弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(現代史)

2007年4月10日

「聖断」虚構と昭和天皇

著者:纐纈 厚、出版社:新日本出版社
 戦前のジャーナリズムには、天皇、革命、セックスという三つのタブーがあった。このうち、戦後に残ったものは天皇のみであった。
 たしかに、革命なんて今どきありふれた言葉になっていますね。もっとも、それは社会主義革命というものではなく、単なる変化をオーバーに言ったに過ぎないつかわれ方のようですが・・・。セックスなんて、どこまで隠されているのか、今やまったく分かりません。では、天皇タブーは続いているのか。
 毎週のように週刊誌では今も雅子さんバッシングが続いていますよね。病気になった雅子さんを、もっと温かく見守ってやったらいいと私なんか思うのですが、毎回毎回、容赦なく暴きたて、叩いています。あれって、女性天皇、女帝を認めないためのキャンペーンだという指摘がありますが、まさしく意図的なものですよね。皇室が自分の意のままに動かないときには断乎許さないぞという右翼の一潮流のキャンペーンなのでしょう。これも、やはり天皇タブーの変形の一つなのでしょう。
 このところ、昭和天皇の「聖断」によって軍部の独走を抑えて終戦にもちこむことが出来た。昭和天皇は平和を愛する平和主義者だったのだという論調がマスコミの一部にすっかり定着した感があります。しかし、それって本当でしょうか・・・。
 この本は天皇の「聖断」なるものが、まったくの虚構であることをしっかり暴き出しています。格別目新しい事実ではありませんが、昭和天皇を平和主義者とあがめる昨今の風潮に水を差すものであることは間違いありません。
 昭和天皇がしたことは、「聖断」でも英断でもなく、国体護持つまりは自己保身のために不決断を繰り返したということ。これが本書の結論です。この本を読むと納得します。
 アジア太平洋戦争は、天皇の戦争として開始された。天皇とその周辺によって、その最初から最後まで、統制された戦争であった。天皇の意思と命令によって開戦し、天皇の意思と命令によって「終戦」、つまり敗戦した。ただし、終戦決定過程における天皇の不決断は、大いなる戦争犠牲者をうみ出した。
 昭和天皇は敗戦後の回想において、東條英機の「憲兵政治」について、「軍務局や憲兵が東條の名において勝手なことをしたのではないか。東條はそんな人間とは思わぬ。彼ほど朕(ちん)の意見を直ちに実行に移したものはない」
 東條は数多くの高級軍事官僚のなかでも、天皇への忠誠心が際だって厚く、その東條に昭和天皇は最後まで深い信頼感を抱いていた。
 東條に日米開戦時の戦争指導内閣を担わせ、この忠実な軍事官僚であった東條を通じて政治指導および戦争指導を進めてきた昭和天皇は、最後まで東條に未練を残していた。昭和天皇は、原則的には明確な戦争維持論者であり、これまでと同様に東條内閣の下で進められることを期待していた。
 昭和天皇は、レイテ海戦における海軍特攻機の投入とその過大に伝えられた戦果について、「そのようにまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」と感想を述べた。
 昭和天皇は、特攻機による攻撃など、捨て身の戦法までつかって米軍に一撃を与え、少しでも有利な「終戦」工作条件づくりのなかで戦争終結にもちこもうとしていた。
 米軍が沖縄に上陸したあとの4月3日、昭和天皇は、参謀総長に対して、「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか。兵力が足らなければ逆上陸もやってはどうか」と、持久戦法ではなく、積極攻勢に出るよう要求した。
 昭和天皇が終戦工作に関心をもち始めたのは、5月に入って、沖縄で日本軍の敗北が決定的となり、5月7日にドイツが連合軍に無条件降伏してからのことである。
 「聖断」のシナリオは、日本の国土と国民を戦争の被害から即時に救うために企図されたものではない。ただ、戦争における敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任を棚上げにするために着想された一種の政治的演出にすぎない。
 もし国民のためだったのなら、即時の戦争終結が実行されてよかった。日本政府は、国体護持の確証を得ようとして、その一点だけのために2ヶ月以上の時間を費やした。
 昭和天皇の「聖断」が8月13日ではなく、もっと早くされていたら、4月1日の沖縄への米軍上陸と沖縄戦はなく、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な戦いのなかで15万人もの死者を出すことはなかったはず。昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと」と周囲からの終戦のすすめを一蹴してきたのだった。昭和天皇の戦争責任は重い。
 私は、今の平成天皇は昭和天皇の戦争責任を十分に自覚しているのではないかと受けとめています。しかし、周囲がそのことを率直に認めさせないようです。

2007年3月15日

硫黄島の兵隊

著者:越村敏雄、出版社:朝日新聞社
 硫黄島は、「いおうじま」と呼ぶと思っていましたところ、昔は、「いおうとう」と呼んでいたそうです。アメリカによる占領を経て、アメリカ軍の呼び方が広まった、というわけです。
 1945年2月からの1ヶ月間の戦いで、日本軍は2万1000人のうち助かったのは1000人のみ。戦死者2万人です。今も、その遺骨の大半は島に眠っています。日本政府は技術的困難を理由として本格的な遺骨収集を放棄しています。
 対するアメリカは参加した将兵は11万人、上陸したのは6万1000人。そのうち戦死者6800人、戦傷者2万1800人、死傷者の合計2万8000人でした。
 アメリカ海兵隊の168年間の経験のなかで、もっとも苛烈な戦いだった。
 穴掘り作業は、まさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字鍬で掘り起こした窪みから、猛烈に噴き出した。
 この島は、全島、どこを掘っても、強い熱気と亜硫酸ガスが噴き出た。海中に浸って、足の爪先で砂を掘ってみても、熱い地熱を感じた。
 1000人ほどしか島民が住めなかった理由の一つは水にあった。雨はきわめて少なく、4、5月にくる雨期が終わると、雨はめったに降らない。
 ウグイスとメジロは島にふんだんにいた。人が近寄っても、まるで無視する。気ままについばみ、気のはれるまで歌って生きている。
 断崖の岩盤はおそろしく硬い。下痢患者の打ち込む十字鍬(くわ)は、はね返って歯がたたない。岩の割れ目を見つけて十字鍬を打ち込み、わずかずつ切り崩した。のみもつかって石屋のように岩を剥がした。削岩機も何もないから、すべて人の手で作業する。
 硫黄と塩が身体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。やせこけた身体は恐ろしい速さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調症になる。
 夜となく昼となく残忍に苦しめるのは、すさまじい喉の渇きだった。しかし、それを癒すものは、塩辛い硫黄泉しかない。
 異様な臭いの立ちこめる生ぬるい塩水を飲むしかない。それを飲んでも清涼感は味わえない。どろりとして後味が悪く、口腔から鼻にかけて、強い吐き気を誘う硫黄の臭みがむんと籠もって、いつまでも離れようとしない。それが染みついた喉や舌が、飲みこむ瞬間に拒絶反応を起こして震える。そのあとは、通りみちに刺すような辛みが、震えるような吐き気と一緒に残る。これがまた、喉の渇きをかきたてる。
 どの兵隊も、目尻や鼻や唇の両端が食い入るようにへばりついたハエの塊で黒い花が咲いたようになった。盛ったばかりの飯と味噌汁は一瞬のうちに真っ黒になった。全島がハエの島と化した。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻くハエのなかでの生活である。日がくれると、島を覆うすさまじいハエの群れは一斉に木の葉や草葉の裏にとまり、姿を消す。
 37度あまりの熱で、日に10回ほどの下痢症状は、この島では健康体である。それより健康なものは、ここでは異常だった。
 硫黄島に補給などのために飛んできた飛行士が見たのは、まさしく人間ではない、火星人だった。どの兵士もまっ黒で、皮膚につやがなく手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていた。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていた。
 この本の著者は、まさしく奇跡的に助かっています。日本の飛行機が補給物資を島に届け、本土への帰路に負傷兵をのせていったのです。著者がなぜそのなかに選ばれたのかについては何も書かれていません。
 最後に、著者の次のような言葉が紹介されています。
 戦争を知らないで一生を終えたら、これほど幸せなことはない。これから同じような死に方をくり返すとすれば、彼らの死は徒労でなくて、何でありましょう。
 まったく同感です。強い共鳴を覚えました。

2007年3月 1日

十七歳の硫黄島

著者:秋草鶴次、出版社:文春新書
 硫黄島の戦闘が体験者によって刻明に再現されています。地獄のような地底で凄惨な逃避行を続けていく執念を読んで、腹の底から唸り声がわきあがってきました。感嘆、驚嘆、なんと言うべきでしょうか。よくぞここまで思い出して書きとめたものだと感心するばかりです。なかでも、地底の臭いの描写が私にはもっとも印象的でした。
 出征の前の晩。祖母はこう言った。
 死ぬでないぞ。死んで花実が咲くものか。咲くなら墓場はいつでも花盛りだ。
 著者は17歳の通信員。薄暗い壕内に寝起きする。通信科の隅にはバケツの水が用意されている。水番がいつも見張っている。一度に小さな茶碗に一杯だけ飲める。これは雨水。しかし、硫黄ガスの臭気と室温を溶かしこみ、ゴミや微生物も見え隠れしている。そんな水を一度でいいから思い切り飲みたいと願っていた。
 壕内の衛生状態は日一日と悪化した。微生物や虫の繁殖はものすごい。蚊とハエ、蛾は昼夜なくとび回り、のみとしらみもどんどん増えている。排泄物の累積に厠もたちまち満杯となる。
 アメリカ軍は上陸本番の前、2月18日に海岸線に緑、赤、黄、碧(あお)の小旗を立てた。部隊ごとの上陸地点を示す目印だ。
 アメリカ軍が本格的に上陸したのは2月19日。午前10時までに1万人が上陸した。それまで日本軍は一切反撃しなかった。突如として日本軍のラッパが鳴って反撃が始まった。著者は、この様子をずっと見ていたのです。
 彼我の距離は1キロ足らずの地に、双方あわせて5万をこす人間の殺戮戦がくり広げられた。10時間に及ぶ膠着戦だった。1分経過するごとに3人が死に、1メートルすすむたびに1人が死んだ。
 2月24日、早朝摺鉢山の山頂に再び日章旗が翻っていた。
 そして翌25日早朝、またもや摺鉢山に日の丸が朝日を浴びて泳いでいた。
 ええーっ、本当でしょうかー・・・。
 硫黄島攻防戦におけるアメリカ軍の総被害の7割は2月27日までのもの。あとは局地戦に移った。
 日本軍は、この1週間、飲まず喰わずで、兵器以外に手にしたものはない。
 壕内に霊安所がある。眼前に青紫色のあやしげな炎のようなものが立ち昇った。そしてすぐに消えた。ローソクのような燃え方に似て、ボボーッと燃えては消え、ボボーッと燃えては滅している。自分のまわりで消えては燃え、灯っては消えている。まるで蛍の一群のようだ。燐に取り巻かれてしまった。
 死が近い者はうわ言をいった。
 「今日は休みだよな。面会人が来ることになっているんだ。もう駅に着いているかなあ」
 「まだ戦争、やってんのかい?もうやめようって、みんなが言ってるよ」
 そうなんですよね。私は、このセリフを紹介するだけでも、この本の書評をのせる価値があると思いました。
 著者は、短かく見ても一週間、長くみたら半月は水一杯も口に入れていませんでした。それでも運よく、缶詰をあけて食べ、サイダーを飲むことができました。
 自分の傷口に丸々と太った真っ白い蛆(うじ)がいた。口中に入れると、ブチーッと汁を出して潰れた。すかさず汁を吸いこんだ。皮は意外に強い。一夜干しでもあるまいに。しばらくその感触を味わった。
 うえーっ、そ、そんなー・・・。これって正気の沙汰ではありませんよね。まさしく地獄のような地底での話です。
 木炭も食べました。軟らかそうで、うまそうだ。急に甘味を思い出し、思わずかじりついた。・・・。すごーい。
 5月17日まで島内を逃げまわり、気を失っているところをアメリカ軍の犬に見つけられ、捕虜収容所のベッドに寝ているところで目がさめたのです。まさしく九死に一生、奇跡的に助かったわけです。
 あの戦争からこちら60年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無駄じゃねえ、と言ってやりたい。
 著者の言葉です。本当にそのとおりです。この60年の日本の平和を守ってきた日本国憲法(とりわけ9条2項)を変えるわけにはいきません。

2007年2月20日

「特攻」伝説

著者:原 勝洋、出版社:KKベストセラー
 第二次大戦中に、日本軍のカミカゼ特攻隊がアメリカ軍の艦船に体当たりしていった事実はよく知られています。この本は、アメリカ・メリーランド州にあるアメリカ国立公文書館?にある太平洋方面における戦闘記録と写真を掘り起こした写真集です。
 日本軍の陸海軍機がアメリカ軍の艦船に体当たりしていく状況をとらえた写真360枚が紹介されています。まさしく迫真の状況です。
 アメリカ軍は、カミカゼ特攻機が飛来し、爆弾を抱いて突入する姿、艦に体当たりする瞬間、被害箇所を克明に撮影し、記録していたのです。
 61年前の若い日本人青年たちが、体当たりの一瞬に人生のすべてを燃焼させていった記録写真です。彼らの出撃前のあどけない顔写真もあわせて紹介されています(こちらは日本軍がとった写真です)。
 この本によると、特攻機の命中率は語られていた以上に良かったようです。アメリカ軍の作成した資料によると、1944年10月、特攻機の命中率は42%、至近弾として損害16%で、合計58%。これによる損害として、命中した艦船は17隻、沈没したのは3隻。1944年10月から1945年3月までの間に、特攻が356回実施され、命中したのが140回で39%、命中と至近弾損害をあわせると56%にもなっている。命中した艦船は130隻で、沈没したのは20隻。沈没した船は1944年12月に11隻だったが、1945年に入ると、1月3隻、2月1隻、3月にはゼロとなっている。
 著者は、この写真と記録を見て、平和の時代に生きて良かったと実感させられたと述べていますが、私も本当にそう思いました。あたら有能な青年の前途を奪った戦争をくり返させてはなりません。
 アメリカ軍艦船「イントレピッド」の飛行甲板に突入した体当たり機操縦の特攻壮士の遺体写真について。人間の生命を犠牲とすることを前提とする特攻。この現状を知ってなお、「特攻攻撃は操縦する特攻壮士の崇高な意志を信頼してはじめて成立するもの」などと言えるだろうか。遺体写真のキャプションとして、著者は、このようにコメントしています。同感です。
 特攻は特別攻撃隊の略語であり、これは確実な死を意味していた。まだ一縷の生還の望みがある決死隊とは、まったく違うもの。
 それにしてもよく撮れたと思える写真です。はるか上空にいる日本のカミカゼ特攻機。艦に体当たり寸前の特攻機。本当に鬼気迫るものがあります。見上げるアメリカ軍兵士の顔が恐怖でひきつっているのまで判読できます。
 この特攻攻撃の自己犠牲は、アメリカ海軍の将兵にとっては理解のできない、身の毛もよだつ行為だった。アメリカ軍の検閲当局は、体当たりカミカゼによる被害関係情報を一切禁止した。
 出撃直前の特攻隊士の集合写真のなかには笑顔の青年も認められます。緊張した顔つきの兵士が大半ですが、それほど自己犠牲を当然視できていたのでしょう。教育の効果とは本当に恐ろしいことです。
 この本にはアメリカ側の記録だけでなく、日本側の出撃記録によって、いつ、どこから、誰が出撃していったのか、その氏名も明らかにされています。ですから、この写真にうつっているカミカゼ特攻機にのっているのは誰だろうという推測も書かれています。
 亡くなった日本人青年の冥福を祈ると同時に、こんな時代(事態)を再び招かないためにも、平和憲法を守り抜きたいと決意したことでした。
 いずれにせよ、手にするとずしりと重たい写真集です。

2007年2月 8日

天皇の軍隊と日中戦争

著者:藤原 彰、出版社:大月書店
 現代史・軍事史研究の権威であった著者は陸軍士官学校を出て陸軍将校として中国へ派遣され、決戦師団の大隊長となったが、陸軍大尉として無事に戦後、復員してきました。その体験をふまえての軍事史研究ですから、やはり重味が違います。
 兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴だった。圧倒的勝利に終わった日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦死傷者はわずか1417人。ところが病死者はその10倍に近い1万1894人。患者総数はのべ17万1164人であり、出動部隊の総人員17万3917人に匹敵している。これは軍陣衛生に対する配慮が不足し、兵士に対して苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。
 日露戦争のときには兵士を肉弾としてつかい、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。ベトンで固めた旅順要塞に対して、銃剣だけに頼る決死隊の総攻撃をくりかえして死体の山を築いた。
 兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが補給の無視だった。精神主義を強調する日本軍には、補給・輸送についての配慮が乏しかった。武士は食わねど高楊枝とか、糧を敵に借りるという言葉が常用されたが、それは補給・輸送を無視して作戦を強行することを意味していた。
 アジア太平洋戦争における日本軍の死没者230万人の半数以上が、餓死か栄養失調を原因とする病死である事実を直視しなければならない。
 硫黄島の戦いを描いたクリント・イーストウッドの映画を2本ともみましたが、日本軍が兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に欠けていたという指摘は本当にそのとおりだと思いました。2万人いた守備隊のうち1000人ほどしか生還しなかったのです。栗林中将が自決したときにはまだ3000人の日本兵がいたというのに、降伏しないまま  2000人が死んでいるという事実は、実に考えさせられます。
 兵士の自主性を認めず、その生命を軽視している日本の軍隊が、その存立の起訴として重要視したのは、軍紀を確立し、絶対服従を強制することだった。絶対服従が習慣となるまでに、兵営生活の中で習熟させた。
 ただ、この点はアメリカ軍でも同じような気もします。ベトナム戦争を扱った映画「プラトーン」や「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」などに、新兵を殺人マシーンに仕立てあげていく様子がリアルに再現されています。
 最後の支那派遣軍総司令官だった岡林寧次大将が戦後(1954年)に偕行社で行った講演が紹介されています。
 日露戦争の時代には慰安婦は同行しなかったが、強姦もなかった。ところが、昭和12年になって、慰安婦を同行しても、なお多くの強姦する兵士が続出した。
 1939年(昭和14年)、陸軍次官は、中国戦線から日本へ帰還した日本兵が中国での虐殺や強姦の事実をしゃべることのないよう取り締まれという通達(通牒)を陸軍の各部隊に発した。というのは、帰還兵たちが、たとえば半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗だけだ、と言っていたから。
 著者は南京大虐殺を幻だとか捏造だと決めつけている論者を厳しく批判しています。
 たとえ捕虜の撃滅処断1万6000、市民の被害1万5000としても、それは大虐殺である。中国側のあげる南京での30万人の大虐殺という数字は、白髪三千丈式の誇張であるとし、それを攻撃することで、南京大虐殺は捏造だと決めつけることが、日本人として取るべき態度なのか。捕虜の不能な殺害や市民に対する残虐行為が、正確な数は不明としても多数存在したことは、消しがたい事実なのである。数の多少を問題にするのだったら、範囲を広げれば、いくらでもその数はふえるのである。
 日本軍が、軍紀の弛緩と中国人、アジア諸国に対する蔑視観とから、大規模な残虐行為を犯したことは遺憾ながら事実なのである。その事実を直視し、原因の追及と批判を行うことが、忌まわしい歴史を後世への教訓として生かすことになる。
 私は、この指摘にまったく同感です。私の亡父も中国戦線へ一等兵として送られていました。幸いなことにマラリアなどの病気にかかって本国送還されて南京攻略戦には参加していませんが、侵略軍の一員であったことは事実です。その子どもとして、日本人は加害者であったという事実を直視しなければいけないと考えています。

2007年2月 2日

朝鮮人戦時労働動員

著者:山田昭次、出版社:岩波書店
 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。
 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。
 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。
 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、列車で500人ほどを連行してきたというのです。三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。
 昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。
 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。つまり、日本の責任は重いということです。
 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。
 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。
 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。
 貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。
 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。朝鮮を日本の植民地としていた。植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
 まったく同感です。亡父が強制連行に手を貸していたという一事をふまえて、私も自らがしたことではないとしても、朝鮮の人々に対して日本人の一員として謝罪すべきだと考えています。

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