弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
人間
2012年4月 9日
人生の科学
著者 デイヴィッド・ブルックス 、 出版 早川書房
人間の意識と無意識との関係を明らかにした面白い本です。
人間が幸福になるうえでは無意識が重要な役割を果たす。人間の日々の行動は、無意識の世界で生じる愛情や嫌悪などの感情によって、かなりの部分が決められてしまう。
人の感情の90%は、言葉以外の要素によって伝わる。話すときの態度、体の動きなども大切な要素だ。
無意識は、決して心の中の暗闇の部分、未開の部分などではない。恐怖や痛みを隠しておく場所でもない。人と人がつながる場所、心と心がつながる場所である。無意識には、長い時間をかけて知恵が蓄積される。
男性が美しいと感じる女性は、肌が美しく、唇がふっくらとしている。髪が長く、艶がある。左右の対称性が高く、口と顎、鼻と顎の間が離れていない。
女性が男性を見るときに主として注目するのは、目である。とくに瞳の大きい男性には性的な魅力を感じる。また、大事なのは、左右の均整がとれていることである。
女性は男性ほど、視覚によって性的欲望を喚起されることがない。女性一人で子どもを育てるのはまず不可能なので、授精だけでなく、その後も継続的に協力してくれるような男性を選ばざるをえない。
男性は金持ちであればあるほど、付き合う女性が若くなる傾向がある。また、女性は外見が美しいほど、付き合う男性の収入が多いという傾向がある。男性の収入の多寡は、配偶者が美しいかどうかで分かることが多い。うひゃーっ、そんなことまで分かるのですか・・・・。
意思決定は、理性の仕事ではなく、実は感情の仕事なのだ。意思決定は、私たちの知らないところでなされ、私たちの意識には後で知らされる。
感情がなくなると、人間は愚かな人生を歩むことになってしまう。極端な場合、彼らは反社会的な人間になってしまう。他人の心の痛みを推しはかることもできないから、平気で粗暴な振るまいをする。
私たちが自分の気持ちを自覚するのは、情報処理がすべて完了したあとである。理性は感情があって初めて機能できるもの。むしろ感情に依存しているといってもいい。
感情は、物事の自分にとっての価値を決める役割を果たす。理性はただ、感情によって高い価値を与えられたものを選択するだけだ。
脳の指示は初めから一つに統一されているわけではなく、同時に複数の指示が出され、それが競合する。そして、競争に勝った指示に身体は従うことになる。
人間は絶えず迷い、揺れ動く存在である。人間を人間たらしめているのは、実は無意識ではないか。無意識が洗練され、高度な能力を持ったことで、人間は人間になったのだ。
無意識の思考は天然のもので、自由闊達だ。それに対し、意識的な思考は、一歩ずつしか前へ進めないし、いくつかのごく限られた事実や、限られた原理・法則に頼る傾向にある。無意識の思考は、枠にしばられることなく、連想によって自由に大きく広がっていく。
幸運な子は、母親がその時々の気分を敏感に察知してくれる。抱き上げてほしいときは抱きあげてくれるし、下ろしてほしいときは下ろしてくれる。刺激がほしいときには、刺激を与えてくれ、そっとしてほしいときは、そっとしておいてくれる。そういうときを過ごすなかで、子どもたちは自分が「他者と対話する存在」であることを学んでいく。この世界は、絶え間ない他者との対話で成り立っていることを学ぶのだ。
生まれて間もなく接した人たちの関係が良好なものでないときには、子どもは他者を極端に恐れるようになる。そして内にこもるか、極端に攻撃的になるのかのどちらかになってしまう。
無意識は、意識に比べ複雑な問題の解決が得意である。選択肢や可変要素がさほど多くない問題なら、意識はうまく解決できる。だが、選択肢も可変要素も多数になってしまうような問題は、無意識の方がうまく解決できる。また、意識は構成要素が明確に分かるような問題ならうまく対処できるが、そうでない問題への対処は難しい。構造が曖昧な問題に関しては、無意識の方がうまく対処できる。
人間と人間の一生について、さらに深く知ることができる本でした。
(2012年2月刊。2300円+税)
2012年3月26日
マジックにだまされるのはなぜか
著者 熊田 孝恒 、 出版 化学同人
手品にだまされて怒る人はいない。まことにそのとおりです。そのだまし方のうまさに驚嘆こそすれ、怒るなんて考えられません。でも、なぜ?
だまされてお金を巻き上げられて弁護士のもとに駆けつけてくる人は後を絶ちません。騙しの手法は日々新しくなっています。一人でじっと家にこもっていると、うかうか騙されやすいのが現実です。
人が、なぜだまされることを喜ぶのかという人間のメカニズムは、まだ十分に解明されていない。うへーっ、そうなんですか。奇術には私も楽しくだまされています。
人間が本を読んでいるのを横から観察すると、眼は滑らかに動いているのではなく、ピクッピクッと、まるで秒針のように、不連続的に動いているのが分かる。実際には、眼は一度とまると、その前後の数文字を読み、それが終わると数文字先に飛び、そこで、またとまるというのを繰り返す。これをサッカード(サッケード)と呼ぶ。視線がとまっているあいだは、そのなかを注意のスポットライトが一文字ずつ字面を追って移動するということがおこなわれている。
スムーズに眼が動いているように感じるのは、注意のスポットライトが、不連続な眼球の動きを補っているからだ。特徴検索モードとは、行動の目的にそった「構え」を維持し、その構えにしたがって情報を処理するようなメカニズムを働かせることにほかならない。私の速読術というのはひたすら自分の脳を信頼して活字を追うということです。理解できればどんどん読みすすめていくことができます。
眼が動いた先でとまる直前の0.1~0.2秒ほどのあいだは、サッカード抑制によって眼からの情報が処理されない空白の時間が生じる。この空白の時間を脳はサッカードが終わった時点で得られた情報によって穴埋めしている。つまり、サッカード後の情報が、その0.1~0.2秒前から始まっていたかのように感じる。ヒトが眼を動かしているあいだに起きたことは認識されない。
我々が見ていると思っている情報のうち少なくとも3割はリアルタイムではない。いわば静止画をプレイバックしているような状態なのである。
日常生活では、我々は臨機応変に注意モードを切り替えながら、適切な情報処理を行っている。マジシャンは、わざと怪しげな仕草をすることで、観客の注意が特定の場所に向かないように「誤誘導」している。
高齢者は自ら注意機能の低下を補うために、情報処理の方法を変化させていた。
過去の知識を活用して目標に到達するという方略を採用した。考慮すべき情報が多くなると、無意識的な直感思考のほうがよい選択に結びつく。
本を読むときの脳の動きや、見ることと認識のあいだのずれというものがとても新鮮な指摘でした。
(2012年1月刊。1700円+税)
吹く風はまだ冷たいものの、すっかり春の日差しとなりました。白いコブシの花が満開です。同じく白のハクモクレンそして満開となった紫色のシモクレンを町なかに見かけます。私の家にもシモクレンがあるのですが、うちはまだまだ小さなツボミでしかありません。なぜか例年遅いのです。
遅いと言えば、チューリップはようやく咲きはじめたもののまだ花を咲かせているのはわずか13本のみです。あとは、まだまだ春はまだ来ていないよという感じです。クロッカスやヒヤシンスもいくつか咲いています。今、見事なのは黄水仙です。これも自己愛を主張しているのでしょうか・・・。
2012年3月 7日
移りゆく法と裁判
安部光壱 法律文化社 2012年2月10日
ここでは著者のことを敬愛の念を込めて、安部先生とは呼ばずに、安部さんと呼ぶことにする。安部さんは弁護士を生業としながら、その真の姿は人間と社会に対する関心と好奇心に尽きぬ情熱の炎を燃やす永遠の少年である。その少年が久しぶりに書物を世に著わした。それが本書である。
本書の成立ちは後書きに記されている。「本書は、平成9年9月から「電気と九州」という月刊誌に九州大学名誉教授の有地亨先生と隔月で連載をはじめたものをまとめたものである。ある時期から、私ひとりで担当することになったが、これまでに100編以上になったので、その中から30編ほど選んで本書にした。」
本書は4部構成であり、第1部は「雑学」、第2部は「弁護士倫理」、第3部は「事実認定」、第4部は「判例」となっている。易しい雑学から次第に複雑な法律問題へ進む、というわけである。では、本書の核心は、弁護士の書物らしく第3部、第4部にあるかというと、そうではない。むしろ、私には第1部「雑学」にこそ、安部さんの真髄があるように思えてならない。
その第1部「雑学」の冒頭には、安部さんの尊敬するシェークスピアの作品からの引用がある。「どんな荒れ狂う嵐の日にも時間はたつのだ」、「いいが悪いで、悪いがいい」などなど。安部さんはシェークスピアの言葉の中に時代を超えた人生の普遍の真理を見出しているのだ。そして、大佛次郎の「ドレフェス事件」を引用し、大岡昇平の「野火」「武蔵野夫人」を引用し、夏樹静子の「量刑」を引用する。まったく安部さんの読書量とその守備範囲には恐れ入る。
また「雑学」の周辺にはおもしろいエピソードが披歴されている。ここでは次の2話を紹介したい。
さいきん自動車の運転免許を取った安部さんは言う。「自動車学校で学んだことは多いが、一番の収穫は、安全運転の意味である。安全運転とは自分が正しく運転するだけでなく、相手の飛び出し等、危険を予測し、それを避けることまでも意味する。つまり、自分だけが正しいことをすればいいというのではなく、正しくない逸脱行動をする人や車を常に意識して避けるということである。これは図らずも人が社会生活を行ううえで極めて重要なことであり、私は弁護士として、依頼者に対してや裁判で常に言っていることである。つまり、自動車学校は交通ルールだけではなく、人生のルールまで教えているのである。そのことを理解していれば、事故やトラブルが起こった際、他人のせいにするのではなくそれを起こすのを予防できなかった自分も浅はかであったと気づくだろう。」
安部さんと親しい元裁判官が言う。「私は、裁判とは、弁護士の優劣に影響されると思っていた。いわば「弁護士運」がその勝敗を決定すると。しかし、自分が弁護士になって気づくのは、どの裁判官にあたるかがもっと重要ということだ。「裁判官運」ということだ。これには驚いたけどね。」
本書のタイトルは「移りゆく・・・」であり、安部さんは一つとして移りゆくものを見逃さず聞き逃さない好奇心を発揮しつつ、移りゆかない永遠普遍なものも決して忘れることがないバランス精神がある。やはりただの腕白少年ではない、大人の心をもった少年である。
2012年2月 1日
盲ろう者として生きて
著者 福島 智 、 出版 明石書店
心が洗われ、すがすがしい読後感に包まれた本でした。
すごいですね。目が見えず、耳が聞こえないのに、500頁もの本を書いて出版するのです。負けてはいられないという気分にもなりました。いえ、別に競争しようというのではありません。私は私の道で引き続きがんばってみようと思ったということです。
著者が書いたという童話がいくつか紹介されています。これまた圧倒されました。11歳のころに書いたとは思えないファンタジックなお話です。その想像力と筆力には、ただただ感嘆させられました。
キミには有力な武器が二つある。一つはしゃべれること。もう一つは点字ができること。この二つを生かすかが今後の課題だ。キミは、できるだけしゃべるようにつとめないといけない。この恩師のアドバイスを忠実に守って今日の著者があるといいます。
人はみな、宇宙に広がる無数の星々のように、孤独に耐えつつ、輝いている。各人は多くの場合、遠く離れてバラバラに配置されている。そして、その孤独に耐えながら、それでもなお、あるいはそれだから離れまいとして重力で引き合う。あるときは二つの恒星が互いに重力で引き合いながら、共通の重心の周囲を回る「連星」のような関係性を保つ。
またある場合は、太陽系における太陽とその光を受けながら公転する惑星群のような、「恒星系」に似た関係性を形づくる。
相互に光を放ち、反射しあう輝きは「コミュニケーション」を連想させる。重力は、退社との結びつきを求める「憧れ」だろうか。そして、星々が形づくる多くの星座や大宇宙に広がる無数の銀河系や星団は、人と人の関係性が織りなす「文脈」の多様さと豊かさを象徴しているのかもしれない。これって、すごくピンと来るたとえですよね。
人はみな、それぞれの「宇宙」に生きている。それは部分的には重なりあっていたとしても、完全に一致することはない。時には、まったく交わらないこともある。このように、ばらばらに配置された存在であるからこそ、その孤独が深いからこそ、人は他者との結びつきに憧れるのではない。智(著者)の盲ろう者としての生の本質は、この根元的な孤独と、それと同じくらい強い他者へのあこがれの共存なのではないだろうか。
人は誰でも自分一人だけで生きているように見えて(思っていても)、実は無数の人々と支え合って生きています。いえ、それがなければ一日たりとも生きていけません。私たちは、日々は、このことにまったく無自覚に過ごしていますが・・・。
著者が高等部一年生のとき、担任の石川先生は次のように忠告したそうです。
おまえも、そろそろ怪物になってきている。知識はあっても、考えようとしない。物事の本質、本当に価値のあるもの、美しいもの、意味のあるものを見分けようとしなければ怪物になる。人間の皮をかぶった怪物だ。世に評判の人ほど怪物は多い。
うむむ、これはグサリときますね。鋭い指摘です。こんなことを言ってくれる教師って、ありがたいですね。私もつい胸に手をあててしまいました。
盲ろうになって失ったものは数知れずあると思うけど、逆に得たものも少なからずある。たとえば、人の心を肌で感じられること。外見的な特徴や、しゃべり方などに左右されることがないので、純粋に相手の言いたいことが伝わってくる。 指点字で話すときに使う人間の手は意外にその人の性質をあらわしている。
著者が18歳のとき、ある夏の夜、父が言った。
「無理して大学なんか行かんでもええ。好きなことしてのんびり暮らせばええやないか。これまで、おまえはもう十分に苦労した」
「そんなの嫌や。ぼくにも生きがいが欲しいんや。ぼくは豚とは違うんや」
「分かった。そこまで言うんなら、おまえの思うとおりにとことんやれ、応援したる。まあ、ビールでも飲め」
すごい父と子の会話ですね。このやりとりを聞くと、父親もとても偉かったと思います。
(2011年7月刊。2800円+税)
2012年1月16日
アフリカで誕生した人類が日本人になるまで
著者 溝口 優司 、 出版 ソフトバンク新書
ヒトが誕生したのはアフリカだというのは動かない事実です。
200万年前よりも古い人類の化石はアフリカでしか発見されていない。現代日本人の最古の祖先は2001年に中央アフリカのチャドで発見された猿人・サヘラントロプスだ。700万年前に棲息していた。
ヨーロッパ人は歯が小さい。そのため、顎の力を受けとめるため、カラベリとういう補強構造を発達させている。
日本人を含む現代の人類は、世界中のどこでも、どんなに外見の異なる人同士でも子ができ、孫が生まれる。完全交配が可能な同じ種なのである。つまり黒人だから、黄色人種だから、白人と種が違うというものではないのですよね。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとは、交配することで次第にホモ・サピエンス集団に吸収されていって、消滅していったと考えられる。
類人猿などにある体毛がホモ・サピエンスでは極端に薄いのは、人類の祖先が森林を出て、草原で直立二足歩行するようになったことと関連している。というのは、暑い昼間、長時間走り続けるには、効率的に体温を下げる必要がある。体毛があって汗腺が発達していないときは、それは不可能だった。しかし、突然変異で体毛が薄くなり、汗腺が発達して大量の汗をかけるようになった。昼間の狩りで獲物をしとめるようになったヒトだけが子孫を残すことができた。
四つん這いやナックル・ウォーキングのときにはよく見えていた生殖器が直立したことで見えなくなったことをカバーするため、粘膜で出来た唇があり、女性の胸がふくらんだ。
唇は生殖器の、乳房はおしりの擬態である。
アジア大陸をいったん北上した人々が、寒冷地適応をし、農耕技術を身につけたあと再び南下して、もとからいた人々と混血し、東南アジアの現代人になった。
縄文人の祖先は、オーストラリア先住民(アボリジニー)などの祖先と同様、氷期にはスンダランドにいた人々。
琉球人はアイヌと同型統ではない。むしろ本土日本人に近い。
弥生人が寒冷地適応をした北方系の特徴をもつのは、もともとバイカル湖近辺の人々が祖先であったため。そして、弥生人が水稲栽培の技術を持っていたのは、日本に渡来する前に暮らしていた朝鮮半島で身につけたから。
このように、日本列島には、南方期限の縄文人が先にきて北方起源の弥生人が後からやって来たのは、ほぼ確実だ。そして、大陸から渡来した弥生人が、もともと日本に住んでいた縄文人と混血しながら広がっていき、かなり置き換わったのに近い状態になった。
なーるほど、そういうことなんですね。なんだかネアンデルタール人と縄文人って、置かれている状況が似ていますよね。
(2011年9月刊。730円+税)
2011年10月 3日
人間はなぜ眠れないのか
著者 岡田 尊司 、 出版 幻冬舎新書
世の中には、不眠症で悩んでいる人が意外に多いですよね。一日に4時間とか5時間しか寝ていないという人もいますが、夜ぐっすり眠れない、だから昼近くまで寝ていて、頭がずっと冴えないと嘆いている人が少なくありません。幸い、私は寝つきが良いのですが、たまに悶々とするときがあります。間違って夜7時以降にコーヒーとか緑茶を口にしてしまったときです。どうしてかなと振り返ってみて、はっと思いあたるのです。
この本は眠ることの大切さとあわせて、ぐっすり眠るための秘訣を公開していて、とても実践的に役に立ちます。
日本人の5人に1人は不眠症。3人に1人が何らかの睡眠障害をかかえている。短期の不眠では、一方で神経疲労の影響があり、もう一方でストレスホルモンの作用がある。
眠れなくても、目を閉じて横になって休養しておくのは大切なこと。
神経システムが休みなく活動を続けると、一つには神経伝達物質を放出し尽くして貯蔵庫が払底してしまうことになる。また、受け手の受容体が神経伝達物質にさらされ続けた結果、一過性に反応しなくなる状態(脱感作)を引き起こす。これらが、神経疲労である。
睡眠は健康な精神の維持に大切なものである。睡眠障害は、まず注意力(とくに注意の持続)記憶力などの機能を低下させる。高度な情報の統合を必要とする判断力や抽象的思考、想像力が、とくに影響を受けやすい。
老化を防ぐためにも、中年以降はいっそう質の良い睡眠を十分にとることが大切だ。睡眠不足は攻撃的な行動を引き起こしやすいし、他者に対する関心が乏しくなって、ひきこもりの原因ともなる。
ノンレム睡眠、ことに徐波睡眠は、免疫力を維持するうえで、非常に重要である。睡眠不足は、免疫力を低下させ、感染症、そしてがんにかかりやすくなる。
レム睡眠は長期記憶の形成に関与している。
よく眠るためには、ベッドで仕事をしたり、テレビを見ることはしない。夜眠るときは、必ず決まった寝室やベッドで眠るようにする。寝る直前に入浴するより、少し早目に入浴し、火照りが落ち着いてから床に入るほうがいい。
夜、メラトニンの分泌が活発になると体温が下がる。このタイミングとあわせると、眠りに入りやすい。そして、午後のコーヒー、午後3時以降の昼寝は避ける。
ぐっすり眠れたら、朝の目覚めがすっきりして、今日も一日がんばろうという気になれますよね。
(2011年6月刊。760円+税)
日曜日に近くの小学校で運動会があっているようで、風に乗って号令をかける子どもの声などが聞こえてきました。もう久しく運動会には行っていません。
先日、原発問題の学習会で今の福島市内の放射能量は学童疎開されるべきレベルなのに、政府は何もしないのはおかしい、人体実験をしているようなもので、許されないことではないかという指摘がありました。目に見えないだけに、放射能の恐ろしさを実感することは出来ませんが、妊婦さんや子どもたちの疎開はもっとすすめられるべきだと思いました。
いま、わが家の庭にはピンクと白の芙蓉、酔芙蓉の花ざかりです。百舌鳥のかん高い鳴き声を聞きながら、せっせとチューリップの球根を植え、その準備をすすめています。来春が楽しみです。
周囲の田んぼの稲穂は黄金色となり、刈り取りを待つばかりです。
2011年9月26日
赤ちゃんの不思議
著者 開 一夫 、 出版 岩波出版
赤ちゃんって、いつ見ても可愛いですよね。我が子も、みな、とっても可愛くて、眼に入れても痛くないというたとえが実感としてよく分かりました。孫のほうは残念ながらまだ経験がありませんが、とても可愛いとみな言ってますね・・・。
その赤ちゃんが可愛いだけの存在ではなくて、意外な能力とパワーを発揮していると言うのです、ええーっ、どんな・・・?
赤ちゃん学は、この30年ほどで目覚ましい発展を遂げた。それまで、まったく無力と考えられてきた赤ちゃん像がくつがえされている。今では生後まもない赤ちゃんでも、さまざまな能力を持っていることが明らかになっている。
生後1時間にもみたない新生児も「顔まね」する。「顔まね」というのは、たとえば大人が赤ちゃんに向かって、舌をベローッと出すと、赤ちゃんも舌を出すということです。こう動かすと視覚的にこうなるというのを、鏡によって理解していなくても顔まねできるというわけで、これは本当に不思議なこと。
母親が妊娠中にリラックスするために見ていたテレビドラマのテーマソングが胎児にも影響していることが分かった。
人間の顔が正面を向いて目もこちらを見ている写真と、あらぬ方向を見ている写真とを比べてみせると、明らかに赤ちゃんは、目が正面を向いている刺激のほうにひきつけられる。赤ちゃんは、早いうちから自分なりのやり方で世界をとらえ、様々な情報を非韋に効率的に処理している。赤ちゃんは、何か描かれるのをただじっと待っているキャンバスではなく、もっと能動的でダイナミックな対象としてとらえるべき存在だ。
一般的に、生後12ヵ月までに男の子と女の子とは違う玩具を好むようになる。
女性は男性と比較してコミュニケーション能力に長けている。相手の表情から感情状態を読みとったり、延々とおしゃべりするのが好きだったり、一般的には対面コミュニケーションや社会的認知能力が優れている。
赤ちゃんって不思議な存在だ、なんて言ってるうちに、みるみる大きくなっていき、幼児が小児になり、児童、そして少年やがて大人になります。ですから、私たちの未来は赤ちゃんにかかっているわけです。そんな赤ちゃんを、みんなで大切に育てたいものです。
(2011年5月刊。720円+税)
2011年9月18日
身も心も
著者 盛田 隆一 、 出版 光文社
75歳の老人が妻に先立たれて茫然としているなかで、絵画サークルに入っているうちに女性と親しくなっていくストーリーです。
老いらくの恋もいいかな、なんて思いながら読んでいると、とんでもない現実が二人それぞれに重たくのしかかってきます。優しく話を聞いてくれる女性のほうにも、なかなか他人には言えない辛い過去がありました。
男性の方は、老いらくの恋が息子夫婦に発覚すると、財産の帰属を心配されたり、世間様に恥ずかしい、みっともないなどと冷たい仕打ちを受けてしまいます。私が弁護士として現実に受任したことのあるケースによく似ています。子どもは大きくなると、親の遺産を我が物であるかのように錯覚し、第三者の介入を許しません。恋愛感情は打算だけで成り立っていると警戒するばかりです。
そして、なにより最大の問題は頭と身体の老化です。次第に自分への自信を失います。現実に病気に倒れてしまうことが起きます。そうすると、必要なのは介護です。誰が介護してくれるのか、その費用は持ち合わせているのか・・・。深刻な現実が迫ります。
制限時間迫る、高齢者の恋愛が炙り出すものは。
これが本のオビに大書されているサブタイトルです。そうなんですね、若いときとは違って、制限時間が迫っているというわけです。それでも、いくつになっても若者のように素敵な恋をしたいものです。そう思いませんか・・・。
(2011年6月刊。1200円+税)
2011年9月17日
困ってるひと
著者 大野 更紗 、 出版 ポプラ社
原因不明の難病にある日突然見舞われた女子院生の壮絶なる闘病のバトル記です。
なんともまあ、すさまじい病気です。そして、病気になったときの医療と社会保障の貧困さも浮き彫りにされています。それでも救いなのは、この本を書けるほどには楽天的な著者と、それを支える個性的なドクターたちの存在です。それがなければ、暗く、気分の落ち込むばかりの、頁をめくる元気も出てこない本だったでしょう。ところがこの本は大変だな、それで、その後どうしたんだろうと続きを読んでみようという気にさせます。
福島の山奥、ムーミン谷からぽっと出てきて、東京は上智大学仏文科に入学した著者はビルマ(ミャンマー)の難民援助活動に邁進していたのです。それがストレスをためてしまったのでしょうか、ある日突然、まったく動けない身体になりました。
ビルマの山奥によくぞ若い女性が入っていて、難民支援をがんばったものです。たいした勇気、そして元気でした。
難病といっても原因不明ですから、あちこちの病院をたらいまわしにされます。ようやく、まともに患者として扱ってくれるドクターとめぐりあうことが出来ました。それにしても医師という職業も大変ですね。自分の私生活を投げうって難病患者ばかりの病棟を受けもち、不眠不休でがんばるというのですから・・・。
現在進行形の「困ってるひと」の話です。ただただ、がんばってくださいね、応援してますとしか言いようがありません。
この本を読むと、日本はアメリカのようになってはならない。ヨーロッパの多くの国のように医療費を無料化し、患者負担はないという国にすべきだと思いました。そのためには、医療も看護師も、もっと労働条件が保障されなければいけませんよね。それがあってこそ、患者は安心して治療に専念できるというものです。
(2010年11月刊。1800円+税)
2011年9月16日
ああ認知症家族
著者 髙見 国生 、 出版 岩波書店
この本で、私はいくつものことを新しく学ぶことができました。あなたも私も、きっとなるかもしれないのが認知症です。この本で予習していたら損はしないと思います。
認知症になった家族をかかえて悩んでいるとき、そうか、これが人生というものかと納得できたりする。いまは認知症新時代。その前に旧時代があった。認知症を取りまく環境は、この30年のあいだに確実に変わった。間違いなく進歩している。
旧時代には痴呆症老人と呼ばれていた。
家族もつらい思いをしていたけれど、本人が一番つらい思いをしているんじゃないか。
2004年、それを発見・確認した。何も分からない、何もできないと思われていた認知症の人が自らの思いを語ったとき、聞く人すべてに衝撃を与えた。それから認知症新時代が始まった。
著者は家中を徘徊する母親への防御策として、家の中に「安全地帯」をつくった。カギを付けて母親荒らされない場所だ。台所の流し台の前にはベニヤ板3枚を立てて壁をつくった。冷蔵庫のドアはひもでくくりつけ、食器棚は裏返しにし、押し入れには南京錠をつけた。すごいですね。ここまでしないといけないのですね。
いま認知症の患者は日本全国に200万人はいる。家族の会は、30年前に京都で90人が集まって始まり、今では46都道府県に支部があって、1万人をこす会員がいる。
人間は誰しも認知症になる可能性がある。だから、ぼけのない社会を、とか、ぼけを予防しようということではない。ぼけても安心して暮らせる社会、ぼけがなかったら、もっと安心して暮らせる社会を目ざしている。
認知症の人は知的な部分は欠落しているが、うれしいことや悲しいこと、楽しいことは分かっている。また、家族や他人を思いやる心も残っている。
ぼけても心は生きている。認知症という病気になっても人間としての価値は少しもなくなっていない。そうなんですか、そうなんですね。このところがもっとも抜けやすいところですね。目の前の本人を見ていると・・・。
がんばりすぎると、燃え尽きてしまうことがある。がんばりすぎないけれど、あきらめない。
体が元気だからこそ、介護が大変。これが認知症の特徴。ところが、要介護度の認定は基本的に寝たきりの人をモデルとしてつくられた。そこに大きな矛盾があった。
認知症の人のもの忘れは、経験したことをそっくり忘れる。普通のもの忘れは、何を食べたかを忘れる。しかし、認知症の人は、食べたこと自体を忘れる。
認知症の人のもの忘れは、新しいことから忘れている。つまり、昔に戻って生きている。
80歳の女性が、今50歳だと答えたとき、50歳からあとの人生をすっかり忘れて、50歳の時代、30年前の自分に戻っている。
認知症の人は、夫を忘れたり息子を忘れたりしているのではない。凛々しかった夫、可愛かった息子を大切に秘めて生きているのだ。だから、目の前の夫や息子に「おたく、どちらさん?」と尋ねるのも当たりまえのこと。認知症の人は、何十年か前にさかのぼった時代に戻って生きている。このことが分かれば、認知症の人の不思議な言動を理解することができる。
うえーっ、そうなんですか。なるほど、なーるほど、よく分かりました。
認知症の人の言動にはその人なりの真実がある。
こう言われてみると、よくよく理解できますね。ただ、そうは言っても、現実に面倒みるのは本当に大変なことだと思います。とてもじゃないけれど、家族だけでは支えきれません。社会が施設、費用の点でよくよく考えて受け入れるべきですよね。だって、だれだってなる可能性があるわけですからね。
アメリカのレーガン、フランスのミッテラン、この有名な2人の元大統領は、いずれもアルツハイマーになったと聞いています。一読を強くおすすめします。
(2011年11月刊。1500円+税)
福岡県弁護士会の月報の表紙に私がフランスで撮った写真を載せてもらいました。シャモニーとアヌシーです。「うまくなったね」と声をかけてもらいました。私は、「元手がかかってますから・・・」とこたえました。
私個人のブログにもフランスの旅行記のブログをのせています。のぞいてみてください。