弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(現代史)

2007年9月20日

蟻の兵隊

著者:池谷 豊、出版社:新潮社
 敗戦したあとも中国に残って、毛沢東の率いる中国紅軍と3年半も戦っていた日本兵の集団がいたなんて、ちっとも知りませんでした。
 中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第一軍の将兵2600人は、中国国民党系軍閥の部隊に編入され、戦後なおも3年8ヶ月にわたって中国共産党軍と戦い、550人あまりが戦死した。生き残った者も700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国できたのは昭和30年前後のこと。帰国したとき、これら元日本兵は逃亡兵の扱いを受けた。日本政府は、残留将兵たちが自らの意思で残留し、勝手に戦争を続けたとみなし、戦後補償を拒否した。
 2001年5月、元残留将兵ら13人が軍人恩給の支給を求めて国を訴える裁判を起こした。しかし、一審判決で敗訴した。日本って、ホント、むごい国ですよね。
 中国国民党系の軍閥の首領は閻錫山(えんしゃくざん)。彼は、1904年、21歳のときに日本へ留学し、陸軍士官学校に入学した。閻は孫文の中国革命同盟会に加盟し、弘前の連隊に勤務するなどした。5年間の日本留学を終えて中国に戻ると、山西省で大隊長級の軍人となった。そして、次第に力を蓄え、山西省に独立王国のようなものを築くにいたった。そこで、蒋介石は、閻錫山の軍隊と八路軍とを戦わせ、双方の弱体化を狙った。閻にとって、八路軍と衝突するのは蒋介石を利することになる。それを悟った閻は、日本軍と手を結ぶことにした。
 昭和20年の終戦時、日本の北支派遣軍第一軍は5万9000人いた。そのうち、閻は1万5000人を残留させ、自軍に編入することを試みた。名目は「鉄道修理工作部隊」とした。第一軍当局は、閻の要請を受け入れ、現地除隊の手続きをとらないことにした。現地除隊してしまえば、好きこのんで残留する将兵が誰もいなくなるからである。
 ところが、南京にある支那派遣軍総司令部から派遣された参謀が、山西省で軍の命令に反して勝手に日本兵の一部が残留しようとしているのを知り、妨害した。その結果、動揺が生じて、1万5000人の予定が残留者は2600人にまで激減した。
 日本兵の残留工作にあたった軍幹部の認識は次のようなものだった。
 蒋介石の国民党軍は、正規軍400万、地方部隊200万で、合計600万の大軍があった。これにアメリカが46億ドルの兵器を提供した。B29機、戦車、重砲、自動銃、火炎放射器、通信機。これに対する中国共産党軍は90万。兵器は蒋介石軍や日本軍から取り上げたもの。だから、1年か1年半で、人民解放軍を撃滅できる。
 ところが、八路軍は、徐向前の率いる20万の大軍、そして、猛将といわれた賀竜の率いる10万の大軍が進攻しており、山西省は陸の孤島になりつつあった。
 日本軍は山西軍を教育するだけでいい、直接の戦闘には加わらなくてよいという約束はたちまち反故にされ、早くも戦死傷者が出た。それまでは「逃げる八路軍」の体験しかなかった日本の将兵は、人海戦術で正面から戦いを挑んでくる共産党軍の存在を初めて知った。
 装備も士気も劣る山西軍との共同戦線なので、日本軍は必然的に最前線に立たされることになった。そこで、八路軍は、むしろ残留日本軍を標的に戦闘を仕掛けてきた。
 そんななか、中国残留をすすめていた山岡参謀長が帰国し、澄田第一軍司令官も日本に帰国した。澄田は帰国する前、次のように訓示した。
 祖国日本の復興のためにがんばれ。自分は閻将軍と台湾に行き、日本に帰ったら、必ず2万の救援軍を連れて帰ってくる。
 日本から2万の義勇兵を連れて中国に戻ることを約束したというのです。なんということでしょう・・・。この澄田元司令官は昭和54年に89歳で天寿をまっとうし、昭和29年9月に勲一等旭日大緩章をもらっています。まだ山西省で残留日本将兵が死闘をくり広げているころになります。
 軍隊そして軍人の無責任さには、ほとほと呆れてしまいます。
(2007年7月刊。1400円+税)

2007年9月19日

第百一師団団長日誌

著者:古川隆久、出版社:中央公論新社
 伊東政喜中将の日中戦争というサブ・タイトルがついています。数少ない師団長クラスの日誌が物語る戦場の現実、オビに書かれているとおりでしょう。
 遺族の提供によって東京を母体とする特設師団(101師団)の実情がさらに解明されたわけです。素人ながら、その意義は大きいと思いました。
 盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発したのは70年前の1937年(昭和12年)7月7日のこと。日中戦争が始まった。その4年後には太平洋戦争へと拡大していく。
 日中戦争初期の1937年8月から1938年9月にかけて、第101師団長であった伊東政喜(まさよし)陸軍中将の日誌を解読し、中国側の資料もふまえて丁寧な解説がついています。素人にも大変わかりやすい内容の本です。
 第101師団は、いわゆる特設師団であり、予備、後備役の召集兵、つまり現役兵としての勤務を終えて社会に戻り、その中堅層として活躍していた人々で編成された部隊である。首都東京を根拠地とする部隊であるうえ、激戦地に投入されたため、多くの美談や武勇伝を生み、人々に広く知られた。
 伊東日誌はA5版のノート6冊から成る。伊東は、1881年(明治14年)に、大分市に生まれた。大分中学から陸軍幼年学校へすすんだ。そして陸軍士官学校を1902年に卒業し、砲兵少尉に任官した。さらに陸軍大学校に進学した。陸大は、30歳以下の少尉や中尉のなかから上官の推薦を受けた者が受験できる学校で、作戦をたてる役目をもつ参謀将校の養成を目的とした。師団長・軍司令官、陸軍中央の要職といった陸軍の高官は、陸大を卒業していないと、まずなれない。
 中国に駐屯する日本陸軍の傍若無人のふるまいが日中戦争を引き起こした。その背景には徹底した中国蔑視があった。それがまかり通った原因として、日本の軍隊が政府の指揮下になく、独自の組織となっていた(統帥権の独立)こととあわせて、日本社会に中国蔑視が蔓延していたことがあった。日本の陸軍や一般の人々は、中国軍の実力はたいしたことはなく、本気を出せばすぐに降参するだろうと高をくくっていた。ところが中国軍は、かねてドイツ軍から顧問を招いて上海地区に強固な陣地を構築し、精鋭部隊を配置していた。伊東師団長の率いる第101師団は、このような状況のなかで上海へ出征していった。
 特設師団は常設師団よりも兵器の配備の点でも格段の差別を受けた。旧式兵器であり、機関銃以上の火力は、せいぜい半分程度だった。携行する砲弾も常設師団の3分の1でしかなかった。
 第101師団が東京を出発するときには、楽観的かつ熱狂的な雰囲気の中で戦地に向けて出発していった。日誌には次のように書かれています。
 特設師団は編成素質不良にして、かつ、訓練の時間なく、しかも、もっとも堅固な敵正面の攻撃にあてられ、参戦以来3週間、昼夜連続の戦闘をなし、相当の死傷者を出した。
 幹部の死傷が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立つによる。そうしないと兵が従わないからだ。こんな涙ぐましい美談が少なくない。
 この「美談」は、そのままでは内地で報道することができませんでした。それはそうでしょうね。兵隊の士気がないことが明らかになってしまうからですね。
 東京で、第101師団について、不名誉な噂が広まり、伊東師団長はやきもきさせられました。第101師団は杭州攻略戦に参加したため、南京事件にかかわらずにすんでいます。南京大虐殺事件について、著者はあったことを否定できないとしています。私も、そう思います。このころ、日本軍の軍紀(綱紀)が相当ゆるんでいたことを、伊東師団長も再三、日誌のなかで嘆いています。
 ところで、このころ、日本は軍需景気に沸いていたということを私は初めて認識しました。そうなんです。戦争は、一部の人間にとっては、もうかり、楽をさせるものなのです。このころ、正月の映画興行がにぎわい、国内観光旅行客が急増しました。出版業界もバブルという好況になりました。
 軍需産業の繁栄と、日本が中国に負けるはずはないという思いこみによる将来への楽観視が、中国大陸の戦場の苛酷さとうらはらに、戦後1980年代日本のバブル景気を思わせる雰囲気を、この時代の日本はもっていた。読売新聞は、東京で一日3回発行していた。
 慰安所設置のことにも日誌はふれています。陸軍当局の方針として慰安所が設立され、運用されていたことは歴史的事実なのです。
 また、第101師団が、日中戦争で毒ガスをつかっていることも判明します。青剤(ホスゲン)や茶剤(青酸)のようなガスで直接的に多数の死者を出すものではなく、赤剤つまり、くしゃみ、嘔吐剤であり、戦力・戦意の一時的な喪失を狙ったものでした。
 なぜ、日中戦争で特設師団が勝つよう(多用)されたかについて、ちょうど同じ時期の日本を分析した岩波新書『満州事変から日中戦争』(加藤陽子。2007年6月刊。780円+税)には、次のように説明されています。
 日本軍の陣容を眺めると、特設師団(番号が三桁の師団や、軍縮で廃止された師団番号をつかって編成された師団)が含まれていることから分かるように、参謀本部は、ソ連の動向を考慮するあまり、現役兵率の高い精鋭部隊を上海・南京戦に投入しなかった。つまり、陸軍はあくまで北(ソ連)を向いていたのである。
 この日誌を読んで、当時の日本軍の状況が師団長レベルの考えから、よくとらえることができました。ちなみに、600頁もの大部の本です。読み終わったあと、つい昼寝の枕にしてしまいました。ちょうどいい高さなのです。井上ひさしの『吉里吉里国』を読んだときを思い出しました。
(2007年6月刊。4200円+税)

2007年8月31日

湖の南

著者:富岡多恵子、出版社:新潮社
 事件のあったのが5月11日。5月27日に大津地方裁判所で開かれた裁判で、津田三蔵は通常の謀殺未遂罪で無期徒刑となった。そして7月2日に北海道の釧路に到着。そのとき、「身体・衰弱し、普通の労務に堪えなかった」三蔵は、9月30日に釧路集治監で死亡した。36歳だった。
 裁判のために東京からわざわざ大津までやってきた西郷従道内相は、同じく大津にきていた児島大審院長に対して、次のようにののしった。
 「もう裁判官の顔を見るのもいやだ。今まで負けて帰ったことはないのに、今度は負けて帰る。この結果がどうなるか、見てろよ」
 いやあ、ひどい裁判干渉の言葉です。三蔵は裁判のとき、次のように言った。
 「もはや、わが国法により処断せらるるのほかなし。ただ、願わくは、わが国法により専断せられ、なにとぞロシア国におもねるようなことなく、わが国の法律をもって公明正大の処分あらんことを願うのみ」
 津田三蔵は西南戦争に従軍して負傷している。それは、田原坂の戦いではないが、そのときの功績によって勲七等を受け、百円が下賜された。いずれにしても、10年間の兵役に従事したあと、三蔵は警察官になった。
 西南戦争で死んだ兵士を悼む記念碑の前にロシア人が立った。そして、皇太子歓迎の花火の音が西南戦争のときの戦場の光景を三蔵に思い出させ、凶行にかりたてていった。
 津田三蔵の大津事件の真相が、三蔵自身の手紙などから明らかにされていく過程は、ゾクゾクするほどの面白さです。
 このとき日本で負傷したロシアのニコライ皇太子は23歳。そして、50歳のときに皇帝を追われ、レーニン治世下のソ連で一家もろとも銃殺された。
 いろいろ知らなかった事実を知ることができました。
(2007年3月刊。1680円)

2007年8月21日

陸軍特攻・振武寮

著者:林 えいだい、出版社:東方出版
 思わず腹が立ってしまう本です。いえ、著者に対してではありません。軍人のいやらしさに、対してです。死んで華を咲かせてこい、などと偉そうに命令しておいて、自分は後方で酒など飲んで、のうのうとしている。そして、最前線から生きて帰ってきたら、その兵士を懲罰したというのです。人命軽視というのは軍隊の相も変わらぬ体質です。あー、やだ、やだ。そんな軍人に日本が再び支配されるなんて、まっぴらごめんです。そんな気持ちに、しっかりさせる本でした。
 戦争末期。特攻機には不良機が続出していた。なぜか? たとえば、飛行機の部品をつくっていたのは、慣れない高等女学校の生徒たち。彼女らが必死にヤスリで削っても、しょせんは素人集団。熟練工でないため、不良品が続出するのもやむをえなかった。これは、ナチスの軍事工場で、動員された女工たちが意識的なサボタージュ(不良品をわざとつくっていた)とは違うものです。国の生産管理そのものに無理があったわけです。
 部品の不良品が続出し、何回テストしても不合格となる。作業する女学生の精神がたるんでいるからだと検査官は責任を作業する女学生に転嫁した。しかし、資財の不足は決定的だった。3月27日、アメリカ軍のB29による大刀洗飛行場大空襲によって、九州一を誇った大刀洗陸軍航空厰が全滅した。そのため熊本県菊池にある陸軍航空分厰と山口県下関にある小月分厰とに故障機が殺到した。
 大刀洗飛行場は、陸軍が誇る西日本一の飛行場だった。そこで1万人が働いていた。大刀洗航空機製作所は、百式重爆撃機「飛龍」を製造した。1万3000人の従業員がいた。飛行場の上空は気流が安定していて、飛行訓練には最適だった。
 飛行機の操縦士というのは、募集しても短期間では教育できない。一人前の操縦士を育てるには3年はかかるといわれていた。そこで、大学や専門学校に在学している学生に白羽の矢が立った。学問して基礎教育はできている。思想的にも大人になっている。体力的にも訓練に耐えられる。そのような学生を集めて、特別に操縦士の早期育成教育をすることになった。勅令によって、特別操縦見習士官という制度がつくられた。
 教官と助教は、日頃から、生徒の操縦に注目している。本人の性格まで分析して、体の動きが機敏で反応が早いのは戦闘機、動作がゆったりしているのは重爆、素早くて目がいいのは偵察と決まっていた。分けられた者をみると、いつも納得させられた。
 もともと陸軍の航空隊は、海上の敵機動部隊への艦船攻撃の訓練を受けたことがない。陸軍の航空本部長は特攻作戦に反対した。
 特攻隊というのは捨て身の戦法で、飛行機も操縦士も同時に失って再び戦闘につかえないという重大な欠陥がある。これは戦術的にも間違った戦法であって、本来やるべきことではない。お金をかけて長いあいだ養成した優秀な操縦士を、たった一度の体当たりで失うことに疑問をもった。しかし、そのように反対した本部長も参謀も更迭され、総入れ替えとなった。
 特攻隊をつとめるときには、熱望する、希望する、希望しないという3つの設定で回答を迫る。このとき、希望しないと書くのは、熱望すると書くよりも勇気がいった。うーん、たしかに、そうでしょうね・・・。
 陸軍の爆弾は、爆発した瞬間に広がり、敵兵をなぎ倒して死傷させることが目的であって、もともと艦船攻撃用のものではない。海軍の雷撃隊が使用する魚雷は、鉄鋼爆弾といって、戦闘艦の厚い鉄板を貫いて爆発する。陸軍の250キロ爆弾は、コンクリートの上に卵をぶつけるようなもので破壊力がない。
 特攻隊が出撃する前の軍司令官の訓辞は次のようなものでした。
 お前たちは、生きながらの神である。日本の国を救うのは、お前たち以外にはない。一命を投げ出して、国のためにいさぎよく死んでくれ。お前たちのことは、畏くも上耳に達するようにする。軍司令官も参謀も、最後の一機で突っ込む覚悟だ。お前たちだけを見殺しにはしない。
 うむむ、なんとカッコいい激励のコトバでしょう。でも、現実は、そうではありませんでした。乗った飛行機が故障して帰ってくると、次のようにののしられました。
 貴様たち、なんで帰ってきた。卑怯者のお前たちに与える飛行機なんかない。卑怯者、死ぬのが怖いから帰ってきたのか!
 特攻隊で出撃して死にきれない隊員は、軍人精神がたるんでいる証拠だ。飯を食う資格がない。まず、反省文を書け。教育勅語と軍人勅諭をオレがいいというまで書け。
 貴様ら、その態度は何か。それでも軍人か。何で生きて帰ってきたのか。貴様たちは、そんなに死ぬのが怖いのか。
 盛大な見送りを受けた特攻隊員が生きて帰還したとき、それは罪悪として非難された。しかし、死に追いやった者が生還者に言うべき言葉ではない。そのとおりですよ、まったく。そして、実は、生還者をののしった参謀は戦後、長生きした。しかし、80歳になるまで生還者や遺族から襲われることを恐れて、自分の護身用としてピストルと軍刀を身辺から離さなかった。なんということでしょう。おぞましい人生ですね。特攻隊の現実を考えさせらる本でした。
 お盆休みに知覧へ行ってきました。たくさんの特攻隊員の顔写真を見ながら、死にたくなかっただろうな、とつくづく思いました。お国のために死んでこい、オレもあとから続くなんて言った偉いさんたちのほとんどは、若者への言葉を違えて安穏な戦後を過ごしたのではないでしょうか。改めて腹が立つのを抑えきれませんでした。
(2007年3月刊。2800円)

2007年8月10日

盗聴二・二六事件

著者:中田整一、出版社:文藝春秋
 2.26事件を新たな視点で掘り下げた本だと思いました。
 2.26事件が始まると、逓信大臣の命令のもとに電話の盗聴が開始された。これは陸軍省軍務局との協議のうえのことだった。しかし、実は、盗聴は憲兵隊によって事件の1ヶ月以上も前から始まっていた。そして、試作段階にあった円盤録音機をつかうことになった。戒厳司令部、陸軍省、逓信省が協力し、了解のもとで盗聴され、録音された。
 2.26事件のとき、戒厳令はすんなり施行されたのではない。この機に乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望の実現を図るのではないかと警戒する人々がいたからである。たとえば、警視庁は強く反対した。海軍も当初は反対した。
 西田税は5.15事件(1923年)のとき、陸軍側の参加を阻止したことから、計画を他にもらす恐れがあるとして血盟団員からピストルで撃たれた。2.26事件については、計画から決行・終結に至るまで終始、部外者の立場にあり、むしろ事件を起こすのには反対だった。
 盗聴記録によると、誰かが北一輝の名を騙って電話をかけている。謀略が進行していた。偽電話をかけたのは戒厳司令部の通信主任の濱田大尉であった。
 陸軍上層部は、北一輝や西田税ら、外部の民間人が2.26事件の首謀者であるという図式に固執していた。2.26事件の軍事裁判にあたっては、青年将校に激励の電話を入れたにすぎない北一輝と西田税を極刑に処すというのが初めから陸軍中央の方針であった。北と西田が悪いんだ。青年将校は、単にくっついていっただけ、というわけである。裁判長は北と西田を首魁とするには証拠不十分であるとした。死刑に反対する裁判長と死刑相当という残る4人の判事とで見解が分かれた。
 そのため、10ヶ月も審理は中断し、昭和12年8月13日、弁論再開、証拠調べ終了、8月14日、判決宣告、8月19日に死刑が執行された。銃殺刑であった。北は54才、西田は36歳だった。同年9月25日、真崎甚三郎大将には無罪の判決が下された。
 これは、いかにもひどい政治的な裁判ですよね。判決宣告して、わずか5日後に死刑執行だなんて、まさしく日本は軍部独裁体制にあったのですね。おー怖い、怖い。
 陸軍は、事件処理に名をかりて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校らのテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果となった。
 防衛庁が防衛省に昇格してしまいました。アメリカ軍に隅々まで統制されている自衛隊は、自民党の改憲案(新憲法草案)では自衛軍になるということです。軍部独走を果たして止められるでしょうか。軍事裁判所は司法権の独立を貫くことができるでしょうか。心配になるばかりです。

2007年6月22日

戦場に舞ったビラ

著者:一ノ瀬俊也、出版社:講談社
 第二次大戦中、日本軍とアメリカ軍が戦場でまいたビラ、伝単と言います、を収集して、その効果を検証した異色の本です。
 日米両軍とも、伝単の作成には力を注いだ。日本は陸軍参謀本部に、アメリカはマッカーサー軍司令部に、それぞれ専門の部署をおいていた。
 アメリカ軍は1942年(昭和17年)4月、空母ホーネットから長距離飛行が可能な陸軍の双発爆撃機B−25を16機発進させ、東京・横浜を空襲して中国大陸に着陸させるという奇策を用いた。このとき、アメリカ軍は「桐一葉」伝単を日本上空にまいた。
 「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」にちなんだ伝単であり、「落つるは軍権必滅の凶兆なり」などと書かれていた。この伝単を考案したのは、戦前のアメリカで対日反戦運動を展開していた、後の評論家・石垣綾子だったという。
 ソロモン諸島に取り残された日本兵は、日本の大本営の大げさな戦果発表よりもアメリカ軍のまくビラの方がよほど信頼性があることをよく知っていた。そこでは、無気力・不感症になったような兵たちがアメリカ軍のまく伝単を拾っては貼りあわせて花札をつくり、毎晩、賭博を開帳していた。
 日本軍の士気の衰えがよく分かりますね。
 グアムにいた日本兵は、終戦になっても日本が降伏したことを知らず、ジャングルのなかにいて、敵から奪った手紙やごみという「意図せざる伝単」を通じて正確な情報を手に入れ、それによって自ら情勢を判断して投降した。
 横井庄一もジャングルのなかにいてアメリカ軍による投降勧告放送を聞いていたが、捕虜をつかったアメリカ軍の謀略だと解釈して応じなかった。このとき、日本陸軍の参謀自らが放送していたら応じていただろう。横井庄一は 1972年、28年間のジャングル生活の末にやっと投降した。
 1972年のことは今も覚えています。驚きでした。日本の戦後は終わっていないというのを実感させられた瞬間でした。
 日本軍に投降をすすめる伝単には、投降の「作法」を絵で示すものもあった。投降する日本兵がふんどし一つの裸で出てくる場面を当時の記録映像で見ることがある。それは、こうした伝単や投降放送の指示にもとづくものなのである。
 なるほど、投降するにもお互い生命をかけていたのですね。伝単の意義をしっかり理解することができました。
 わが家の田んぼに水が張られ、田植えが始まりました。蛙たちが一斉に鳴きはじめ、夏到来を告げています。

2007年6月 4日

ぼくは毒ガスの村で生まれた

著者:吉見義明、出版社:合同出版
 毒ガスの被害が、現代中国で発生しています。日本軍が投げ捨てていったものが、何も知らない子どもたちに拾われたりして事故を起こしているのです。
 なぜか。マスタードガス(イペリット)は、吸い込んだり身体にふれても、すぐには影響が出ない。数時間たってやっと影響があらわれる。その場で毒ガスにふれたことが気がつかないため、大勢の人が被害にあってしまう。
 毒ガスに触れた皮膚のキズは治りにくいだけでなく、大きな跡が残ってしまう。呼吸によって肺に入ると、ひどい咳が出て、呼吸が困難となる。現代の医学では、毒ガスの被害を完全に治す薬や治療法は見つかっていない。
 日本には毒ガスを製造していた島があった。瀬戸内海の小さな島、大久野島。今ではテニスコートなどもある国民休暇村となっていて、毎年12万人がやって来る。ここに、従業員5000人という大工場があった。毒ガスをつくっていた。
 日本でも中国と同じような事故が発生している。茨城県神栖町、神奈川県の寒川町や平塚市など。というのは、毒ガス弾を日本軍は終戦時に別府湾などに捨てたから。また、銚子沖にも捨てられている。
 日本にとって、戦後はまだ終わっていない。このことを実感させられる本でした。

2007年5月 8日

沖縄シュガーローフの戦い

著者:ジェームス・H・ハラス、出版社:光人社
 沖縄戦初日のアメリカ軍の上陸日はL(ラブ)デイと名づけられ、1945年4月1日。日本軍の反撃はまったくなく、予定より早く目的地に到着していった。
 アイスバーグと名づけられた沖縄進攻作戦は、54万8000人の将兵と1500隻の艦船を動員する計算だった。攻撃実施初日の兵力18万2000人というのは、1年前のノルマンディー上陸作戦のDデイを7万5000人も上まわっている。
 日本軍の第32軍司令官は牛島満中将であり、その副官で参謀長の長勇少将は、短気で攻撃的な性格だった。大酒飲みで女好き、盲目的な愛国主義者で先導的な性格だったから、牛島司令官の手に余ることも多かった。
 ところが、1945年5月12日から18日までの一週間、沖縄の首里攻防戦の西端にある小さな丘をめぐる争奪戦で、アメリカの第六海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。最終的に丘を占領するまで、海兵隊は少なくとも11回の攻撃をおこなった。中隊は消耗して、すぐに小隊規模になり、さらに消耗して分隊規模になり、最後はシュガーローフ上で染みこむように消えていった。
 沖縄戦は太平洋戦争を通じてもっとも血みどろの戦いだった。82日間の戦闘でアメリカ軍の陸上兵力は7612人が戦死、行方不明、3万1312人が負傷、2万6211人が戦闘疲労症となった。海上兵力のほうも4320人が戦死、7312人が負傷した。
 第六海兵師団だけでも戦死傷者は8227人にのぼり、3人に2人が戦列を離れた計算になる。
 アメリカ海兵隊は高さ15メートルから20メートル、長さ270メートルしかないシュガーローフと名づけた貧相な丘を乗り越えることができなかった。この丘にはトンネルや坑道が複雑に張りめぐらされており、人員や物資を地上に出ることなく補給することができた。この丘にいた日本軍は一個中隊規模でしかない。しかし、すぐに豊富な予備兵力で増員できる体制にあった。しかも、陣地は重装備されていて、迫撃砲45門と擲弾筒29門が配備されていた。地形は防御側にきわめて有利。攻撃側は、さえぎるものが何もなく、丸裸で丘に接近しなければならない。
 太平洋戦線のアメリカ海兵隊には、夜間戦闘の絶対的掟があった。それは、動くものはすべて撃て、夜に動きまわるのは、すべて日本兵だ、というもの。
 シュガーローフの丘の上では、日本軍とアメリカ海兵隊の兵士たちの手榴弾合戦が続いた。メジャー一等兵は、戦車の残骸にいた日本兵の断末魔の悲鳴を聞いて、気分が少し楽になった。やつらも生身の人間だということが初めて実感できたからだ。
 日本兵は、アメリカ兵にとって生身の人間だとはおもわれていなかったわけです。爆弾をかかえて戦車に飛びこんでくる姿を見たら、たしかにそんな気になるのでしょうね。今のイラクと同じで、日本軍は自爆攻撃を常套手段としていたのです。
 食欲のある兵士は、ほんの一握りで、多くの兵士はタバコを吸いながら、Dレーションバーと呼ばれていた栄養食のフルーツ・チョコレートバーをかじっていた。そのため、前線勤務の兵士は例外なく体重が減り、平均7〜10キロはやせた。消化器系の不調にも悩まされ、下痢でげっそりするか、便秘でお腹がパンパンするか、どちらか。中間はなかった。
 シュガーローフでの前線勤務を経験すると、死は生きることよりも普通となっていった。死の多くは劇的ではなかった。ある兵士は突然、ベルトのあたりのシャツを手でまさぐり出した。そのまま座りこむと、ゆっくり横にもたれかかるようにして倒れ、そのまま死んだ。かなり遠方から飛んできた銃弾が背中にあたり、腹部から出ていったのだ。
 この本では、敵である日本軍の兵士を高く評価しています。次の狙撃兵の描写は、まるでスターリングラードの戦闘の様子を描いたような内容です。
 日本軍の狙撃兵は冷徹に選択された死の恐怖をアメリカ兵に味あわせた。狙撃兵は、きわめて忍耐強く、神業としか思えない選択眼で将校を見きわめていた。将校か通信兵を狙撃するため、一般の歩兵には目もくれずやり過ごした。そのため、将校は身につけている階級を示すあらゆる勲章や装備を隠した。将校で45口径の拳銃ストラップを肩からかけていたら、瞬時に射殺された。必ず眉間か胸のど真ん中を狙う。一発で即死した。狙撃兵による戦死傷者の中でもっとも多かった階級は中尉。ある将校は着任して15分で死んでしまった。シュガーローフ周辺での戦闘における将校の戦死傷率は平均60〜75%。大隊長3人と18人の中隊長のうち、11人が戦死ないし負傷した。当初から作戦に参加した中尉のうち、最後まで残ったのは、ごくわずかだった。
 多くのアメリカ海兵隊員は日本兵の姿を見ることなく死んでいった。日本兵はひたすらタコツボや洞窟、銃眼のなかで忍耐づよく待っており、アメリカ兵がその射界に入ってきたときだけ射撃した。
 日本兵はガニ股で飛びはねながら猿のように金切り声を上げたり、ブタのように鳴いたりするやつらだと思っていたが、実際に見ると目は落ち着きはらっており、まさにオレたち海兵隊員と同じ顔つきをしていた。これはアメリカ海兵隊の軍曹の言葉です。
 日本兵はきわめて統制のとれた集団だった。よく訓練され、統制のきいた陸軍兵士で、とくに士気の高さと身体能力の高さは特筆すべきだと海兵隊の活動報告書に書かれた。
 日本軍の兵士は、つねに頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に投降しなかった。
 この本が単なる戦記と違うところは、戦場でたたかえなかった兵士たちのことがきちんと描かれているところです。私なんか臆病者とののしられてしまうのは必至ですが・・・。
 精神の緊張状態は多くの兵士にとって、耐えられないものだった。
 頑強でたくましい大男の海兵隊員が、いざ最前線に行くと、泣き叫びながら戻ってくる。戦闘疲労症だ。あらゆる部隊が戦闘疲労症の渦に飲みこまれた。肉体的な極限状態のなかで、人間としての尊厳を守ろうとした場合に発症した。戦闘疲労症になる若い兵士は、とくに自責の念を感じているようだった。精神の崩壊は、肉体的な極限状態に、恐怖心と良心の葛藤が引き金となって発症した。相当数の兵士が二度と戦うことができなかった。
 日本軍はシュガーローフにおいて、反射面陣地と呼ばれる構築手法を多用した。これは、アメリカ軍側に相対する斜面には兵士を極力配置せず、反対側の斜面に主陣地を構築し、敵が頂上部に到達するのを待って攻撃する手法。この長所は、圧倒的な火力を有するアメリカ軍から直接的な攻撃を受けず、近距離に接近するまで兵力を温存し、かつ自軍の配備状況をアメリカ軍から察知されにくい効果があった。
 これって硫黄島でとられた戦法に似てますよね。沖縄戦において、圧倒的兵力の差があるアメリカ軍に対して局地的には互角以上の戦いをしていたというと意外な感じがします。硫黄島のような戦闘が沖縄本島でも繰り広げられていたことを初めて認識しました。
 ちなみに、シュガーローフというのは沖縄都市モノレールのおもろまち駅付近の小高い丘で、今は頂上に排水タンクがたっているところです。この本を読み、現地に立って激戦の状況を偲んでみたくなりました。戦争の残酷さを今の私たち日本人は忘れ過ぎているようです。

2007年5月 2日

日本帝国陸軍と精神障害兵士

著者:清水 寛、出版社:不二出版
 徴兵制とは、その時代の国家目的にそって、戦時あるいは平時の軍事的必要度にみあうだけの兵力を、国民の中の壮丁(兵役義務の年齢に達した男子)の中から、強制的に集めるための制度であった。
 徴兵制度の歴史とは、広範な免役要件に対して、いかに制限を加えていくかという過程であり、同時に、免役条項を活用しての徴兵忌避、さらには強制徴兵制そのものに反対する運動を強力に抑えこんでいく過程にほかならなかった。
 明治期の軍隊の中には、かなりの低学力の兵士が送りこまれた。日露戦争を経たあたりから、無(低)学力兵士の問題が軍隊内部でも顕在化しはじめていた。
 明治35年(1902年)、陸軍懲治隊条例が制定された。懲治隊に入れられた入営前の非行・犯罪のあった者の中に、実は、思想犯もいた。社会主義を鼓吹する言動が問題となり、改悛の情なき不良兵士とされたのである。
 その中の一人である森川松寿は、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に共鳴し、社会主義宣伝の冊子を販売する伝道行商に従事していた。森川は、兵役は国民の義務ではない、兵役は恥とするところ、戦争は罪悪だと公然と述べていた。
 偉い人ですね。なんと、17歳のころから活動していたといいます。
 徴兵忌避をする者が少数ではあったが、存在した。身体を毀傷し、疾病を作為し、また詐称したとして摘発された者が1918年に578人、1931年に474人、1935年に145人いた。
 日本が敗戦したときの動員兵力数は716万人。当時17〜45の日本男子は1740万人だったから、その4割以上が軍に動員されていた。1945年6月、義勇兵役法が制定され、男子15〜16歳、女子17〜40歳の全員が義勇兵役の対象に組みこまれた。
 1923年、陸軍懲治隊は、陸軍教化隊と改称された。陸軍となっているが、海軍兵も対象としていた。教化隊のなかにも思想要注意兵がいた。総員778人のうち8人が該当者であり、一般教化兵と隔離された。
 教化隊に編入された兵士は累計で1000人。このうち原隊に復帰したのは、6.2%(55人)のみ。あとは、満期除隊した。
 この本は千葉県市川市にあった国府台陸軍病院という精神病院の患者の実情を明らかにしています。そこでは、戦争神経症が研究されています。当初、ヒステリー患者とされていました。大戦中、ヒステリー患者は、ほぼ一貫して全精神神経疾患患者の10%前後であり、平均すると11.5%と高率だった。
 たとえば、その発症原因として加害行為についての罪悪感というものがあった。
 山東省で部隊長命令で部落民を殺したことがもっとも脳裏に残っている。とくに幼児をも一緒に殺したが、自分にも同じような子どもがいたので、余計にいやな気がした。
 ヒステリー性反応としては、その場で卒倒するケースが多いが、夢遊病者のように動きまわり、無意識のうちに離隊・逃亡することも少なくなかった。
 医師が戦争神経症に接して驚いたことは、ヒステリーの多いこと。目が見えない、耳が聞こえない、立ち歩きができないといったあらわな症状をもっていた。
 日本陸軍兵士における戦争神経症を研究した貴重な労作です。自他ともに認める軟弱な私などは、徴兵されて戦場に駆り出されたとしたら、真っ先にヒステリー症つまり戦争神経症にかかり、足腰が立たなくなること必至です。誰だって突っこめという号令に従って行動して無意味に戦死するなんてことになりたくはありませんよね。

テレビは戦争をどう描いてきたか

著者:桜井 均、出版社:岩波書店
 第二次大戦と日本人の関わりをテレビがどう映像で取りあげたのかを後づけた貴重な本です。ハーバート・ノーマンは次のように語った。
 みずからは徴兵制軍隊に召集されて不自由な主体である一般日本人は、みずから意識せずして他国民に奴隷の足枷をうちつけるエージェントになった。
 なーるほど、言い得て妙の指摘だと思います。
 中国戦線に配置された兵士たちの多くは劣勢の太平洋(南方)戦線への転戦を命じられた。そこでの苛酷な転戦と敗北の過程で、被害体験を蓄積して生還した兵士たちは、中国大陸での加害の記憶をすっかり相殺していた。
 うむむ、そういうことだったのですかー・・・。
 井上ひさしが『父と暮らせば』で書いた言葉が紹介されています。すごい言葉です。
 他者の犬死にの上に生きのびた人間が、犬のように生きることは許されない。
 犬死にを強いたもの、これから犬死にを強いるかもしれないものに立ち向かうしかない。
 そうなんです。平和憲法をなくして、日本を戦争できる国にしたら、またぞろ徴兵制が復活します。若者があたら犬死にさせられるなんて、まっぴらごめんです。今のうちに憲法9条2項を守れと叫んでたたかいましょう。
 レイテ島の戦いで、日本兵8万4000人のうち8万1500人、97%が戦死した。軍上層部は、無謀な命令を出しておきながら、部下に抗命権を一切あたえず、兵に武器弾薬食糧を補給せず、投降する自由を認めなかった。
 そして、司令部と第一師団の主力800人は隣のセブ島に転進した。1万人以上の兵がレイテ島に置き去りにされた。私はレイテ島に行ったことがあります。密林なんてどこにもありませんでした。苛烈な戦火にあって、密林が消えてしまったのです。こんなところで多くの日本人の若者たちが餓死、病死そして殺されていったのかと、不思議な気がしました。いま日本企業がレイテ島にも進出しています。私は弁護士会の調査団の団長としてODAでたてられた三菱重工業の地熱発電所を視察しに行ったのです。
 大岡昇平の『レイテ戦記』には、フィリピン人に日本軍が何をしたのかという視点が欠落している、そんな指摘もなされています。なるほど、と思いました。
 昭和天皇は戦争の原因として次のように述べたそうです。
 わが国民性について思うことは、付和雷同性の多いことで、これは大いに改善の要があると考える。かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった。軍備が充実すると、その軍備の力を使用したがる癖がとかく軍人の中にあった。
 つまり、付和雷同する国民と軍部の独走、この二つが結合したところに戦争の原因があったというわけです。そこには、天皇自身の戦争責任の自覚というものはありません。さらに、次のような天皇の言葉には驚かされてしまいます。
 負け惜しみと思うかもしれぬが、敗戦の結果とはいえ、わが憲法の改正もできた今日において考えてみれば、わが国民にとっては勝利の結果、極端なる軍国主義となるよりも、かえって幸福ではないだろうか。
 何千万人という多くのアジアの人々を侵略していった日本軍が殺し、また何百万人もの日本人が死んでいった戦争の悲惨さを自らの問題としてまったく自覚していない、いわば単なる傍観者的評論家としての言葉でしかありません。呆れ驚きます。
 昭和天皇を戦犯としなかった功績から、アメリカ軍のフェラーズ准将に対して1971年、日本政府は勲二等瑞宝章を贈った。この事実を知ると、日本が戦争責任をいかにあいまいにしているか、改めて実感させられます。質量ともに大変ずっしりとボリュームのある本でした。

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