弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2014年3月27日

ノモンハン1939


著者  スチュアート・D・ゴールドマン 、 出版  みすず書房

 アメリカの学者がノモンハン事件を徹底的に分析・検証した本です。
 1939年5月から9月まで、戦闘が断続的に続いた。
 この紛争は単なる国境衝突事件ではない。10万人もの人が、また1000もの装甲車両と軍用機が4ヵ月のあいだ激烈な戦闘に投入された。死傷者は4万人にのぼる。宣戦布告なき小戦争だった。
 日本軍は、攻撃機が200機、陸軍唯一の独立戦車旅団も出動した。
 ノモンハンでの戦いが頂点に達したとき(1939年8月)、ヒトラーとスターリンは独ソ不可侵条約を締結した。だから、スターリンは、ノモンハンで日本に対して断固たる措置をとることができた。
 満州事変のあと、日本の陸軍内では、「関東軍」は中央の命令を無視する部隊として定着した。
満州における日本の軍事作戦は1931年秋から翌年春まで続いたが、極東地域におけるソ連の軍事的弱点を知っていたスターリンは、厳正中立の政策をとった。ソ連が軍事介入しなかったばかりか、国境線沿いで示威活動することもなかった。
 1937年時点で、ソ連赤軍は順風満帆とはとても言えない状況にあった。その2年前に始まったスターリンの大粛清が規模と激しさを増し、軍に波及していた。赤軍の首脳部がほとんど粛清され、消えていった。
 1937年6月の時点で、日本の陸軍は、司令官レベルの処刑は赤軍の統制を乱し、日本にとって赤軍はもはや恐れるに足りない存在だと結論づけた。
 1936年11月に、日本はドイツと防共協定を結んでいた。
 1939年3月、ドイツ軍がチェコスロヴァキアに侵攻した。
 1938年6月、ソ連のリュシコフ少将が日本に亡命した。
 1938年の張鼓峰の戦いでソ連軍に敗北したことによって帝国陸軍の名誉と威信は大いに傷ついた。関東軍は、屈辱感を味わった。
 砲や戦車、飛行機といった物質面で質量ともにソ連が優位に立っていることが明らかになったにもかかわらず、日本軍の首脳は、この点をまったく顧みなかった。
関東軍の小松原中将は当時52歳。帝国陸軍きってのロシア通だったが、戦闘を経験したことはなかった。かつて、ハルビンで特務機関長をつとめていた。
 辻政信少佐(関東軍作戦課)は、奇矯な人種差別者で、獣性をむき出しにして蛮行に及ぶことがあった。辻少佐のつくった「満ソ国境紛争処理要綱」は、問題を解決するより、むしろ紛争をひきおこすためにつくられたようなものだった。
 関東軍を抑え込むためには、軍司令部の人員を大幅に異動させるという強硬な措置が必要だった。だが、ときの参謀本部には、あえて波風を立てるようなことを考える者は誰もいなかった。関東軍は野放しにされ、独断にもとづく行動を許されたも同然だった。
 日本軍の過剰な自信は、日本軍の情報活動の不満の結果でもあり、原因もある。ソ連の戦力を関東軍が過小評価し続けたのは、彼らの慢心に帰することができる。
 陸軍大臣の板垣中将は顔見知りの辻少佐を擁護した。
 1939年に満州国にあった自動車のうち、関東軍がつかえたのは800台。これに対してソ連は420台以上の自動車を動員し、兵站業務をすすめていた。
 ノモンハンでは、飛行機とパイロットの数において、ソ連が2対1で日本に優位に立っていた。ノモンハン事件で日本軍の死傷者は2万3000人。これに対して、ソ連は2万6000人。
 しかし、赤軍の力がはっきり実証され、関東軍が無残な敗北を喫した事実は否定しようがない。関東軍はソ連に対する全面戦争を決断した。しかし、陸軍中央はそれを許さず、大々的な人事異動を行った。こうして関東軍司令部の中枢グループは崩壊した。ところが、別の場所で息を吹き返した。
 ノモンハン事件で関東軍の味わった苦い経験は、深い刻印を残し、それが北進から南進への日本の方針転換への主な要因となった。
 ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の有力な開戦論者になった。服部卓四郎中佐と辻政信少佐である。この二人は参謀本部作戦課の中枢にポストを得た。
 1939年に起きたノモンハン事件が、日本とヨーロッパに大いなる影響をもたらした大事件だったことがよく分かる本です。
(2013年12月刊。3800円+税)
 私の住む団地の桜が満開となりました。熊本城の桜は8分咲きでした。週末がちょうど見頃になりますね。
 ハクモクレンそしてシモクレンも、あちこち満開です。我が家の庭のチューリップもに日に日に花が増えています。春は、いいですね。なんだか浮き浮きしてきます。


2014年3月 8日

満州航空の全貌


著者  前間 孝則 、 出版  草思社

 満州国の知られざる裏面史が明らかにされています。
15年戦争の幕開けとなった満州事変が起きたのは1931年(昭和6年)。奉天郊外の柳条湖での満鉄線の爆破事件に端を発する。
 1932年3月、日本のかいらい国家である「満州国」の建国が宣言された。そして、同じ年の9月、満州航空が誕生した。関東軍の揚力な後押しを受けて雄設された満州航空は、関東軍と一体となって大陸進出そして大陸支配の先兵として活躍した。満州全域に定期航空路網をつくりあげた満州航空は、途中から分離した満州飛行機製造をふくめると最盛期には8000人もの従業員を擁していた。
 満州航空は、国策の民間航空会社だったが、その現実は、群雄割拠する軍閥が各地域を支配しており、反日・抗日勢力のリアクションを受け、緊張を強いられながら運行する日々だった。
 関東軍は満州事変の時点において航空機を一機も保有していなかった。もちろん、航空輸送部隊も持っていなかった。
 満州航空の裏の顔は、軍命にもとづく「軍臨便」だった。満州航空は、「関東軍の二軍」「覆面部隊」などと呼ばれていた。軍人の移動や視察、負傷兵や武器・弾薬の輸送、危険のともなう偵察や邦人救出などを行っていた。
 満州航空の設立にあたっての出資金(資本金)350万円は、満鉄が150万円、満州国政府が100万円、住友が100万円出資した。このとき、三井・三菱は出資していないが、それは関東軍に対して不信感を抱いていたから。
 満州国はアヘン専売による利益を重要な財源としていた。アヘン中毒者は日本占領下で急速に増大していった。日本はアヘン専売利益の拡大を狙った。このアヘンを満州航空は運んでいた。アヘン2000トン、1000億円にもなる。
日本の関東軍そして満州国はまさしく死の商人として存続していたわけです。おぞましいことです。決して戦前を美化してはいけません。
 ところで、この本には杉野元兵長が生きていて、満州にひっそり生活していたと書かれています。日露戦争のとき「軍神」広瀬中佐が亡くなる直前、「杉野はいずこ」と叫んで探しまわった、あの杉野兵長です。実は生きていたのですが、名誉の戦死をしたことになっていたので、生きて故郷に帰ったとき、「おまえはもう日本にはおれない」と言われ、満州に渡って生活していたという話です。本当だとしたら、むごいことですね。
 いろいろ満州国の実態が分かる本でした。
(2013年5月刊。2600円+税)


2014年3月 2日

「愛国」の技法


著者  早川 タダノリ 、 出版  青弓社

 戦前の日本が「戦争を愛する国」へ向かうためには、権力と軍部による並々ならぬ思想動員があったことがよく分かる本でした。それにしても、驚くべき発見がいくつもありました。
 その一。日本人には、昔から日の丸を掲げる習慣があったわけではないということです。最近では、正月になっても、「日の丸」を掲げている家庭はまず見あたりません。今では、日本にそんな習慣はないと断言してよいでしょう。そして、実は、それは昭和10年代になっても同じことだったのです。そこで、政府は国威発揚キャンペーンの一環として、「日の丸」を掲げるように大々的に取り組んだのでした。
 なーんだ、という気がしました。いま、安倍政権は、憲法を改正して「日の丸」を国旗と定めようとしていますが、とんでもない時代錯誤でしかありません。ところが、教職員と子どもの思想を統制することだけは明確です。
 その二。戦前には徴兵保険というのがありました。富国徴兵保険相互会社というのがあって、徴兵されると、保険金がおりるというものです。これで入営に要する費用をまかなったのでした。この保険会社は大もうけしたようですが、いまでも「フコクしんらい生命」として現存しています。
 その三、出征兵士の妻の姦通問題に警察が目を光らせていて、その妊娠状況まで警察が管理していました。個人のプライバシーより出征兵士の士気を重んじていたというわけです。
 その四。これが一番の驚きでした。軍人稚児隊というものがあったというのです。写真があります。千葉県流山市にできたもので6歳とか7歳の少年勇士11人から成る部隊があったとのこと。この当時、子どもの軍服は大流行していた。七五三などのとき、ありふれた服装だった、というのです。
 陸・海軍も「軍事思想の涵養に資する」として、大将服や将校服の着用を認めていた。
 世の中が軍国主義に一色に染まるとこういうことが起きるのですね。こんな世の中にならないように、今がんばりましょうね。
(2014年1月刊。2000円+税)


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