸 、 出版  高文研

 元日航・国際線スチュワーデスだった著者(現在は歴史学者)によるビルマ戦線における日本軍全滅戦を記憶・再現した貴重な本です。
戦争というものの悲惨さ、というより、むごさをじわじわと実感させてくれます。というのは、拉孟(らもう)の陣地にたてこもる日本軍守備隊1000人近くが中国軍によって全滅させられた事件を丁寧に掘り起こしているからです。
 それができたのは、数少ない生存者がいたこと、その生存者にインタビューできたこと、さらには、現地に出向いて、現地の攻めた中国軍からも取材できたことによります。10年という長い歳月をかけての取材が本書に結実しています。
日本軍の将兵の無残な戦死を記録する貴重な本だと思いました。そして、それらの将兵の多くは、九州出身だったのです。本当に哀れです。
 1944年6月、米中連合軍4万が日本軍の拉孟陣地を包囲した。
 3ヵ月あまりの死闘の末、9月7日、日本軍の拉孟守備隊は全滅した。その拉孟全滅戦の実情が本書によって明らかにされているのです。
 1944年3月、北ビルマを起点としたインド侵攻作戦(インパール作戦)が始まった。これは、ビルマ奪回を狙うイギリス軍の作戦拠点であるインド東北端のインパールを攻略し、さらにはインド独立運動に乗じてインドの反英独立運動の気運を醸成し、イギリスの支配からインドを分断しようということだった。ところが、補給をまったく無視したインパール作戦は史上最悪の作戦となり、日本兵の「白骨街道」を残して終わった。
 1944年7月3日、日本軍大本営はインパール作戦の中止を命じた。
 インパール作戦の失敗後、中国雲南西部の山上陣地であった拉孟の戦略的な重要性が一挙に高まった。
 1944年6月から、拉孟守備隊1300人と、4万人の中国軍とのあいだで、100日間の攻防戦が続いた。日中の兵力差は15倍以上だった。
 連合軍(アメリカ)からの軍事援助で補強された中国軍に日本軍の拉孟守備隊は全面的に包囲され、武器・弾薬そして食糧の枯渇のなかで、1944年9月7日に拉孟守備隊、そして続いて9月14日に騰越守備隊が相次いで全滅した。これによって、日本軍は北ビルマから完全に排除された。
拉孟守備隊1300人と言っても、傷病兵300人をふくんでいるので、実質的な戦闘力は900人もいなかった。それに対する中国軍の総兵力は4万人を上まわっていた。
 この拉孟陣地にも、従軍慰安婦が20人ほどいた。朝鮮人女性15人、日本人5人だった。
 これらの女性の存在理由は、日本軍将兵の性欲はけ口以外のなにものでもなかった。女性たちの恥辱と苦恨は、心身から生涯、消えることはなかった。
 そして、日本軍の拉孟守備隊のなかに、朝鮮人志願兵がいた。それは全体の2割を占めている。
 著者は1985年8月のJAL御巣鷹山事故のとき、JALの社員でした。そして、飛行の安全のためにJALの第二組合を脱けて第一組合に加入したのです。それは、「当然のように」、さまざまな嫌がらせと差別を伴ったのでした。若い女性には耐えられない、ひどさでした。
 日本軍の無謀な戦争と、現代日本における違法・不当な大企業における労務管理の生々しい実態を図らずも結びつけた貴重な本です。
(2014年11月刊。2200円+税)

2014年12月17日

昭和陸軍秘録


著者  西浦 進 、 出版  日本経済新聞出版社

 戦前は、陸軍の軍務局軍事課長や東條英機陸軍大臣秘書官など歴任し、戦後は陸上自衛隊で初代の戦史室長をつとめた人物の聞き書きです。陸軍中枢にいた人物ですので、内情がよく分かります。
 陸軍の機密費が14万円あった。これを高級副官が保管していた。
 梅津美治郞陸軍次官は、これをケチったというか、合理的に運用しようとした。すると、それまで機密費からお金をもらっていたダニのような人物が梅津次官の悪口を言いはじめた。
 お金の恨みは恐ろしいと言うことです。
あとで刺殺された永田鉄山は非常に頭のいい、思いやりのある人物だった。派閥に入らないことをモットーにしていた。
 永田鉄山は陸士16期の衆望を担っていた。東條は17期、山下奉文は18期。
荒木陸軍大臣は、極端な人事をやり、その不平がひどかった。
 昭和15年に、中国共産党が百団大戦で暴れた。そこで、国民党軍を主敵としていたのを切り換えて、中共軍を主敵とした。その結果、昭和18年に、中共軍の勢力は一番下がった。そのときの日本軍の主役は岡村大将だった。
 国民党軍の暗号は初めからすっかり解けていた。しかし、ロシア系の暗号である中共軍の暗号は、なかなか解けなかった。
 中国にいた不良日本人、そして不良朝鮮人が日中の関係に非常に大きな悪影響を及ぼした。アヘンの密売をやっている日本人が北京あたりに非常に多かった。
 昭和14年の秋は、米騒動が起きたり、非常に暗い時期だった。ノモンハンは芳しくないし、独ソ不可侵条約が出来てドイツからの牽制効果はなくなるし、支那事変が2年たってもいっこうに解決の曙光がないので・・・。
 東條は、あの当時、非常に強気だった。彼我の力関係をかなり甘く見ていた。
 ノモンハン事件では、情報が不足していた。向こうの後方輸送力を誤判してしまった。
 ドイツのソ連進撃は既定の事実だろう。ドイツの攻勢は初期は有利に進展するだろうが、いずれ日本の支那事変と同じようになる公算がきわめて高い。だから、日本としては情勢の進展を待つ。年来の宿敵だからといって、すぐにドイツの尻馬に乗ってロシアに攻勢をかけることはない。早急に強引なことはせず、もう少しじっくり様子をみるべきだと考えた。
 しかし、初期にドイツ軍が非常に有利な状況だったので、参謀本部のなかに、日本も北へ向かって進撃する準備をしろという声が強まり、関特演が始まった。
 ミッドウェイ会戦のとき、日本の航空母艦が4隻とも全部やられたことを知らされた。しかし、作戦課から、これは絶対に口外するなと言ってきた。だから、参謀本部でも、ごく一部の人しか本当のことを知っていなかった。
 東條英機は、非常に温情もあり、細かいことによく気のつく人だった。部下の家族の病人とかには人一倍、気をつかった。仕事の上ではやかましいけれど、それほど嫌な奴だという気持ちはなかった。
 精励恪勤なことは、ちょっと比較できないほど。また、天皇に対しては誠実無比だった。
 陸軍内部の軍人たちの息づかいまで伝わってくるような臨場感あふれる聞き書きでした。1967~68年の聴きとりです。
(2014年9月刊。3600円+税)

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