弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2014年2月 2日

雪に咲く

著者  村木 嵐 、 出版  PHP研究所

 新潟は高田藩の筆頭家老・小栗美作(みまさか)の壮絶な生涯を描いた小説です。
 越後高田藩は中将家である。藩主の光長の祖父は二代将軍秀忠の兄にあたるので、武家の長子相続からすれば、格は将軍家より上になる。
 加えて、光長の母は三代家光の同母姉だ。光長ほど、家康に血筋の近い者はいない。御三家にしても、九、十、十一男の筋にすぎず、将軍家すら三男の筋だ。
ときの大老は酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清。越後高田藩のことを何かと気にかけてくれる。ところが、雅楽頭は、同時に密偵を越後高田藩に潜入させ、情報を得ていた。
 仙台藩家老・原田甲斐が乱心して、一門重臣の斬殺に及び、自身も討たれた。そこで、仙台藩譜代の原田家は断絶処分を受けた。
 光長の継嗣が41歳のという若さで突如として亡くなった。子どもがいない。さあ、どうするか・・・。
 藩内が二手に分かれ、対立抗争が次第に激化していく。筆頭家老の美作を気に入らない者たちは、美作邸へ押しかけて来るようになった。
 家で騒動が起きたら、幕府により御家断絶の危機があります。それで、美作はじっとガマンし続けたのでした。ところが、将軍綱吉の時代になると、お家騒動のおきたところは、どんなに名門であっても、容赦なく家断絶が命じられるのです。
 綱吉も犬ばかりを大切にしたのではありません。そして、ついに苛酷な刑が申し渡しされるのでした。
江戸時代も、域内のいたるところで、派閥抗争が激しかったようです。江戸時代の人間関係の難しさがよく伝わってくる本でした。
(2013年12月刊。1700円+税)

2014年1月14日

歴史の読み解き方


著者  磯田 道史 、 出版  朝日新書

 日本人とは何かを考えるとき、必読文献の一つだと思いました。
室町時代の庶民は家の墓所は持っておらず、家の意識はうすかった。中世までの日本人は近世に比べて流動性が高く、しばしば移住していた。
 「親元と定住」の文化は江戸時代にできたもの。中世的な武士の集団は寄せ集めだった。江戸時代的な武士の集団は石のように固まって密集していた。
 武士の世界は家格によって気質が違う。10石以上の上土は独立性が強く、藩主にも、ずけずけと物を言うように育てられる。傍若無人で、わがままな人が多い。高杉晋作や大隈重信がこの部類。
これに対して福沢諭吉、大久保利通、西郷隆盛など50石以下の徒士(かち)は小役人で実務能力がある。家督を相続するときに筆跡とソロバンの試験があった。能吏タイプが多い。徒士は身分にこだわる上士とちがって学校教育に抵抗がない。旧武士のうち、この薄いこの徒士層が日本の近代化に大きな役割を果たした。及木希典・児玉厳太郎、大山厳・・・。日露戦争の将軍はほとんど禄高50石くらいの徒士出身。日露戦争の将軍に旧農民はいない。旧大名もいない。彼らは徒士の文化で育った特殊な人たちであり、一般の日本人ではない。
テレビの水戸黄門では悪代官だらけだが、あれは嘘。代官は大勢の武士のなかから学問のある清廉な者を選んでいた。
 藩の最高意思決定者は藩主・大名と思われがちだが、これは半分以上、間違い。藩主が藩政をみていたのは江戸前期の100年間くらい。のちには、「家老と奉行の合議」で決めた。ただ、藩主は家老や側近などの人事案には口が出せた。
 江戸中期以降、通常、藩主は家老会議には出席しない。藩主は、企業でいうと、社長というより会長か最高顧問といったほうがよい。
 家老が人事を決める。藩主は報告を受けるが、人事は多くは先例と家格で決まる。家老はほとんど世襲で、秘書役に操られていることも多い。実質、藩の意思決定は誰がしてるのか分からない。
 日本人は追いつめられると強い。どんな変革も改革ものみ込む。
 日本人は、いったん負けの原因を認めると変わるのは早い。安定を好むので、安定が失われそうになると、不安になって一気に改革に向かう。
 日本人は外部から大きな変化の波を受けると、変わりやすい。
日本全国が均一に識字率が高かったのではない。明治前期までの日本では、識字率は京都の周辺と、東海・瀬戸内海が非常に高く、東日本や東北・南九州は低かった。
 江戸時代の日本は、現代の私たちが思っている以上に、銃のある社会だった。人口4000人の村に277丁もの銃があった。江戸時代以来の日本人の家庭から銃や刀が消えたのは、アメリカ軍の占領によるところが大きい。
 江戸時代の奉行所・代官所は税務署と代用監獄ほどの役割しか担っていなかった。今日のこまかな行政サービスは、庄屋と村の仕事だった。犯罪が発生しても、犯人は村人たちが捕まえてくる。奉行所は、牢屋と番人さえおいておけばよかった。
 江戸時代の治安が良かったことの理由として、刑の厳しさがあげられる。事件が起きて領主のところにもちこまれると、その犯人は死刑になる可能性が高い。それで、江戸時代には、「お上」の領主裁判を回避する文化ができあがり、これがこの国の法文化になっていった。
 江戸時代の前半、人はすぐ死刑にされていた。水戸藩では1646年から1666年までの21年間で1000人が捕まり、うち104人が死刑になった。ところが、江戸の後期になると、町の組織が犯罪を抑止した。地域共同体が犯罪抑止に機能していた。そのため江戸時代の治安は良かった。
 幕末の長州藩の意思決定のやり方が紹介されていますが、これは圧巻です。
上段の間の真ん中に藩主が座り、藩主の左手と右手に家老が列座する。会議中、藩主は基本的に発言しない。
 最初に月番の家老が発言する。たとえば・・・。
「今日は攘夷の決行についてどうするか、評議してください」
すると、次の間という一段低い部屋の末席に座っている官僚たちが議論を始める。これが何時間も続き、大声で怒鳴りあったりする。その間、上の段にいる藩主と家老たちは無言で、一切しゃべらない。3時間でも4時間でも聞き続ける。
 下座、末席の者たちがはげしく議論して、そろそろと思うと、家老が意見をまとめる。そして、次の瞬間に、藩主が「そうせい」と言う。これが鶴の一声となって、合議の一同は、反対派も賛成派も一斉に平伏して決定に服する。長州藩では、こうやって藩の意思がしっかり決まっていた。藩主の権威づけのもと、断固たる決定ができたわけであるから、みなが服することになり、決定から実行までのスピードが速い。これがあとで政事堂というものになる。
 明治維新になって、各藩がこれを真似しはじめて、日本中に政事堂ができた。
 こうやって国会の下地が出来ていったわけですね。まったく知りませんでした。
 有名な五箇条の御誓文のなかに「万機公論に決すべし」とあるのも、きっと、このような実績をふまえたものだったのでしょうね。
 この本で語られていることは、どれも近代日本そして日本人の成り立ちにとって大きな意義のあるものばかりです。230頁ほどの新書ですが、いたるところに赤エンピツで棒線を引いて、この新書も真っ赤になってしまいました。
(2013年12月刊。760円+税)

2014年1月13日

幕末史


著者  半藤 一利 、 出版  新潮文庫

 明治維新と言っても、明治の初めには、ほとんど維新という言葉は使われていなかった。「御一新」だった。へー、そうなんですか・・・。維新の会も馬脚があらわれて、ついに失墜してしまいましたよね・・・。
ペリー提督の率いるアメリカ艦隊が日本にやってくるという情報は、その前から日本に入ってきていた。だから、来た時には、三人の与力が船で近づき、フランス語で「速やかに退去すべし」と書いたものを高くさしあげた。
 英語ではなく、フランス語なのですね。いったい、誰が書いたのでしょうか・・・。
アメリカはオランダに日本との交渉の仲介を頼んだ。オランダは、それを断り日本の長崎奉行を通じて、「アメリカはいずれ艦隊を率いて日本に来るだろう」と幕府に知らせた。ペリー来航(1850年)の3年前のこと。
勝海舟は、中国におけるアヘン戦争が勃発したとき18歳だった。22歳のとき、佐久間象山を訪ねて、世界情勢を学んだ。そして、剣術をやめてオランダ語を学びはじめた。
 日本に来たペリーは、当時59歳。ペリーには、早く帰りたい事情があった。国書とともに持参すべきお土産品を持っていかなかった。国際儀礼に反することの指摘を恐れた。しかも、水と食糧が減っていた。また、中国で「長髪族の乱」というのが起こって、中国にいる在留米人の保護を急ぐ必要もあった。
 江戸幕府は、250年間、「由らしむべし、知らしむべからず」を大法則としてきたが、広く町民をふくめて意見を出すよう布告した。勝麟太郎(31歳)、河井継之助(27歳)も意見書を出した。
明治元年に勝海舟は46歳、岩倉具視(ともみ)44歳、西郷隆盛42歳、大久保利通39歳、広沢真臣(さねおみ)36歳、木戸孝允(たかよし)36歳、江藤新平35歳、井上馨34歳、三条実美(さねとみ)32歳、板垣退助32歳、後藤象二郎31歳、山県有朋31歳、大隈重信31歳、伊藤博文28歳。これは今の官僚なら、部長が課長クラスである。そんな若さで新政府がトップメンバーを占めて、政治を運営していたのだから、てんやわんやだったのも当然のこと。
 それまでの日本人のなかに天皇家に対する尊崇の念があったとは言えない。当時の日本人は、将軍を公方(くぼう)様と呼んで唯一の支配者と思っていた。天皇はミカドであり、朝廷を内裏(だいり)ないし禁裏(きんり)と呼んで、およそ関係のない遠い存在としていた。ミカドはたしかに存在していたが、公方さんの方がずっと大事だった。
 幕末のころ、長州も薩摩と同じく長年にわたって密貿易でお金を稼いできたので、資金はたっぷりもっていた。
天皇という言葉は明治20年代になってから日本人に普及しはじめた言葉であって、それまではコトバとしてあるだけだった。
 共和国の建設を説く勝海舟や大久保一翁は天皇をほとんど意識していなかった。
 大久保利通は、「非義の勅命」は勅命ではないから、従う必要はないと高言した。尊皇なんてどこ吹く風。自分たちの正義にあわなければ、勅命もへちまもない。天皇をうまく使って国家を乗っとる。そのための玉(ぎょく)と考えていた。天皇陛下がすごく尊いものだという意識は藩長の人々にもなかった。幕末の日本人が天皇中心の皇国日本をつくりあげようとしたというのは歴史の事実に反すること。
 幕末の孝明天皇は病的なほどの外国人嫌いだったが、幕府に変わって政権を握るという意思はまったくなかった。ましてや、倒幕なんてとんでもない。むしろ朝廷と幕府が仲良くしながら進めていく朝幕体制に強い希望を抱く、明らかな公武合体論者だった。
 講話調ですから、とても分かりやすくて面白い幕末通史になっています。
(2013年7月刊。710円+税)

2013年12月11日

ある村の幕末・明治


著者  長野 浩典 、 出版  弦書房

幕末から明治を生きた人が75年にわたって書き続けた日記が残っているのでした。
 私と同じで、書くのが大好きな日本人は昔から多かったのですね。
 場所は熊本県です。阿蘇の外輪山のなか、垂玉(たるたま)温泉の近く。長野村(今は南阿蘇村)の長野内匠惟起(たくみこれずき)という人物です。阿蘇家の家来(武士)で、手習(寺子屋)の師匠をし、農業を営んでいました。
「内匠日記」は長野内匠が15歳で元服した文化10年(1813年)にはじまり、89歳の明治20年(1887年)までの75年間にわたる膨大な日記。天気、家族の動向、村の出来事、物価や災害などがことこまかく書かれている。
内匠自身も多芸多能、そして実に筆まめだった。
 長野村周辺には6つの寺子屋があった。内匠の門弟は、のべ700人で、女子もいた。女子も、四書を自ら購入して、素読していた。
 内匠の蔵書は多く、知人に貸し出していた。
 内匠は、絵を描き、書を書き、そして寝具・仏具の修理や彩色・葬儀のときには道具づくりまでした。いわば職人である。
長野家は裕福に道具を所有していて、近隣の村人に貸し与えた。農機具だけでなく、生活用具、薬、半鐘、磁石まで貸し出していた。
 内匠は園芸家でもあった。四季を問わず、人々が花を目あてに訪ねてきた。花の種、苗、接ぎ木の枝をもらいにきた。
 村の庄屋は前は世襲だった。江戸時代の途中からそうではなくなった。
 江戸時代は、今よりも離婚率が高かった。そして、「バツイチ」という感覚はなかった。再婚するのは、普通のことだった。
村の若い男女が結婚を前に駆け落ちした。ところが、その後、めでたく添いとげ、終生、長く夫婦だったことが記録されている。江戸時代にも恋愛結婚はあったということです。
 このころの阿蘇にはニホンオオカミもいたようです。牛馬を喰う山犬として登場します。
 村には、さまざまな行商人が全国からやってきました。紀伊国の椀売り、近江の薬売り、阿波国の金物屋、また対馬の薬売りも・・・。芸人もやってきて、お祭りが催されています。
 歌舞伎の一座、人形芝居、軽業、相撲、そして宗教者。江戸時代後期は、人の移動はかなり流動的だった。
明治10年の西南戦争のとき、この長野村も戦場となっています。そして、会津藩の家老で「鬼官兵衛」と呼ばれていた猛将・徳川官兵衛一等大警部は長野村の一農民であった長野唀の狙撃によって落命した。
 長野村では一揆もあり、西南戦争は、村内対立と連動していたようです。
著者は長野村に生まれ育ち、今は高校の教諭です。これだけの本にまとめあげた労作と力量を高く評価したいと思います。
(2013年8月刊。2400円+税)

2013年11月 3日

浮世絵出版論

著者  大久保 純一 、 出版  吉川弘文館

浮世絵の現物を手にとってみたことはありませんが、美術館そして、本では鑑賞してきました。素晴らしい、日本の誇るべき芸術作品だと思います。この本は、浮世絵の出版をめぐる話を満載しています。
 浮世絵は江戸時代を代表する絵画、版画の一領域である。
 浮世絵師の多くは、自分たちが岩佐又兵衛、菱川師宜に端を発し、大和絵の流れを当世に移し替えた絵師たちの系譜に身を置いているという、ある種の帰属意識を強くもっていた。
 浮世絵は、その当初から版画を主たる形態として発展してきた。支配階級からの経済的庇護があるわけではなく、地本問屋という版元が大量供給の商品として版画を生産し、不特定多数の購買者に販売し、利益をあげてきた。
 商品として売れるためには、浮世絵版画は、移り気な時代の美意識や趣味、嗜好を絶えず追い求めていなければならない。同じ画風を墨守したために人々に飽きられてしまったら終わりなのである。
 浮世絵における美人画の作風を通観すると、およそ10年以下の時間幅で変化していることに気づかされる。浮世絵は、17世紀後期、菱川師宣により始まる。
 錦絵の享受者は、けっして江戸の庶民層だけに限られていなかった。身分的にきわめて高い社会階層あるいは富裕層のなかにも錦絵の享受者がいた。
 錦絵は、庶民から大名まで実に幅広い階層で享受されていた。錦絵をはじめとする浮世絵の版画は、絵師・彫師・摺師の分業によって生み出されていた。その全体の工程を統括するのが、出版資本である地本問屋である。
 地本問屋とは、文字どおり地本の出版と販売をおこなう版元である。地本とは、上方から下ってくる読本や絵本に対して、地元江戸の地で出版された本のこと。そして、草双紙や浄瑠璃本などの大衆的な内容をもつ本をさす。
 これに対して、仏書、儒書、医学書、また学問書的な本などは「物之本」と呼び、これを出版する版元は書物問屋といった。
 「南総里見八犬伝」などの読本は、地本問屋ではなく、書物問屋が出版している。
 ただし、地本問屋と書物問屋の両者を兼ねる者もいた。
 総師は画面の隅から隅まで描き込むのではない。こまかいところは彫師の技量にまかせるのが普通だった。版下が書きあげられると「改」という出版検閲を受ける。色版が彫りあがると、摺師のもとに届けられ、最終工程である摺がおこなわれる。摺りあがると、絵師がチェックする。
 版元は、売れると見込むと、最初から1000組、つまり300枚も摺り込むことがある。ところが予想に反して150組しか売れないことがおきる。そのときには、貧困層の布団の材料として売り払われた。
 絵草紙屋の店内で役者絵が目につく場所を占めていた。それは、もっとも売れ筋の商品だったからである。
 たくさんの浮世絵、錦絵そして役者絵も図版で紹介されている、楽しい本でした。
 また、美術館で浮世絵を見ることにしましょう。大英博物館には、たくさんの浮世絵があるそうですね。今度、日本で春画の展示が企画されています。ぜひ見てみたいものです。
(2013年4月刊。3800円+税)

2013年9月28日

有松の庄九郎

著者  中川なをみ・こしだミカ 、 出版  新日本出版社

夏休みの課題図書の本です。小学校高学年の部です。青少年読書感想文全国コンクールの課題図書なのです。
 読んで世界を広げる。書いて世界をつくる。いいキャッチ・フレーズですね。
出だしは、現代日本の情景です。浴衣(ゆかた)の地は、色が藍色(あいいろ)。少しぼやけているものの、白い花はくっきりと大きく浮きあがっている。色もデザインもシンプルだが、模様が絞りでできているからか、決して地味ではない。有松(ありまつ)絞りだ。
このあと、話は一転して江戸時代初め、尾張の国(愛知県西部)にある阿久比(あぐい)の庄に飛びます。
徳川家康が関ヶ原の戦で勝ち、徳川の時代になって7年目のことである。東海道を整備するために新しい村をつくるという。それに貧しい村民が応じて出かけることになった。しかし、森を切り拓いても粘土質の土壌が悪いのか、農作物は育たない。
 そんな苦境のなかで、四国の阿波の国の藍染めにならって、有松絞りが苦労の末に誕生した。それに至る経過があざやかに描かれています。
有松絞りは江戸後期に最盛期を迎え、役者絵や美人画の衣装として浮世絵に描かれている。
 一度、実物の有松絞りを手にとってみてみたいものだと思いました。
(2013年6月刊。1500円+税)

2013年9月 7日

幕末江戸下町絵日記

著者  福原 敏男 、 出版  渡辺出版

江戸は幕末。そして、下町に生活する町絵師による絵日記です。
 幕末の京都のような殺伐とした雰囲気はまったく感じられません。のどかな下級武士の日常生活を絵日記で知ることができます。
 主人公は福田永斎という絵師。その師は佐竹永海。さらに永海の師は高名な谷文晁。
 慶応元年のころ永斎は30歳前後。明治26年ころには満60歳だった。
 明治19年まで、永斎は駒場農学校の仕事をしていた。そこで、博覧会の向けの出品害虫図を描いて博物標本画で生計を立てていた。東大の総合研究博物館が所蔵している東京大学害虫学研究室にある『昆虫飼養日誌』は永斎の作品と思われる。
 永斎は、幕末に秋葉原に住み(独身)、神田・浅草・大野・下谷・深川を行動範囲とした。絵によって日常生活が記録されている。
 ほのぼのとしたタッチで、当時の下級武士ないし町民の日常生活が描かれています。
 食事の風景、二日酔いで寝ている姿など・・・。同輩とともに、火鉢で燗をつけて楽しく飲みかわしている光景もあります。
 神田明神での相撲を見物しにも行っています。
 藤沢周平など、江戸時代に舞台とする小説を読むうえでもイメージのわいてくる貴重な絵日記です。
(2013年3月刊。2400円+税)

2013年9月 5日

「暁」の謎を解く

著者  小林 賢章 、 出版  角川選書

とっても新鮮な衝撃を受けました。思い込み、というのは、こんなに恐ろしいものなんですね。
 真夜中の12時で一日が替わるのが当然だと私たちは思っています。でも、平安時代には12時ではなくて、午前3時が日付変更時だったというのです。ええーっ、そんな・・・、と思うのですが、この本はその例証を次から次に挙げていきます。いくらなんでも、いやはや降参と叫ぶしかありません。
平安時代の日付がいつ変わったのか・・・。それは、午前3時、丑の刻と寅の刻の間だった。その時間は人々が活動を始める時間だった。
 当時の30分は、時間認識の最小単位だった。「暁」は、現在は「夜明け前後」を意味するが、平安時代には午前3時から午前5時の時間帯を指して使われていた。
 暁の始まる時間、つまり一日の始まる時間は、寅の刻、現在の午前3時だった。
 日付変更時点は、平安時代に午前3時、江戸時代は1時間遅れの午前4時、そして、明治以降は今と同じ夜中の12時になった。
 「お江戸日本橋七つだち」という童謡は、午前4時に日付が変わり、旅に出発していたことを示している。
 暁は、平安時代、重要な役割を果たす時間帯だ。当時の結婚や恋愛は、男性が女性の家へ出かけ、一晩を過ごし、早朝に自宅に戻る形式だった。
 女性は、いつも待つ恋だった。平安時代、暁は大切な時間だった。
 アカツキは、奈良時代には、アカトキと言われていた。
 アカとトキの複合語だ。アカは、「明く」の活用形。アカツキは、暁と書かれることが多いが、平安時代には「あか月」と書かれていることも多かった。
 当時は、午前3時は女性のもとに出かけた男性の帰宅する時間だった。平安時代の暁は、寅の刻(午前3時~午前5時)だった。それに続いて卯の刻(午前5時~午前7時)から巳の刻(午前9時~午前11時)までが、「つとめて」だった。「暁」と「つとめて」の境は、午前5時とするのが妥当だ。
平安時代、暁という時間帯は、一日の始まりだった。恋人たちが別れる時間だったし、旅に出発する時間でもあった。とても重要な時間だった。
 有明も、午前3時から午前5時を意味する暁と同じ時間帯を意味して使用されていたはずである。
 有明は、午前3時以降の月を意味するものであった。有り明けの月が旅の出発の意味で用いられるとき、空に浮かんでいる月は三日月なのだ。動詞「明く」は、日付が変わる、午前3時になると訳したらよい。
 夜もすがらは、夜通し、一晩中という意味。夜一夜(よひとよ)も、夜もすがらと同じ意味。平安時代の今宵(こよい)には、昨晩と今晩の二つの用法があった。最初に、それを指摘したのは本居宣長だった。
 平安時代の文献、そして『今昔物語集』でも、今宵は昨晩の意味で用いられている。
 中国では、宵は昔も今も、夜の意味。その宵の字が、日本では、いつのまにか夜のはじめの部分の意味に変わってしまっていた。
午前3時までを、昔の人は夜と理解していた。夜もすがら、今宵(今夜、こよい)、夜の明くという使い方は、そのことを示している。
 「さ夜更けて」というのは、午前3時に向かって時が奥深く進んでいくことを意味している。
 ええーっ、そ、そうなんだ・・・。驚きの本でした。学問の進歩って、すごいですよね。同じ日本人でも、昔と今とで、時間の感覚がまるで違うことに改めて自覚させられました。
(2013年3月刊。1700円+税)

2013年8月25日

江戸遊女紀聞

著者  渡辺 憲司 、 出版  ゆまに書房

18世紀の後半に薩摩の山鹿野(やまかの)に佐渡金山の3倍の産出高を誇った江戸期有数の金山があった。永野金山ともいう。串木野金山というのは知っていましたが、これは初耳でした。そして、そこに代表的な遊里があったのです。
 遊里社会では、公界(くがい)の意味は、遊女の奉公の期間をさしていう表現であることが多い。そして、公界は、務めの期間だけでなく、もう少し広い意味で、遊女の勤め一般もさしている。
 公界を、「くがいする」といった用法で、人々の中に交わる、交際するといった意味にも用いる。
 「くがい」は、公界そして、苦界、苦海と使われている。
 山東京伝の二人の妻は、ともに遊女出身だった。
江戸時代、遊女の手鑑は高い評価を受けていた。太夫、天神クラスの遊女の手紙を求めるのは、今生における一番の「大望」であると井原西鶴が語っている。
高尾とは、吉原の遊女屋三浦屋に代々引き継がれた、最高位の遊女、太夫の名跡(みょうせき)である。
 下関では遊女は売女(ばいた)と呼ばれることはなく、多くは女郎または、お女郎さんと呼ぶ。遊女は年中、素足であることが一般的だが、下関では足袋をはくのが一般的。ここでは、遊女が遊客より上座に座ることが習慣化されていた。そして、相方(あいかた)は、遊女屋(仲居)の決定に任されるなど、客の対応にも高踏的だった。
 明治5年(1872年)、明治天皇が西国へ巡幸したとき、稲荷町の遊女は、その昔、天皇に奉仕した女性であるという理由から、奉迎の式典への参加が許された。
 下関において遊女は、中世における官女伝承をうけて格別の「尊敬」があった。
遊女が年季を終えて退郭したあと、寺子屋の必須科目である読み書きを教えて生活の糧にしたというのは珍しいことではない。
 江戸時代の一面を知ることのできる本です。
(2013年1月刊。1800円+税)

2013年8月16日

日本人の地獄と極楽

著者  五来 重 、 出版  吉川弘文館

20年前に刊行された本の新刊本です。著者は亡くなられています。「ごらい・しげる」と読みます。昔の学者の博識には驚かされます。東京帝大の印度哲学科卒業です。全12巻の著作集がある本格派です。
 大和の三輪(みわ)山は万葉の歌にうたわれる秀麗な山容で知られ、神体山という信仰がある。しかし、江戸時代は「おしろ谷」と記録される風葬の谷、つまり地獄谷だった。
 風葬の谷と推定される地獄谷を「阿古谷」(あこだに)または「阿古屋」(あこや)と呼んだ。地獄谷のなかで、規模も大きく古代からよく知られていたのが、越中立山の地獄だった。
 大峯山(金峯山)に入峯することは、いったん死ぬことであり、山中遍歴は死後の山の遍歴であって、その苦痛によって、それまでに犯した罪穢をすっかり浄化、滅罪してしまう。そうすると、成仏することもできるし、極楽浄土へ往生することもできる。これが山岳宗教の基礎理念だった。
 一般人(新客)は、罪穢の浄化・滅罪によって健康になり、長寿が得られ、災をまぬがれることができる。
日本人の死後観には地獄と極楽の未分化の期間があって、それを「中有」(ちゅうゆう)と呼び、49日間は魂は「屋の棟(むね)を離れない」などと言う。
 日本人の他界観は、地獄と極楽は地続きで、隣り合わせである。これは仏教の教典と根本的に相違する。村や町の墓地がもっとも眺望のよい高燥の地にあるのは、身近な浄土の機能の一部を墓地がもっているためである。谷は地獄谷となり、山は浄化山となって、罪の浄化のすまない霊は地獄谷におり、供養によって滅罪・浄化された霊は山上の浄土に上ると信じられた。日本人は罪には重量があると信じたようで、霊は罪のために谷や地獄に沈淪(ちんりん)しているが、それが軽くなるにしたがって高いところに「浮かぶ」ことができる。その浮かんだところが光明にみちた高天原や霊山の頂点で、そこが仏教的には極楽だった。
 キリスト教では、天国こそ現実性をもった理想の世界だったが、日本人にとっては地獄こそ現実性をもった恐るべき世界だった。
 日本人の地獄観のもっとも大きな特色は、地獄巡りと地獄破りがあること。地獄破りという不遜な物語があるのは、地獄を必ずしも不可避的な律法と考えなかった人間主義のあらわれだろう。
 お盆は地獄の連休である。亡者がどんどん婆婆へ帰っていく。
民間神楽(かぐら)の大部分は、かつての山伏神楽であって、修験道から出たものだということが最近になって、わかってきた。
 童話や絵本で「おむすびころりん」と呼ばれているものは、地下は地獄だということ。この昔話は、日本人の地獄が浄土と同列に意識されていたことを示す。そこには、地蔵に表象された祖霊がいて、心正しい慈悲深い子孫には福を与えて婆婆へ送り返す。しかし、罪深く、穢の多いものは、その業火で仮借(かしゃく)なしに攻め苛(さいな)む。
 日本人として知っておくべきことが盛り沢山の本でした。
(2013年5月刊。2100円+税)

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