弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2012年7月31日

医療クライシスを超えて

著者   近藤 克則 、 出版   医学書院  

 イギリスと日本の医療制度を比較した興味深い本です。
 イギリスの医療が荒廃し、国会で大問題となった。かつてのイギリスでは医療費を抑制しすぎて、100万人を超える入院待機者が生まれ、手術しても1年半以上も待たされるという医療の荒廃を経験した。医療費水準は低いほどよいのでは決してない。そこで、世界の他の先進国に比べて異常に抑えすぎた医療費が主因であるという認識が広がった。その結果、医療費を5年間で1.5倍にするという医療改革にイギリスは取り組んだ。
 医療費が抑制された1990年代半ばに看護師数やGP研修医は減少していたが、増加に転じた。1999~2004年の5年間に、看護師は33万人から40万人へ7万人も増えた。医師は9万人から11万人へと2万人ふえた。医学部の定員は4千万人から6千万人へと6割アップした。
カナダも、同じように医療費を増やす道を選んだ。日本より医療費の水準が高いにもかかわらず・・・。このように、先進国では、むしろ医療費を増やすかたちで必要な投資をし、質を高めつつ、効率を高めるという医療改革をしている。医療費を抑えている日本は世界の流れに逆行している。
 患者の自己負担を増やすのは、短期的には効果があるようにみえても、意外なことに長期的にみると、公的医療費の削減にはつながらない可能性が高いというのが国際的な経験である。
 自己負担を増やせば、それを払えない人も増える。それを公的に補う結果、公的な医療費は増える。国民皆保険でないアメリカのほうが、医療費が高いこともあって、GDPに占める公的医療費に限っても日本以上に大きい。
 自己負担を増やした結果、公立病院の未収治療費が3年間で1.5倍にも増えた。
 日本の医師は偏在している。そして、医師不足は深刻だ、もっとも医師の多い京都府は(272.9人)であっても、OECD加盟国の平均310人に達していない。平均並みにするには12万人も医師が足りない。
 日本より人口あたり医師数が少ないのは、韓国、メキシコ、トルコの3ヶ国である。
 自己負担増は病院の未収金を増やすだけでなく、患者の受診抑制を招く。
 患者は低所得層に多く、自己負担できる富裕層には患者は少ない。
 日本社会は、子の50年のあいだに平均寿命を10年以上も伸ばすという「長寿」を実現した。今では「健康寿命」も世界一の長さを誇っている。これは介護予防政策が強化される前に起きたこと。つまり、健康医療制度の拡充だけでなく、経済発展や教育水準の向上、他国に比べて少ない失業率、終身雇用制、1980年代まで貧困の減少や年金制度など社会保障の拡充による格差の是正など、多くの社会経済的要因が寄与したと思われる。
「社会保障との一体改革」の名のもとで、いま、社会保障制度の改革がどんどん進められています。そこでは、私たちの団塊世代が諸悪の根源であるかのような議論も出ていて、とんでもないことだと怒りに燃えてしまいます。
この本で、イギリスとの非核で日本はアメリカのような医療保険会社だけがもうかる、いびつな社会になってはいけない、公的医療制度の充実こそ大切だと実感させられました。
(2012年3月刊。2800円+税)

2012年7月22日

父さんの手紙は全部おぼえた

著者   タミ・シェム・トヴ 、 出版   岩波書店

 第二次大戦中、オランダでもユダヤ人の迫害がありました。
 いえ、迫害があったというのは正しくありません。戦時中のユダヤ人死亡率はイタリアやフランス、ベルギーでは20%台だったのに、オランダでは、ドイツ、ポーランドに次いで70%と高かったのでした。これは、オランダ政府がナチスの政策を黙認して協力したため、強制収容所に移送されて亡くなった人が多かったという事実を示しています。そう言えば、アンネ・フランクもオランダで隠れていたのでしたよね。もちろん、そんなユダヤ人一家を生命がけで助けたオランダ人もたくさんいたのでした。
 この本のユニークなところは、ユダヤ人の10歳の少女がユダヤ人を秘して隠まわれていた農村地帯にある家に、別のところに隠れ住んでいた父親から絵入りのいくつも手紙が届いていて、その実物が戦後、掘り出されて紹介されているということです。
 絵入りの手紙は、とても素晴らしいものです。残念ながらオランダ語の手紙文の方は読めません(もちろん本文中に日本語訳はあります)。ともかく、手書きで活字体の文字がとても読みやすいのです。愛する10歳の娘に向けてのものだからでしょうね。そして、絵はさらに素晴らしい。医学部教授だった父親には絵心があったのでした。
 そのうえ、なにより素晴らしいのは、戦時中に病死した母親を除いて、家族みんなが無事に戦後になって再会できたことです。
 そんなわけで、この本は今も元気に生きている当時10歳の少女が父親からもらった絵手紙を前にして語ったものなのです。10歳の少女の素直な目から見た社会の矛盾だらけの動きがよく伝わってきます。
父親のユーモアあふれる絵と文章は実に魅力的。本当にそうなんです。この絵手紙に接することのできた日は、一日中、何となくトクした気分でした。
 2010年のドイツ児童文学賞にノミネートされたというのも、なるほどと思いました。この絵手紙の現物はイスラエルのロハメイ・ハゲタオット記念館に展示されているそうです。いちど見てみたいものだと思いました。
(2011年10月刊。2100円+税)

2012年7月18日

第一次世界大戦(上)

著者   ジャン・ジャック・ベッケール 、 出版   岩波新書

 第一次世界大戦、とりわけフランスとドイツとの戦争の実相を両国の学者が共同して描いています。
 1900年の人口はドイツ5600万人、フランス3800万人。いずれも人口数は停滞していた。
植民地征服のかなりの部分は必ずしも明確な経済的理由をもっていなかった。国家の目的は、しばしば国民感情によって直接的な支持を受けていた。単純に経済的次元に限定するのは不十分である。
フランス軍もドイツ軍も、動員のためには準備期間が必要であり、奇襲攻撃など不可能であった。
 ドイツの社会主義者たちは、フランス社会党の指導者との合意の下、1913年3月、軍国主義の反動に対する巨大なポスターを作成した。このポスターは、ドイツ語とフランス語で書かれていた。両国の社会主義政党は、軍国主義の過剰に対しては抗議をするが、祖国防衛には決して反対しないと書かれていた。
 1914年、社会主義者たちに平和への意思を放棄させ、危機に瀕する祖国防衛を受け入れさせたのは、間違いなくロシアこそが主要な侵略者であるという確信だった。
 1914年7月の時点では、フランスのCGT(労働総同盟)や社会民主主義者の幹部たちは戦争の勃発を阻止すべく行動していた。しかし、翌8月1日に、フランス政府が動員令を布告すると、戦争への抵抗は止んだ。フランス世論は、全体としてドイツによる侵略を信じた。自分たちが、何ものによっても正当化されえない侵略の犠牲者であるという確信こそが、動員され出征していく兵士たちの決心を支えていた。彼らにとって、この戦争は脅威にさらされた祖国を守るということだった。
 社会主義者が入閣するうえでの障害はもはや存在しかなかった。社会主義者たちは、緊急事態であるということを理由に、この入閣の誘いを受け入れ、それによって第二インターが禁じていた「ブルジョワ政府」への参画を実行した。
 1914年8月のドイツ人たちは、ほぼ例外なく、攻撃を受けた祖国を防衛することは正当であると考えた。
 1914年9月、軍部がフランス全体を統制下に置いていた。軍部独裁とまでは言えないが、実態はそれに近いものだった。議会のメンバーが前線に出かけて戦況を視察することが不可欠だったが、軍部はこれにきわめて強力に反対した。すべての選挙は、戦争状態の終了後まで延期された。
 軍部の統制下におかれ選挙権も奪われていたフランス市民は、何よりも情報の制約の犠牲者だった。検閲は、政府が反対派を沈黙させるための都合の良い手段となりえた。
開戦後、初めの数ヶ月間はフランスの社会主義者の立場に変化は見られなかった。彼らは神聖なる団結と祖国防衛を支持していた。しかし、戦争が続くなか、動揺する社会主義者たちの数は増える一方だった。
ドイツの司教教書は、開戦を物質的な文化の病的な雰囲気を一掃するものとして歓迎した。ドイツの「戦争文化」は、自らが正当な防衛の立場にあるのだということをドイツが繰り返し主張しなければならなかったという状況にも影響されていた。
フランスの側では、祖国が侵略され、一部占領されているという事実は、極端なまでの暴力的な言説をもたらした。それは、戦争の体験とそこから生まれる強迫観念や幻想を直接反映するものだった。フランス人に対して、ドイツ「文化」の内在的な暴力性を確信させるのに、たいした労力は必要とされなかった。
 一方、ドイツ人は戦場から離れており、自国の地を敵に踏ませていないという誇りから、「敵にあふれた世界」に対して自分たちの文明を守らなければならないのだという信念に固執していた。
 1914年から1918年にかけてのフランス人とドイツ人の日常生活の行動を規定していた要素はいろいろあるが、その最大は犠牲の巨大さである。その実数は国家の秘密事項であり、戦後に判明した。ドイツの死者は203万人、フランスは132万人だった。ロレーヌでは、1914年8月20日から23日までの戦闘で4万人が戦死したが、そのうち2万7千人は8月22日の一日だけの死者である。
 1914年11月末までに、フランス軍は45万4000人を戦死・行方不明・捕虜として失った。それはドイツ軍も同じようなものだった。ドイツ軍は開戦後1年間に66万5千人を戦力として失った。しかし、戦争は死者だけではなく、大量の戦傷者も生み出した。
 フランスでは食糧不足による騒乱や暴動は起きなかった。ドイツは事情が異なり、住民に対する食糧供給は、戦争の長期化とともに最重要の問題となっていた。1917年になると、パリで大規模なデモが行われ、人々を驚かせた。ドイツでは、既に1916年5月にベルリンでデモが開催され、そこでカール・リープクネヒトが逮捕された。1917年5月にベルリンで起こったストライキには20万人の労働者が参加した。
 1917年のロシア改革は、ドイツ国民の士気の回復に大いに貢献した。フランスと同様、ドイツの大衆も士気は低下した。しかし、ドイツ人にとって1917年はフランス人ほど絶望的な年ではなく、むしろ逆に勝利、あるいは平和の到来に対する期待に満ちていたため、士気は全体として依然として維持されていた。最終的にドイツが大戦中に動員した兵力は1300万人に及んだ。
 戦争はまた、機関銃の戦争でもあった。無骨だが頑丈なホッチキス機関銃が使われ、開戦当初の5100台が終戦時には6万台となっていた。1日に600万発の銃弾がつくられ、全体では60億発にもなっていた。5万2000機もの飛行機と9万5000台のエンジンを製造した。1918年には2500台の戦車が実践に投入された。そして、化学産業の申し子である毒ガス兵器もつかわれはじめた。
フランス人は税金を使って戦争をするつもりはなかった。しかし、お金を貸すことは嫌いではなかった。そこで、国債が発行された。戦争終結時にフランスの金保有量はほとんど減っていなかった。それは、個人に対する金の回収運動の成果だった。
戦争の需要はドイツの産業界に莫大な利益をもたらした。さらに、戦時社会の最も顕著な発展の一つが、女性労働の飛躍的な増加だった。
 この本を読んで、最近みたスピルバーグ監督による映画『戦火の馬』を思い出しました。第一次世界大戦も経済事情というより両面のプロパカンダに一般大衆が乗せられ、「祖国防衛」という実体のない叫びの下に、大量の戦死・犠牲者を出していったということを改めて認識しました。いわば、慎太郎・橋下流ポピュリズム政治が結果としてもたらすものを予見させる怖さです。
(2012年3月刊。3200円+税)

2012年7月 1日

楽園のカンヴァス

著者  原田 ハマ  、 出版   新潮社

 著者には大変申し訳ありませんが、まったく期待せずに読みはじめた本でした。私の娘がキュレーターを目ざしているので、親として少しは知識を得ようと思って、いわば義務の心から読みはじめたのです。
 ところがところが、なんとなんと、とてつもなく面白いのです。あとで、表紙の赤いオビに山本周五郎賞受賞作と大書されていることに気がつき、なるほどなるほど合点がいきました。江戸情緒こそ本書にはありませんが、パリのセーヌ川(らしき)の情緒はたっぷりなのです。 
推理小説では決してありませんが、その仕立てだと思いますので、粗筋も紹介しないでおきます。博物館や美術館にいるキュレーターの仕事の大変さが、ひしひしと伝わってくる本ではあります。
画家を知るためには、その作品を見ること。何十時間も、何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいない。
キュレーター、研究者、評論家、誰もコレクターの足もとには及ばない。
待って。コレクター以上にもっと名画に向き合い続ける人間がいる。誰か? 
美術館の監視員(セキュリティ・スタッフ)だ。監視員の仕事は、あくまでも鑑賞者が静かな環境で正しく鑑賞するかどうかを見守ることにある。監視員は、鑑賞者のために存在するのではなく、あくまで作品と展示環境を守るために存在している。
この本は、アンリ・ルソーの『夢』そして『夢を見た』という絵画がテーマになっています。どちらかが真作ではなく、偽作だという疑いがかかっています。それを7日間のうちに見抜かなければいけないし、それに勝てばたちまち億万長者になるというのです。
1908年、第一次世界大戦が始まる(1914年)前のフランス・パリを舞台とする描写があります。アンリ・ルソーはピカソとも親交があったようです。そして、『夢』が描かれる経緯が紹介されます。
果たして、この絵は本物なのか、偽作なのか。偽作だとしても誰が描いたのか・・・・。謎はますます深まっていくのでした。
なかなかに味わい深い絵画ミステリー小説でした。
一つの絵の解説本としても面白く読めます。巻末に参考文献も紹介されていますが、これをちょっと読んだくらいで書ける本ではないと思いました。底が深いのです。一読をおすすめします。
(2012年5月刊。1600円+税)

2012年5月 7日

情熱の階段

著者   濃野 平 、 出版   講談社

 スペインで日本人闘牛士が孤軍奮闘しているなんて、ちっとも知りませんでした。ユーチューブで、その活躍ぶりがきっと見られるのでしょうね。見てみたいものです。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士です。一人前の闘牛士になるための悪戦苦闘ぶりが生々しく、その苦しい息づかいとともに伝わってくる迫力ある本でした。なにより、単なる成功譚で終わっていないところが素晴らしい。決してハッピーエンドの世界ではなく、これからも闘牛士として苦難の道が続くことを想像させます。がんばれ、日本人青年。つい、こう叫んでしまいました。
 私は、この動物を殺す。剣の一撃によって。食べるためではない。毛皮を剥(は)ぐためでもない。この大きな角をもった猛獣を、大勢の観客の前でただ殺す。
人によっては、血に飢えた残酷な者たちによる野蛮な儀式だという。
 人によっては、危険な恐れない勇者たちによる偉大な芸術であるという。
 スペイン闘牛、それは生と死をめぐる見世物だ。その舞台上では、動物への感傷が入る隙間はない。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士。
牡牛の前に立っているときは、それほど怖さを感じない。やるべきことや考えるべきことが多くて、恐怖を味わう暇があまりないからだ。むしろ、恐怖は闘牛の始まる前と終わってしばらくしたころにやって来る。
 この試合さえ無事にすんだら、もう二度と闘牛なんかやらないから、自分を護ってほしいと、何かに祈ってすがりつきたくなることもある。牡牛は怖い。大怪我をする危険はいつだってある。観客は、もっと怖い。そこにあるのは、自分自身とのたたかいだ。その背中、肩甲骨の間の小さなくぼみ、そこに剣を正しい角度で突き入れると、牡牛は死ぬ。
 過去に日本人でプロ闘牛士の世界に足を踏み入れたのは2人だけ。著者は3人目になります。
闘牛士が優れた縁起で観客の心をつかみ、「真実の瞬間」と呼ばれる仕留めをうまく決めることができれば、褒賞として牡牛の耳一枚が与えられる。それ以上の価値がある闘牛であったと判断されたら、耳二枚、さらに尻尾まで闘牛士に贈られる。
 闘牛士たちは一頭あたり20分、全6頭からなる2時間あまりの興行がつづく。闘牛につかわれる牡牛の血統は、乳牛や食用牛などの飼い慣らされたおとなしい動物ではない。自己防衛本能により、あらゆる外敵に対して攻撃を仕掛ける性質がもともと備わっている。自分以外に動く、あらゆる対象物へとためらうことなく攻撃を仕掛けるのが大きな特徴だ。
 スペイン全土には1300をこえる闘牛牧場がある。そして闘牛場はスペイン全土に500もある。それは3つの格式にクラス分けされている。闘牛は年間2000回も開催されている。ただし、入場料は高い。田舎町で3~4000円もする。
牛は、たった一度しか闘牛に使えない。牛は闘牛士と10数分ほど対峙することによって、闘牛士本人とおとりであるカポテやムレタとの区別がつくようになり、2度目は迷わず闘牛士の体を攻撃する。だから、闘牛で使われた牡牛は、演技終了後に殺されて食肉となる。闘牛場内で直ちに解体されて、販売される。
 牡牛の死に至るまでの過程こそが、もっとも重要視される。
面白い闘牛に出会うのは簡単なことではない。10回みて、1回か2回、面白い闘牛があれば良いほうだ。
 闘牛術は、あくまでも勇気という前提条件の上に成り立っている。闘牛士には、自らがもつ本能的な恐怖を理性によって抑えることが求められている。だから、実際には、闘牛士と牡牛とのたたかいでは決してない。牡牛は、闘牛士のつくり出す作品の素材にすぎない。恐怖心に負けず果敢におのれの限界にまで挑む、自らの弱い心と常に争い続ける闘牛士の内部にこそある。つまり闘牛とは、自分自身との闘いなのだ。
 試合に出される牡牛は、過去に一度も闘牛士と対峙していない牡牛から選ばれる。
闘牛術の習得の難しさは、生きた牛相手の練習機会を得ることが、きわめて難しい点にある。
 なーるほど、そうなんですか。私はてっきり、あの牛たちは何回も挑戦しているとばかり思っていました。
闘牛士として挑戦するためには大変なお金がいります。そのため、著者はオレンジ農場で働いたり、日本に戻って東京の築地市場でアルバイトをしたりしていました。
スペイン闘牛界において、闘牛収入だけで生計を立てられる闘牛士は、スペイン全土でわずか数十人程度でしかない。
いやはや、とんでもない厳しい世界です。そんななかで、よくも日本人闘牛士として頭角をあらわしたものですね。すごいものです。日本人の青年(ここでは男性)もたいしたものではありませんか。この本を読むと、思わず力が入り、また、元気が出てきます。のうのさん、体に気をつけてがんばってくださいね。
(2012年3月刊。1400円+税)

2012年3月25日

帝国を魅せる剣闘士

著者   本村 凌二 、 出版   山川出版社

 冒頭に、ある剣闘士の手記が載せられています。闘技場に駆り出され、死ぬまでたたかうしかない剣闘士の心情がそくそくと伝わってきます。大観衆が狂ったように怒声をあびせ、甲高いラッパの響きが耳をつんざく。やがて、「殺せ、殺せ」の大合唱になっていく。それで、剣闘士は、敗者の喉を切りさくのだった・・・。
ローマの闘技場(コロッセウム)は5万人もの大観衆を収容する。そこでは血なまぐさい殺しあいが果てしなく続いていた。
 私はローマの闘技場は見ていませんが、フランスにある円形闘技場の遺跡はあちこちで見ました。初めは野外の円形劇場だと誤解していました。そこでは歌と芝居も上演されていたのかもしれませんが、それより闘技場として殺しの舞台だったことは間違いありません。
 ローマ人よりも前に、カプア人が剣闘士競技を葬儀につきものの行事として挙行していた。
剣闘士は、市場に立つ奴隷であり、血を売る自由人であった。前2世紀には、既に専業化した剣闘士が登場していた。
 剣闘士の競技は600年も続いた。ローマの民衆は剣闘士競技にすさまじく熱狂し、元老院も剣闘士競技を公の見世物として公認した。
 なによりも民衆の関心を集めたのは、戦車競争と剣闘士競技であった。大掛かりな舞台装置には、戦争捕虜が連れ出され、壮絶な大量処刑の流血の見世物がくり広げられた。ローマの公職選挙と結びつき、また実力者の勢威を際立たせる手段として、剣闘士競技は頻繁に開催されていた。
100組の対戦で、19人が喉を切られて殺された。5組の対戦があれば、1人が喉を切られた。10人の剣闘士が闘技場の舞台に出ると、1人が殺されたことになる。
興行主の側からすると、喉切りは剣闘士という資産を損失することだった。それにもかかわらず、彼らは競って多くの死体を民衆に提供した。なぜなら、殺される場面が多ければ多いほど興行主の気前の良さが民衆に伝わるからだ。等級が高く、資産価値のある剣闘士は、めったなことでは殺されなかった。
 剣闘士は年に3回か4回ほど対戦し、5~6年にわたって活動していた。およそ20戦未満で、命を失うか生き残れるかの瀬戸際に立つ。生き残って木剣拝受者になれる剣闘士は、20人に1人くらいの割合だった。
 剣闘士は卑しい身分だったが、命がけの競技なので人気者でもあった。
 ローマ時代のコロッセウム(円形闘技場)をフランスでいくつか見学したものとして、そこであっていた剣闘士の競技の実際を知りたいと思っていました。実に残酷な競技ですよね。何万人もの民衆が熱狂しながら見物していたなんて、信じられません。
(2011年10月刊。2800円+税)

2012年2月 9日

ノルマンディー上陸作戦(下)

著者   アントニー・ビーヴァー 、 出版   白水社

 連合軍はノルマンディーになんとか上陸したあと、一路ドイツに向かって快進撃を続けたというのではないことがよく分かります。実際にはヒトラー・ドイツ軍の反撃もあって、しばらく苦戦したのでした。
パットン将軍が最高司令官のアイゼンハワー将軍に対して軍人として一目置いたことは、ただの一度もなかった。パットンは次のように語る。
 「親しく接することで、部下と分け隔てのない関係を築けるというのがアイクの考え方なのだろう。だが、分け隔てがなくなったら、部下を指揮することなど、断じてできまい。私は、あらゆる方法を駆使して、部下の士気向上をはかる。だが、アイクは部下の合意を取りつけようとする」
 パットンは、モントゴメリー将軍も見下していた。
軍医は、傷とそのタイプを見ると、いま我が軍の部隊が前進しているのか、後退しているのか、停滞しているのか、判断がついた。
 自傷行為に走った兵隊が運ばれてくるのは、たいてい戦闘が始まった直後だ。部隊が前進すると、傷の種類は、迫撃砲、機関銃、そのほか小火器によるものに変わる。敵の守りを突破したり、人知を破保したあとは、地雷とブービートラップの患者が相手となる。
 負傷者の過半数ではないものの、心的外傷を負った兵士は、依然として相当数にのぼっていた。アメリカ陸軍がノルマンディーにおいて対処せざるをえなかった戦争神経症患者は3万人に及んだ。
 ドイツのロンメル将軍は、幹線道路を走るのは避けるように忠告されたにもかかわらずオープンカーで道路を走っていて、2機の英軍機スピットファイアに攻撃された。ロンメルは車から投げ出され、重傷を負った。ロンメルは、病院に送られ、以後、この戦争から離れてしまった。
 3日後の7月20日、ヒトラーに対する暗殺未遂事件が起きた。連合軍がノルマンディー防衛戦を突破するのではないかという懸念と、いっこうに現実を見ようとしないヒトラーに対する忌避感情が事件の背後にあった。
 ロンメル元師を中心とするヒトラー反対派も存在した。ヒトラー暗殺、クーデター計画には、実に多くのドイツ国防軍の上級将校が関与していた。しかし、組織としてのまとまりや、効果的な連絡手段があまりに欠如していたため、ヒトラーの生死という肝心要の事実さえ確認がとれず、それは必然的に、初動の遅れと混乱へとつながった。ヒトラーの生存が確認されたため、どっちつかずの態度をとっていた者たちは慌てて自分の尻尾隠しに狂奔した。大半の下級将校はショックを受け、混乱はしていたけれど、この問題に関しては、くよくよ考えないという選択をした。
戦争とは結局、およそ90%が待ち時間である。
 これはアメリカの師団のある将校が日記に書いた言葉である。
 モーリス・ローズ准将は、配下の戦車兵・歩兵共同チームに徹底的な訓練を施した。
 戦場の視察にやってきたソ連軍の軍事使節団は、100万人の元赤軍兵士がドイツ国防軍の軍服を着て戦っている事実を知らされて、顔をこわばらせた。
 イギリスのチャーチル戦車やクロムウェル戦車は、ドイツのティーガー戦車にはほとんど歯が立たなかった。
最前線のアメリカ軍部隊は、処理すべき人数があまりに多かったので、捕虜の扱いがきわめてぞんざいだった。なにしろ、第八軍団だけで、3日間に7000人、第一軍が捕らえた捕虜は6日間で2万人に達した。
 ブルターニュ地方は、フランスにおけるレジスタンスの一大拠点だった。2万人の活動家がいて、7月末には3万人をこえた。うち1万4千人は武装していた。ドゴール派のFFIも、共産党のFTPもブラッドリー将軍の期待をはるかに上回る活躍を見せた。
 そして、ドイツ兵と寝た女性への報傷行為も、ブルターニュ地方のほうがはるかに苛烈だった。髪の毛をむりやり刈り取られたうえ、腰をけられて病院送りとなった。
 8月初め、ヒトラーは、撤退など論外だと言い出した。その内なるギャンブラー体質に、ドラマ性を好む性向が加わり、目の前の地図を眺めて、日々夢想にふけった。名ばかりの師図になっているのに、そうした現実をヒトラーは断じて受け入れようとはしなかった。ヒトラーは自分に都合のよいものしか目に入らなくなっていた。8月7日、ドイツ軍の反撃が開始された。攻撃が失敗したとき、ヒトラーは、こう言った。「クルーゲがわざとやったのだ。私の命令が実行不能であることを立証するため、クルーゲのやつが、敢えてこれをやったのだ」
 パットン将軍のアメリカ第三軍は補給の問題をかかえていた。
 アイゼンハワー最高司令官は、パリを素通りして、そのまま東フランスから一気にドイツ国境に迫るという考えだった。これにドゴール将軍が反発した。
パリを破壊させよというヒトラーの命令を実行する考えだったコルティッツ司令官に対して、前任司令官と参謀長が説得し、やめさせた。
 8月24日、フランス自由軍がパリに入った。アメリカ軍も8月25日朝、南方からパリに入った。パリにドゴール将軍が入るのが先か、共産党のレジスタンス蜂起が先に成功するか、息づまる努力争いが展開された。これはまさに戦後政治の先どりでした。
 1944年後、髪の毛を丸刈りにされたフランス人女性は2万人にのぼった。ドイツ兵と寝たことが理由である。
1944年夏の3ヵ月間にドイツ国防軍は24万の将兵が犠牲となり、20万人が連合軍の捕虜となった。イギリス、カナダなどの連合軍は8万人の犠牲者を出し、アメリカ軍の犠牲者は13万に近い。
 たしかにすさまじい戦争だったことがよく分かる、詳細な戦史です。よくぞここまで調べあげたものです。
(2011年8月刊。3000円+税)

2012年1月 8日

指導者は、こうして育つ

著者  板倉 康夫 、 出版  吉田書店

 フランスの高等教育、グランゼコールを紹介した本です。
 グランゼコールの一つ、シアンスポはパリの中心部、カルチェラタンにあります。実は、今、私の娘がそのすぐ近くに下宿しているのです。この夏、パリに行ったときに娘の住所を探しているうちにシアンスポを発見したのでした。シアンスポは、ニコラ・サルコジ大統領の出身校でもあります。シアンスポとは、パリ政治学院のことです。
グランゼコールとは、大学とは別のエリートを選抜するための高校教育機関である。そこに入るには猛烈に勉強しなければいけない。
フランスで大学に進学するにはバカロレアに合格しなければいけない。いま同世代の66%ほどがバカロレアに合格し、その82%が大学に進学する。それとは別に存在するグランゼコールは、300校、全国で12万4000人の学生が在学する。フランス全土の大学生132万人の1割以下である。
 グランゼコールの卒業生がフランスの支配層を形づくっていると言われています。官庁も企業も、彼らによって占められているのです。
 私の好きなポール・ニザンもグランゼコール(パリの名門のひとつであるアンリ四世校)の卒業生でした。ここでサルトルと知り合い、激しい首席争いをしたのです。
 そして、ポール・ニザンは共産党に入り、教員となったあと徴兵され、ダンケルクから撤退する途中で戦死したのでした。
 20歳がひとの人生で一番美しい年齢だなどとは言わせない。これは「アデン・アラビア」の一節ですが、私も大学一年生のとき(まだ20歳になる前のことです)に読み、感銘を受けました。
 フランスのようなエリート・システムを日本も真似してよいのかどうかは疑問がありますが、フランスという国を知るには、このグランゼコールを知らなければいけないと私も思います。それにしても、バカロレアの試験問題があまりに哲学問答なのに驚かされます。この点については日本も真似てよいと思います。
(2011年9月刊。1900円+税)

2011年10月 4日

ノルマンディー上陸作戦(上)

著者  アントニー・ビーヴァー  、 出版  白水社   

 1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を多角的に描いた大部の労作です。連合軍内部の葛藤にみちた内情、迎えうつドイツ軍のあたふたぶりとヒトラーの狂信的指示の内幕が活写されていて、果たして上陸作戦はうまくいくのか、上陸したあとナチス・どいつ軍によってダンケルク戦のように海へ押し戻されてしまうのか、ずっと予断を許されない厳しい戦闘行動が続いていたことを知りました。
 連合軍の最高司令官であるアイゼンハワーに対して、イギリス軍のトップは高い評価を与えていなかった。モントゴメリー(モンティ)は、上官であるアイクにたいして経緯のかけらすら見せなかった。
 有力な将軍・提督たちの政治的ライバル関係や個人的な対抗意識をアイゼンハワーは常に意識し、そのバランスに配慮しなければならなかった。
 モントゴメリー将軍は、演出のコツを非常に心得た軍人だった。そして、軍事のプロとして高い能力をもち、また部隊の訓練にあたって第一級の仕事をこなしてきたが、「際限なきうぬぼれ」という欠点も抱えていた。
 アメリカ陸軍は、第一歩兵師団を除いて、ほとんどすべての部隊が「要求基準に合致せず」と評価されていた。
アイゼンハワーは上陸作戦が失敗に終わったときに発表する短い声明文も用意した。そこには、「この試みに、もしなんらかの問題もしくは欠点があったとすれば、ひとえに私ひとりの責任である」と書かれていた。
 アメリカのルーズベルト大統領はド・ゴール将軍を不信の目で見ていた。ド・ゴールという男はへたすると独裁者になりかねない人物である。連合軍はなにもド・ゴールを権力の座につけるためにフランスへ侵攻するわけではないとした。
 アイゼンハワーの声明文には、ド・ゴール将軍による臨時政府の権威をどんな形にしろ認めていなかった。
ヒトラーは、連合軍の侵攻作戦はヒトラーが築いた「大西洋の壁」によって必ず粉砕されると信じていた。ヒトラーは、ロンメル将軍の提案を却下した。空軍のゲーリング海軍のデーニッツの強い働きかけもあって、ヒトラーは本能的に今の現状を維持するのが望ましいと判断した。ライバル関係にある、それぞれの軍組織を互いに競い合わせることで、その上位に君臨する自分が全てをコントロールできると考えていた。
 フランス国内のレジスタンス組織の大半はド・ゴール将軍と共闘していたが、必ずしもド・ゴール主義者ではなかった。
 ノルマンディー上陸作戦に参加した艦船は5000隻ほど。全体で13万人の兵士が参加した。6隻の戦艦、23隻の巡洋艦、104隻の駆逐艦、152隻の護衛艦、277隻の掃海艇が出動していた。
 誰もがみな、もっとも知りたいのは、果たしてドイツ軍が、現在進行形のこの事態をすでに把握し、手ぐすね引いてまっているのかどうか、ということだった。
 午前1時アメリカ海軍は、上陸作戦に参加する兵士に朝食を出した。常軌を逸する大盤振る舞いだった。ありったけのステーキポーク、チキン、アイスクリーム、キャンディーが供された。ソーセージ、豆料理、コーヒー、ドーナツが食べ放題となった。そして、大揺れの船のなかで、兵士たちはゲロを吐き、豪華な食事を後悔するに至った。
 ノルマンディーの戦いにおける連合軍、ドイツ軍双方の損耗率はひどかった。それは、東部戦線における同時期のをはるかに上回っていた。
東部戦線意おいてソ連赤軍の苛烈きわまる砲撃を相手したため、ドイツ軍は守勢に回ったとき、損失をいかにして最小限どにおさえるか、さまざまな対処法を実地に学んでいた。その教訓がノルマンディーの戦いで十分に生かされた。そして、ドイツ軍は戦機をとらえるのがうまい。
 アメリカ軍の兵士の損耗度は高く、やがて本国から補充兵がやってきた。補充兵は、しばしばもっとも危険な任務を割り当てられた。どの小隊も、経験を積んだベテラン兵士をムダにしたくはなかった。
イギリス空軍が北部の町カーンを空爆したがこれは2重の意味で失態だった。第一に、カーン 北部にあるドイツ軍陣地を叩けなかった。第二に、都市部に大打撃を与えてしまった。
戦争の現場がきれいごとではいかないことを知り、改めて衝撃を受けました。
映画『史上最大の作戦』は私が高校生のころに映画館で上映されているのを見に行った記憶があります。映画でも連合軍が苦労していたように描かれていましたが、現実はもっと悲惨で、どうしようもない状態だったようです。

(2011年8月刊。3000円+税)

2011年9月 7日

特殊部隊ジェドバラ

著者  ウィル・アーウィン    、 出版  並木書房 

 映画『史上最大の作戦』そして『プライベート・ライアン』で有名なノルマンディー上陸作戦の前に、連合軍はドイツ軍の後方撹乱のためにフランス各地に特殊部隊を送り込み、現地のレジスタンスを応援しつつ活動していたのでした。その部隊名をジェドバラと呼びます。
 アメリカ人のジェドバラ隊員は戦略事務局(OSS)に所属し、イギリス人隊員は特殊作戦執行部(SOE)の出身だった。そして、もう一人のフランス人はドゴール将軍の自由フランス軍に属していた。3人一組で、最大100組の混成チームがフランス各地に投下された。
 高高度で編隊飛行するために設計された鈍重な重爆撃機を勘と経験をたよりに低空飛行させる。目標を見つけると、対地高度180メートルで進入を開始し、失速ぎりぎりの時速約200キロにまで減速させる。そして、一人ずつ落下していく。
 ジェドバラ隊員は、ゲリラ戦では機動性が重要であると教えられ、1ヶ所に長くとどまらず、常に動きまわるように叩き込まれていた。地上では地元のレジスタンス勢力と接触し、彼らの協力を取りつけることになっていたが、レジスタンスについては、ごくわずかしか分かっていなかった。
 ジェドバラ隊員には、当然のことながら道徳心と身体をはった勇気が求められていた。そのほかにも、度胸や自信、健全な判断力、ある程度の抑制された勇猛さ、秘密情報の慎重な扱いなどを示す必要があった。任務を完了するために、隊員たちは機略縦横でなければならなかった。たとえ通信と補給が立たれた場合でも、刻々と変化する状況に順応する必要があった。
 状況をすばやく認識できる機敏な頭脳が必要だった。決断力があって、創意に富んだ頭脳と、精神的なスタミナが肉体的な持久力におとらず重要だった。また、分別と安定した感情と自制心は、ストレスの多い状況下や長期間の孤立状態のときに人ががんばり続けるために必要になる。外国人とすすんで協力する態度と適性は絶対に不可欠だった。洞察があって、説得力に富み、必要とあらば断固主張し、人あしらいに長けていなければならなかった。階級の違いをこえて他人と協力し合えることが求められていた。
 情報網を構築し、運営する方法、偽造文書の使いかた、監視のやり方、気づかれずに誰かをつける方法、つけられているときにそれを見分ける方法、そして、その対処法。すごいですね。こういうのを私も身につけてみたい気もします・・・・。
 レジスタンスのなかにはドイツ軍のスパイも潜入していた。そして、レジスタンス内部で抗争があっていた。パリではレジスタンスの大部分が共産党だった。ドゴール派は、共産党に戦後の政権をとられたくなかった。
 少し前にイギリスの看護師(ケイト・ブランジェット)がフランスに潜入してレジスタンスを支援するという映画(『シャーロット・グレイ』)を見ましたが、まさにそれと同じ活動を描いたノンフィクションでした。
(2011年4月刊。2200円+税)

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