弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2014年9月13日

「この命、義に捧ぐ」


著者  門田 隆将 、 出版  角川文庫

 日本陸軍北支那方面軍の司令官だった根本博中将の戦後の業績を紹介した本です。
 その一は、戦後といっても、昭和20年8月20日からのことです。日本の敗北が決まり、武装解除が命令されたのに、在留邦人を内地に無事に帰国させるため、あえて侵攻してきたソ連軍と戦ったというのです。
 8月15日、根本司令官はラジオで次のように宣言した。
 「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、指令官たるこの根本が一切を負う」
 6日前の8月9日から始まったソ連との戦争で、関東軍は総崩れとなり、満州全域でソ連の蛮行が横行していた。
 張家口に2万人の日本人が終結していた。それを北京・天津方面に後送するため、駐蒙軍司令官の根本中将は支那派遣軍総司令官の命令を拒否したのだった。根本元中将が日本に帰国したのは、翌昭和21年(1946年)8月のことだった。それまでに支那派遣軍の日本への復員は105万人をこえた。
 そして、戦後、1947年7月、蒋介石の国民党軍が中共軍との戦いで敗色濃いなかで、根本博は招かれて台湾に渡った。ところが、根本は密航者として逮捕され、投獄された。運良く、それが台湾警備司令の耳に入って、救出され、ついには蒋介石と面会することが出来た。
 その後、根本は、中国国民党軍の軍事顧問となった。そして、廈門(アモイ)に渡った。しかし、ここは、守備に適していない。根本は軍事顧問として、共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにないと進言した。廈門を放棄せよというアドバイスだ。
 根本は、林保源という中国名で呼ばれた。林保源将軍として、汽車に乗って作戦指導をした。根本は、金門島の陣地構築と塹壕戦を指導した。
 共産軍は勝ちに乗じて、敗走を重ねる国府軍をなめている。そこで、共産軍を中国本土から運んできた船を焼き払い、増援部隊がないようにして、そのうえで、戦車で叩く。ジャンク船で運んでくる火力は銃くらいしかない。
 上陸させた敵を海岸線から引き入れて包み込めば、一気に殲滅できる。根本の指摘したとおりに国府軍は動き、共産軍を完全に殲滅してしまった。
 上陸した共産軍は2万人。うち死者が1万4千人。捕虜は6千人だった。
 59歳の根本元中将の面目躍如だった。蒋介石は根本の手をとって感謝した。
 しかし、世間の評判は、そうはならなかった。あくまで国府軍の勝利であり、しかも、国府軍の内部抗争により、根本とともに戦った湯将軍は忘れ去られてしまった。当然、根本も忘却の彼方となった。
 同じころ、日本から国府軍の立て直しのために台湾に渡った旧日本軍将校たちは「白団」と呼ばれ、高額の給与が支給されていた。これに対して、根本のほうは身を捨て、家族を捨て、恩返しに言ったのだから、そのような保障は何もなかった。
 そもそも、蒋介石が日本人の手を借りて金門島を守ったことが分かれば、それは蒋介石にとって大きな恥となる。そのため、台湾側の史料の中には、日本人は一切登場してこない。なーるほど、それは、そうでしょうね・・・。
 それでも、その後、台湾国防部は、根本の遺族に対して最大限の敬意を表したのです。知られざる歴史の一コマです。よくぞ掘り起こしてくれました。
(2013年10月刊。680円+税)
東京の有楽町でインド映画をみてきました。『バルフィ!人生に唄えば』です。インド映画らしい歌と踊りも少しだけありますが、それよりも私は良質のフランス映画をみている感じでした。
 もちろん、映画ですから美男・美女が主人公です。美男の俳優(ランビール・カプール)は、顔の表情が実に豊かです。というのも、彼は、耳が聞こえず、話もできない役柄なのです。その主人公バルフィが恋する美女はイリヤーナー・デクルーズ。絶世の美女でほれぼれしてしまいました。ところが、ここに、もう一人の美女が登場します。しかし、彼女は、自閉症の女の子という役柄です。プリヤンカー・チョープラ-という有名な女優なのですが、映画をみているあいだは、ひょっとして本物の病気もちかしらんと思ったほどでした。話の出来ないバルフィが縦横無尽にかけめぐり、甘く切ない恋心を表現します。そして、大切なのは、100の言葉より、愛にみちたひとつの心。3時間近い大作ですが、終わったとき、胸いっぱいの熱い思いで、しばらく立ちあがれませんでした。みなさん、ぜひ時間をつくって、みてください。おすすめします。

2014年9月 9日

中国のメディアの現場は何を伝えようとしているのか


著者  柴 静 、 出版  平凡社

 中国のテレビって、すべて国家統制のきいた官製報道ばかりかと思っていました。
 この本を読むと、中国でも一生懸命に現場から問題点を報道しようとしている人がいることを知って、うれしくなりました。
 日本のNHKも、籾井会長になってから、とりわけニュースは安倍首相の広報番組オンリーという感じですから、中国を批判することなんて出来ないと思っています。
 2003年4月、北京で大流行したサーズ、死亡率の高いウイルス性肺炎について、著者は病院まで突撃取材したのでした。
 著者は全身防護服を着て、戦々恐々として病室に入り、救急センターに戻ってから40分間消毒し、周囲の人まで緊張して汗をかいたとき、人民医院の医師と看護師は、もっとも基本的な防護服すらない状況下で、中庭で20数人の患者と向きあっていた。
 中国にも、もちろんDV(ドメスティック・バイオレンス)があります。そのあげくに女性(妻)が男性(夫)を殺してしまいます。女性犯罪には、夫殺しが多く、ある地方では70%になる。男は死に、生き残った女は執行猶予付きで死刑、無期懲役などに処せられている。
 十数人の少年の窃盗グループ。リーダーは15歳、最年少は10歳、全員が中途退学だった。彼らは、敵討ちのために、お金のために、ときには単なる楽しみからケンカした。ナイフはもちろん、チェーンや有刺鉄線を付けた自作の棍棒まで使った。ケンカが一番強い子どもに尋ねた。
 「怖くない?」
 「いいや」
 彼は昻然と胸をはった。怖くないのではなく、生死の概念さえなく、憐憫の情がないのである。自分が大切にされていないと、大切にされた実感のないまま大きくなると、生死までが、どうでもよくなる。というわけだ。
 愛と教育を得られなかった人が社会に対して責任感をもつはずがない。
 最近の鶏肉事件は、日本の毒入り冷凍食品事件と共通しているところがあるように思います。どちらも、働く人が大切にされていないということです。日本も、安倍首相のような間違った教育と労働者切り捨て政策がすすめば、今の中国と同じ事態になりかねません。
ネットで猫を虐待する映像を流した女性は、次のように語った。
 「憎しみ、それと未来に対する絶望ね」
 「離婚した女の憂鬱や生活の悩みを誰が理解してくれるというの。この重苦しい気持ちや悩みのせいで、生活していく自信を失い、無辜の小動物の身に向かって鬱憤を晴らすという情けないことをする羽目になった」
 「内心の圧迫感や抑鬱を発散させなかったら、崩壊していただろう」
 「心の奥底にいびつなものがある・・・」
 この本が中国でベストセラーになったことに、私は救いを感じました。
世の中の現実をなるべくありのままに伝えたい。しかし、そこには単純にシロかクロかに割り切れないことがたくさんあるし、いろんな人々の利害損失が微妙にからんでいる。
 そこを、映像メディアとしての制約のなかで、がんばって報道しているのはすごいです。
 それにしても、最近のNHKにはひどいですよね。集団的自衛権について、その問題点を国民に分かりやすく伝えようとしていません。あくまで安倍首相の側に「理解」を示して、それを前提として、反対する人もいくらかいるというニュアンスでの報道です。本当にデタラメです。安倍首相の妄念から一刻も早く脱却しないと、本当に日本は戦争に巻き込まれてしまいます・・・。心配です。マスコミ人の良識に大いに期待しています。
(2014年4月刊。1800円+税)

2014年7月 2日

中国とモンゴルのはざまで


著者  楊 海英 、 出版  岩波書店

 モンゴル出身で、中国共産党の指導者の一人だったウラーンフーの伝記です。
 ウラーンフーは、モンゴル出身で、内モンゴル自治区委員会書記、内モンゴル軍区司令官、国務院副総理などを歴任した。
そのウラーンフーが、文化大革命のとき、打倒されてしまったのです。モンゴル人として、どんな人物なのか、以前から気にかかってしまいました・・・。
 1966年に中国で文化大革命で勃発したとき、内モンゴル自治区には150万人弱のモンゴル人が住んでいた。少数民族のモンゴル人は全員が粛清の対象とされ、34万6000人が逮捕され、3万人近くが殺され、2万人に身体障害が残った。モンゴル人の犠牲者は30万人に達する。
清朝が用いた内モンゴルと外モンゴルは、モンゴルを分断するための政治的な概念で、モンゴル人自身はそうした悪意にみちた名称を好まなかった。
 南モンゴルが中国の領土にされてしまった原因の一つに、日本の大陸進出があげられる。モンゴル人民族主義者たちは、帝国日本の力を借りて中国の独立を実現させようとして、蒙古連合自治政府や蒙古自治邦を樹立した。
ウラーンフーは、20世紀のアジアが産んだ重要な政治家の一人である。彼ほどレーニンとスターリンの民族自決の理論を東アジアで実践した革命家は、ほかにいない。
ウラーンフーは、内モンゴルを「中国と日本の二重の植民地」だと認識し、抑圧された少数民族のモンゴルを国際共産主義の理論で解放し、中華民主自由連邦を創成しようとした。
 1947年5月、内モンゴル自治政府が成立した。この日まで草原のモンゴル人のほとんどが雲澤という男を知らなかった。雲澤は無名の革命家だった。この時期、雲澤という名を赤い息子を意味するウラーンフーに変えた。
 「親愛なる中国人共産主義者の友人」たちは、側面からの援護を惜しまないが、決して軍権をモンゴル人に渡すようなことはしなかった。
 内モンゴル近代史上最大の謎は、なぜ何十万人もの独立志向のモンゴル軍が中国人に帰順したのかということ。
 モンゴル人といえば、世界各地に分布している人々をさす。モンゴル民族は、ただ中国55の少数民族の一つにすぎない。矮小化された存在となる。
 モンゴル人民共和国の首都であるウラーンバートルは赤い英雄を意味する。内モンゴル自治政府の首都であるウラーンホトは赤い都だ。もう一つのモンゴル人の自治共和国の首都であるウラーンウードは赤い扉の意。
 モンゴル人はユーラシア大陸の各地に分布しているが、チンギス・ハーンの子孫だという理念は、民族ぜんたいに共通している。
 毛沢東と周恩来は身近にモンゴル人のウラーンフーを立たせることで、多民族国家・中国における少数民族の地位向上を演出しようとした。
 モンゴル内に中国人がモンゴル人の7倍にも膨れあがるという前代未聞の現実を前に、モンゴル人は途方に暮れた。
もっとも親中国的で、かつ中国化したモンゴル人であるゆえに、中国政府と中国人は、ウラーンフーをまず失脚させてから、一連のモンゴル人粛清運動と大虐殺の口火を切った。
 ウラーンフーは、全国の省・自治区の指導者のなかで、もっとも早く打倒された人物で、また少数民族の指導者のなかでも、最初に狙い撃ちされた人物である。
 モンゴル人の苦難の歩みを体現した人物だったことがよく分かる本でした。
(2013年11月刊。2400円+税)

2014年5月 8日

憎しみに未来はない

著者  馬 立誠 、 出版  岩波書店

 最近の週刊誌に、日本と中国が、もし戦争したら、どちらが勝つかという特集が組まれています。そこでは、戦争は、まるで他人事(ひとごと)、パソコンの画面上だけのように論じられているのに驚き、かつ、呆れます。
 しかし、局地的な戦争が全面戦争にならないという保障なんて、まったくありませんよね。身近な家族が殺され、殺人マシーンに仕立てあげられるなんて、ちょっと考えただけでも身震いするほど、恐ろしいことではないでしょうか・・・。売れるんだったら何でも書いていいなんて、ちょっとひどすぎると思います。
 安倍首相の言う「積極的平和主義」なるものは、武力で「敵」をおさえつけるということです。そして、「集団的自衛権」の行使というのは、アメリカ軍と一緒になって、世界のどこへでも、日本が戦争をしに出かけるということを意味します。戦争が身近に迫ってくるのです。そこには「限定」など出来るものではありません。
 つい先日、安倍首相は武器輸出三原則を緩和してしまいました。兵器をどんどんつくってもうけよう。そのためには、世界各地に「紛争」がおきてほしいということです。子どものいない安倍首相はちっとも悩まないのかもしれません。でも、我が子が殺され、また外国へ殺しに出かけるなんて、その恐ろしさに、私は身が震えてしまいます。決して、戦争をもて遊んではいけません。それこそ、平和を生命がけで守りたいと思います。安倍首相には、一刻も早く「病気」で退陣してほしいものです。
 著者は、中日関係には新思考が必要だとメディアで提起した。すると、中国のネット上で、民族の裏切り者とか、走狗という言葉があふれた。
 中国のナショナリズムも警戒を要すると思います。でも、中国を責める前に、日本の異常さが突出していることを、もっと日本人は自覚すべきだと思います。
 ナショナリズムの熱狂は、一部のメディアが無責任にあおりたてることと大きな関係がある。一部のメディアは、商業的な利益のために、感情的で低俗な市場のニーズに迎合し、良識や善悪の最低ラインにまで墜落した。一斉に騒ぎたて、センセーショナルに過熱報道し、人々の目を惹きつける。そして、のぼせや高熱をひきおこし、世論の環境を悪化させた。
 アジアに身を置く世界の次男坊と三男坊とが武力対決すれば、まさにアジアの悲劇だ。そして、両国の争いは長男坊が世界の覇者としての地位をいよいよ堅固なものにするのを手助けするようなもの。
 釣魚島の問題は、中日関係の大局でもなければ、中心的な問題でもない。
 中日関係は、相互に影響しあうプロセスである。片方の手だけでは拍手ができないように、日本にも同じように対中関係の新思考が必要だ。
 中国とアメリカが敵対しないという状況で、日本がアメリカに追随することは、中国にとって対立面とはならず、日本とアメリカの同盟は中日間における共通利益の追求を妨げるものではない。中米関係の発展と中日関係の発展は、同時に行っても、互いに矛盾はしない。
 憎しみは毒薬だ。人々の智力を害する毒薬であり、国家の智力を害する毒薬でもある。寛容は、傷跡と人間性を癒す良薬だ。国家と個人を問わず、良薬なのである。
 中日韓は、すでに協力して経済発展をすすめつつあり、世界最強の経済体となる可能性がある。これは、アメリカにとってあまりにも大きな脅威であり、アメリカが隅に追いやられるかもしれず、アメリカにとって決して目にしたくない事態だ。だからこそ、この二つの国が戦うことは、アメリカにとって非常に有利なのだ。
 日本では、何世代にもわたって、「日本が強く、中国が弱い」ことに慣れていたので、中国人を見下げている。第二次大戦での敗戦も、それはアメリカ人に負けたのであって、中国人に負けたのではないと考えている。ところが、このごろ中国の経済力は日本を追い越し、その差はますます大きくなっている。これは日本にとってきわめて強烈な刺激である。
日本と中国の関係を再考させられる、中国人ジャーナリストの鋭い指摘にみちた本です。
(2014年1月刊。2800円+税)

2014年3月28日

中国抗日映画・ドラマの世界


著者  劉 文兵 、 出版  祥伝社新書

 中国では反日教育が日頃から徹してやられているとよく言われますが、この本は映画やテレビにおける「抗日」をテーマにした作品、ドラマがつくられている舞台裏を明らかにしています。なーるほど、だったら、日本と変わりないじゃん、と思ってしまいました。
戦前の中国(1941年)では、日本軍の恐ろしさをあまりに強調しすぎると、国民が恐怖にかられ、かえって戦意を喪失するのではないかという批判があり、日本軍の残虐な真実をストレートに表現しなかった。
 なーるほど、映画は真実を伝えすぎても、逆効果になることがあるのですね・・・。
 農民をふくめた一般の観客に対して、いかに分かりやすく抗日のメッセージを伝えるのか、当時の映画人たちは腐心していた。
中国の反戦映画には、日本兵が二通りの姿で登場する。一つは残虐な「敵」であり、もう一つは、中国の民衆に共感して抗日運動に参加する「同志」である。
 1945年8月から中華人民共和国が成立する1949年までの4年間に150本の劇映画が造られたが、抗日戦争にまつわるものは30本ほどでしかなかった。そして、日中の大規模な戦闘を題材にしたものは、まったく見当たらない。これは8年にわたる抗日戦争によって国民党政府が財政上の困窮状態にあったため、スペクタクルを盛り込んだ本格的な戦争映画をつくるだけの環境になかったことによる。
 蒋介石は、みずからの政権の正当性を主張すべく、抗日戦争を勝利に導いたのが国民党の力であったことを、映画をはじめとするメディアを通じて国民へ広めようとした。
 しかし、表面的には国民党が優位だったが、実際には、多くの映画人の心は明らかに共産党に傾いており、国民党のプロパガンダ映画の制作に手を貸そうとはしなかった。左翼的映画の急速な台頭を危惧した国民党政府は、映画検閲の基準をより厳しくした。
 中国共産党が政権を握ってから、政府は戦争映画を重視した。映画撮影所は軍部の直轄下におかれ、映画人は現役の軍人として丁寧に扱われた。
 抗日映画に出てくる日本人は、強力な敵として描かれているのは、注目すべき点である。
 しかし、1950年代半ばから、中国映画における日本兵の描き方には大きな変化が起こった。
 戦争映画では、中共軍の高級将校が登場してはならないとされた。それは、誰をモデルにしているか、すぐに分かってしまうこと、すると映画に取りあげてもらえなかった将校たちの不満を招くという理由からであった。
 加えて、その後の中国共産党内部の権力闘争において、1959年に彭徳懐が、1971年に林彪が失脚し二人が関わった「百団大戦」や「平型関戦役」など、共産党軍と日本軍との大規模な戦闘を取りあげることも完全なタブーとなった。そこで生まれたのが、抗日ゲリラ戦ものである。そこでは、時と場所を特定することなく、抗日戦が描かれている。
 1966年の映画『地下道戦』は、結局、18億人がみることになった(2005年までに)。爆発的にヒットした。もともと民兵に戦術を身につけるために制作された映画だが、娯楽作品として中国の国民に受容された。
 1960年代の中国映画に登場する日本軍人は、かつての残虐さと恐ろしさの代わりに、その愚かさと滑稽さが強調された。日本兵をあえて嘲笑の対象として描くことによって、残忍な日本人という従来のイメージを書きかえ、中国の国民のなかに鬱積していた日本人に対する深い憎悪を、笑いのなかで発散させようとする政治的な意図が働いていた。
 文化大革命の10年間に、中国でつくられた映画は、わずか数十本のプロパガンダ映画のみだった。そこで登場する日本兵は、文革以前より、さらに滑稽でかつ無害な存在だった。
 1985年になると、中国政府は国民党が率いた日本軍との正面戦の意義を客観的に評価するようになった。
 中国の映画については、中国人の一般観客がみたい物語と、政府が見せたい物語、国際映画祭で賞をとるための物語が分離していった。
 コメディタッチの抗日アクション映画は、ほとんど中国国内市場に限定して流通しているが、一つのジャンルとして確立し、現在なお人気は衰えていない。
 中国のテレビドラマ市場は、中国の産業において、もっとも市場メカニズムが支配する世界となっている。視聴者の教育レベルは決して高くはない。だから芸術性を追求するどころではない。
 抗日ドラマがブームになった要因は、主としてブームになった要因は、主として市場の側にあり、政府はむしろドラマに対する指導や規制に追われている。
 抗日ドラマの主な視聴者は、毛沢東時代を経験し、かつ、その時代に強いノスタルジーを抱く中高年層であり、彼らの支持により、一定の視聴率が保証される。
 国共内戦を描くときには、適役が同じ中国人であるために一定の配慮が必要だし、リアリティも求められるが、敵役を日本軍にしたら、格別の配慮はいらないし、ドラマティックな設定や暴力的な表現がいくらでも可能になる。そして、大物スター俳優でなくても、一定の視聴率は確保できるので、制作予算も少なくてすむ。つまり、エンターテイメント性をともないながら、歴史に向きあうというパターンの抗日ドラマが実際に多くの視聴者に受け入れられている。それは、日本の「水戸黄門」のような世界なのである。
 この解説は、本当によく分かりました。なるほど、なるほど、です。
(2013年10月刊。800円+税)

2014年3月 6日

文化大革命の真実・天津大動乱


著者  王 輝 、 出版  ミネルヴァ書房

 これは文化大革命について書かれた本の中でも、とても珍しいものだと思いました。
 なにしろ、著者は、文化大革命の始まりから終わりまで、つねに天津市の共産党委員会の責任ある地位にいて、その全課程を語っているのです。ちょっと、これはありえないことですよ・・・。
党内闘争の一つの突出した特徴は、「惟上是従」(上の者の命令に下の者が唯々承諾々と従う)という普遍的な政治理念である。
 党内闘争のもう一つの特徴は、「左」であればあるほど、より革命的であるという情緒だ。
 党内闘争には、さらにもう一つの特徴がある。それは、ほとんどすべての人が自己防衛のために行動するということ。闘争が始まると、人間関係に異常な緊張がもたらされ、自己を防衛し、他人を公然と批判することが人々の行動規範となる。
 「文革」という大きな災禍は、それまでの中国共産党の政治運動の流れの単なる必然であり、それまでの政治運動における「左」の集大成だった。中国において長期にわたって存在してきた封建主義専制と「極左」が一時に発露したものであり、中華民族にとって貴重な反面教師的教材となった。
 「文革」中のもっと奇異な現象の一つは、造反と保守、攻撃するものと攻撃されるものが互いに自らを革命的だとし、自分こそが毛主席の教えに従って行動していると考えていたこと。「一つの共通の革命目標のために共に進む」無数の人々が、同じ目標の実現のために行動していたにもかかわらず、生きるか死ぬかと行った状況で対峙することになってしまい、武器まで持ち出す事態となり、多くの人の血が流れることになった。
「文革」が始まったとき、広範な労働者、農民、基層幹部は、長年にわたる中国共産党への指示と厚い信頼によって、当時の、一切を打倒するというやり方にはなかなか賛成できず、いわゆる「保皇派」「保守勢力」の力が強かった。そこで、人生経験の浅い中学生を組織して闘争へ動員することは、こうした局面を打開し、政治闘争を展開するために必要なことだった。
 天津市の機関内部では造反組織の主流は「温和」派であり、幹部グループは全体として相対的に言って危険ではなかった。
 1967年1月、中共天津市委員会は完全に崩壊した。同日、人民解放軍が天津に進駐し、ラジオ放送局など58の重要拠点を軍事管制下においた。
 周恩来も「文革」の重要な執行者だった。周恩来が「文革」において多くの幹部を守った事実は無視できないが、これは物事の一面を表しているだけ。周恩来は、一貫して毛沢東の顔色をうかがいながら行動し、毛沢東の意図に背くことはあえてせず、また出来なかった。
 1949年、中国共産党は銃によって天津を攻め落とし、その政権を築いた。しかし、「文革」において共産党は、中央の支持、民衆の発動、軍隊のうしろ盾によって、自らが築いた政権を打ち倒した、各部門の主要な権力を握ったのは軍隊幹部だった。軍隊幹部の権威は地方幹部と比べて非常に高いものだった。
 もし周恩来が毛沢東を支持しなかったら、二つの可能性が考えられる。一つは、動乱がさらに大規模なものになり、被害もより深刻なものとなったこと、もう一つは、「文革」の終息を早め、損失も若干小さなものになったという可能性だ。
 江青たち「四人組」は「文革」において、したい放題のことをしたが、唯一の思いのままにできなかったのが軍権であった。
 1967年11月から中共天津市委員会の第一書記を務めた解学恭は、上部の指示にとにかく従い、言うとおりにしすぎたという問題があった。上に言われるたびに、そのとおり実行し、風向き次第で言動を変えた。対人関係でも杓子定規で融通がきかなかった。だから、複雑な状況下で、政治闘争の犠牲になったのも当然だった。解学恭には、上層に後ろ盾になる者がいなかった。
 「文革」は大動乱であり、大災害だった。
 「文革」は限りなく高い地位にある領袖・毛沢東が自ら発動し、自ら指導したものである。毛沢東は至高最上の領袖となり、どんな監督や制約も受けず、個人の欲するところをなし、「文革」という大動乱を引きおこした。
 中国にも、もちろん秘密警察(公安)は存在する。しかし、政治闘争の主役ではない。文化大革命でも重要な役割は演じていない。むしろ、文化大革命で決定的な役割を演じたのは軍だった。毛沢東は文化大革命が軍の内部に波及するのを禁止した。ゆえに、軍幹部は大部分が批判も打倒もされなかった。
 毛沢東が行わせた大事なことの一つは、紅衛兵に「親を批判」させたこと。毛沢東こそが「本当の親」なら、自分の親を批判できる。毛沢東は「親」になることで、中国人のエートスの変更を迫った。
文化大革命がどのように進行していったのか、天津市を舞台として、じっくり、その推移を追うことのできる本です。
(2013年5月刊。4800円+税)

2013年7月24日

毛沢東が神棚から下りる日

著者  堀江 義人 、 出版  平凡社

土地が「揺銭樹」になった。揺銭樹とは、金のなる木のこと。「土地財政」という言葉がある。地方政府が農地や土地住民の土地を安価で買いたたき、企業や開発業者に高く売りつける。その差額の土地譲渡金を財政収入に繰り入れること。土地譲渡金の地方財政に占める割合は、2001年の16.6%から2010年に76.6%にまで増えた。
ある県には、玉山幇(組)、青龍幇、菜刀幇など、多くのヤクザ組織があり、誰もが、その実力と役割を熟知している。
 中国は事実上の準分裂国家である。北京人の優越感、上海人の排除主義の一方で、貧しい河南人や安徽人は差別の対象となる。戸籍は準国籍のようなもの。
 新市民と呼ばれる北京の外来者は700万人以上いるが、彼等は北京に10年住んでも20年住んでも、北京戸籍を手を入れることは、ほとんど期待できない。
 新市民には市民待遇がほとんどない。福祉はゼロ、公的住宅も買えない。
 農村と都市部の福利厚生面の生涯格差は50万元、北京だと100万元以上にもなる。
本物の北京戸籍を警察関係者から裏取引で買おうとしたら、20万元から30万元は必要という。
 農村の子弟が重点大学に入る比率は1990年代から減り続けている。北京大学では3割から1割にダウンした。
北京には閉鎖式住宅区が2種類ある。一つは金持ちの高級住宅、もう一つは、農民工の封村だ。
 中国には執行猶予つき死刑という、日本にはない制度がある。猶予期間は通常2年間、服役態度がよければ、懲役刑に減刑される。
 中国の憲法では、法院(裁判所)が独立した審判権をもつとしているが、現実には、党の政法委の束縛を受けている。上級法院は下級法院を始動する形になっている。個別案件に事前に介入し、具体的な案件の対応や判決を指示する。下級法院のほうから、おうかがいを立て、報告することもある。二審制といっても、実質的には一審制のようなもの。
 法院内にも主従関係がある。裁判官は法廷に、廷長は院長に、合議廷は審判委員会に従わなければならない。
中国は、世界でもっとも拝金主義にまみれた国である。庶民は民主主義より豚肉だ。
 中国は巨大なタンカーのようなもので、どの方向に向かって航行しているのか、分かりにくい。恐らく乗務員も誰一人として目的地が分からず、漂流しているのでしょう。
毛沢東に批判された人物には、共通の特徴がある。勇気を出して本当のことを話したのだ。
 毛沢東にとって個人崇拝、つまり神格化は政敵を倒すためのもの。そのターゲットは蒋介石と劉少奇の二人だと明言した。
文革の主な責任は毛沢東にあるが、毛を否定すると中国共産党の統治の正当性を失うから、鄧小平の政治的判断で、林彪と四人組に押しつけた。ソ連にはスターリンを否定してもレーニンがいて、正当性を得ていた。しかし、中国には毛沢東しかいないので、毛を全面否定するわけにはいかない。だから、毛沢東の早期と晩年を分けて評価することにした。
「偉大な」毛沢東のおかげで、中国は発展がひどく遅れてしまったわけです。それでも、現物の毛沢東を知らない世代が増えていますので、単純に高く毛沢東を再評価する動きさえあります。
 目の離せない中国を知ることのできる本です。
(2013年1月刊。1800円+税)
 真夏の夜の楽しみは、ベランダから満月を眺めることです。ひんやりした夜風に身体の火照りをさましながら、望遠鏡で月の素顔を見つめます。どうして、こんなに大きいものが空に浮かんでいるのか、不思議です。しかも宇宙の本を読むと、実は月も地球も自転しているだけではなく猛烈なスピードで動いているというのです。じっとしているようにしか思えない月のあばたを眺めていると、俗世間のホコリが洗い流されます。

2013年7月19日

北京烈日

著者  丹羽 宇一郎 、 出版  文芸春秋

最近まで駐中国日本大使だった著者の話ですから、とても説得力があります。
日本人が北京に赴任すると、必ず1年目の冬に風をひく。北京は、他の地域に比べて4割ほども肺がんの発症率が高い。
 これは、中国がエネルギー源が7割近くを今も石炭でまかなっているから。なにしろ、タダ同然の露天堀り石炭がある。
 著者の中国における大使生活は、尖閣に始まり、尖閣で終わった。
 2012年4月、石原慎太郎都知事(当時)が、尖閣諸島を東京都が購入するという計画を発表した。これは、中国にとって想定外の出来事だった。
 そして、9月9日、ウラジオストックでのAPECの合い間に野田首相(当時)は胡錦涛国家主席(当時)と「立ち話」をした。その翌日、日本政府は国有化を宣言し、11日に閣議決定までした。このような日本政府の動きは、中国の最高指導者の顔に泥を塗っただけでなく、中国の国民感情と面子をとてつもなく傷つけた。
このところを、日本のマスコミはきちんと日本国民に伝えていませんよね・・・。
 尖閣諸島をめぐって、「外交上の争いがある」ことを日本も中国も双方とも認めるべきだ。著者の主張は明快です。まったく同感です。そして、「待つ」という判断が必要なのだと強調しています。この点についても、私は同調します。この問題で対立感情をエスカレートしても、得るところは双方にないのです。
 北京から日本を眺めていてつくづく思うのは、日本には本当に国際感覚がないということ。
そうなんです。橋下徹、安倍晋三には国際感覚なるものがまったくありませんよね。日本民族こそ偉大だなんてウソぶくばかりではありませんか。それでは北東アジアの人々と共存共栄できませんよね。だいいち、侵略戦争による加害責任の自覚が欠如しています。そんなのは親の世代のことで、自分は手を下していないなんて弁明が通用するはずもありません。
農業を大切にしている国ほど農業地帯の風景が実に美しい。
 とは言いつつ、日本の農業を破壊するTPPに加盟せよというのですから、著者の主張には矛盾があります。
 中国は、かつて大豆について世界最大の輸出国だったが、今や世界最大の輸入国となっている。いやはや、中国も矛盾の大きい国です。
 日本でもブルーカラーをもっと大切にすべきだと著者は強調しています。この点も同感です。
 ブルーカラーを馬鹿にしていては、絶対にドイツに勝てない。超大国のなかで、目に見えない労働者教育が一番できていないのが中国である。
 日本の企業が生きのびるためには、ブルーカラーの教育訓練を充実させることが必要。日本の経営者は、ホワイトカラーの正規社員を減らして、ブルーカラーの正規社員を増やすことだ。
 ブルーカラーを大切にしないと、10年後、20年後の日本の労働の効率性を非常に悪くしてしまう。中国の教育環境は、日本とは比べものにならないほど劣悪だったから、工場労働者は製品の品質など気にしない。
 安い賃金で奴隷みたいな使い方をしていると、平然と危ないこと、法令違反をする。正規社員にもなれず、あちこち職場を転々とされると、日本でも必ず今に中国と同じようなことが起きてしまう。企業が教育投資をして、ブルーカラーを育てないと、信頼性のある製品は生まれない。この点は、本当にそうだと思います。
 中国経済は壊れない。いや、壊そうにも壊せない。
 2001年にWTOに加盟した中国は、国際経済体制にがっちりと組み込まれている。もし、中国経済が破壊ないし衰退したら、世界じゅうの国が大きなダメージを受けてしまう。中国がコケたら、日本もコケてしまう。
中国の教育費は、国防費の3倍になっている。中国の労働者の賃金は年に1~2割も上がっていて、2006年と2011年を比べると2倍にもはね上がっている。そして、労働争議の件数は12倍に増えた。
日本と中国の関係について、大所高所から冷静に分析し、提言した本です。一読をおすすめします
(2013年5月刊。1300円+税)

2013年7月11日

毛沢東と中国(下)

著者  銭 理群 、 出版  青土社

いよいよ例の文化大革命の始まりです。
 毛沢東は劉少奇から指導権を奪うには、党官僚の系統が劉少奇によって既にコントロールされているから、非常手段をとらざるをえなかった。つまり、下から上へと直接的に大衆を動員することだった。
 毛沢東の文革発動の呼びかけにこたえたのは、青年学生、しかも未成年の学生だった。とりわけ、高級幹部の子弟だった。これは、人類史上において前代未聞のことだった。これは、まさしく毛沢東が考え抜いた結果でもある。毛沢東は若い学生に目をつけ、彼らの無知と情熱を利用しようとした。毛沢東は、労働者・農民には生産現場を守らせた。
 政治家である毛沢東は、子どもたちの無知と情熱を利用し、自分の政治目的を達成しようとした。高級幹部の子弟は政治上では優位だけれど、文化と知識の上では優位を得ておらず、教師にも重視されていなかった。
 このような政治上の優位と文化上の劣等感によって、高級幹部と労働者農民の子弟の心理はアンバランスだった。プライドと劣等感と嫉妬は、非高級幹部出身、とくに知識分子出身や旧階級出身の子弟に対する、いわゆる「階級増悪」に転化し、ここに造反への衝動が生み出されることになった。
文化大革命が始まった当初、劉少奇を長とする幹部と彼等の子弟の協力の下、毛沢東の設定していた革命対象とは完全に反対の方向に誘導され、新たなる反右派運動となってしまった。造反派であろうと、保守派であろうと、彼らは毛沢東を自らの後盾としており、毛沢東は自分を支持していると思っていた。それは、毛沢東の二重性そのものの反映でもあった。
 毛沢東は、ロマン的、空想的な人間ではあったが、結局のところ党と国家の指導者であり、実際に国家の事務を担っていた。
文化大革命は、スローガンとしては激烈だったが、事実上は「革命なき革命」だった。
 革命委員会は、改良主義の産物であり、実行されたのはプロレタリア専政と計画経済とイデオロギー統制の三つだった。
 文化大革命の中後期になると、多くの人々は意識的か無意識的かはともかく、文化大革命から退出し、文革初期の全民族参加の局面は既に収束していた。文化大革命は、ますます権力闘争の中にはまり込んでいった。つまり、一般大衆は劇場から降りてしまったのである。
 1968年夏、毛沢東は局面をコントロールできない危険に直面した。できるだけすぐに武闘を止めさせ、全国的内乱を収束させるため、毛沢東は武力弾圧に踏み切った。
 1966年の夏に、毛沢東は「ブルジョア反動路線」の罪名で劉と鄧のブルジョア司令部を打倒しながら、毛沢東自身が劉・鄧の大衆を鎮圧する路線を承継した。
 1968年夏、毛沢東は青年学生、紅衛兵のリーダーを排除した。紅衛兵を放り出した後、毛沢東が拠って立つ勢力は労働者階級となった。
 1968年、毛沢東が青年学生を農村に追いやり、大衆造反を基本的に収束させてから、中国の上層は権力闘争に突入する。林彪グループと江青グループとの矛盾、そして林彪グループと毛沢東との矛盾があらわになっていった。毛沢東と林彪の対立の結果、1971年9月、林彪は逃亡して死亡した。
 1971年11月、毛沢東は、ついに「私は聖人ではない」と認めた。これは自分の失敗を認めたことを意味している。
毛沢東は鄧小平に対して不満を抱きつつも、終始期待をかけ、保護し続けた。
鄧小平は権力を掌握したあと、自らの意志にもとづいて文化大革命を否定する一方で、毛沢東の歴史的な地位と指導的な地位はしっかり守った。
 「我々は、フルシチョフがスターリンにしたようなことを毛主席にするつもりはない」
毛沢東は、戒めを拒絶し、おべっかを好み、多くを疑い、動乱を好み、言葉は表面だけで、裏に鋭い牙をたたえている。
文化大革命とは、中国の人々にとって、とんだ災難だったわけですが、その有力な起源が毛沢東個人の強烈な中国支配幻想によるものだということを悟らせてくれる本です。
(2012年12月刊。3900円+税)

2013年6月19日

『霧社事件』

著者  中川 浩一・和歌森 民男 、 出版  三省堂

32年前に読んだ本です。映画をみましたので、書棚の奥に潜んでいたのを掘り出しました。霧社事件の原因と展開について写真つきで詳しく紹介されています。
 この霧社事件は、清朝による「蕃族」封じこめを継承したのに加えて、分割統治を基幹とする「以毒制毒」政策を工作し、そのうえ搾取をあえてした日本植民地主義にたいして、民族の誇りを守り、生存権をかけて起ちあがったのが霧社事件の本質であった。
 映画をみた人は、ぜひ、この本も読んでほしいと思います。
 休日に天神で台湾映画『セデック・バレ』をみました。人間の気高さを実感させる感動長編映画です。1930年(昭和5年)10月に日本統治下の台湾で起きた事件が描かれています。山間部の学校で運動会が開かれているところを現地セデック族が襲撃し、日本人200人あまりが女性や子どもをふくめて全員が殺害されました。その場にいた現地の人や中国人は助かっています。あくまで日本人が狙われたのです。それほど日本人は憎まれていたわけでした。
その事件に至るまで、統治者の日本人が誇り高き狩猟民族であるセデック族を野蛮人として弾圧していたうらみが一度に噴き出したのです。
 もちろん、日本当局は反撃に出ます。奥深い山中で300人のセデック族の戦士に3000人の日本軍・警部隊は近代兵器をもちながらも翻弄され、深手を負っていきます。しかし、結局は、飛行機、大砲、毒ガスによる日本警察の包囲攻撃にセデック族の戦士たちは次々に戦死し、自決していくのでした。「セデック・バレ」とは、「真の人」を意味するセデック語です。死を覚悟しながら、信じる者のために戦った者たちの尊厳が示されています。
映画は圧倒的な迫力があり、2時間あまり息をひそめ、画面にひきこまれました。実は、上映時間があわず、2部構成の後半だけみたのです。
いま、KBCシネマで上映中です。日本が戦前、何をしていたのか知ることのできる貴重な映画でもあります。加害者は忘れても、被害者は忘れないことを証明する映画でもあります。台湾で多くの賞をとったのも当然の傑作です。ベネチア国際映画祭でもワールドプレミア賞をとっています。
(1980年12月刊。2500円+税)

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