福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

日本史(近代)

2008年07月17日

甘粕正彦 乱心の曠野

著者:佐野眞一、出版社:新潮社
 いやあ面白くて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。よくもここまで調べ上げたと感嘆するほど、「主義者殺し」の烙印を負った甘粕憲兵大尉の事件との関わり、そして満州での暗躍ぶりと自殺に至るまでが迫真にみちみちて描かれています。
 甘粕は、大杉栄一家3人虐殺の主犯として軍法会議で懲役10年の判決を受け、千葉刑務所に服役した。ところが昭和天皇の結婚による恩赦を受け、大正15年(1926年) 10月、わずか2年10ヶ月で極秘のうちに仮出獄した。そして翌1927年(昭和2年)7月にはフランスに渡った。さらに、1929年秋に満州に移住した。
 甘粕正彦の長男は三菱電機の副社長を経て、現在は顧問。考古学者の甘粕健、社会学者の見田宗介、服飾デザイナーの森南海子は、みな近い親戚である。いやあ、有名人ぞろいですね。私も見田宗介の本は大学生のころ読みました。見田石介の本もです。
 甘粕正彦は名古屋の陸軍幼年学校に入ったが、そこは6年前に大杉栄が入学し、あまりの不良少年ぶりに2年で放校処分を受けたところだった。
 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の当日、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦は麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。首相官邸などを警護対象とする麹町憲兵分隊は、文字どおり、憲兵あこがれのエリート中のエリートコースだった。
 甘粕は帝都の治安を攪乱する不穏分子を摘発するエースだった。皇族の安寧を願い、帝都の治安維持に尽力してきた甘粕の目ざましい働きに対する論功行賞でもあった。
 甘粕に対する軍法会議が始まると、減刑嘆願運動が在郷軍人会を中心として全国に広がり、65万人もの署名を集めた。しかし、これも、軍法会議が始まると、甘粕に対する同情の声はおさまり、むしろ非難する声が高まった。
 大杉栄の虐殺が露見したのは、軍と警察の反目にあった。そして、その裏には、内務省と陸軍省のドロドロした暗躍劇がからんでいた。
 死因鑑定書が発見された今、甘粕は殺害された宗一(子ども)ばかりか、大杉栄ら3人の死体が菰包みになったのを見て初めて殺害の事実を知ったという可能性も否定できない。いやあ、そういうことなんですか。驚きました。
 軍法会議は、宗一少年を殺したとして自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴される。この軍法会議は第1回が10月8日、6回の審理を経て、結審したのが11月24日。そして、判決は12月8日。審理に費やした期間は、わずか2ヶ月。しかも、甘粕に対する追及が厳しかった判士の小川法務官は途中で突然に解任された。
 そもそも、甘粕には麹町憲兵分隊に所属する4人を指揮命令する権限はなく、そんな立場にもなかった。
 赤坂憲兵分隊長の服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉栄が両手両脚を厳重にしばられ、コンクリートの上に筵(むしろ)を敷いて座らされていた。そばには、大杉の妻・野枝と子どももいた。こんな目撃談を部下が書いています。
 死因鑑定書には次のように書かれている。「男女二屍の前胸部の受傷はすこぶる強大なる外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものとなることは明白。・・・これは絶命前の受傷にして・・・」
 つまり、大杉栄も野枝も明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。虫の息になったところを一気に絞殺された。すなわち、集団暴行によるなぶり殺しが実態である。
 おお、なんとむごいことでしょうか。許せません。そして、実行犯は、みな無罪放免となり、甘粕一人がわずか2年あまりで出所したなんて・・・。まさしく軍隊の犯罪としか言いようがありません。
 甘粕が出所してすぐにフランスに渡ったのは、甘粕をスケープゴートとして自らの責任を逃れた憲兵司令部の後ろめたさと、口封じを感じざるをえない。そして、甘粕正彦は満州に渡り、満映の理事長となり、終戦直後に青酸カリを飲んで服毒自殺した。そのとき、今をときめく有名作家の赤川次郎の父親が甘粕の側で働いていた。
 これは伝記ものの傑作の一つだと思います。なにしろ、歴史的事実を一つ発掘したのですからね。私は、東京行きの飛行機のなかで、一心に読みふけり、飛行の怖さを忘れてしまいました。あっという間に東京に着いてしまったのです。
(2008年5月刊。1500円+税)
 

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2008年08月20日

占領期の朝日新聞と戦争責任

著者:今西光男、出版社:朝日新聞社
 まったく面識はありませんが、経歴をみると私とまったく同世代のようです(正確には、1月に既に定年退職したということですので、1学年だけ上のようです)。
 終戦時、「朝日」社主の村上長挙は51歳。「朝日」の主筆などをつとめていた緒方竹虎は57歳だった。いずれも、今の私の年齢より若いわけですが、すごい権威と権力をもっていました。
 終戦直後に東久邇宮が首相に任命されたわけですが、この首相が児玉誉士夫を内閣参与に任命したというのを初めて知りました。児玉といえば右翼の親玉ですが、旧日本軍の軍需品を流用・私物化して巨萬の富を得た男です。児玉は、そんな汚れた資金をもとに自民党の黒幕として戦後ながく君臨していくわけです。私が右翼を忌み嫌うのは、いかがわしい新興成金体質にみちみちているからでもあります。福田内閣のメインである自由民主党は、児玉が日本陸軍からかすめとった財宝を資金(もとで)として結成されたものです。これが平和・民主主義の日本の七不思議の一つです。汚れたお金で結成された政党による政権が、戦後60年以上たっても、連綿として続いており、若い保守政治家が自民党と名乗るのに何の恥も感じていないというのです。いやあ、気の弱い私なんか、それだけでも自民党の議員になるなんて恥ずかしくて、よう言えませんが・・・。
 そして、朝日新聞は、戦時中に、日本帝国海軍「徴用」という名目によって少なからぬ特典・特権を享受したというのです。これでは戦争批判など、しようと思ってもできるものではありません。
 1945年9月29日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したときの写真が公表された。黒いモーニング姿で小柄な天皇が正面を向いて直立しているのに対して、頭一つ長身の元帥は襟元のボタンをはずし、両手を腰にあてリラックスした姿だった。
 会見に同席したのは通訳の外務省情報部長一人。元帥が30分間にわたって、とうとうと話し、天皇はごくわずかしか話さなかった。天皇は、このときマッカーサーを下手に怒らせて戦争責任を追及されるのが怖かったのです。
 東久邇宮首相と緒方竹虎書記官長は、内閣の基盤を強化するため、これまで野党あるいは反体制側だった無産政党や労働運動、農民運動などの政権参加が必要だと考えた。そして東久邇宮は、在日朝鮮人組織の指導者と会見(10月2日)するなど、左翼陣営や諸団体との協力を模索し、場合によっては共産党との連携も検討していた。ひえーっ、本当ですか、これ・・・。
 ところが、閣内の2人の大臣がとんでもない発言をした。山崎内相は、反皇室宣伝をする共産主義者は容赦なく逮捕する。共産党員は拘禁を続けると言い切った(1945年 10月5日)。岩田宙造法相も、政治犯の釈放は考えていないと高言した。これを聞いたマッカーサーは怒り、「自由の指令」を発した(10月4日)。これで東久邇内閣は発足して50日で総辞職した。後任は、73歳の幣原元外相が就いた。そして、近衛文麿は  1945年12月16日、マッカーサーから切り捨てられ、青酸カリを飲んで自殺した。
 1945年2月、近衛は昭和天皇に対して、「ここまで来ては、敗戦そのものより、その後に来たる共産革命が深刻だ」と述べ、さらに10月4日にはマッカーサーに対して「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」を述べていた。
 ええーっ、近衛の歴史認識って、こんなにひどいものだったんですか・・・。
 日本に進駐したGHQは、情報局総裁を兼務していた緒方書記官長を呼び、「占領政策に反する新聞をつくらない、米ソ関係を紙上でコメントしない、この2点に違反しない限り、日本の新聞の存続は認める」という方針を伝えた。同じ敗戦国のドイツ・イタリアの新聞は廃刊に追いこまれたのに、日本については、すべての新聞が戦前と同じ題号で発行を続けることが認められた。
 朝日、毎日で経営陣が退き、従業員の選出による新しい執行部が誕生するなか、読売新聞では正力松太郎がそのまま社長室に君臨していた。
 「この社はオレの社だ。勝手なことはさせない」
 自分の戦争責任につながる社内の動きは絶対に認めない。それが正力の強い決意だった。正力は、内務警察官僚として共産党弾圧の張本人の一人であり、また、ナチス・ドイツを崇拝する記事を読売にのせていた。
 その正力に対して労働者の怒りが爆発した。そのころ、日本共産党書記長になったばかりの徳田球一が読売新聞の実権を握るようになった。ところが、正力は依然として、半分近い株主を保持していた。これが復帰のバネとなった。
 鳩山の追放に成功したことによって、GSにとって皮肉なことに、鳩山より手ごわい吉田が登場した。吉田はGHQ内の反共派を代表するG2に近く、民主化最優先・容共派のGSにとっては不倶戴天の敵のような存在だった。
 やがてマッカーサーは、「共産党をキックアウトしろ」と言い、民主化を主導してきたコーエンらGS幹部を相次いでアメリカ本国に帰国させた。こうしてGHQ内の容共派は駆逐された。
 1947年の2.1ストにからみ、読売と毎日はゼネストを批判したが、朝日は、民主戦線結成と吉田内閣の打倒をうち出し、組合寄りだった。そこで、GHQは朝日打倒に乗り出した。GHQはゾルゲ事件と朝日を結びつけようとした。ゾルゲー尾崎秀実ー田中慎次郎ー笠信太郎というラインを浮かび上がらせ、朝日の論説を容共的なものとしてクレームアップしようとした。
 1950年7月28日、レッドパージが始まった。NHK119人、朝日104人など、報道8社で336人が解雇された。レッドパージされた労働者は2万人にのぼった。
 1949年に150万人を組織していた産別会議は、50年には、わずか4万7000人の少数派に転落した。
 朝日新聞の運営は経営が資本に対して優位を保つ形で続いているが、戦前戦後にわたって新聞人・緒方竹虎が苦悶した資本(村山家)と経営(執行部)との対立構図そのものは解消されていない。
 かつて日本の良識とも言われた朝日ですが、今や右翼のサンケイ・ヨミウリと大同小異の記事も多いように思われ、残念です。
(2008年3月刊。1400円+税)

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2008年10月21日

日清戦争

著者:原田 敬一、 発行:吉川弘文館

 いちやくしんを破り。これは、日清戦争が始まった1894年を語呂合わせで覚えるための暗記文句です。今でもすぐに出てきます。ところが、この本を読むと、1894年の何月何日に日清戦争が始まったのか、今に至るまで確定していないそうです。
 しかも、日本軍は敵の清国兵を追う中で罪なき中国の多くの市民を各地で虐殺したというのです。その申し訳なさを恥じ入って、しばし頭を下げざるを得ません。
 7月23日、日本軍は漢城電信局の電話を切断して王宮に攻め込んだ。実行したのは、大陸浪人(国粋主義者)たちである。この日、工兵隊は爆薬を用意し、歩兵隊は斧や鋸(のこ)、長竿などを持参して、朝鮮王宮に入る段取りを完了していた。きわめて計画的な行動であり、偶発的な要素はまったくなかった。
 この日、1894年7月23日に日清戦争は始まり、1896年4月1日に終わる。1年8ヶ月あまりの、近代日本にとって最初の対外戦争であった。このとき明治天皇は42歳という壮年期であり、侍従武官たちが教育した結果、十分な軍事的な知識を持っていた。
 ところが、政府部内では、いつから日清戦争が始まったことにするのか、実は完全な一致はなかった。そして、朝鮮の豊島沖海戦で、日本海軍が清国艦隊と砲撃戦を行った7月25日を「実際戦の成立したる日」として開戦の日と定められた。すると、7月23日の戦闘での戦死者は、法的な「戦死者」ではなくなる。
 日本軍は、旅順市街地で残敵掃討作戦として、非武装の中国人を虐殺した。これが1894年11月28日のイギリス紙『タイムズ』に旅順虐殺事件として報道された。「日本国は文明の皮膚を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣」と記された。
 伊藤博文首相も陸奥宗光外相も、旅順攻略戦に成功した第二軍の処罰を提案できず、強力に弁明につとめ、事件の糊塗に走った。このとき、日本軍の山地師団長は、「今よりは土民といえども、我が軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令していた。
 日本の新聞の従軍記者も旅順市街地が死体で満ちていたことを報じている。
 都市攻略戦において、敗残兵が市街地に逃げ込み、市民と区別できなくなる可能性がある。そんなとき、攻略側はどうすればいいのか。この問いを誰も発しないまま時は過ぎ、日本軍は1937年12月の南京戦を迎えた。歴史を学ばなければ、2度目の悲劇が繰り返される、という事例である。
本当にそうですよね。この旅順大虐殺は日本人には案外知られておらず、日露戦争で日本軍がロシア兵捕虜を人道的に処遇したことのみが大きく報道され、日本人の記憶になっています。しかし、それは日本軍を公平に見たことにはなりません。日本人2万人、清国人3万人、朝鮮人3万人以上というのが日清戦争における犠牲者とされています。旅順虐殺事件では、推定で4500人以上が犠牲となっています。
 そして、日本は日清戦争において軍事的勝利は勝ち取ったが、三国干渉と清国分割に見られるようにヨーロッパのアジア侵略をもたらしたという意味で、外交的には失敗した。伊藤博文と陸奥宗光の失敗は明らかである。
 さらに、翌1895年10月、日本が台湾征服のための戦争を続けていたころ、日本公使三浦梧楼が兵士・警官・壮士を使って朝鮮王宮を襲い、王妃の閔妃を惨殺し、宮廷内の親露派を一掃した。この事件によって、日本軍の影響力は逆になくなってしまったのである。
 いやあ、日清戦争って、日本の対外侵略戦争の本質をまざまざと表しているものだということを改めて認識させられました。この「悪しき伝統」を断ち切ることが現代日本に生きる私たちに課せられていると思います。
 あとで気がついたのですが、『旅順虐殺事件』(井上晴樹、筑摩書房)という本が出ていました。1995年12月刊で、1996年2月に私も読んでいます。この本には日本軍が虐殺した証拠となる写真が多数紹介されています。なかには、殺した死体に銃剣を突き刺して得意そうな日本人兵士が写っている、おぞましい写真もあります。
(2008年8月刊。2500円+税)

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2008年11月28日

学歴・階級・軍隊

著者:高田 里恵子、 発行:中公新書

 日本の高学歴者たちは、ドイツと違って、兵役をすませて予備役少尉になっておくことを男の名誉ととらえる心性をついに持たなかった。
 日本の官僚や高級サラリーマンにとって、兵隊さんの位はなんの益ももたらさなかった。
 日本における職業将校の社会的威信は低かった。
 職業将校への道は、あまり元手をかけずに「月給取り」になれる道の一つだった。ただし、軍人の給料は、「貧乏少尉のやりくり中尉のやっとこ大尉で114円」と揶揄されたように、大学出のサラリーマンと比べて低かった。職業将校も世俗的な学歴序列、「月給取り」序列のなかに組み込まれ、しかも大学出よりも下位のランクを与えられていた。
 多くの優秀な少年たちは、立身出世やエリート志向ではなく、精神の自由を求めて旧制高校への進学を希望した。とりわけ昭和10年代の後半は、そうだった。
 そこで、庶民の味方を自称した陸軍が、国家のための官僚養成所のように見える一高と東京帝国大学法学部を「自由主義者の温床」あるいは「左翼と反戦主義者の温床」として憎んだ。
日本軍は、最後の最後まで、学生、学徒兵の力を信じていなかった。
 それでも兵営は、高学歴者が、教育を受けない、受けられない層と接触しうる数少ない場所だった。
 三島由紀夫は即日帰郷になって入営を免れた。つまり、徴兵を疫病か、あるいは軍医の好意的な「誤診」によって忌避したのだろう。
  日本軍の構成、そして欧米の軍隊との違いを考えさせられました。
 朝、庭に出るとエンゼルストランペットのピンクの縁取りのある白い花が露に濡れていました。霜でやられてしまうのも、もうすぐです。クルミの木と桜の木の間に大きな黄金グモの巣がかかっていましたが、取り払ってしまいました。夫婦なのか、兄弟なのかわかりませんが、見事な2匹の黄金グモでした。庭仕事の邪魔になりますので、ゴメンネと言ってはらいのけました。今、イチゴの木が白い小さな壺のような花をたくさん咲かせています。
(2008年7月刊。880円+税)

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2009年06月19日

マンガ蟹工船

著者 小林多喜二・藤生ゴオ、 出版 東銀座出版社

 30分で読める。大学生のための、という副題がついたマンガ本です。前から読んでみたいと思っていました。白樺湖に出かけたとき、やっと手に入れて読みました。
 もちろん、私は原作も読んでいます。でも、マンガって、すごいですね。よく出来ています。映画は前に見たようには思いますが、よく覚えていません。最近、リバイバル・ブームに乗って各地で上映されていますが、まだ残念ながら見ていません。その代わりにマンガを読んだのですが、それなりに視覚的イメージはつかめます。蟹工船のなかの悲惨な奴隷のような労働実態が、それなりに伝わってきます。解説をつけた人は、このマンガを読んでショックを受けた人は、ぜひ一度、一度読んだ人は、もう一度、原作小説をとくと味わってほしい、と注文をつけています。まさしく、そのとおりです。
 それにしても、今の日本で多くの若者が自分の置かれている状況は戦前の蟹工船で働かされていた労働者と似たようなものだと受け止めているという事実は、それこそ衝撃的な出来事です。それなのに、政府は、大企業の違法な派遣切りに対して、戸別の企業については論評を差し控えます、などと格好の良いことを国会で答弁して介入せず、野放しのままなのです。権力のやることって、戦前も戦後も変わらないというわけです。
 マスコミも、年越し派遣村こそ大々的に報道しましたが、企業で今やられていることについての追跡記事をまったく載せていません。本当に悲しくなります。ソマリア沖に派遣された自衛官の「活躍」ぶりを載せる前に、国内の若者の置かれている深刻な実態を紹介すべきではないでしょうか。そして、このことを総選挙の争点として大きく浮かび上がらせてほしいと思います。日本の若者が将来展望を持てなかったら、日本という国に将来はないと思いますよ。皆さん、ぜひ、このマンガを読んでみてください。
 
(2008年7月刊。571円+税)

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2009年07月02日

多喜二の時代から見えてくるもの

著者 荻野 富士夫、 出版 新日本出版社

 小林多喜二が『蟹工船』の執筆を始めたのは1928年10月のこと。翌年3月に原稿が完成した。この1928年3月15日に例の「3.15事件」が起きている。戦前の共産党一斉検挙事件である。多喜二は、この事件で逮捕された人々に対する取り調べのすさまじく凄惨な実態を知るにつれ、「煮えくり返る憎悪」をもって弾圧の実態暴露を優先させた。
 これら2つの小説の文学観は、「憎悪」から出発するという点で通底していた。なるほど、生半可な友愛というのではなかったのですね。
 多喜二の『蟹工船』を読んだ検事の報告書が紹介されています(1929年の『司法研究』遊田多聞検事)。
 この『蟹工船』は、もとよりそのすべてが事実だというわけではあるまいが、ただ、その持つ思想がいかに多くの人々の胸を打ちつつあるかと、また、いかに漁雑夫などが資本主義下において恵まれぬ地位に置かれつつあるかということをよく紹介し、資本主義の欠陥を暴露し、労働者の自覚と反省とを促しつつあるか、これを見逃すことができないのである。ふむふむ、見る人は見ていたわけですね。
 小林多喜二が警察官によって虐殺された理由の一つは、3.15の大弾圧の非道性を暴露したからだった。警視庁特高課の中川成夫警部は次のように高言した。
 小林多喜二のやろう、もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。いいか、われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは、天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは、逆賊だ。そんな逆賊は、捕まえ次第ぶち殺してかまわないことになっているんだ。小林多喜二に、捕まったが最後、いのちはないものと覚悟していろと伝えておいてくれ。
 実際、この言葉の2週間後に多喜二は警察が共産党に潜入させていたスパイの手引きでつかまり、予告どおり中川警部らによる陰惨な拷問によって、その日のうちに殺されてしまいました。
 「やあ。おまえが小林多喜二か。おまえは、『3.15』という小説を書いて、おれたちの仲間のことを、あることないこと、さんざん書きたてやがって、よくもあんなに警察を侮辱しやがったな。こうしてつかまえたからには、お前が『3.15』で書きやがったとおりのことをしてやるから、そのつもりでおれ」と脅した。いやはや、なんとも非道い話です。こんな拷問死を実行した警察官も、それを命じた上部の警察幹部も、栄進したあげく戦後までのうのうと生き延びたわけです。ナチスの犯罪が戦後何十年も追及されたドイツとの違いを感じます。
 今の日本で、このようなひどい拷問が再現されないことを願うばかりです。それにしても、最近、人権無視の風潮が高まっている気がしてなりません。その典型が、なんでも死刑にしろといわんばかりのマスコミのキャンペーンです。ヨーロッパのEU諸国は、みな死刑制度を廃止しています。そして、EU加盟の条件に死刑廃止があります。日本がEUに入る必要はないと思いますが、入りたくても入れてもらえないという事実を日本人はどれだけ知っているのでしょうか。
 
(2009年2月刊。2500円+税)

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2009年10月04日

山宣譚

著者 小田切 明徳、 出版 つむぎ出版

 やません・ものがたり、と読みます。戦前、労農党の代議士として活躍中、右翼に暗殺されてしまいました。惜しい人物です
 この本は、山本宣治が代議士になる前の青春編ですが、会話も多くて読みやすく、期待以上の出来栄えです。なるほど、山宣も若い頃は苦労したんだなと実感することもできます。
 山宣の両親は親から反対されて駆け落ちのようにして結婚しました。それこそ、夫婦そろって当時は珍しいキリスト教の信者でした。後年、山宣も両親の反対を押し切って結婚します。親に反対する資格なんてありませんよね…。
 山宣は体が弱くて、せっかく入った中学(今の高校でしょうか)を中退してしまいます。そして、東京で園芸見習いに入ります。ところが、ひどい親方で、まるっきり冷遇されてしまいます。
 いったん親元に戻ると、今度はカナダへ旅立ちます。園芸の勉強です。ところが、そこでも大変な苦難が待ち受けています。住み込みで家事手伝いをしたり、造園業に従事したり、果ては鮭をとりに漁船に乗り込んだり、苦労の連続です。やがて英語をきちんと身につけるべく学校に入ります。なんとか英語を身につけると、ラテン語なども会得し、一転して成績優秀な生徒になるのです。
 山宣は、カナダでもずっとキリスト教の信者として活動していました。しかし、教会でもいろいろ軋轢を起こします。真面目というか、生一本というか、思ったことを即、実行に移す人だったようです。
 山宣は苦労し、何回となく挫折を体験したため、しぶとくなりました。
 ハイスクールでは、英文学92点、ラテン語91点、代数99点、トータル856点でトップの成績となりました。いやあ、すごいものです。
 両親が山宣を日本に呼び戻そうとして、「チチキトク」のニセ電報を打ちます。親思いの山宣は、ついに5年ぶりに日本に帰国します。
 山宣は同志社に入り、三高に入り、東大の動物学科に入学します。生物学教室の改革に努め、新人会とも接触します。
 山宣ひとり、独壘(どくるい)を守る。だが淋しくない。背後には大衆が支持しているから。
 これは、私の好きな言葉でもあります。
 よく調べてあると思った、山宣の伝記でした。

(2009年5月刊。1524円+税)

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2009年10月22日

司馬遼太郎の歴史観

著者 中塚 明、 出版 高文研

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、1968年4月から1972年8月まで、足かけ5年にわたってサンケイ新聞の夕刊に連載されました。私が大学2年のときに連載はスタートしたのですね。もちろん、私は読んでいませんでした。いえ、もちろん『坂の上の雲』は、その後弁護士になってから読んでいます。明治日本の成功物語と言ってよい本です。そして、ここに登場する秋山好古は、私の母の異母姉の夫が副官として仕えていたということを最近知りました。先祖を調べて行くと、歴史が身近になることを実感したことです。
 それはともかくとして、NHKはこの11月から、この『坂の上の雲』を3年かけて放映するそうです。ところが司馬遼太郎は、これを禁止していたのです。
 「なるべく、映画とかテレビとかそういう視覚的なものに翻訳されたくない作品である。うかつに翻訳すると、ミリタリズム(軍国主義)を鼓舞しているように誤解されたりする恐れがあるから……」
 これは、司馬遼太郎自身が戦地に戦車兵として動員されていた経験もふまえての言葉であろう。司馬遼太郎は、日本は日露戦争のあとにおかしくなったという。しかし、それは決して事実ではない。
 司馬遼太郎は、『坂の上の雲』で、日本が明治維新で自立の道を選択したとき、朝鮮の運命は、その「地理的位置」と「主体的無能力」によって、日本に従属し、その支配下に置かれることは決まっていたという。
 そして、この司馬流の「朝鮮論」に従うと、明治以降、
・日本が朝鮮に何をしたのかを語る必要はない
・朝鮮でどんな動きがあったのか、それにも頭をわずらわせる必要がないことになる。
それでよいのか……?著者は、このように問題提起しています。
 日清戦争は、日本軍がソウルの景福宮の占領から始まった。日本軍は中国の清国軍と砲火を交える前に、朝鮮の王宮を占領し、国王を事実上とりこにした。
 この点について、日本政府は、突発的衝突から始まり、日本軍はやむをえず交戦し、王宮に入って国王を保護した、と公式に説明した。しかし、実は日本軍が意図的に朝鮮王宮に攻め込んだことが、日本側の記録として残っていた。うへーっ、そうなんですね……。
 東学党の乱(東学農民運動の反乱)についても、日本軍は、今後はことごとく殺戮すべしという命令を発した。このジェノサイド作戦によって、抗日民族闘争は鎮圧された。このときの犠牲者は3万人をこえ、総数5万人にも達するとみられている。
 そして、日清戦争が終わった年の秋、日本軍は朝鮮王宮に侵入し、王妃を殺害した。これは、日本軍参謀本部の川上操六次長の指揮によるものが判明している。
 いやはや、なんということでしょう。日本は、朝鮮半島を侵略し、占領していたのです。
 朝鮮王宮占領、それに抗議しておこった朝鮮農民軍の再蜂起と日本軍によるその皆殺し作戦、さらに戦後の朝鮮王妃殺害事件、この3つの出来事は鎖でつながっているかのように相互に関連している。そして、この3つとも、日本政府はことの真相を内外に公表することがなかった。そうなんですね。まさしく日本史の重大な汚点です。
 さらに、日露戦争をはじめる前から、大山巖をトップとする参謀本部は、朝鮮を日本の支配下におくことを自明の方針としていた。ロシアは韓国(朝鮮半島)侵略の意図をまったく持たず、むしろ南満州から全面撤退してでも日本との戦争を回避したかった。なぜなら、当時、ヨーロッパ情勢が緊迫していたからである。
 つまり、日露戦争は、ロシアの南下政策が引き起こしたものではなく、日本の支配層の朝鮮半島を日本の領土にしたいという願望から始まったものなのである。いやはや、歴史の事実から目を背けるわけにはいきません。
 テレビを見て、間違った戦前の歴史観が定着してしまうのを私も恐れます。その意味で、この200頁ほどの本が一人でも多くの歴史好きの人にまず読まれることを願います。大変わかりやすく、読みやすい本です。
 
(2009年10月刊。1700円+税)

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2009年11月03日

棄民たちの戦場

著者 橋本 明、 出版 新潮社

 第二次大戦の末期、アメリカがナチス・ドイツを追い詰めていた。ところが、ドイツ軍の巧妙な反撃にあって、アメリカ軍の一部隊がフランスの山地で敵中に孤立してしまった。
 包囲されたテキサス大隊の兵211人を救出するため、日系アメリカ兵800人がフランスの山地、氷雨に煙るボージュで死んでいった。
 第二次大戦が始まると、日系アメリカ人はアメリカ政府によって、敵性国の人間だとして自由を失い、砂漠のなかの収容所に強制的に収容された。カリフォルニア州だけで10万人近く。ハワイやオレゴンなどをふくめると、全米で12万6000人もの日系アメリカ人が強制的に収容された。このとき、同じ枢軸国であっても、ドイツ系やイタリア系には同じような措置はとられていない。黄色い日本人は差別されたのですね。
 その強制収容所から日系アメリカ人の兵隊が誕生した。そして、この日系アメリカ兵の部隊に名声はいらない。果敢に任務を遂行するキツネ顔の日系人は、埋もれた消耗品に過ぎなかった。独立のコマンドとして差別し、動静を隠す。
 442歩兵連隊2800人。平均背高162センチ。在フランス師団の増強部隊として、欧州戦線のど真ん中に参戦した。第442歩兵連隊戦闘団は、「お釣りを絶対に期待できない」戦闘に首を突っ込んでいった。敵性国民という不当なレッテルと差別をはねのけるために立ち上がったタフガイ集団といえる。
山が山を覆い、森が森を連ねるフランスのボージュ戦域は、第二次世界大戦を通じてもっとも劇的なエピソードをつづる場に変わっていく。後に戦史家は、このテキサス大隊救出作戦を、アメリカ陸軍史上もっとも重要な「十大戦闘」の一つに数え、ペンタゴンの壁に永久表彰画を掲げた。
 テキサス大隊を自らの身を犠牲にして救出していった日系アメリカ兵の活躍ぶりがあますところなく活写されていて、まさに良質の戦争映画をスケールの大きな画面で身近に見ている気になり、手に汗を握ります。第二次大戦に従事した日系アメリカ兵は、総勢二万人を超えたということです。
 フランスに現地には、このときの日系アメリカ兵の活躍をたたえる碑が建っているそうです。感動的な、いい本でした。よくぞ、ここまで掘り起こしたものだと思います。
 
(2009年6月刊。1600円+税)

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2009年11月27日

朝鮮王妃殺害と日本人

著者:金 文子、出版社:高文研
 日清戦争のあと、1895年10月8日早朝、日本軍は突如として朝鮮王宮に乱入し、王妃を斬殺して死体を焼滅させた。
 この事件が世界各国から非難を浴びたため日本政府は8人の軍人と48人の非軍人を収監して取り調べたが、3ヶ月後、全員が無罪放免した。いやはや、ひどいものです。
 被害者の王后は明成皇后と呼ばれるが、日本では 閔妃(ミンピ)として知られている。
 1851年生まれの王妃は、まだ45歳であり、「女性として実に珍しい才のある、えらい人であった」(三浦梧楼)。事実上の朝鮮国王でもあった。
 ところが、この王妃がロシアと結んで日本に対抗する姿勢を見せていたため、日本政府は、これを力づくで除去し、親日政権の確立を目ざし、京城守備隊という日本の軍隊をつかって朝鮮王宮内のクーデターに見せかけようとした謀略事件である。
 この無法な殺害事件に星亨がかかわっていたというのに驚きました。星亨は弁護士でもあり、自由党員として自由民権運動にかかわっていたのですが、他国の自由民権運動を圧殺するのに狂奔していたとは、驚きです。
 星亨がこうなったのも、たび重なる選挙で無理をして、巨額の借金をかかえて破産状態になっていたからでした。それを見かねた陸奥宗光(外務大臣)が井上馨(朝鮮公使)外交機密費を流用して星亨を救済しようとしていたというのです。そして、事件後、星亨は駐米公使に任命されています。体よく日本を追放され、口を封じられたわけです。
 結局、この事件は、当時の大本営上席参謀川上操六と朝鮮公使の三浦梧楼が画策したものであることを本書は明らかにしています。
 そして、この事件を知った明治天皇の言葉が三浦梧楼の回顧録に紹介されています。
 「いや、お上(かみ)は、あの事件をお耳に入れたとき、やるときにはやるな、というお言葉であった」
 こうなると、明治天皇の意向を受けて隣国の皇后を日本軍が惨殺したと言っても過言ではないことになります。
 このような重大な恥部を日本政府は隠し通してきました。もちろん、許されることではありません。過去を真正面から見つめることは、決して自虐史観というものではありません。
 よくぞ調べていただきました。著者に感謝します。
(2009年2月刊。2800円+税)

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2010年01月06日

昭和20年夏、僕は兵士だった

著者 梯 久美子、 出版 角川書店

 この本で紹介されている三国連太郎の話には驚きました。彼は大正12年(1932年)生まれで、召集されます。しかし、その前に日本を逃げ出すのです。
 鉄砲を持たされて人を撃つのもいやだし、自分が殺されるのもいやだ。徴兵検査には合格したけれど、入隊するのは何としても免れたかった。それで、とにかく逃げよう。逃げるんなら、大陸がいいんじゃないかと、中国にわたり、朝鮮・釜山に行き、また日本に舞い戻ってきた。そして入隊通知が実家に来ているのを知り、九州・唐津へ逃げ、そこで特高警察に捕まった。
 刑務所には入られず、すぐに入隊させられて中国戦線の戦地へ送られた。入院したりしているうちに幸いにも終戦を迎えて日本に戻ってきた。
戦争の中では美しい人間も美しい出来事も一度も見なかった。
 戦争で死ななかったことより、戦後、いろいろなことを偽って生きてきたことの方に負い目がある。人を利用し、便乗し、嘘をつき、そんなふうに生きてきた。
 俳優になってロケで地方に行くことがあるが、昔の自分を知っていそうな所に行くのは怖い。正直、今でもそんなところがある。
 こんな自分の体験を率直に語るのですから、やはり正直な人だと私は思います……。
 別の人の話です。レイテ沖海戦で戦艦に乗っていた人です。
 陸の戦いでは寝泊りしている場所と戦場は普通は別である。生活の場を離れて出陣していくわけだ。しかし、海の戦いでは、そこで眠り、飯を食った場所に何時間か後には遺体が散乱し、負傷者が横たわっているという状況になる。生の営みと死とが、同時にそこにある。このレイテ沖海戦で、まさにそんな体験をした。そうなんですね、海上では逃げるところがありません。
 もう一つ。これも船に乗っていて、アメリカ軍に沈没させられた人の話です。
 もう駄目だと思ったとき、ズタズタに切れたクレーンのワイヤーロープが何本もぶらさがっているのに気がついた。思わず、そのうちの一本にとびついた。うまく捕まることができると、脚にだれかがすがりついてきた。その重さでずるずると下に落ちて行きそうになる。そのまま落ちれば、下は燃えさかる船底だ。そこで、しがみついてくる者をけり落とし、ふりほどいた。必死だった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と同じである。誰だか分らない兵隊をけり落として、反動をつけて甲板によじ登り、そこから海に飛び込んだ。けり落とされた兵隊は死んだはずだ。人を殺してしまった……。
 船がやられたら、泳いだらいけない。船が沈むときには、いろんなものが浮くから、それにつかまること。つかまって、早く船から離れる。
 いやはや、すさまじい戦争のむごさを改めて実感させられました。戦争は絶対にいやです。
 
(2009年9月刊。1700円+税)

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2010年01月19日

在日一世の記憶

著者 小熊 英二・姜 尚中、 出版 集英社新書

 780頁もある新書です。とても新書とは思えない異例の厚さです。もちろん中身もぎっしり詰まっています。
 「在日」の人たちの生きざまを知ると、戦前・戦後の日本の実像が見えてくる思いがしました。この本には、52人もの在日コリアン一世のライフ・ヒストリーの聞き取りが収録されています。あとがきを読むと、膨大な分量だったのをぐっと減らす作業はかなり大変だったようです。私も弁護士の講演録を編集したことがあります(今もしていますが……)ので、その大変さはよく分かります。話し言葉は冗長になりやすいので、それを読みやすいように要点に絞って削っていくのです。
 「在日」一世たちは、明らかに日本社会における「異物」であったが、現在の三世・四世の在日は、言語的・文化的に日系日本人と差異はない。日系日本人との通婚率も高くなり、国籍法が男女両系主義に変更されて以来、生まれる子どもは日本国籍になる可能性も高まっている。したがって、在日六世・七世という存在はありうるが、ごく少数でしかないのではないか。しかし、今後とも「在日」は存在し続けるだろう。
 1952年のメーデー事件のときに、人民広場の決起大会に参加した。日本共産党が始動したが、デモの最先頭にいた人々はほとんど在日だった。ええーっ、そうだったんですが……。私は、「ナンジ臣民、飢えて死ね。朕はたらふく食っているぞ」とプラカードに書いて不敬罪で捕まった松島松太郎氏を知っています。
 日本にパチンコが一番はじめにできたのは新潟。新潟の人が栃木県に来てすすめるので始めた。パチンコには、韓国人・朝鮮人を問わず、血を流した歴史がある。今はそうじゃないけど、当時はお金があるから、土地があるから、出来るという商売ではなかった。どの町でもヤクザと喧嘩して、それでパチンコを守ってきた。殺された人もいるし、命がけだった。
 北朝鮮に1983年をふくめて、もう3回行った。行ってみて、ああ、こんな社会主義があるかと思った。こうしようと思って、こんなに苦労してきたのか……。上と下の差がすごい。体制だ。上の人はそれこそ天国。下の人は地獄。貧富の差っていうもんじゃない。それで総連をやめて民団に移った。
 タイにある俘虜収容所には1万1000人の俘虜がいた。これを日本下士官17人と130人の朝鮮人軍属で管理する。朝鮮人軍属のうち148人が戦犯になり、23人が死刑を宣告され、現地で処刑された。
 朝鮮高級学校の教員生活をしていたので、卒業生に謝らなければならないことがある。一つは、全世界をキムイルソンの主体思想に一色化するというイデオロギーを掲げ、押しつけたこと。二つには、キムイルソンだけを将軍とし、自分の国の歴史と地理をきちんと教えなかったこと。
 なるほどですね。歴史を偽って子どもたちに教えてはいけませんよね。それは、今の日本で自虐史観とかいって、日本の戦前の侵略戦争を引き起こした事実を認めない誤りと根は一つだと思います。
 四・三事件は、無残な敗北だった。しかし、四・三事件は不正を認めない、祖国分断を許さないという民衆のエネルギーから起きたのだ。四・三事件では、南労党(南朝鮮労働党)の済州島軍事委員会が武力抗争の核になっていたのは事実だ。しかし、民衆が軍事委員会に呼応したのは、呼びかけがあったからだけではない。アメリカに対して恨みが一杯あったんだ。当時の民衆は、山に入って武装した南労党の部隊が自分たちの思いを晴らしてくれると信じていた。
 憲法改正や自衛隊派兵の理由として、「北朝鮮の脅威」を挙げるのはガセネタに過ぎない。これはまったく同感です。
大変な労作です。多くの人に一読をお勧めします。
私が子どものころ、近所に朝鮮人部落がありました。ときどき警官隊がドブロク密造を検挙するため、そこに出動していると聞いていました。

 
(2008年10月刊。1600円+税)

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