弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(現代史)

2008年1月16日

永遠なる青春

著者:桟敷よし子、出版社:青春社
 明治35年に生まれた著者の自伝です。母方の祖父は黒田藩士でしたが、博多を出て、北海道に移住しました。著者の父はキリスト教の信者であり、教師をしていたが、日露戦争に反対し、札幌で幸徳秋水らの平民新聞社グループの一員であった。明治41年、つとめていた学校の校長と意見があわず、開拓農民となった。
 結婚して15人の子どもをもうけたが、みなメアリーとかナポレオンなどの外国名をつけた。著者はジョセフィンと名づけられた。著者の15人兄弟15人のうち8人が乳児のときに亡くなった。ほかの兄弟も病気につきまとわれた。
 すごい名前ですよね。近ごろは、とても日本人の名前とは思えない名前の赤ちゃんばかりですが、なんと明治35年ころに自分の子どもに外国の名前をつけていた人がいたなんて。しかも、一応インテリなのですからね・・・。
 著者の父親は、貧しい開拓農民の身でありながら、著者を札幌の女学校に入れた。第一次世界大戦が始まったころのこと。
 著者は、女学生として、日曜学校に教えにも出かけた。やがて、関東大震災後の東京へ出て日本女子大に入学した。そこで、社会科学研究会(いわゆる社研)に入り、野坂竜に出会った。野坂参三の妻となった女性だ。この研究会で英文のレーニン『国家と革命』を読んだ。
 昭和2年、大学3年生のとき、授業で英文の「共産党宣言」を学んだ。卒業論文として、徳永直の『太陽のない町』で有名な文京区氷川下の人々の状態を調査するため戸別訪問した。この氷川下には、私の大学生のころ氷川下セツルメントが活動していました。
 そして、昭和3年に日本女子大学を卒業すると、倉敷紡績の工場に入った。今は大原美術館で有名な大原孫三郎のいた会社であり、寮の教化係として働いた。そこでのオルグ活動が成果をあげ、600人の女子労働者がストライキに突入した。すごいですね。昭和5年(1930年)のことです。大原社長の恩を仇で返す結果となったわけです。
 資本主義社会での階級的矛盾は、個人ではどうすることもできない鉄則で回る歯車である。資本家個人の善意とか温情などは、もうけ主義の恥部をおおう「いちじくの葉」にすぎない。著者は、このように述べています。なるほど、ですね。
 このストライキのあと、会社を首になった著者は大阪で地下活動に入ります。その実情はすさまじいものがあります。小林多喜二の『党生活者』を思い出します。ついに警察に捕まります。特高の拷問は、若い女性を裸にし、後ろ手にしばって、あおむけに寝かされ、口の中に汚ない手ぬぐいをつめこむというものでした。
 治安維持法違反で警察に3回検挙され、3つの留置場と4つの拘置所で4回の正月を送り、4年間の刑務所生活を過ごし、昭和11年5月、札幌大通刑務所を満期出所します。昭和9年に刑務所に連行されるときには、青服に深あみ笠の姿で、腰縄をうたれていました。当時の写真によく出てきますね、あれです。そして、大阪に出て、さらに東京に戻り、看護学の勉強をし、昭和13年8月、37歳のとき看護婦試験に合格した。そして、保健婦として活動するようになった。
 昭和20年3月、著者は中国大陸に渡った。満州開拓団の結核予防に取り組むためである。やがて8月に日本敗戦を迎える。日本への引き揚げが大変だった。開拓団難民3万人のなかで、発疹チフスが発生し、90%の患者を出し死亡者が続出、1日100人の死者を出したこともあった。そして、中国共産党の人民解放軍に加わり、後方病院に配属された。
 やがて、中国共産党が中国大陸全土を支配した。1958年5月、ついに日本に帰国することになった。中国で13年のあいだ生活していたことになる。
 そして、大阪で民医連の病院で保健婦として働くようになった。昭和46年、黒田了一革新府政が誕生。 
 古稀という体にねむる青春を きみ起こしたもう 永遠の青春。
 今から32年前の1975年に、著者73歳のときに発刊された本です。戦前の苦難のたたかいが偲ばれます。こんな古い本をなぜ読んだのかというと、いま、私も母の伝記をまとめているからです。話は母の曾祖父、明治時代の初めから始まります。だから、戦前どんな時代だったかというのは当然知っておかないといけないのです。
 私の敬愛する大阪の石川元也弁護士からお借りしました。ありがとうございました。
(1975年12月刊。750円)

2007年12月28日

となりに脱走兵がいた時代

著者:関谷 滋、出版社:思想の科学社
 ベトナム戦争があっていた時代の日本です。始まりは1967年10月。えっ、私が東京で寮生活を始めた年のことではありませんか。もちろん、私もベトナム戦争反対の集会やデモに何度となく参加しました。夜遅い銀座で、大勢の人々と一緒に手をつないでフランス・デモをしたときの感激は今も覚えています。銀座の大通りを、デモ隊が完全に埋め尽くしていました。警察官も手を出すことができないほどの人数でした。もちろん、機動隊はいましたが、国会周辺と霞ヶ関あたりまでで、銀座にまでは手がまわらなかったのです。
 ベトナム戦争に反対する市民の会(ベ平連)は、その一部にアメリカ軍の脱走兵の日本国外逃亡を助ける活動をしていました。私は後になって、新聞報道で知りました。これには、東大生なども関わっていたようです。有名な知識人が何人も隠れ家を提供しています。あれから40年たって、その全貌が少しずつ明らかにされています。この2段組みで  600頁をこす大部な本は、大変貴重な歴史的記録です。
 ベトナム脱走米兵は、私と同じ世代です。「イントレピッドの4人」として有名なアメリカ脱走兵は、1947年と1948年生まれです。50万人以上のアメリカの青年がベトナムへ送られて5万8000人ものアメリカ兵ベトナムで死亡しました。もちろん、アメリカ軍によって殺されたベトナム人はケタが2つほど違います。
 ベトナム反戦のアメリカ脱走兵を助けたベ平連の幹部としてマスコミに登場したのは、小田実、開高健、鶴見俊輔、日高六郎です。いずれも有名な知識人です。
 アメリカ海軍の航空母艦「イントレピッド」から脱走してきたアメリカ兵4人は横浜港からソ連船バイカル号に乗って、日本を脱出した。そして、ソ連を出て、スウェーデンに亡命することができた。
 脱走兵は、決して品行方正な英雄ではなかった。いろいろ手を焼かせた脱走兵が何人もいた。だから、世話をした人たちはなかなか大変だったようです。
 日本人アメリカ兵も脱走したきた。日本人もベトナムで戦死している。1967年4月20日、LSTの乗組員(50歳)が銃撃されて死亡した。
 脱走米兵の逃亡を支援する組織を解明するため、アメリカ軍はスパイを潜入させます。いかにも怪しい脱走兵なのですが、疑いはじめたらキリがないので、彼を信じて逃亡の手助けをしていきます。その息詰まる様子が再現されています。釧路からソ連へ船で渡るコースだったのですが、スパイがたれこみ、脱走米兵は結局、逮捕されてしまいました。ジャテックは、そこから、苦闘の道を歩むことになります。
 当時30歳前後のサラリーマンから毎月500円のカンパを集めるのは、かなり大変なことだった。今なら1万円にでも相当する金額でしょうか・・・。
 ジャテックに関わっていた小田実は、この本の座談会で次のように発言しています。
 「全共闘運動を勲章にするだけで、何もしない連中がそこらへんに一杯いるじゃない。現在、どうしているか、現在にどうつながるか、それが問題だ」
 なるほど、そのとおりです。私は全共闘と関わりがないどころか、その反対でがんばっていましたが、今の9条をめぐる政治情勢をどう考え、どのようにしたらよいのか、小さな声であっても、上げていきたいと考え、少しずつ、やっています。
(1998年5月刊。5700円+税)

私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた

著者:高橋武智、出版社:作品社
 1967年。私が大学生になったのはこの年の4月。ベトナムでアメリカ軍が侵略戦争をしていました。ベトナムが共産化したら、インドシナ半島全体が共産化するので、それを止めるというのがドミノ理論(ドミノ倒しになるのを防ぐというものです)で、それがアメリカ軍のベトナムへの介入の大義名分でした。本当にとんでもない言い草です。ベトナムに派遣されたアメリカ軍は50万人。アメリカ軍の戦死者だけで5万5千人です。アメリカの私と同世代の若者たちが死んでいました。もちろん、ベトナムの人はそれより2桁も多い人々がアメリカ軍に殺されました。もちろん、というのは、近代兵器の粋を尽くしたアメリカ軍が無差別にベトナムの人々を殺しまくった結果がそうだったという意味です。アメリカ軍のなかにも嫌気をさして脱走する兵士が相次ぎました。そこまでの勇気のない兵士はアルコールと麻薬におぼれました。
 この本は、アメリカ軍から脱走した兵士を日本人グループが国外逃亡に手を貸していた事実を明らかにしています。もちろん逮捕されることを覚悟のうえです。
 ベ平連が誕生したのは1965年。解散したのは1973年だった。
 アメリカ軍脱走兵士を国外へ逃亡させるための組織、ジャテックに脱走兵を装ってスパイが潜入してきた。海のCIAの別名をもつ海軍犯罪調査局(NCIS)の特別捜査官だったという。
 それまでは北海道から海路、ソ連へ脱出させていた。しかし、ソ連が断った。そこで別のルートを開拓するためにヨーロッパに飛んだ。その苦労話がこの本のメインです。
 いろんな人に会い脱出路を探ってたどり着いたのがパスポートの偽造。本物のスタンプに似せたものをどうやってつくるかという点をプロに教わった。完璧すぎるものをつくらないこと。インクをつけたペンで、それらしく点を打っていけばいいだけ。適当に歪みをつける。うーん、そうなんですか・・・。驚きました。
 脱走兵を日本国内でかくまったとき協力してくれたのが知識人たちです。中野重治、日高六郎などの名前が出てきます。軽井沢の別荘を借りたりして過ごさせました。2年も日本国内に潜伏していたアメリカ人脱走兵がいたというのですから、たいしたものです。いえ、本人も辛抱したでしょうけど、それを支えたジャテックも偉いです。
 いよいよ大阪空港から他人のパスポートで出国させます。ハラハラドキドキです。無事にパリのオルリー空港に到着。
 アメリカでは、元脱走兵に対して今も公然とした嫌がらせがあっているそうです。クリントンのような兵役忌避者は大統領になれたわけですが・・・。
 脱走が、実は、軍隊を内部から掘り崩した空洞化させるのに最大限有効な行為であり、国家からみたら絶対に許し難い行為だから、なのです。
 スウェーデンには、そのころ、400人ものアメリカ人脱走兵がいたとのことです。
 アメリカ軍の脱走兵を助けたジャテックの活動の全体像を知るためには、『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社、1998年)が資料集として、よくまとまっています。
 この本は、その中の一人が、さらに個人的体験をふまえて、運動の実情を明らかにしたものです。
 あれから40年たち、今こそ書き残しておくべきだという思いから書かれた本です。
(2007年11月刊。2400円+税)

2007年12月25日

清冽の炎・第4巻「波濤の冬」

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 ついに第4巻が出ました。あれから40年。素敵なクリスマス・プレゼントです。
 いよいよ東大闘争はクライマックスになりました。本郷では、有名な安田講堂攻防戦が華々しく繰り広げられます。当時、日本国中をテレビにくぎづけにした市街戦さながらのショーを思い起こします。そして駒場では、全共闘が立て籠もっていた第八本館(通称・八本・はちほん)が、民青とクラ連の統一行動隊によって封鎖解除されます。
 この本では、攻める側、攻められる側、大学当局、警察と政府の動きが多元的に語られ明らかにされているところに画期的な意義があります。全共闘を一方的に賛美せず、逆に民青一辺倒ということでもありません。
 安田講堂の攻防戦の前、警察は内部偵察をします。建築会社のジャンバーを着て、修復工事の見積もりのためと称して、内部を全部みてまわりました。警察は安田講堂を攻めるために8000人の警察官を動員し、最新の防炎服を1万着もそろえるなど万全の装備を用意した。マスコミに派手に中継してもらうことが最優先された。
 安田講堂に立て籠もった全共闘の一人に当時の秦野警視総監の甥(この本では姪)がいました。学生に資金を提供し、軍事指導したアナーキストもいました。
 安田講堂内部では、革マル派が全員退去した。東大生もいるにはいたが、むしろ人数としては少なかった。全共闘は指導部を退去させて温存する方針をとった。攻防戦の前夜、女子学生が大講堂にあったピアノを静かに奏でた。
 加藤一郎執行部は安田講堂内の全共闘とのホットラインを2回線確保していて、光芒が始まってからも連絡をとりあっていた。
 民青は前夜のうちに本郷から完全に姿を消した。自民党は、そのことを知り、地団駄をふんで悔しがった。
 安田講堂攻防戦の前、駒場では12月13日と1月11日に代議員大会が開かれた。12月13日の代議員大会は駒場寮の寮食堂で開かれ、全共闘の一部が突入して乱闘になったが、すぐさま再開された。代表団10人が選出された。1月11日の代議員大会は全共闘の乱入を恐れて駒場寮の屋上で開かれた。
 1月10日、秩父宮ラグビー場で七学部集会と称する公開団交が開かれ、東大当局と学生との間で確認書がとりかわされた。
 東大闘争の最終局面の息づまる展開が詳細に明らかにされます。大変な迫力です。
 東大のなかで連日の息詰まるようなゲバルトがあっているなかでも、地域におけるセツルメント活動は続けられます。授業で学ぶだけではない、そこにはまさしく生きた学問の場がありました。
 1巻、2巻、3巻と売れないまま続いてきたこの大河小説も、ついにクライマックスを迎えました。全国の書店で発売されています。書店にないときには、ぜひ花伝社へ注文してください(FAX03−3239−8272)。インターネットでアマゾンへ注文もできます。
 第5巻は、1996年2月と3月。そして、第6巻は登場人物の20年後、30年後の姿を描きます。そこまでたどり着くためには出版社に出版しようという意欲をもたせる必要があります。ぜひ応援してやってください。
 新年(2008年)は、東大闘争が始まって40年という記念すべき年なのです。
(2007年12月刊。1800円+税)

2007年12月 7日

半世紀前からの贈物

著者:内田雅敏、出版社:れんが書房新社
 50年以上前の1953年(昭和28年)に発行された小学2年生の文集をもとに、当時の子どもたちの生活を再現した本です。私が小学校に上がったのはそれより2年あとになりますが、およそ同じような状況ですので、親近感を抱きながら読みふけりました。
 著者は1945年生まれで、いまは東京で弁護士として活躍しています。小学校は愛知県蒲郡町立南部小学校(蒲南。がまなん)です。
 かごの中の、じゅうしまつ(十姉妹)はちゅうちゅうないてせまい、かごのなかをとびまわっている、かわいそうだね。
 私の家でも同じように十姉妹を飼っていました。鳥籠を買って、私もその世話をしていました。毎朝、水を取りかえ、アワなどのエサをやり、鳥籠のなかの鳥のフンを始末してきれいにしてやりました。小鳥たちが楽しそうに水浴びしているのを、いい気持ちで眺めました。
 にわとり
 ぼくがおまつりでかったひよこが大きくなってたまごをうんでくれましたが、このごろうまなくなってしまった。
わが家でも鶏小屋をつくって鶏を何羽か飼っていました。私も、そのエサになる雑草をとりに行っていました。丈夫な卵をうんでくれるように、貝殻をこまかく叩いたものもエサとして鶏にやっていました。飼っている鶏を父が絞め殺し、さばく様子を間近で見ていました。卵の生成過程が見事にできているのも見ました。卵の殻が、あとで黄身と白身にかぶさるようになっていく様子もしっかり見て、自然の不思議を実感したことを覚えています。
 当時の少年雑誌は、今のような週刊ではなく、月刊。『冒険王』『少年画報』『少年』など。毎月7日の発売日が待ち遠しかった。
 私の家でも少年雑誌を一つ購入していたように思います。記憶が定かではありませんが、付録に組立できる工作がついていて、その組立が大きな楽しみでした。恐らく『小学○年生』だったと思います。姫路城を再現するような工作がついていました。ワクワクドキドキする豪華版の付録でした。といっても、前号の予告の写真のほうがすごくて、期待に胸をふくらませて開けてみると、なーんだ、こんなものかとガッカリすることもたびたびでした。
 蒲郡市の『広報がまごおり』に1年余にわたって連載したエッセーをもとにした本だということです。護憲派の弁護士として大活躍している著者の原点を知ることのできる好著です。
(2007年10月刊。700円+税)

2007年11月16日

マツヤマの記憶

著者:松山大学 出版社:成文社
 日露戦争100年とロシア兵捕虜というサブ・タイトルがついた本です。203高地争奪戦のあと、旅順を守っていたロシア軍が降伏すると、日本へ大量のロシア兵捕虜が連行されてきました。当時の日本は、捕虜を人道的に扱い、国際社会で名誉ある地位を占めました。この本では、その実情と、隠された捕虜虐殺、そして捕虜処遇費用をロシアに全額弁償させた事実が紹介されています。飫肥に行ったときに小村寿太郎記念館で買い求めた本ですが、勉強になりました。世の中には知らないことって、ホント、たくさんあります。
 1904年の日露戦争開戦は、ひとつくれよと露にゲンコ、というゴロあわせて暗記しました。2004年は、開戦100年にあたります。
 松山収容所には、最大瞬間人員で3000人台後半から4000人台前半いた。埋葬者数は98人で、全国でもっとも多い。
 松山が捕虜収容所として選ばれたのは、道後温泉が近くにあるため。日本側は、捕虜となるのは戦傷病兵で、戦闘意欲を失った兵達だろうと予測していたから。つまり、松山収容所の特色は、将校と傷病兵を主として受け入れたことにある。
 ロシア兵捕虜の総数は7万9000人。捕虜になった場所は、旅順・開城4万4000人、奉天2万人、日本海海戦6100人、サハリン4700人だった。日本に連れてこられたロシア兵捕虜は、1905年11月から1906年2月にかけてロシア側に引き渡された。
 戦争の最中、松山は、帝国の品位をかけて捕虜優遇策をとった。官民あげて観光客なみにもてなした。たとえば、朝はバター付・パンと牛乳入り紅茶。昼はバター付パンとスープ玉子付のライスカレー、紅茶。夕はバター付パンと野菜スープ、タンカツレツ、紅茶。そして、将校のなかには、町中に日本家屋を借り、女中を雇うのものもいた。
 日本政府は、ロシア兵捕虜の給養に莫大な金額をつかった。食費だけで、将校には一日あたり60銭、下士官と兵卒には30銭を充てた。これに対して、日本の兵卒の食費は一日16銭にすぎなかった。破格の厚遇である。
 日本政府は、戦争中、捕虜のため4900万円もの予算を割りあてた。これは開戦前の国家予算の2割にあたる。この経費は、日本政府が国の内外から借金してまかなった。そして、これを戦後になって、ロシア政府に返済させた。
 日本側のかけた費用は、5000万円に達した。ロシア側は、2000人の日本人捕虜に対して、160万ルーブルをつかった。
 捕虜将校には、自由散歩制度がとられていた。月水金は午前6時から正午まで、火木土は正午から午後6時まで。海水浴が許され、自転車で外出することも認められていた。
 捕虜の将校は所持金も多く、戦時下の松山経済に好影響を与えた。当時の道後温泉は史上最高の収益を上げた。ロシアの捕虜は個人で1円50銭の貸し切りで1時間も楽しんだ。1日に300人も400人も入浴した。日本人は一人5厘、捕虜は一人1銭だった。
 ところが、日露戦争の末期、南樺太(南サハリン)で、日本軍はロシア軍の敗残兵を捕虜としたのち、翌日、残らず銃殺した。ロシア兵捕虜を優遇しただけではなかったのです。
 ふむふむ、知らなかったことだらけです。
(2004年3月刊。2000円+税)

2007年10月18日

中国戦線はどう描かれたか

著者:荒井とみよ、出版社:岩波書店
 昭和13年(1938年)、林芙美子は日本軍の漢口攻略作戦に従軍作家として参加した。この作戦は、実は、とても従軍作家たちを招待できるような、余裕のある戦争ではなかった。長い行軍に疲れ果てた兵隊、大陸の熱暑と疫病で苦しむ兵隊、作戦の遂行もままならないありさまだった。相次ぐ戦病死者で部隊の体裁も保てない状態が続いていた。
 だからこそ、日中戦争を続行するために銃後の人々の感情動員が求められた。
 中国との宣伝戦は、もう一つの必死の戦さだった。従軍作家たちには、たぶん、その自覚はなかっただろう。
 戦後、中国人学者が林芙美子を次のように批判しています。
 林芙美子は、ペン部隊の数少ない女性作家として、武漢の前線で大いに頭角を現わし、侵略戦争の積極的な協力者であった。彼女にとってみれば、戦争がもたらしたのは、名声・栄誉と虚栄心の満足だ。敗戦は、逆に、これらかつての自己陶酔の一切を一瞬にして三文の価値もなしにし、あわれや糞土のごとくに変えてしまった。
 なーるほど、と言うしかありません。侵略戦争に協力したペン部隊の作家として、次の人たちがあげられています。ええーっ、こんな人までが・・・、と驚きます。戦争って、本当に文化人まで根こそぎ動員するのですね。
 佐藤春夫、古屋信子、小島政二郎、吉川英治、尾崎士郎、石川達三、深田久彌、藤田嗣治、西條八十、佐多稲子、丹羽文雄、豊田正子、そして菊池寛。
 『一兵士の従軍記録』というものも紹介されています。歩兵上等兵、伍長、軍曹という地位にあった人の日中戦争従軍記です。
 昭和13年7月から8月にかけて、部隊は南京経由で常州に入る。「支那の暑さ、盛夏となって味わうに、南の暑さは殺人的だ」という日々。
 炎天下の行軍。大隊は、炎熱のため、落伍者はいうに及ばず、死者まで出す。一日かけて前進してきた道が間違っていたとの知らせで引き返す。フラフラの行軍。敵弾の飛びかう下での眠り。サイダー一本で蘇る歩兵たち。
 やっと生き返ったのに、翌日になると、命令なく後退したという理由で、戦場へ戻れと言われる。なんと無理な命令だろうか。なんと軍人は辛いものか。
 兵隊は赤紙で生まれるのではない。戦友の死、無理難題の作戦、飢えや寒さ、また炎暑に苦しむなかで、兵隊になっていくのである。
 敵への憎悪は、戦闘のはじめの段階ではなかった。しかし、厭戦気分と裏表になった闘争心が徐々に肥大して彼らは兵隊になっていく。
 出発時に194人だった部隊が、2年後、20数人になっていた。
 実は、私の父も、この昭和13年(1938年)11月に応召し、中国大陸に1等兵として従軍しているのです。久留米の第56連隊(第18師団)に所属していました。武漢攻略作戦です。父は広東周辺にいたようですが、前線で危ない目にあったものの命拾いし、痔、脚気、マラリア、赤痢と次々に病気にかかり、ついに本国送還命令が出ました。1939年7月、台湾の高雄に上陸し、高雄と台北の病院で入院・治療を受け、1940年1月、本土に帰ってくることができました。
 林芙美子の従軍日記で描かれているような日本軍の悲惨な状況は、父の置かれていた状況でもあったわけです。その子として、私も歴史の現実をきちんと受けとめ、私の子どもたちに伝えなければいけないと思いました。
(2007年5月刊。2400円+税)

2007年10月17日

ナガサキ昭和20年夏

著者:ジョージ・ウェラー、出版社:毎日新聞社
 GHQが封印した幻の潜入ルポというサブ・タイトルがついています。オビには、「マッカーサーに逆らい、被爆直後の長崎に命がけで一番乗りした米国人ピュリツァー賞記者。60年経て日の目を見た、歴史的ルポ」となっています。なるほど、そのとおりです。
 1945年9月7日、長崎の惨状を著者が写真にとっています。荒れ果てた長崎は、まったくのゴーストタウンです。
 原爆放射能が人体にもたらす恐るべき影響について無知だった著者は、長崎に入った第一日目の原稿には、「街には痛ましいという雰囲気はない」と書いていた。しかし、日がたつにつれて、病院で被爆者を見たり医師の話を聞いているうちに意識が変わっていった。はじめ外傷もなく元気だった人が、2〜3週間後あるいは1ヶ月後に急に全身状態が悪くなって、嘔吐、下痢、腸内出血など手の施しようもなく死んでいく。
 ところが、このルポは、原爆の想像を絶する惨禍が世界に知られるのを恐れたマッカーサー司令部によって公表を差し止められた。
 そして、私は、この本で大牟田にあった捕虜収容所について、写真つきのルポを読み、初めてその実情を詳しく知ったのです。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は1700人を収容する、日本最大の連合軍兵士捕虜収容所である。その多くは、炭鉱で毎日、8〜10時間も働かされていた。
 彼らの何人かは、長崎に原爆を投下される状況を目撃した。
 「大きなキノコのような白い雲がどんどんふくれ上がり、その中は真っ赤で、中心部分が地上まで届いているように見えた」
 「初め白い煙が噴き出してキノコの形にふくれあがり、そして突然、内部で発火した。恐ろしかった。雲が発火したようだった」
 「ぱっと光ったあと、白い雲が巨大なパラシュートの形に広がり、その中心にオレンジ色の光が輝いている。30分ほど、そのままだった」
 「大きな火の玉が空に浮いていて、どんどん大きくなっていった。30分しても、まだそのままだった。新しいタイプのガスではないかと思った」
 炭鉱で働かされていた捕虜たちは次のように語った。
 「日本軍の処遇というのは、頻繁に行われる殴打と粗末な衣服、粗末な食べ物ということに尽きる。空腹のあまり盗みを働く者もいた。苛酷な冬だった」
 「一番の困難は、坑内の湧水、低い天井の下で腰をかがめていること、重い材木を運ぶこと。いつも日本人の監督に殴られることだった」
 連合軍捕虜収容所の隣に中国人炭鉱労働者収容所があった。2年前に中国を出発するときに1236人いたのに、日本に到着して300人が死亡した。現在、50人が重病。
 この収容所では2年間に日本人衛兵により殺された者が70人を数え、加えて病死者が120人、現在の生存者は546人。生き残っている中国人の多くは骨と皮という状態である。
 大牟田には、三井亜鉛工場で働く250人のイギリス人と、炭鉱で働く700人にのぼるアメリカ人と数人のイギリス人がいた。イギリス人のほとんどは、シンガポールとフィリピンで捕虜となった。
 オーストラリア人が420人いて、うち300人は700人のアメリカ人とともに炭鉱で働いていたという記事もあります。
 アメリカ人700人とその他の連合国人1000人という表現もあります。
 700人のアメリカ人は、フィリピンで捕虜になったようです。バターンとコレヒドールで捕虜になったとあります。捕虜収容所にいた病人の多くはナチ収容所のユダヤ人と似た状態にありました。まさしく骨と皮のみの白人の若者の写真が紹介されています。
 著者は飯塚にあった第7捕虜収容所にもまわっています。ここには、アメリカ人186人、オランダ人360人、イギリス人2人が炭鉱で働かされていました。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は日本最大の収容所であり、かつ、もっとも苛酷な収容所の一つだった。施設そのものは、ほかのところより多少よく、少なくとも年間、数ヶ月は水浴びができた。33棟の建物は、もともと三井鉱山が作業員宿舎として建てたもの、炭鉱は収容所から歩いて1.5キロメートルのところにあった。
 33棟もの建物から成る捕虜収容所が大牟田のどこにあったのか、私はぜひ知りたいと思いました。あとで、三池港の近くにあったことが分かりました。中国人収容所や朝鮮人収容所も近くにありました。
 捕虜収容所のフクハラ所長は、「収容所長として最も凶悪かつ非人間的な所長であった」ので、戦争犯罪人として有罪となり、1946年前半に絞首刑に処せられた。
 このフクハラ所長を取り上げた本を以前に読んだような気がします。題名も何もかも忘れてしまいましたので、改めて見つけて読もうと思います。
(2007年7月刊。2800円+税)

2007年10月11日

大本襲撃

著者:早瀬圭一、出版社:毎日新聞社
 戦前の宗教弾圧事件として名高い大本(おおもと)教弾圧事件の詳細を描いた本です。その苛酷な弾圧を初めて知りました。
 当局の大本教についての認識は次のようなものだった。
 明治25年のはじめ、綾部の町はずれで半農半行商を世すぎとして一家の生計を支えてきた57歳の老婆・出口なおは、その遺伝性素質がこの生活上の重圧の限界で発作を起こして、精神の異状を呈した。
 この狂女は、いくぶん平静さを取り戻すにつれ、土地の俗信である艮(うしとら)の金神(こんじん)や、従前の信仰であった天理教、金光教の教説をおりまぜて、独自の経文を口にし、病者に対しては、これまた一種の我流の施法をはじめた。医学的に後進地であった地方のため、新奇な物珍しさも手伝い、注目されるようになった。
 そこへ、上田喜三郎青年が助手として登場した。上田青年は、一度は排斥されたのち、再び、出口王仁三郎と名前を変えて迎えいれられた。
 開祖なおは文字を知らなかった。しかし、神が、「おまえが書くのではない。神が書かすのであるから、疑わずに筆を持て」と命じるので、近くにあった一本の古釘を手にとってみると、ひとりでに手が動き、文字を書きはじめた。紙に筆をおろすと、ひらがなで、スラスラと文字が書けだした。これが筆先のはじまりである。
 開祖なおは、大正7年に死ぬまで26年間にわたって、膨大な筆先を書いている。筆先で一貫しているのは、世の立替え、立直しということである。
 筆先は、すべてひらがなで書かれているため、意味が判明しやすいように漢字をあてたのが出口王仁三郎である。
 大正に入るころから、陸海軍の幹部クラスや岡田茂吉(後の世界救世教の主宰者)、谷口雅春(後の「生長の家」の主宰者)などが相次いで大本に入った。軍人たちの入信が当局に警戒心を強めた。小山内薫や尾上菊五郎、中村吉右衛門なども大正9年ころ、大本に入信した。
 このような大本教を治安維持法違反として検挙したのですから、いかにも国家権力の横暴きわまれりというものです。治安維持法では国体の変革を目的とする結社をつくれば2年以上の懲役・禁固に処せられます。
 三千世界一度に開く梅の花、梅で開いて松で治める
 これは大本の開教宣言の一句です。これが治安維持法にいう国体の変革を目ざすものと解釈されるのです。信じられません。まったく恐ろしいことです。狂気の沙汰とは、このことです。
 王仁三郎による教理が指向するものは、現在の統治の根本を否定し、代わって、自らがその地位を占有せんとするものであるから、明らかに国体を変革することを目的としている。
 ええーっ、これってウソでしょ。マジ、本気って、ありえないよね。そんな感じです。
 大本は、いわゆる宗教ではない。大本は神意を実行する団体である。単に教をしていて、人にいわゆる信仰心を起こさせるだけのところでなくして、神示(教典)をその機に応じて実地に活用する団体である。
 このようにこじつけて、当局は大本教の弾圧をはじめます。
 昭和10年(1935年)12月8日午前0時、臨時年末一斉警戒の名目で京都府警の警察官500人が京都御所に集結。大型バス18台と数台の普通車やトラックに分乗、各編隊に分かれた。遠い綾部へ向かう大隊は午前1時に、近い亀岡行きの大隊は午前3時に出発。途中で、警官に大本襲撃の目的が明かされた。同時に、大本は決死隊を結成していて、銃などの兵器も準備している。警官隊は皆殺しにあうかもしれない、などのウワサが飛びかい、はち巻きや下履きを配られた警官たちは必死の形相だった。
 もちろん、何ごともなく、教団側は無抵抗のまま大勢の信者が逮捕されます。教団の建物は全部が取りこわされてしまいました。
 綾部の大本総本部は300人の警官で包囲し、まず電話線を切り、午前4時半、突入した。信者は無抵抗だった。
 松江の大本別院にいた王仁三郎・すみ夫妻も逮捕された。大本教の幹部44人が検挙され、信徒1500人が取り調べを受け、うち300人が身柄を拘束された。
 警察当局は大本は妖教、邪教、怪教だというイメージをつくりあげ、大阪毎日新聞などが連日、センセーショナルに書きたてた。しかし、信者はきわめて冷静に対応した。
 取り調べは京都府警特高課があたった。竹刀(しない)、焼けヒバシ、水責めなど、あらゆる拷問の道具と手段を用いた。まったく、2年前に東京の築地署で小林多喜二が受けたのと同じ拷問だった。
 三年ぶり 慣れなじめたるボッカブリ、妻は無事なか、子らはふえたか。
 これは、教祖すみが、独房に入れられているとき、夫婦者のゴキブリを見つけて仲良くしていた情景をふまえた歌です。
 昭和11年3月。京都府知事は大本の建物について、すべて破却せよとの命令を出した。
 結局、昭和11年(1936年)の暮れまでに987人が検挙され、318人が送検された。その取調べ中(1年)に、自殺1人、拷問のあげく衰弱死2人、自殺未遂2人を出した。
 昭和12年、裁判が始まり、大本は清瀬一郎ほか、18人の弁護団を結成した。
 教祖すみは、裁判の日には人前に出るのだから、白粉くらいつけようと思い、白粉のかわりに白い粉状の歯磨き粉を顔に塗った。
 このころの教祖すみの写真がありますが、屈託ない笑顔を見せていて、驚きます。次の王仁三郎の言葉もすごいものです。
 人間というものは過ぎ去ったことをいくら悔やんでみたところで、絶対に取り戻せるものではない。また来ぬ日のことをいくら心配してみたところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。人間の自由になるのは、今というこの瞬間だけだ。だからわしらは、今というこの瞬間をいかに楽しく、いかに有効に送るかだけより考えてはおらぬ。あとは一切神様にお任せしておけばよい。昨日、刑務所に入っていたことも考えなければ、明日、刑務所に入っていなければならぬと考えたこともない。そんな不可能なことで心配して自分の命を削るくらいばかなことはない。未決が1年だろうが、7年だろうが同じことじゃよ。
 ここにあります、人間の自由になるのは今というこの瞬間だけだ、というのに、私は眼をぐーんと開かされた思いです。
 大本教弾圧事件について、その時代背景ともどもよく知ることができました。
(2007年5月刊。1600円+税)

2007年10月 1日

パール判事

著者:中島岳志、出版社:白水社
 日本の戦争責任を裁いた東京裁判において、敢然と「日本無罪」論を主張したインド出身のパール判事の実像を描いた貴重な労作です。パール判決が「日本無罪」を主張したわけではないことを改めて認識しました。小林よしのりをはじめとする右翼の論者にぜひ読んでもらいたい本です。
 パール判事は1886年の生まれ。インドはカルカッタ出身というのではなく、今のバングラデシュのベンガル地方の小さな農村に生まれた。陶工カースト出身で、父親が急死して経済的にも貧しかった。それでも、村の小学校を優秀な成績で卒業したため、奨学金を得て、カルカッタ大学に入ることができた。
 パールは、熱烈なガンジー信奉者だった。
 東京裁判の判事に就任するまで、パールはカルカッタ大学の副総長であった。東京裁判に判事を派遣できるかどうかは、インドの国際的地位と名誉に関わる重大な問題であった。宗主国のイギリスを味方につけ、アメリカに圧力をかけて、インドはようやく判事の地位を獲得することができた。
 東京裁判は1946年5月3日に開廷した。遅れて着任したパールが法廷に初めて姿を現したのは5月17日のこと。だから、パールは東京裁判の正当性をめぐる弁護人の意見を聞くことができなかった。
 ブレークニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、もしそれが犯罪とされるのなら、原爆投下によって広島・長崎で罪なき市民を大量虐殺したアメリカの戦争犯罪の責任が問われないのは不公平だと指摘した。
 パールは、原爆投下について、残虐で非人道的な行為であり、決して許すことはできないとしつつ、しかしながら、「人道に対する罪」が国際法として成立していなかった以上は、この罪で裁くことはできないと判断した。
 さらに、日本軍による南京大虐殺について、パールは法廷に提出された証拠や証言には問題があることを鋭く指摘しつつ、それでもなお南京虐殺の存在を証明する証拠は圧倒的であり、この事件は事実あったと認定した。すなわち、南京虐殺は実際に起こった事件であり、個別的なケースはともかくとして、その存在自体を疑うことはできないと断言した。
 パールは、検察官の起訴した事実について無罪としたが、それはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」としただけで、日本の道義的責任までも「無罪」としたわけではない。パールは次のように述べました。
 日本の為政者はさまざまな過ちを犯し、悪事を行った。また、アジア各地で残虐行為をくり返し、多大なる被害を与えた。その行為は鬼畜のような性格をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の「犯罪」に問うことができない。
 パールは、再び日本にやって来たとき、広島の原爆慰霊碑の碑文を読んで憤りの声明を発表した。
 原爆の責任の所在をあいまいにし、アメリカの顔色をうかがう日本人。主体性を失い、無批判にアメリカに追随する日本人。東京裁判を忘却し、再軍備の道を突きすすみ、朝鮮戦争をサポートする日本人。
 そうなんです。パールはアメリカの意向を至上の価値として仰ぐ戦後日本の軽薄さに憤ったのです。戦争に対する反省の仕方を誤り、再び平和の道を踏み外そうとする日本に苛立ったわけです。
 パールは、東京裁判の判決書において、あくまでも「A級戦犯の刑事責任」のみを対象としていた。パールはB級戦犯の刑事上の責任は認めており、日本の行為のすべてを免罪にしたわけではない。
 パールは、判決書の中で、東条一派は多くの悪事を行った、日本の為政者、外交官そして政治家はおそらく間違っていた、みずから過ちを犯したのであろうと明言した。
 パールは決して「日本無罪」と主張したわけではない。「A級戦犯は法的には無罪」と言っただけで、指導者たちの道義的責任までも冤罪したわけではない。ましてや、日本の植民地政策を正当化したり、大東亜戦争を肯定する主張など、一切していない。
 なーるほど、やっぱり、そうなんですよね・・・。
(2007年8月刊。1800円+税)

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