弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2013年4月24日

神と語って夢ならず

著者  松本 侑子 、 出版  光文社

江戸時代最後の年、統幕と尊王にゆれる日本海の隠岐島で、若き庄屋が農民3000人を集めて蜂起。圧制の松江藩を追放し、パリ・コミュニケーションより3年早く、世界初の自治政府を始めた。王政復古と世直しの御一新に夢をかけた男たち。だが、その理想と維新の現実は異なっていた。さらに、思わぬ新政府の裏切りが・・・。
これはオビに書かれている文章です。明治維新に至る動きとして、あの隠岐島で自治政府が生まれていたなんて知りませんでした。まだ行ったことのない島です。ぜひ行ってみたいものだと思いました。
 ハーバード・ノーマンが、「隠岐島の事件は、維新後、数年間における日本の経験の縮図である」と書いているそうです(『日本の兵士と農民』1943年)。これまた知りませんでした。隠岐島と言えば後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒そうとして隠岐島に流され、後に、足利尊氏とともに北条家を滅ぼし、建武の新政をおこした。しかし、足利尊氏に裏切られ、吉野へ逃れて南朝をたてた。
 慶応4年(1868年)、郡代追放、年貢半減、世直しの蜂起の檄文によって島中から男たちが集合した。49の村から、あわせて3046人が終結した。島後の男は7500人。子どもと老人を除く全男子が決起にくわわった。3千本をこえる竹槍が栗のイガさながらに立錐の余地もなく並び、熱気、緊迫感がみなぎった。
 自治政府を代官屋敷に置いて、70人が役についた。まつりごと全般について話しあう会議所(立法)には、長老の4人がついた。この4人の長老による会議制となった。まずは、学校を郡代屋敷にひらいた。
 公務をおこなう行政府としては総会所(行政府・内閣)をもうけた。頭取は前の大庄屋。文事頭取(内閣官房・文部)、算用調方(大蔵)、廻船方頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(裁判)、軍事方頭取(防衛)。武装した自警団を三部隊ととのえた。
 松江藩が反撃し、陣屋を奪回した。自治政府は80日間で終結した。しかし、松江藩の統治もわずか6日間で終わった。これは薩長が進出してきたことによる。
 明治維新に至る複雑な政争が隠岐島でどのように展開したかを小説によって紹介する本です。大変面白く、一気に読了しました。
(2013年1月刊。1800円+税)

2013年2月23日

幕末維新変革史(下)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波新書

幕末、ハリスは老中首座の堀田正睦(まさよし)に次のように警告した。
 「平和の外交使節に対して拒否したものを艦隊に対して屈服的に譲歩することは、日本の全国民の眼前に政府の威信を失墜し、その力を実際に弱めることになる」
 これは、9ヵ月後、現実に転化した。第二次アヘン戦争に大勝した英仏連合艦隊の江戸湾来襲の恐怖は、何とか回避しようとした公武合体の分裂を幕府と井伊大老に余儀なくさせ、無勅許開港路線の軌道に進入せざるをえなくさせた。外を立てれば、内は立たず。征夷大将軍は国内のみならず対外的にもその実を示さないならば、何が「武職」だとの孝明天皇と朝廷の怒りはサムライと民衆の不満の期せざる受け皿となった。
 慶応元年(1865年)ころ、日本の一般民衆は、薩英戦争・下関戦争・条約勅許という三度の欧米列強による軍事的威圧への屈従のなかで、幕府と朝廷への不信感を募らせていき、国内の一致団結、内戦回避を求め、正義藩長州へ熱烈な声援と支持をおくった。このころ、朝廷に権威はなくなった。第二次長州征伐の慶応2年(1866年)夏は、未曾有の都市打毀しとし世直し一揆のときであった。戦争と民衆蜂起は表裏一体の関係をもっていた。
 ペリーが来航したとき、旗本だけで5000家以上あった幕臣のなかでオランダ語原書を読めたのは、ほとんど皆無だった。そのなかに自らすすんで蘭学を学ぼうとしたのが勝麟太郎であった。勝の能力と見識を見抜いたのは上役ではなく、商人たちであった。商人は勝のパトロンとなった。
 勝は、商人たちとの交流のなかで日本の全国的まとまり、日本民族と民族的利害というのを、幕府とは別のものとして認識するようになった。勝は長崎での5年におよぶ海軍修練のなかで、オランダ語ができるおかげで教師のオランダ海軍士官たちと差しで人間的につきあうことができ、そのなかで市民革命を経て市民社会に生活するヨーロッパ人の人間としての豊かさと幅の広さを痛感した。「西洋人は人間が広く、日本人は人間が狭い」という日本人論は死ぬまで変わらなかった。そのうえ、勝は、島津斉彬と親交し、それが貴重な財産となった。
 アヘン戦争(1840~1842年)における大清帝国の大敗と香港割譲は、朱子学に対する日本知識人の確信を大きく動揺させた。しかも、仏教の祖国、西方浄土の地とされたインド全域がイギリスの植民地となってしまったことも、この時期までに日本人の共有知識となっていた。
 軍事的威圧を受けての無勅許開港という異常な歴史段階に入った日本において、朝廷と幕府のどちらが国家の最終意思を決定するのか、という国家論の問題が日本人全体の前につき出された。サムライ階級だけの問題にとどまらなくなったのである。
 ガーン。このような視点で幕末を考えるべきなのですね。著者は、歴史過程は決して結果から見てはならないと強調しています。そうなんですよね。でも、ついつい結果から見てしまいますよね・・・。
 幕末の戊辰戦争のなかで会津藩とともに徹底抗戦を貫き、一度の敗北もしないまま最後に降伏した庄内藩は、まったく削封のないまま東北戦争後の戦後処理を乗り切った。戦闘に強いことは、なによりも戦う相手の将兵に感銘を与え賞賛の気持ちを生じさせる。恩義の念をいだいた庄内士族のなかに西郷崇拝者が続出したことも、サムライの世界にあっては何ら不思議なことではない。
 新政権の成立とともに攘夷がおこなわれるだろうとの圧倒的多数の日本人の思いを前提条件として外交の舵取りをしなければならない立場の新政権は、なによりも旧幕府と同じだ、という非難を恐れた。
 江戸無血開城後は新政権のもとで全国統治ができるだろうという新政府の楽観的見通しは、早くも4月段階で崩れてしまった。東北に至る地方で内戦が拡大し、内戦での勝利が至上命題とならざるをえず、積極的な外交展開が不可能となった。外交の試みが開戦されるのは、12月に入ってからであった。
 幕末・維新期の日本の動きを重層的にとらえた本です。この時期の視野を広く深くするものとして、関心ある人に一読をおすすめします。
(2012年10月刊。3200円+税)

2013年2月22日

江戸の読書会

著者  前田 勉 、 出版  平凡社

日本人は本を読むとき、明治時代初期までは声に出して読む(音読)が普通だったそうです。ですから、江戸次第も当然のことながら音読です。
 そして、それを何人かで集まってやり、手分けしてその意味を質疑・討論するのでした。これを会読といいます。この本は、その会読の意義を究明しています。
 会読は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代に全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。
 会読は、上から下への一方的な教授方法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読みあうもの。そこでは先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例だった。
 明治の自由民権運動の時代は、「学習熱の時代」であった。政治的なテーマを議論・討論する学習結社が、全国各地に生まれた。
江戸時代、儒学を学んでも、何の物質的利益もあるわけではなかった。しかし、逆説的だが、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目ざした。
漢学塾での読書会読においては、上士も下士もなく、勝負して勝ち負けがはっきりする。
 会読には三つの原理があった。相互コミュニケーション性、対等性、結社性というもの。会読の場では、沈黙せずに、口を開いて討論することが勧められていた。そして、討論においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとですすめられた(対等性)。
 幕末の佐賀藩が江藤新平、大隈重信、副島種臣、久米邦武などの優秀な藩士を生み出すことができたのは、英明な藩主・鍋島閑叟のもと、藩校弘道館で全国諸藩のなかでもっとも激しい会読において競争させたことに起因する。藩校での成績の悪いものには職が与えられないほどの厳しさだった。
日田で広瀬淡窓が創設した咸宜園では、会読が教育の中心におかれ、徹底した実力主義をとった。
広瀬淡窓は、三奪法と月旦表を創案した。三奪法とは入門時に、年齢、学歴、門地をいったん白紙に戻すこと。咸宜園の入門者2915人のうち、武士が165人(16%)、僧侶は983人(34%)、庶民は1707人(61%)で、圧倒的に町人・百姓の出身が多い。
 江戸の後期になると、各藩で優秀な藩士を遊学させるようになる。各藩の藩校は自藩の藩士しか入学を許していなかったので、遊学先のほとんどは私塾だった。19世紀に入ると、武士たちは、藩士教育機関である藩校に強制的に入学させられ、会読を行うようになった。そして、各地の藩校で、国政を論ずることの禁止令が頻発した。
やっぱり、人は議論することによって目覚め、実力を伸ばすものですよね。 
(2012年10月刊。3200円+税)

2013年1月26日

「忠臣蔵」の決算書

著者  山本 博文 、 出版  新潮新書

私の誕生日が討ち入りの日と同じだからではありませんが、忠臣蔵には昔から興味がありました。
 この本は、討ち入り費用700両(8400万円)の使途がきちんと記帳されていたことから、浪士たちの行動を明らかにしたものです。
 筆頭家老の大石内蔵助が、すべての藩財政の処理を終えて会計を諦めたとき、その手元に残ったお金は700両足らずだった。現代の金銭価値になおすと8千数百万円ほど。このお金が吉良邸討ち入りのための軍資金として活用された。
 「預置候(あずかりおきそうろう)金銀請払帳(きんぎんうけはらいちょう)」が現存し、それは討ち入り前夜に浅野内匠頭の正室(妻)の瑤泉院に届けられた。
赤穂藩が領内に発行していた藩札は銀9000貫目(銀900万匁)。現在の金額にすると18億円で、藩の年間予算に匹敵する規模だった。そして赤穂藩の取りつぶしによって、赤穂の城下町は藩札をもつ債権者が藩の内外から集まって、大変な騒ぎになった。最終的には、藩札はその額面の6割と交換されて決着した。
 赤穂藩には、中級家臣が140名いた。米や金の現物で「禄」(給料)を支給される下級藩士は123名いた。
 退職金として、藩士300名に対して総額23億5千万円が分配された。単純平均で一人780万円である。
 四十七士の特徴は、階層・役職・立場など非常にまんべんなく分布しており、一口でどのようなものが討ち入りに参加したとは言えない。一人一人の考えが独立しており、しいて言えば、「武士道」への思い入れの強い者が参加したと言える。
 多くの討ち入りの参加者は、浅野内匠頭個人から特別な恩籠を受けてはいなかった。彼らは、自らの「武士道」と家の名誉を守るために行動した。
 江戸で隠れ住んでいた浪士は月3万円で生活していた。
 支出割合の多くを占めているのが、上方と江戸を往復する旅費である。一人分の片道旅費は総額で3両。2週間かかったとして、1日に2万5千円。宿泊代が1泊1万円。駕籠賃などの交通費と食費をあわせて1日1万5千円。
 大石内蔵助は、もと家老の身分であるため、旅行時には駕籠を使った。内蔵助が京都で遊興したときには、自分のお金を使った。『金銀請払帳』には、その関係の出費は記帳されていない。
 内蔵助が江戸に下ったときには、もはや軍資金も底をつき始めていて、これ以上延期が実質的に不可能だったという実情もあった。江戸へ下る旅費は一人金3両と決められていた。そして、軍資金が乏しくなっていたことから、内蔵助一行の江戸下り費用は、内蔵助自身が負担した。
 討ち入りのための武具などの購入費用は130万円ほどだった。そして、不足したお金は内蔵助が個人で負担した。藩の財政を処分したあと、700両のお金を残し、これを適切に管理して使い、立場も考えもさまざまに異なる多数の同志を足かけ2年の長期にわたって統制した内蔵助の力量は、あらためて高く評価されるべきものである。
 著者のこの指摘には、まったく同感です。2年ものあいだ、お金と人を巧みに統制した内蔵助の力はとても大きい、偉大だと思いました。
(2012年11月刊。740円+税)

2013年1月23日

「幕末維新変革史(上)」

著者  宮地 正人 、 出版  岩波書店

江戸時代が終わり、明治が始まるころの欧米列強の状況が冒頭に紹介されています。なるほど、この幕末激動期を国内情勢の変化のみからとらえてはいけませんよね。最上徳内、間宮林蔵、伊能忠敬らは探検家として日本地図の作成は対ロシアとの緊張関係のなかで活躍したのでした。
 さらに、長崎通詞はオランダ語だけでなく、フランス語やロシア語まで習得していた。
 国学者として著名な平田篤胤と門弟たちは、人を批判するのに「コペルニクスも知らないで」と嘲笑していた。それほど西洋の自然科学所は当時の知識人の必読文献であった。つまり、地動説が当時の日本に入ってきていたのです。
 1840年の中国におけるアヘン戦争勃発は幕府にとって対岸の火事ではなかった。イギリスは戦艦を日本に差し向けるという噂が流れていた。そこで、高嶋秋帆に洋式銃隊の調練を行わせた。
 アヘン戦争の衝撃は、日本人の目を一挙に世界に拡大させた。西洋諸国は現在どのような発展状況にあり、世界のどこに進出しようとしているのか、その軍事力と国力はどの程度のものか、この痛切な日本人の知的欲求が『坤輿図識(こんよずしき)』全5巻を刊行させた。この本は堂々たる世界地誌であった。
 日本の漁民や船員が海上で遭難してアメリカなどに渡って日本に戻ってきた。これらの漂流民の話を藩主や藩重役までが熱心に傾聴した。
 1853年(嘉永6年)6月、ペリー艦隊が江戸湾に入った。黒船の出現である。ペリーは身辺警衛とアメリカの軍事力を誇示する目的で300名の兵力を久里浜に上陸させた。
 米日交渉は、9艦の軍事的圧力のもとで進められた。
このころイギリスは、アメリカやロシアのような対日行動をとるのは不可能だった。1851年に発生した太平天国の乱が拡大して、イギリスの商業権益が脅かされていた。
 日本において特徴的なことは、ペリーの来航情報が瞬時に全国に伝播し、人々がそれを記録し、そして江戸の事態を深い憂慮をもって凝視するという社会が出現していた。
 人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録して、写して、冊子に綴っていき、さらにそれを回覧していった。
 幕末から維新期の政治は激変に次ぐ激変の中で展開していく。そして、その局面の背後に、その展開を凝視する3千数百万の日本人の目があった。この衆人監視の政治舞台において幕府が自らを国家として振る舞わざるを得なかったことは、一瞬たりとも忘れてはならないことがらである。
 全国各地の日本人には、なにか不安な風聞があったとき、まず飛脚屋に出かけて確認する習慣がつくられていた。幕府は、一切、政治情報を公開しないのにもかかわらず、日本人は瞬時に、大事件の発生をつかみとる。情報が公開されず、公的に流通させる制度がつくられていなくても、つかみとる能力を日本人は有していた。自分たちで事態を判断し、政治的意見を形成し、政治批判を展開できる段階に日本が入っていたことは幕末維新期を考察するとき、根底にすえておかねばならない。
 この指摘は、何だか政治に無関心な多くの現代日本人の顔を赤らませるものですよね。幕府の安政改革は、海軍のみならず洋式軍隊の創設も意図していた。
 ハリスと下田奉行が交渉していたとき、ハリスの演説書をはじめ、日米間の対話書のすべてを幕府大名に公開していった。事態の深刻さは周知のこととなった。そして、大名から、全国にもれ伝わっていった。
朝廷は、朝廷としての反応をした。ハリスに屈従してしまうのであれば、それで天皇から征夷大将軍職を授けられている「将軍」と言えるのか・・・。
 この本の最大の特徴は、下武武士や町人の日誌などを踏まえて、当時の日本人の反応と行動を全体的に明らかにしようとしていることです。すごいことだと思いました。
世界史のテンポは、日本国内の政治の悠長なかけ引きを許さなかった。3千数百万の日本人の眼前において、ハリスの予言どおり「政府の威信を失墜させた」幕府は、軍事的圧力に屈して条約調印を余儀なくされた。
 桜田門外の変(1860年、安政7年)は、客観的には幕末政治過程の一大画期となった。この桜田門外の変を契機として、一挙に政治の底辺が拡大した。「処士横議(しょしおうぎ)」の時代が始まり、目標は国家変革に絞られた。
 1859年(安政6年)7月の横浜・長崎・函館開港により、世界市場に編入された日本では、たちまち大量の金が流出していった。世界市場で金銀が15対1なのに日本では5対1だったからである。さらに、銅も世界市場の4分の1という安値だったので、銅製品が外国へ流出していった。
幕末の日本人の全員が感じていた危機感とは、国家解体の危機感、このままいってしまっては、日本国家そのものが消滅してしまうのではないかとの得体の知れない恐怖感であった。幕府が外圧に押され後退するたびに、この感覚は増幅され、それへの対抗運動と凝縮行動がとられていく。どのような具体的方策が提示されるかは、階級・階層・政治集団にとって異なるにしろ、通底するものは、この底知れない危機感と恐怖感なのである。
 この本を読んで、幕末・維新時代の視野を広め、深めることができたような気がしました。学者って、やっぱりすごいですね。さすがだと驚嘆しました。下巻が楽しみです。
(2012年11月刊。3200円+税)

2013年1月21日

江戸時代の老いと看取り

著者  柳谷 慶子 、 出版  山川出版社

江戸時代は、当主夫妻とその直系親族からなる家が広汎に成立して、社会の基礎単位となり、子どもの養育も看病も老いの看取りも、家の機能として家族により担われた時代である。
家の存在にはマイナス面もあったわけですが、その反面、このようなプラスの面もあったのですね。忘れてしまいそうな指摘です。
 江戸時代後期の、21歳以上の平均死亡率は、男性61.4歳、女性は60.3歳で、51歳以上の人々の享年は70歳をこえていた。成人後の平均余命は、実は現代と比べて、決して見劣りしない。80歳をこえる長寿者も少なくなかった。盛岡藩には80歳以上が780人いて、100歳以上も3人いた。
 江戸時代、古希(70歳)を過ぎ、さらに傘寿(80歳)を過ぎても現役をつとめる武士が少なからず存在した。武士には現在のサラリーマンのような定年退職という制度はなかった。
 江戸時代後期、古希を過ぎて幕役の役人だった人物が少なくとも50人はいた。最高齢は、なんと94歳。
 幕臣も藩士も、傘寿をこえて城勤めする者がいるのは、「平和」な時代に定着した「武士道」のあり方を考えさせる。
 天保(1830年代)のころ、70代の幕府役人39人のうち16人が80代まで生きのびており、その半分の8人が現役のまま死亡している。
 現役の役人のままで生涯を終えたのは当人の意思であったと考えられる。幕臣の終身雇用は、現役志向の武士たちの意思表示の結果であって、致仕しないことを名誉ある武士の生き方と観念し、老病と戦いながら役人であり続ける人生をまっとうした。
 奥女中にも武士と同じく定年退職の制度はなかった。徳川家斉時代の奥女中の一人は、73歳まで現役だった。奥女中も老年隠居に際して、手当を支給された。還暦まで勤めあげれば、老後の生活は幕府によって保障されていたことになる。隠居後は、剃髪して比丘尼(びくに)と呼ばれ、分限(ぶんげん)帳に名前を記載され、幕府の保護下におかれた。
 隠居するとき、家督とか隠居料の中身や将来の処分方法などを記した契約の文書を取り交わすことも珍しくなかった。それは、相続トラブルと回避するための方策であった。
日本人は、昔から書面にすることが多かったのです。
 武士の家や、相応の資産ある農民や町人の家では、女性は姑として主婦権をヨメに委譲し、家労働から解放されることで、あらたな役割や活動に時間を費やす隠居の年代を過ごしていた。
長寿者に対しては、養老扶持が支給された。武士は身内の病気や臨終に付き添うことができた。
江戸時代は名実ともに敬老精神にあふれた時代だったのです。わずか100頁のブックレットですが、今日の日本にも参考になる内容が盛りだくさんでした。
(2011年10月刊。800円+税)

2013年1月14日

一揆の原理

著者  呉座 勇一 、 出版  洋泉社

寛延2年(1749年)に姫路藩を揺るがした全藩一揆(寛延一揆)では、大阪城代は姫路藩に対して「飛道具(鉄炮)を用いることは無用である」と、鉄炮使用を禁じた。幕府の許可がないと鉄炮は使えなかった。鉄炮を使用するには、事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される。
 そもそも領内での百姓一揆の発生は「統治の失敗」として幕府から責任を追及される恐れがあるので、藩や代官は一揆を穏便に解散させる必要があった。
 このとき、百姓は農具をもつ権利があると主張した。鎌や鍬は百姓のシンボルである。鎌や鍬を使っても鉄炮や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないという幕府や藩に対するアピールだった。
 江戸時代の一揆では、家屋を壊すことはあっても、人を殺すようなことはいけないというのが百姓一揆のルールだった。これに対し、明治の新政府反対一揆では、新政府側の役人が殺されている例が少なくない。新政府反対一揆は特定のテーマにしぼって反対しているのではなく、明治政府の新政策(新政)すべてに反対していた。つまり、新政府そのものを否定しているのである。
江戸時代の百姓一揆にとって、「仁政」を標榜する幕府や藩は交渉可能な相手であった。だからこそ、一揆は幕府権力と正面からの敵対を避けた。そのため非武装だった。
 百姓たちは、自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばなかった。百姓たちは基本的に非武装を貫き、「一揆」すなわち武装蜂起と認定されないように苦心していた。武装しないほうが百姓一揆の成功率は高く、非武装は合理的な作戦だった。
 中世社会では、一揆は社会的に認められていた。だから、一揆を結ぶ者たちは「一揆」を自称していた。
 中世では、百姓だけが一揆を結んでいたわけではなく、武士も僧侶も一揆を結んだ。だから、中世の一揆は多種多様である。中世においては一揆のイメージは決して悪くはない。本人たちが堂々と「一揆」を名乗っている。中世の「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神である。
 傘(からかさ)連判という円形の署名形式では、首謀者隠しというより署名の順番を分からなくすることに目的があった。つまり、多数の署名者に上下の区別をつけないということ。「一味神水」そして「神水を飲む」意味は何か。焼いて灰にし、その圧を神水に混ぜて飲む。それは、一揆の誓いに違反したときに発生する神罰は、起請文の灰を体内に異変が起きるということ。
 一揆の場における一味神水とは、わきあいあいとした宴会的な共同飲食ではなく、恐怖と緊張にみちた一種の試練だった。
起請文は、神に捧げると同時に人に渡すものであった。
 中世の日本社会は訴訟社会であり、裁判には証拠文書(証文)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達した。中世の一揆契状は、一味同心を約束する契約状という一面をもっていた。
 若手学者による大胆な一揆の見直し提起です。大変面白く読み通しました。
(2012年10月刊。1600円+税)

2013年1月12日

泰平のしくみ

著者  藤田 覚 、 出版  岩波新書

力で押さえつける政治、百姓を虐げる悪代官ばかりでは、270年もの泰平を維持できるわけがない。それはそうですよね。政治の安定と泰平が270年ものあいだ続けたことを説明しようとする本です。
 江戸時代は、民間請負の時代である。それは、年貢の収納から土木・建物工事、さらには物品の調達と売却まで幅広い分野で民間の請負が行われていた。
 年貢の請負とは、村請(むらうけ)制と呼ばれるしくみである。入札とは、投票によって行う意思決定の一つの方式である。江戸時代の村社会では、村役人の選出、悪事をはたらいた犯人の特定(盗賊入札)、善行者、悪業者の選定(善悪入札)などに使われた。
 入札は、中世以来いくつかの局面で利用されてきた意思決定の方式である。
 競争入札による請負工事が、幕府発注の土木・建築工事のありふれたやり方だった。一見すると合理的で公平に見える競争入札だが、担当役人と業者の贈収賄が横行して政治問題化した。入札による受注を目ざして業者は事業を担当する役人との接触をはかり、ワイロを送って有利な立場に立とうとし、幕府役人は収賄により私腹を肥やす。
あらゆることが競争入札によって行われたのは奉行が賄賂を手にしたいためだった。競争入札による工事を担当した奉行で、1000両を懐にしない者はいない。その結果、100両もかからない工事が、1万両もかかってしまい、それこそ幕府財政が元禄期に破綻した理由である。新井白石は、『折りたく紫の記』でこのように論じた。
請負工事の発注を担当する役人も、利益の配分を受ける手はずになっているので、この入札のカラクリを知っているのに知らないふりをしている。大変に分かりやすい官製談合である。
江戸時代、幕府の行政機関や裁判機関へ人々が訴え出る行為には、少なくとも2種類あった。訴願と訴訟である。訴願は、訴えや願いを行政機関に申し出ることで、現代の陳情に近い。訴訟は、裁判機関に訴え出ることで、現代と変わらない。
そもそも、訴願と訴訟の区別があまり明確ではなかった。江戸時代の行政機関と裁判機関が未分化で、裁判は行政の一部に組み込まれていたことによる。
江戸時代の裁判は長い時間がかかった。幕府は100日以内の決着をかかげていたが、それに必要なお金と時間も考えて内済(示談)にする決着が普及した。
江戸にあった町奉行所はわずか150人の与力、同心で50~60万人の住民を管轄し行政を行っていた。
 江戸時代の行政のあり方を実証的に考えた本です。市民セミナーでの話をもとにしているためか、とても理解しやすい本でした。
(2012年4月刊。2800円+税)

2012年11月18日

日本の笑い

著者    コロナ・ブックス 、 出版    平凡社 

 伊藤若沖が布袋(ほてい)さんを描いています。いかにも、ふくよかな布袋さんたちです。芭蕉翁が大阪で51歳のとき亡くなった状況を描いた絵もあります。
 旅で病んで夢は枯野をかけ廻る。
その遺言を知りませんでした。死んだら木曾義仲公の側に葬ってほしいというものでした。それで大津市にある義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓のとなりに葬られているそうです。
 英(はなぶさ)一蝶の「一休和尚 酔臥図」もすごいですよ。よく描けています。
世の中は、起きて稼いで、寝て喰って、あとは死ぬのを待つばかり。
 さすが、人生の達人ですね。耳鳥斉という、宮武外骨も岡本一平もあこがれた、漫画の元祖のセンスよい絵も紹介されています。日本のコミックは歴史があることを十二分に納得させる絵です。
 「北斎漫画」にも圧倒されます。4頁にわたって「デブ」の画があり、さらに次の4頁に「ヤセ」の百態が描かれています。
 さすがの北斎です。どちらにも嫌みがなく、思わずほほえんでしまいます。人間の内面にまで踏み込んでいるからでしょうか・・・。
 日本人のマンガの伝統が決して浅いものではないことを、しっかり再確認させられる画集でした。
(2011年12月刊。1800円+税)

2012年11月17日

義烈千秋、天狗党西へ

著者    伊東 潤 、 出版    新潮社 

 幕末の動乱の時代、水戸藩の内紛を母胎として天狗党が生まれ、ついに京都へ駆けのぼろうとします。しかし、ときの将軍・徳川慶喜の動揺によって、哀れ切り捨てられてしまうのでした。
 水戸藩の家中騒動から、天狗党の決起。そして京都を目ざして苦難のたたかいを続ける姿が生き生きと描かれています。著者の筆力には驚嘆するばかりです。
 堂々400頁をこえる本書には、天狗党の面々の息づかいがあふれ、まさに迫真の描写が続きます。まるで、実況中継しているようで、手に汗を握ってしまいました。
 幕末、真剣に考えて生きる人々の迷い、動揺、そして行動が、これでもか、これでもかと詳細に描写されていて、読むほうまで胸がふさがれるほど息苦しくなります。
天狗党は、最終的に350人以上も処刑(斬罪)され、ほぼ同数が追放などの処分を受けた。
 ところが、明治になって逆転し、反天狗党が敗退して、首謀者は処刑された。
同郷の人血で血を洗う殺しあいをしたようです。復讐と報復の連鎖があったのでした。
 攘夷といい、尊皇といい、幕末期の志士たちの選択はとても難しかったようです。そのなかでも選択はせざるをえないわけです。それを誤ったときには、自らの生命を捨てるしかありませんでした。
 プロの作家の描写力には、いつものことながら、かなわないなあと溜息が出るばかりです。
(2012年3月刊。2200円+税)

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