弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2015年10月15日

三くだり半と縁切寺

(霧山昴)
著者 高木 侃   出版 吉川弘文館
 
明治のころ、日本は男尊女卑だったから、江戸時代はもっと男尊女卑は徹底していたに違いない。実は、これは、まったくの誤解なのです。
明治中期ころ以降、男は勝手な理由で気に入らない妻を追い出し、離婚していた(夫の専権離婚)。しかし、江戸時代の離婚の多くは、「熟談離婚」だった。
江戸時代にも姦通罪はたしかにあった。しかし、それは単なるタテマエでしかなかった。
ところが、明治時代以降には、実態(ホンネ)として強制されるようになった。
江戸時代の『女大学』は、一種の絵空事(えそらごと)であり、現実を反映したものではなかった。
「世に女房を養う顔をして、女房に養われる亭主多し」
武士の離婚率は高く、10%をこえ、しかも、離婚後の再婚率は50%に及んでいた。再婚へのためらいはなく、とくに夫の死亡後は再婚していた。
離婚したら、夫は妻の持参金を返還する必要があった。
女性は、未婚・既婚を問わず、家族内で重要な役割をになっていた。労働を支えていた妻は、夫と対等だった。
当時の妻は、破れ草履(ぞうり)を棄てるように、いとも簡単に夫の家から飛び出てきた。きらいな夫、生活力のない夫の元をいつでも妻が飛び出すことができたのは、その労働力が期待され、すぐに受け皿としての再婚先があったから。
庶民の離婚率は高く、8割以上が再婚した。そして、明治前期の離婚率もきわめて高い。これは江戸時代の高い離婚率の名残だ。それが、明治31年の民法施行によって激減した。
三くだり半は、再婚許可状だった。そして、この三くだり半は再婚免状であるから、具体的な離婚理由は記載されなかった。
夫が親族等の意思を無視して、恣意に妻を離婚することはできなかった。
三くだり半の実物に照らして論述されていますので、強い説得力があります。
江戸時代の縁切寺は、鎌倉・松ケ岡の東慶寺と上野国の満徳寺の二つの尼寺だけ。妻からの離婚請求はかなり認められていた。東慶寺へ駆け込んだ女性は江戸末期の150年間に2000人をこえた。
離婚に際しては、別れたい方が、お金を支払わないといけない。1992年に出版された本のリバイバルですが、補論がついています。
夏目漱石の父・小兵衛は江戸牛込馬塚下横町の名主だった。知りませんでした、、、。また、井上ひさしの『東慶寺、花だより』も紹介されています。
日本の女性を視る目が180度変わる本です。
(2014年12月1日。2400円+税)
 

2015年10月10日

遠山金四郎の時代

(霧山昴)
著者 藤田 覚   出版 講談社学術文庫
 
ご存知、遠山の金さんの実像を探った本です。なるほど、そうだったのかと膝を打ちながら読みすすめました。江戸時代の社会的状況を明解に説明していますので、背中に桜吹雪の名奉行がなぜ世間に大受けしてきたのか、よく分かります。
江戸時代の名奉行として有名なのは、大岡越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ)と遠山左衛門尉景元(さえもんのじょう・かげもと)の二人。大岡越前守は八代将軍吉宗の時代。そして、遠山景元は水野忠邦による天保の改革のころの町奉行。
「大岡政談」は、実際の大岡とは関係のない創作だということが判明している。しかし、遠山の金さんにはタネ本はない。
遠山の金さんの場合は、天保の改革という厳しい政治改革をすすめていた老中・水野忠邦と、その下で活躍した町奉行・鳥居燿蔵という敵(かたき)役がいてこそだった。
刺青(分身、入墨)は、天保13年(1842年)には、幕府が禁止令を出さざるをえないほどに流行していた。
遠山景元は、町奉行在職はのべ12年に及んだ。在職当時から名奉行として評判が高かった。12代将軍・家慶(いえよし)は遠山景元を公の場でほめ、将軍のお墨付きを得た。
この遠山景元は、天保の改革をすすめようとする老中・水野忠邦と意見が合わなかった。
その前提には、江戸の町の深刻な不景気があった。遠山景元は、身分不相応のぜいたくはいけないが、江戸の町はにぎやかで繁栄させるべきで、さびれさせてはいけなと考えた。これに対して、老中・水野忠邦は、ぜいたく禁止を徹底すべしと考えた。
このころ、江戸の町には、なんと233ヶ所もの寄席があった。老中・水野忠邦はそれを全廃せよと迫った。遠山景元たちの必死の抵抗で全廃は免れたものの、わずか15ヶ所だけ残った。
寄席は、入場料が安く、下層町人にも楽しめる大衆的娯楽施設だった。入場料は銭20文前後、いろいろあわせて銭50文で一夜を楽しめた。奉公人などが、男女、年齢を問わず、寄席に詰めかけて楽しんでいた。
天保の改革が失敗したあと、寄席はたちまち復活し、700軒にまで増えている。
遠山景元のせりふとして次のように言わせている。
「江戸ほどの大都会には、相当の遊山場(ゆさんば)がなくてはならぬ。いかに御倹約の世の中でも、人間は牛馬のように働いてばかりはいられまい。それ相当の休息もせねばならぬ、それ相当の物見遊山もせねばならぬ。吉原通いをするよりは、まだしも芝居見物のほうがましではあるまいかな。いかなる御政道も、しょせんは人間を相手のことだ。人間が楽しく働いて、楽しく暮らされるようでなければ、まことの御政道とは申されまい」
遠山の金さんら名奉行の主張の背景として、天明の江戸打ちこわしのような下層民衆の蜂起騒動への恐怖が存在していた。営業と生活が成り立たないような状況に追い込まれれば、事態を打開するために蜂起し、騒動を引きおこすことによって、幕府に手痛い打撃を与えることができるほどに、江戸の民衆は政治的に成長していた。
名奉行の陰には都市下層民衆あり、だった。そして、天保の改革という、江戸民衆に苛酷な政治改革を強引にすすめていった水野忠邦や鳥居熠蔵という敵侍がいてこそ、名奉行、遠山の金さん物語が生まれたのであろう。
なーるほど、よくよく分かりました。
(2015年8月刊。900円+税)

2015年10月 2日

江戸日本の転換点

(霧山昴)
著者  武井 弘一 、 NHK出版  
 銅銭を日本へ輸出していた明(中国)に日本から銀が輸入されるようになって、基準通貨が銭から銀へ移行しはじめ、銭の発行・流通が不安定となった。南米産の銀も明(中国)まで銀経済圏になってしまった。これにより、日本では銭の供給が途絶えて、銭不足となった。そこで、安定的に税を確保するため、米で年貢が納められるようになった。
加賀藩では、百姓は毎食でなくても、米を食べていた。百姓が食べていたのは、大唐米というインディカ型(長粒米)の赤米。赤米は、新田におりる稲作のパイオニアの役割を果たしていた。 
水田には一種類ではなく、バラエティに富んだ米が育てられていた。百姓は変わり種を選び、各地から新種を導入して試し植えをして、収穫量の多い、病気や虫害に強く、しかも味の良い米を求めた。
ため池は、田んぼに引き込む水が冷たすぎないように、水を溜めて温めていた。 
畦(あぜ)で育てられた豆を畦豆(あぜまめ)とよぶ。これで自家用の味噌がつくられるようになった。そもそも畦は、検地の対象外であった。
牛革は良質で加工がしやすい。馬皮は、強靱さや防水などの点で劣る。馬より牛のほうが、皮革の商品価値は高い。結果として乾田化で多くのウシが飼育されるようになって、西日本ではえたが増えた。
肥料は、農業生産力を向上させるだけではない、それを入手できるかどうかが、百姓の経済的な格差をもたらしたのだろう、、、?
江戸時代の米づくりの実情などについて、教えられるところがありました。差別用語は歴史的事実として引用していますので、ご容赦くだい。
(2015年4月刊。1400円+税)

2015年9月13日

ごみと日本人

(霧山昴)
著者  稲村 光郎、 出版  ミネルヴァ書房
 江戸時代の末期、開港させられた日本は、ヨーロッパにボロを輸出していた。金額にして8千ドル。これは、磁器や和紙より多い。ヨーロッパは、日本のボロを洋紙の原料にしていた。
 当時の日本では、ボロは主として衣類の補強材として使われていた。
 さらに、もっと価値ある輸出品として屑まゆや屑糸が、ヨーロッパでは工業製品である「絹糸」の素材になった。絹糸は、まゆから直接製糸する生糸とは異なり、屑糸や真綿など短い繊維を紡いでつくるもの。ヨーロッパは、絹糸紡績の原料をアジアで求めていた。
 以上、二つは私の知らない話でした。
 江戸時代、屎尿と同じようにごみも農村へ運ばれ、有機系肥料として利用されていた。 
 明治10年ころの日本にいたモースは、日本人の清潔さに驚いている。しかし、他方で、日本人は、町内のごみが腐敗臭を放っているのを問題とし、新聞は投書を載せていた。
 明治10年代の日本でコレラが流行し、8000人が死亡した。
 紙屑が本格的に洋紙原料として、重要視されるのは、さらに昭和になってからであり、古雑誌や新聞は一般市民が日常生活上で再使用するのが常識だった。
 ごみをめぐる日本社会の扱いの変遷がまとめられていて、大変興味深い内容でした。
 
(2015年6月刊。2200円+税)

2015年9月10日

幕末史


(霧山昴)
著者  佐々木 克、 出版  ちくま新書
 ペリーの来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、アメリカ大統領フィルモアの日本に開国を勧める親書をたずさえて、四隻の軍艦とともに浦賀に来航した。1853年6月のこと。ミシシッピ号は全長69メートル、1692トン、大砲12門、乗員268人の外輪式フリゲート艦。
当時の日本には、軍艦というものがない。最大の千石船は150トン、乗員20人、もちろん大砲は積んでいない。
そうだったんですね。1桁ちがう大きさの船に、大砲が12門も積んであれば脅威そのものです。しかも、その大砲の威力がすごいのです。
新型の大砲パクサンズ砲は、6000メートルの有効射程距離にあるから、江戸城はやすやすと攻撃可能だった。
私が驚いたのは、浦賀奉行の与力・中島三郎助が大砲を見てパクサンズ砲ではないかとたずねたという事実です。江戸幕府も、外国の新鋭兵器について相当の知識をもっていたのです。
1867年、長崎でイギリス人水兵が何者かに殺害された。イギリス公使パークスが土佐の高知に乗り込んで、土佐藩政・後藤象二郎と談判した。パークスは、テ-ブルを叩き、床を踏み鳴らすなどして傲慢な態度で後藤を威嚇した。ところが、これに対して後藤はひるまない。
「大英帝国の外交官・紳士がそのような節度のない、粗野な態度では、いかがなものか」と、逆にたしなめた。
卑屈にならず、ぶれず、礼節をわきまえ、高い志をもつ。この幕末日本の外交姿勢は、中国とは違っていた。日本を侮っていた欧米列強をたじろがせた。
これはすごいことです。今のアメリカの言いなりになる屈辱的外交とは、まるで違いますよね。首都圏に外国軍の基地がある国なんて、日本だけだと思います。しかも、その基地に入管もパスポートも無用のままアメリカの将兵が自由に入出国しているというのです。信じられません、、、。
1862年(文久2年)、薩摩藩の島津久光(44歳)は、藩兵1000の大軍を率いて京都に着いた。幕府の許可なく、届出もしていない。ただし、天皇の内命(上京するように)は得ていた。そして、浪士を取り締まる役目を、天皇が京都所司代をさしおいて、幕府に断りもなく直接、特定の諸候(大名格の久光)に命じた。近世社会の常識ではありえないことがおこなわれた。幕府の権威の失墜であるが、幕府は異議を申立することもなく、これを黙認してしまった。
民衆が尊王攘夷運動を支持したのには明白な理由があった。このころの日本は、かつて経験したことのない急激なインフレーションが進行していた。開港このかた、よいことが一つもなく、生活が苦しくなるばかりだと幕府をうらんでいた民衆が、尊攘運動に期待したのは、自然のなりゆきだった。
1864年(元治 元年)、徳川慶喜25歳、松平春嶽34歳、島津久光45歳。山内容堂35歳。みな若かったのですね、、、。
1863年(文久3年)、孝明天皇が賀茂神社に行幸した。天皇が禁裏御所を出るのは237年ぶり。このとき、天皇は徳川将軍と大名を従えて行列した。天皇が日本国家の最上位に位置する存在であることを誇示したのである。
1863年の秋、天皇は島津久光に心境を打ち明けて相談した。久光は、無位無官であって、朝廷では庶民の扱いであるから、御所の座敷に上がることは許されず、廊下に座ることを命じられる。そのような人物に天皇は相談をもちかけた。これは、近現代の天皇と国民のあいだでは想像もつかないことだった。ただし、あとで、久光は従四位下左近衛少将に叙任している。
1865年4月、薩摩の汽船が大坂を出港した。この船には、家老・小松帯刀(29歳)、側役(そばやく)・西郷隆盛(36歳)、そして坂本龍馬(29歳)が乗っていた。本当に若いですね、、、。
1866年(慶応2年)1月の薩長誓約は、西郷が口頭で述べた運動方針を木戸が6ヶ条に整理して書きとめたもので、朝廷は再起不能の状態にあって期待できないので、誓約しますという趣旨である。
 幕長戦争では、統制のとれていない幕府連合軍に対して、長州藩では、武士・農民・町民が一体となった日夜、厳しい訓練に耐えてきた。そして、日本再建の一翼を担うため負けてはならない戦争だと位置づけていた。戦場における幕府軍劣勢の報が相次ぐなか、将軍家茂は20歳で大坂城中において病死した。死因は脚気による心不全。
幕末の状況を生き生きと再現していて、とても考えさせられる面白い本でした。
(2014年12月刊。1000円+税)

2015年9月 9日

大江戸・商い白書

(霧山昴)
著者  山室 恭子 、 出版  講談社選書メチエ

 江戸時代の町人の生活の実情を統計処理を通じて明らかにした画期的な本です。一見、無意味に見える数値の山も、きちんとした統計処理をすると、意味のある物語になってくるのですね、、、。業者による地道な統計処理が生きている本になっています。
江戸の町奉行所の調査はすごい。1853年(嘉永6年)に、男性29万5453人、女性27万9474人、合計57万4927人の町人が住んでいるとしている。
ただ、どの町に何人が住んでいるというところまでは分からない。
江戸の店の名前は、1位に伊勢屋、2位に万屋(よろずや)、3位は三河屋。越後屋は6位。屋号の存続年数は、伊勢屋が一番長くて17年、万屋は15年、越後屋は12年。全体の平均は15,7年。要するに、江戸の店は、目まぐるしく参入と退出がくり返され、商人の顔ぶれは、どんどん入れ替わっていた。
店の移動は、第三者への譲渡が5割、身内への相続は1割にみたない。
商人は非血縁原理による承継をメインとしていて、血縁相続による承継は部分的でしかなかった。そして、非血縁者に金銭で譲り渡す譲渡のほうが、承継されたあとの存続年数が長く、安定性も高い。
江戸の店で多いのは、炭薪(すみたきぎ)仲買(なかがい)823件、次いで搗米屋(つきこめや)771件の二つで、3位の両替屋209件を大きく引き離している。 
店の存続期間が50年以上というのは、石灰等仲買と札差。差札については、100年をこえる店も珍しくない。公儀の家臣に顧客を限定した金融業ということで、特殊かつ専門性が高いので、参入障壁は高かった。
米屋や炭屋は、株の譲渡や改廃が頻繁で流動性が激しく、10年ほどで店主がくるくる交代する短命な業種だった。
呉服屋や薬屋は、株があまり移動せず、固定的で、店主も30年ほどじっくり継続する長寿な業種。
札差は、全店舗が浅草の蔵前地区に集中している。
薬種問屋の92%は、日本橋北地区に集中している。『江戸買物獨(ひとり)案内』という本が売られていた。ひとりでも江戸の町で迷わず買い物ができるための初心者向けのガイドブック。すごいですね。こんなガイドブックまであったのですか、、、、。まるで、『地球の歩き方』です。
この本のもとになっているデータは、『江戸商豪商人名データ総覧』です。全7巻データ総数7万4000件。そこからデータを抽出して3939人分の商人の履歴データを整理してつくられたのが本書なのです。実に根気のいる作業でした。それでも、そのおかげで、私たちは江戸の町人生活の実情を統計的にも確認できるわけです。ありがたいことです。
江戸に少しでも関心のある人には必須不可欠な本だと思います。
                            (2015年7月刊。1600円+税)

2015年8月23日

若冲

(霧山 昴)

著者  澤田 瞳子 、 出版  文芸春秋

 京都の錦高青物市場に店を構える老舗の「枡源」の四代目の店主は、商売そっちのけで絵を描くばかり。稼業は弟たちにまかせっきり。
江戸時代、対象をじっくり観察して描く生写は、画家には必須の素養だった。粉本(ふんぽん)模写を基本とする狩野派ですら、これは同様で、長崎からもたらされた動植物の生写や、将軍の鷹狩や社寺参詣に際しての行列図作成は、御用絵師たる狩野家の重要な任務の一つだった。
 加えて、国内屈指の学問興隆の地である京都では、本草学の隆盛にともない、動植物の詳細な写し絵が多く求められた。それゆえ、京の画家は、生写の腕こそが画技を左右すると見なし、みな懸命研鑚を重ねていた。
 そう、ところ狭しと掛けまされた鮮麗な絵には、一つとして生きる喜びが謳われていない。そこに描かれるのは、いずれ散る運命に花弁を震わせる花々、孤立無援の境遇をひたすらかみしめるばかりの鳥たち。身の毛がよだつほどの孤独と哀れみが、極彩色の画軸から滔々とあふれ出している。
 若冲の絵って、本当に、そんな印象を与えていますよね・・・。
 見る者に鮮烈な印象を与える若冲の絵に秘められた奥深い情念を、あますところなく文章で表現した本でした。圧倒されました。
(2015年6月刊。1600円+税)

2015年8月 9日

馬と人の江戸時代

(霧山昴)
著者  兼平 賢治 、 出版  古川弘文館

 馬は、戦前、筑後平野にもたくさんいました。亡き父の実家(大川市です)でも戦前、馬を飼っていて、写真が残っています。この本は、主として東北地方の人々と馬の結びつきをテーマにしています。
 軍事権を兵馬の権(へいばのけん)と呼んだ。武芸を職能する武士にとって、馬は武威と武芸を象徴する存在だった。良馬を確保して乗りこなすことは、軍事力の優位さと、武芸の技量が秀でていることを周囲に知らしめた。馬は武士そのものを象徴する存在だった。
江戸幕府は、東北の馬、とくに南部馬を求めて馬買役人を派遣していた。いや、幕府だけではなく、全国の大名や旗本も派遣していた。
 公儀御馬買衆(こうぎおうまかいしゅう)に対して、馬買、御馬買、脇馬買(わきうまかい)と呼んだ。
 東北の馬を「奥馬」(おくうま)と呼んだが、奥馬は体格が大きく、性格は穏やかで、人によく馴れた。
 南部馬は、軍馬・常用馬として、実際の利用に適した馬であった。
 牛皮は使い勝手がいいため利用されていたが、馬皮は積極的に利用されていた形跡はない。それが19世紀に入ってから変わった。馬の尾の毛は、甲冑の飾りや、筆の材料として、また、川釣りの糸、刷毛(はけ)や、うらごし器の網などに使われた。
 馬への親しみの情から、今なお馬肉を食べるのを避ける地域がある。
 馬肉を食べる地域として有名なのは長野と熊本ですよね。熊本ではスーパーでも普通に馬肉が売られています。隣接する福岡のスーパーには見当たりませんが・・・。
 日本の在来馬は小柄だった。現在のサラブレッドは160センチほどの長身の馬だが、日本の在来馬は、140センチほど。これは、当時の平均的日本人の身長が160センチをこえていなかったことを考えたらマッチしている。
 南部曲屋(なんぶまがりや)は、人馬がひとつ屋根の下で共に暮らしていたことを如実に示している。
 岩手のチャグチャグ馬コは、さすがに戦争中は中断したそうですが、今は復活しています。3.11事故のあとも復活していますよね。
 この本には登場してきませんが、昔は炭鉱内でも馬が活躍していました。死ぬまで地底で働かされていた馬がいたのです。人間と馬とのかかわりを考えさせてくれる本でした。
(2015年4月刊。1700円+税)

2015年6月19日

遊楽としての近世天皇即位式

(霧山昴)
著者  森田 登代子 、 出版  ミネルヴァ書房

 私は、制度としての天皇制には賛成することができません。人間に無用な差別を固定化させるシステムだからです。でも、今の天皇は、心から尊敬しています。象徴天皇としての限界を守りながら、平和憲法の世界的意義を身体をはって訴えかけているからです。そこは、自民・公明の安倍内閣と真逆です。
 この本は、江戸時代の天皇即位式が庶民の楽しみの対象だったことを明らかにしています。天皇即位式のすべてではありませんが、庶民が弁当たべながら見て楽しめる儀式だったというのです。驚きました。「厳粛な儀式」とは、ほど遠い現実があったのです。やっぱり、本は読むものです。
天皇即位式を庶民が見物していた。それは絵図でも証明されている。九条兼実の日記「玉葉」には、即位式には、僧・尼と服喪者が入場禁止と書かれているから、逆に言うと、それ以外は入場できたということ。
 後醍醐天皇の即位式(1318年)にも、庶民が多く見物していた。
 このように、天皇即位式には、禁裏内に大勢の庶民が見物していた。これは公家の日記から裏付けられる。当時の天皇即位式を「厳粛な儀式」だと現代人の感覚で憶測すると、それは間違いなのだ。
江戸時代、庶民は天皇即位式の見物が許されていて、即位式で使われた調度品を見物して楽しんでいた。
 前天皇が皇位を譲り、新天皇が即位することを受禅(じゅぜん)という。前天皇は上皇となって新天皇を保佐する。前天皇が崩御(死亡)し、その結果、新天皇が皇位を継承するのを践称(せんそ)という。江戸時代より前は、天皇は生前に譲位し、上皇や法皇となって、院政を敷くのが慣例だった。
 天皇即位式のみは庶民が見物できる儀式であり、それ以外は、一般の人々には見せない秘儀とされていた。すなわち、天皇即位式は、公開することが基本中の基本だった。むしろ、「見せつける」行事だった。公家たちは、唐風装束に礼服を着ていた。その異形の服装が庶民の興味を大いに引いた。即位式の見物入場券が発行された。入場者は300人。男性100人、女性200人。
 ええっ、なぜ、女性が男性の2倍なの・・・?
 見物する庶民にとって、天皇即位式は、芝居と遊楽の一つだった。弁当を食べながら見て楽しむものだった。
 ところが、明治天皇の即位式から庶民の見物を排除してしまったのです。
 日本古来の伝統なるものは、実は、明治以来のものでしかないということです。
 それにしても、江戸時代の人々にとって、天皇とはいったいどういう存在だったのでしょうね。政権担当者でないことは明らかだったでしょうから。いわば、「象徴」天皇のようなものだったのでしょうか・・・。
(2015年3月刊。2800円+税)

2015年6月11日

天草四郎の正体

                              (霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  洋泉社歴史新書

 島原・天草の乱には、「歴女」でなくても、大いに心が惹かれます。
 関ヶ原の戦い(1600年)から40年もたっていない1637年(寛永14年)、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件が起きたのです。
 3万人をこす一揆群が幕府軍に皆殺しされ、この天草の「乱」は収束しました。
 私も「原城」跡に行ったことがあります。今では海に面した小高い丘があるだけです。現地に立つと、こんな狭いところに3万人もの人々が何ヶ月も生活し、最後には幕府軍によって全滅させられたというのは信じがたい思いがしました。
 この本は、天草四郎は、実は、一人ではなかったと主張しています。「四郎」とそっくりの少年たちが大勢いたことを強調しているのです。
 天草四郎は、「乱」の最後まで生きていたのですが、3万人もの一揆勢の前にはほとんど姿を現していなかったようです。不思議です。ごくごく狭い城内にいて、天草四郎が姿を最後まで3ヶ月のあいだ一揆勢に見せず隠しとおせたというのは、どういうことなのでしょうか・・・。
 島原・天草一揆(島原の乱の別名)の1年ほど前に、松倉・寺沢両家から若衆たちが集団で逃走していた。こんなこと、ちっとも知りませんでした。
 著者は、「島原の乱」を次のようにみています。
 この一揆は、百姓主体の一揆ではあるが、いわゆる百姓一揆ではない。蜂起の時点で領主側(代官)の血を流し、領主側との「合戦」と城攻めをくり返しているように、訴願に基礎を置く百姓一揆的な妥当性を切り捨てた、百姓一揆への退路を断った武力闘争、一種の「戦争」であり、有馬・小西の時代のような「キリシタンの時代」に回帰することを求めた、ある種の「聖戦」であった。
 島原・天草の状況は、キリシタン信仰へ立ち帰ったというより、ひそかに信仰を継続していた人々が信仰を公然化させたという形跡が強い。
 原城に籠城した男女は3万人以下の2万8千人ほど。軍事指揮にあたる軍奉行に牢人層が配され、村役人クラスが村々を持ち場ごとに配置した。城中は、「凝縮された村社会」を基礎にした籠城体制をとっていた。
 寛永12年末に、松倉家から、47人の家臣が退去し、牢人となった。そして、そのなかから一揆の首謀者があらわれている。
 一揆勢の盟主であり、総大将である四郎のもとに、数十人の若者・少年が組織されていた。
 幕府は、天草に「わらんべ共」は、生け捕りにして、火あぶりに処せられるべきとの命令を出した。むき出しの敵意を示している。
 天草四郎なる人物は、その最期まで一揆の全過程を通じて一揆勢の前に姿を現したことを確認できない。代わりに出てくるのが、「四郎のごとく」出で立ちをした四郎の分身たち、「十六、七の前髪の若者」たちだった。その存在は、具体的であり、可視化されている。
 一揆勢には、20人ばかりの「四郎のごとく」出で立ちをした「16,7の前髪の若者」たちがいて、どれが四郎本人であるが、教えられていなかったのではないか・・・。
 私は、この指摘を受けて、なるほど、そうだったのか・・・、と思わずつぶやいてしまいました。いま、原城跡には天草四郎の銅像が立っています。よく写真で紹介されていますが、海に顔を向けています。
 一揆勢はポルトガル船の救援を待っていたという説があります。平戸のオランダ商館長は、1638年5月1日(寛永15年3月18日)の日記に、四郎について、17,8歳の無名の人で、その首は見つからなかった。行方不明になったもの思われる」と書いているそうです。私も、なんとなく、そういうことじゃないのかな・・・、と思いました。
 世の中は、不思議だらけです。ですから、面白いのですよね。
(2015年4月刊。950円+税)

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