福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

日本史(近代)

2008年07月17日

甘粕正彦 乱心の曠野

著者:佐野眞一、出版社:新潮社
 いやあ面白くて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。よくもここまで調べ上げたと感嘆するほど、「主義者殺し」の烙印を負った甘粕憲兵大尉の事件との関わり、そして満州での暗躍ぶりと自殺に至るまでが迫真にみちみちて描かれています。
 甘粕は、大杉栄一家3人虐殺の主犯として軍法会議で懲役10年の判決を受け、千葉刑務所に服役した。ところが昭和天皇の結婚による恩赦を受け、大正15年(1926年) 10月、わずか2年10ヶ月で極秘のうちに仮出獄した。そして翌1927年(昭和2年)7月にはフランスに渡った。さらに、1929年秋に満州に移住した。
 甘粕正彦の長男は三菱電機の副社長を経て、現在は顧問。考古学者の甘粕健、社会学者の見田宗介、服飾デザイナーの森南海子は、みな近い親戚である。いやあ、有名人ぞろいですね。私も見田宗介の本は大学生のころ読みました。見田石介の本もです。
 甘粕正彦は名古屋の陸軍幼年学校に入ったが、そこは6年前に大杉栄が入学し、あまりの不良少年ぶりに2年で放校処分を受けたところだった。
 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の当日、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦は麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。首相官邸などを警護対象とする麹町憲兵分隊は、文字どおり、憲兵あこがれのエリート中のエリートコースだった。
 甘粕は帝都の治安を攪乱する不穏分子を摘発するエースだった。皇族の安寧を願い、帝都の治安維持に尽力してきた甘粕の目ざましい働きに対する論功行賞でもあった。
 甘粕に対する軍法会議が始まると、減刑嘆願運動が在郷軍人会を中心として全国に広がり、65万人もの署名を集めた。しかし、これも、軍法会議が始まると、甘粕に対する同情の声はおさまり、むしろ非難する声が高まった。
 大杉栄の虐殺が露見したのは、軍と警察の反目にあった。そして、その裏には、内務省と陸軍省のドロドロした暗躍劇がからんでいた。
 死因鑑定書が発見された今、甘粕は殺害された宗一(子ども)ばかりか、大杉栄ら3人の死体が菰包みになったのを見て初めて殺害の事実を知ったという可能性も否定できない。いやあ、そういうことなんですか。驚きました。
 軍法会議は、宗一少年を殺したとして自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴される。この軍法会議は第1回が10月8日、6回の審理を経て、結審したのが11月24日。そして、判決は12月8日。審理に費やした期間は、わずか2ヶ月。しかも、甘粕に対する追及が厳しかった判士の小川法務官は途中で突然に解任された。
 そもそも、甘粕には麹町憲兵分隊に所属する4人を指揮命令する権限はなく、そんな立場にもなかった。
 赤坂憲兵分隊長の服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉栄が両手両脚を厳重にしばられ、コンクリートの上に筵(むしろ)を敷いて座らされていた。そばには、大杉の妻・野枝と子どももいた。こんな目撃談を部下が書いています。
 死因鑑定書には次のように書かれている。「男女二屍の前胸部の受傷はすこぶる強大なる外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものとなることは明白。・・・これは絶命前の受傷にして・・・」
 つまり、大杉栄も野枝も明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。虫の息になったところを一気に絞殺された。すなわち、集団暴行によるなぶり殺しが実態である。
 おお、なんとむごいことでしょうか。許せません。そして、実行犯は、みな無罪放免となり、甘粕一人がわずか2年あまりで出所したなんて・・・。まさしく軍隊の犯罪としか言いようがありません。
 甘粕が出所してすぐにフランスに渡ったのは、甘粕をスケープゴートとして自らの責任を逃れた憲兵司令部の後ろめたさと、口封じを感じざるをえない。そして、甘粕正彦は満州に渡り、満映の理事長となり、終戦直後に青酸カリを飲んで服毒自殺した。そのとき、今をときめく有名作家の赤川次郎の父親が甘粕の側で働いていた。
 これは伝記ものの傑作の一つだと思います。なにしろ、歴史的事実を一つ発掘したのですからね。私は、東京行きの飛行機のなかで、一心に読みふけり、飛行の怖さを忘れてしまいました。あっという間に東京に着いてしまったのです。
(2008年5月刊。1500円+税)
 

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2008年08月20日

占領期の朝日新聞と戦争責任

著者:今西光男、出版社:朝日新聞社
 まったく面識はありませんが、経歴をみると私とまったく同世代のようです(正確には、1月に既に定年退職したということですので、1学年だけ上のようです)。
 終戦時、「朝日」社主の村上長挙は51歳。「朝日」の主筆などをつとめていた緒方竹虎は57歳だった。いずれも、今の私の年齢より若いわけですが、すごい権威と権力をもっていました。
 終戦直後に東久邇宮が首相に任命されたわけですが、この首相が児玉誉士夫を内閣参与に任命したというのを初めて知りました。児玉といえば右翼の親玉ですが、旧日本軍の軍需品を流用・私物化して巨萬の富を得た男です。児玉は、そんな汚れた資金をもとに自民党の黒幕として戦後ながく君臨していくわけです。私が右翼を忌み嫌うのは、いかがわしい新興成金体質にみちみちているからでもあります。福田内閣のメインである自由民主党は、児玉が日本陸軍からかすめとった財宝を資金(もとで)として結成されたものです。これが平和・民主主義の日本の七不思議の一つです。汚れたお金で結成された政党による政権が、戦後60年以上たっても、連綿として続いており、若い保守政治家が自民党と名乗るのに何の恥も感じていないというのです。いやあ、気の弱い私なんか、それだけでも自民党の議員になるなんて恥ずかしくて、よう言えませんが・・・。
 そして、朝日新聞は、戦時中に、日本帝国海軍「徴用」という名目によって少なからぬ特典・特権を享受したというのです。これでは戦争批判など、しようと思ってもできるものではありません。
 1945年9月29日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したときの写真が公表された。黒いモーニング姿で小柄な天皇が正面を向いて直立しているのに対して、頭一つ長身の元帥は襟元のボタンをはずし、両手を腰にあてリラックスした姿だった。
 会見に同席したのは通訳の外務省情報部長一人。元帥が30分間にわたって、とうとうと話し、天皇はごくわずかしか話さなかった。天皇は、このときマッカーサーを下手に怒らせて戦争責任を追及されるのが怖かったのです。
 東久邇宮首相と緒方竹虎書記官長は、内閣の基盤を強化するため、これまで野党あるいは反体制側だった無産政党や労働運動、農民運動などの政権参加が必要だと考えた。そして東久邇宮は、在日朝鮮人組織の指導者と会見(10月2日)するなど、左翼陣営や諸団体との協力を模索し、場合によっては共産党との連携も検討していた。ひえーっ、本当ですか、これ・・・。
 ところが、閣内の2人の大臣がとんでもない発言をした。山崎内相は、反皇室宣伝をする共産主義者は容赦なく逮捕する。共産党員は拘禁を続けると言い切った(1945年 10月5日)。岩田宙造法相も、政治犯の釈放は考えていないと高言した。これを聞いたマッカーサーは怒り、「自由の指令」を発した(10月4日)。これで東久邇内閣は発足して50日で総辞職した。後任は、73歳の幣原元外相が就いた。そして、近衛文麿は  1945年12月16日、マッカーサーから切り捨てられ、青酸カリを飲んで自殺した。
 1945年2月、近衛は昭和天皇に対して、「ここまで来ては、敗戦そのものより、その後に来たる共産革命が深刻だ」と述べ、さらに10月4日にはマッカーサーに対して「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」を述べていた。
 ええーっ、近衛の歴史認識って、こんなにひどいものだったんですか・・・。
 日本に進駐したGHQは、情報局総裁を兼務していた緒方書記官長を呼び、「占領政策に反する新聞をつくらない、米ソ関係を紙上でコメントしない、この2点に違反しない限り、日本の新聞の存続は認める」という方針を伝えた。同じ敗戦国のドイツ・イタリアの新聞は廃刊に追いこまれたのに、日本については、すべての新聞が戦前と同じ題号で発行を続けることが認められた。
 朝日、毎日で経営陣が退き、従業員の選出による新しい執行部が誕生するなか、読売新聞では正力松太郎がそのまま社長室に君臨していた。
 「この社はオレの社だ。勝手なことはさせない」
 自分の戦争責任につながる社内の動きは絶対に認めない。それが正力の強い決意だった。正力は、内務警察官僚として共産党弾圧の張本人の一人であり、また、ナチス・ドイツを崇拝する記事を読売にのせていた。
 その正力に対して労働者の怒りが爆発した。そのころ、日本共産党書記長になったばかりの徳田球一が読売新聞の実権を握るようになった。ところが、正力は依然として、半分近い株主を保持していた。これが復帰のバネとなった。
 鳩山の追放に成功したことによって、GSにとって皮肉なことに、鳩山より手ごわい吉田が登場した。吉田はGHQ内の反共派を代表するG2に近く、民主化最優先・容共派のGSにとっては不倶戴天の敵のような存在だった。
 やがてマッカーサーは、「共産党をキックアウトしろ」と言い、民主化を主導してきたコーエンらGS幹部を相次いでアメリカ本国に帰国させた。こうしてGHQ内の容共派は駆逐された。
 1947年の2.1ストにからみ、読売と毎日はゼネストを批判したが、朝日は、民主戦線結成と吉田内閣の打倒をうち出し、組合寄りだった。そこで、GHQは朝日打倒に乗り出した。GHQはゾルゲ事件と朝日を結びつけようとした。ゾルゲー尾崎秀実ー田中慎次郎ー笠信太郎というラインを浮かび上がらせ、朝日の論説を容共的なものとしてクレームアップしようとした。
 1950年7月28日、レッドパージが始まった。NHK119人、朝日104人など、報道8社で336人が解雇された。レッドパージされた労働者は2万人にのぼった。
 1949年に150万人を組織していた産別会議は、50年には、わずか4万7000人の少数派に転落した。
 朝日新聞の運営は経営が資本に対して優位を保つ形で続いているが、戦前戦後にわたって新聞人・緒方竹虎が苦悶した資本(村山家)と経営(執行部)との対立構図そのものは解消されていない。
 かつて日本の良識とも言われた朝日ですが、今や右翼のサンケイ・ヨミウリと大同小異の記事も多いように思われ、残念です。
(2008年3月刊。1400円+税)

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2008年10月21日

日清戦争

著者:原田 敬一、 発行:吉川弘文館

 いちやくしんを破り。これは、日清戦争が始まった1894年を語呂合わせで覚えるための暗記文句です。今でもすぐに出てきます。ところが、この本を読むと、1894年の何月何日に日清戦争が始まったのか、今に至るまで確定していないそうです。
 しかも、日本軍は敵の清国兵を追う中で罪なき中国の多くの市民を各地で虐殺したというのです。その申し訳なさを恥じ入って、しばし頭を下げざるを得ません。
 7月23日、日本軍は漢城電信局の電話を切断して王宮に攻め込んだ。実行したのは、大陸浪人(国粋主義者)たちである。この日、工兵隊は爆薬を用意し、歩兵隊は斧や鋸(のこ)、長竿などを持参して、朝鮮王宮に入る段取りを完了していた。きわめて計画的な行動であり、偶発的な要素はまったくなかった。
 この日、1894年7月23日に日清戦争は始まり、1896年4月1日に終わる。1年8ヶ月あまりの、近代日本にとって最初の対外戦争であった。このとき明治天皇は42歳という壮年期であり、侍従武官たちが教育した結果、十分な軍事的な知識を持っていた。
 ところが、政府部内では、いつから日清戦争が始まったことにするのか、実は完全な一致はなかった。そして、朝鮮の豊島沖海戦で、日本海軍が清国艦隊と砲撃戦を行った7月25日を「実際戦の成立したる日」として開戦の日と定められた。すると、7月23日の戦闘での戦死者は、法的な「戦死者」ではなくなる。
 日本軍は、旅順市街地で残敵掃討作戦として、非武装の中国人を虐殺した。これが1894年11月28日のイギリス紙『タイムズ』に旅順虐殺事件として報道された。「日本国は文明の皮膚を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣」と記された。
 伊藤博文首相も陸奥宗光外相も、旅順攻略戦に成功した第二軍の処罰を提案できず、強力に弁明につとめ、事件の糊塗に走った。このとき、日本軍の山地師団長は、「今よりは土民といえども、我が軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令していた。
 日本の新聞の従軍記者も旅順市街地が死体で満ちていたことを報じている。
 都市攻略戦において、敗残兵が市街地に逃げ込み、市民と区別できなくなる可能性がある。そんなとき、攻略側はどうすればいいのか。この問いを誰も発しないまま時は過ぎ、日本軍は1937年12月の南京戦を迎えた。歴史を学ばなければ、2度目の悲劇が繰り返される、という事例である。
本当にそうですよね。この旅順大虐殺は日本人には案外知られておらず、日露戦争で日本軍がロシア兵捕虜を人道的に処遇したことのみが大きく報道され、日本人の記憶になっています。しかし、それは日本軍を公平に見たことにはなりません。日本人2万人、清国人3万人、朝鮮人3万人以上というのが日清戦争における犠牲者とされています。旅順虐殺事件では、推定で4500人以上が犠牲となっています。
 そして、日本は日清戦争において軍事的勝利は勝ち取ったが、三国干渉と清国分割に見られるようにヨーロッパのアジア侵略をもたらしたという意味で、外交的には失敗した。伊藤博文と陸奥宗光の失敗は明らかである。
 さらに、翌1895年10月、日本が台湾征服のための戦争を続けていたころ、日本公使三浦梧楼が兵士・警官・壮士を使って朝鮮王宮を襲い、王妃の閔妃を惨殺し、宮廷内の親露派を一掃した。この事件によって、日本軍の影響力は逆になくなってしまったのである。
 いやあ、日清戦争って、日本の対外侵略戦争の本質をまざまざと表しているものだということを改めて認識させられました。この「悪しき伝統」を断ち切ることが現代日本に生きる私たちに課せられていると思います。
 あとで気がついたのですが、『旅順虐殺事件』(井上晴樹、筑摩書房)という本が出ていました。1995年12月刊で、1996年2月に私も読んでいます。この本には日本軍が虐殺した証拠となる写真が多数紹介されています。なかには、殺した死体に銃剣を突き刺して得意そうな日本人兵士が写っている、おぞましい写真もあります。
(2008年8月刊。2500円+税)

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2008年11月28日

学歴・階級・軍隊

著者:高田 里恵子、 発行:中公新書

 日本の高学歴者たちは、ドイツと違って、兵役をすませて予備役少尉になっておくことを男の名誉ととらえる心性をついに持たなかった。
 日本の官僚や高級サラリーマンにとって、兵隊さんの位はなんの益ももたらさなかった。
 日本における職業将校の社会的威信は低かった。
 職業将校への道は、あまり元手をかけずに「月給取り」になれる道の一つだった。ただし、軍人の給料は、「貧乏少尉のやりくり中尉のやっとこ大尉で114円」と揶揄されたように、大学出のサラリーマンと比べて低かった。職業将校も世俗的な学歴序列、「月給取り」序列のなかに組み込まれ、しかも大学出よりも下位のランクを与えられていた。
 多くの優秀な少年たちは、立身出世やエリート志向ではなく、精神の自由を求めて旧制高校への進学を希望した。とりわけ昭和10年代の後半は、そうだった。
 そこで、庶民の味方を自称した陸軍が、国家のための官僚養成所のように見える一高と東京帝国大学法学部を「自由主義者の温床」あるいは「左翼と反戦主義者の温床」として憎んだ。
日本軍は、最後の最後まで、学生、学徒兵の力を信じていなかった。
 それでも兵営は、高学歴者が、教育を受けない、受けられない層と接触しうる数少ない場所だった。
 三島由紀夫は即日帰郷になって入営を免れた。つまり、徴兵を疫病か、あるいは軍医の好意的な「誤診」によって忌避したのだろう。
  日本軍の構成、そして欧米の軍隊との違いを考えさせられました。
 朝、庭に出るとエンゼルストランペットのピンクの縁取りのある白い花が露に濡れていました。霜でやられてしまうのも、もうすぐです。クルミの木と桜の木の間に大きな黄金グモの巣がかかっていましたが、取り払ってしまいました。夫婦なのか、兄弟なのかわかりませんが、見事な2匹の黄金グモでした。庭仕事の邪魔になりますので、ゴメンネと言ってはらいのけました。今、イチゴの木が白い小さな壺のような花をたくさん咲かせています。
(2008年7月刊。880円+税)

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2009年06月19日

マンガ蟹工船

著者 小林多喜二・藤生ゴオ、 出版 東銀座出版社

 30分で読める。大学生のための、という副題がついたマンガ本です。前から読んでみたいと思っていました。白樺湖に出かけたとき、やっと手に入れて読みました。
 もちろん、私は原作も読んでいます。でも、マンガって、すごいですね。よく出来ています。映画は前に見たようには思いますが、よく覚えていません。最近、リバイバル・ブームに乗って各地で上映されていますが、まだ残念ながら見ていません。その代わりにマンガを読んだのですが、それなりに視覚的イメージはつかめます。蟹工船のなかの悲惨な奴隷のような労働実態が、それなりに伝わってきます。解説をつけた人は、このマンガを読んでショックを受けた人は、ぜひ一度、一度読んだ人は、もう一度、原作小説をとくと味わってほしい、と注文をつけています。まさしく、そのとおりです。
 それにしても、今の日本で多くの若者が自分の置かれている状況は戦前の蟹工船で働かされていた労働者と似たようなものだと受け止めているという事実は、それこそ衝撃的な出来事です。それなのに、政府は、大企業の違法な派遣切りに対して、戸別の企業については論評を差し控えます、などと格好の良いことを国会で答弁して介入せず、野放しのままなのです。権力のやることって、戦前も戦後も変わらないというわけです。
 マスコミも、年越し派遣村こそ大々的に報道しましたが、企業で今やられていることについての追跡記事をまったく載せていません。本当に悲しくなります。ソマリア沖に派遣された自衛官の「活躍」ぶりを載せる前に、国内の若者の置かれている深刻な実態を紹介すべきではないでしょうか。そして、このことを総選挙の争点として大きく浮かび上がらせてほしいと思います。日本の若者が将来展望を持てなかったら、日本という国に将来はないと思いますよ。皆さん、ぜひ、このマンガを読んでみてください。
 
(2008年7月刊。571円+税)

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2009年07月02日

多喜二の時代から見えてくるもの

著者 荻野 富士夫、 出版 新日本出版社

 小林多喜二が『蟹工船』の執筆を始めたのは1928年10月のこと。翌年3月に原稿が完成した。この1928年3月15日に例の「3.15事件」が起きている。戦前の共産党一斉検挙事件である。多喜二は、この事件で逮捕された人々に対する取り調べのすさまじく凄惨な実態を知るにつれ、「煮えくり返る憎悪」をもって弾圧の実態暴露を優先させた。
 これら2つの小説の文学観は、「憎悪」から出発するという点で通底していた。なるほど、生半可な友愛というのではなかったのですね。
 多喜二の『蟹工船』を読んだ検事の報告書が紹介されています(1929年の『司法研究』遊田多聞検事)。
 この『蟹工船』は、もとよりそのすべてが事実だというわけではあるまいが、ただ、その持つ思想がいかに多くの人々の胸を打ちつつあるかと、また、いかに漁雑夫などが資本主義下において恵まれぬ地位に置かれつつあるかということをよく紹介し、資本主義の欠陥を暴露し、労働者の自覚と反省とを促しつつあるか、これを見逃すことができないのである。ふむふむ、見る人は見ていたわけですね。
 小林多喜二が警察官によって虐殺された理由の一つは、3.15の大弾圧の非道性を暴露したからだった。警視庁特高課の中川成夫警部は次のように高言した。
 小林多喜二のやろう、もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。いいか、われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは、天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは、逆賊だ。そんな逆賊は、捕まえ次第ぶち殺してかまわないことになっているんだ。小林多喜二に、捕まったが最後、いのちはないものと覚悟していろと伝えておいてくれ。
 実際、この言葉の2週間後に多喜二は警察が共産党に潜入させていたスパイの手引きでつかまり、予告どおり中川警部らによる陰惨な拷問によって、その日のうちに殺されてしまいました。
 「やあ。おまえが小林多喜二か。おまえは、『3.15』という小説を書いて、おれたちの仲間のことを、あることないこと、さんざん書きたてやがって、よくもあんなに警察を侮辱しやがったな。こうしてつかまえたからには、お前が『3.15』で書きやがったとおりのことをしてやるから、そのつもりでおれ」と脅した。いやはや、なんとも非道い話です。こんな拷問死を実行した警察官も、それを命じた上部の警察幹部も、栄進したあげく戦後までのうのうと生き延びたわけです。ナチスの犯罪が戦後何十年も追及されたドイツとの違いを感じます。
 今の日本で、このようなひどい拷問が再現されないことを願うばかりです。それにしても、最近、人権無視の風潮が高まっている気がしてなりません。その典型が、なんでも死刑にしろといわんばかりのマスコミのキャンペーンです。ヨーロッパのEU諸国は、みな死刑制度を廃止しています。そして、EU加盟の条件に死刑廃止があります。日本がEUに入る必要はないと思いますが、入りたくても入れてもらえないという事実を日本人はどれだけ知っているのでしょうか。
 
(2009年2月刊。2500円+税)

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2009年10月04日

山宣譚

著者 小田切 明徳、 出版 つむぎ出版

 やません・ものがたり、と読みます。戦前、労農党の代議士として活躍中、右翼に暗殺されてしまいました。惜しい人物です
 この本は、山本宣治が代議士になる前の青春編ですが、会話も多くて読みやすく、期待以上の出来栄えです。なるほど、山宣も若い頃は苦労したんだなと実感することもできます。
 山宣の両親は親から反対されて駆け落ちのようにして結婚しました。それこそ、夫婦そろって当時は珍しいキリスト教の信者でした。後年、山宣も両親の反対を押し切って結婚します。親に反対する資格なんてありませんよね…。
 山宣は体が弱くて、せっかく入った中学(今の高校でしょうか)を中退してしまいます。そして、東京で園芸見習いに入ります。ところが、ひどい親方で、まるっきり冷遇されてしまいます。
 いったん親元に戻ると、今度はカナダへ旅立ちます。園芸の勉強です。ところが、そこでも大変な苦難が待ち受けています。住み込みで家事手伝いをしたり、造園業に従事したり、果ては鮭をとりに漁船に乗り込んだり、苦労の連続です。やがて英語をきちんと身につけるべく学校に入ります。なんとか英語を身につけると、ラテン語なども会得し、一転して成績優秀な生徒になるのです。
 山宣は、カナダでもずっとキリスト教の信者として活動していました。しかし、教会でもいろいろ軋轢を起こします。真面目というか、生一本というか、思ったことを即、実行に移す人だったようです。
 山宣は苦労し、何回となく挫折を体験したため、しぶとくなりました。
 ハイスクールでは、英文学92点、ラテン語91点、代数99点、トータル856点でトップの成績となりました。いやあ、すごいものです。
 両親が山宣を日本に呼び戻そうとして、「チチキトク」のニセ電報を打ちます。親思いの山宣は、ついに5年ぶりに日本に帰国します。
 山宣は同志社に入り、三高に入り、東大の動物学科に入学します。生物学教室の改革に努め、新人会とも接触します。
 山宣ひとり、独壘(どくるい)を守る。だが淋しくない。背後には大衆が支持しているから。
 これは、私の好きな言葉でもあります。
 よく調べてあると思った、山宣の伝記でした。

(2009年5月刊。1524円+税)

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2009年10月22日

司馬遼太郎の歴史観

著者 中塚 明、 出版 高文研

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、1968年4月から1972年8月まで、足かけ5年にわたってサンケイ新聞の夕刊に連載されました。私が大学2年のときに連載はスタートしたのですね。もちろん、私は読んでいませんでした。いえ、もちろん『坂の上の雲』は、その後弁護士になってから読んでいます。明治日本の成功物語と言ってよい本です。そして、ここに登場する秋山好古は、私の母の異母姉の夫が副官として仕えていたということを最近知りました。先祖を調べて行くと、歴史が身近になることを実感したことです。
 それはともかくとして、NHKはこの11月から、この『坂の上の雲』を3年かけて放映するそうです。ところが司馬遼太郎は、これを禁止していたのです。
 「なるべく、映画とかテレビとかそういう視覚的なものに翻訳されたくない作品である。うかつに翻訳すると、ミリタリズム(軍国主義)を鼓舞しているように誤解されたりする恐れがあるから……」
 これは、司馬遼太郎自身が戦地に戦車兵として動員されていた経験もふまえての言葉であろう。司馬遼太郎は、日本は日露戦争のあとにおかしくなったという。しかし、それは決して事実ではない。
 司馬遼太郎は、『坂の上の雲』で、日本が明治維新で自立の道を選択したとき、朝鮮の運命は、その「地理的位置」と「主体的無能力」によって、日本に従属し、その支配下に置かれることは決まっていたという。
 そして、この司馬流の「朝鮮論」に従うと、明治以降、
・日本が朝鮮に何をしたのかを語る必要はない
・朝鮮でどんな動きがあったのか、それにも頭をわずらわせる必要がないことになる。
それでよいのか……?著者は、このように問題提起しています。
 日清戦争は、日本軍がソウルの景福宮の占領から始まった。日本軍は中国の清国軍と砲火を交える前に、朝鮮の王宮を占領し、国王を事実上とりこにした。
 この点について、日本政府は、突発的衝突から始まり、日本軍はやむをえず交戦し、王宮に入って国王を保護した、と公式に説明した。しかし、実は日本軍が意図的に朝鮮王宮に攻め込んだことが、日本側の記録として残っていた。うへーっ、そうなんですね……。
 東学党の乱(東学農民運動の反乱)についても、日本軍は、今後はことごとく殺戮すべしという命令を発した。このジェノサイド作戦によって、抗日民族闘争は鎮圧された。このときの犠牲者は3万人をこえ、総数5万人にも達するとみられている。
 そして、日清戦争が終わった年の秋、日本軍は朝鮮王宮に侵入し、王妃を殺害した。これは、日本軍参謀本部の川上操六次長の指揮によるものが判明している。
 いやはや、なんということでしょう。日本は、朝鮮半島を侵略し、占領していたのです。
 朝鮮王宮占領、それに抗議しておこった朝鮮農民軍の再蜂起と日本軍によるその皆殺し作戦、さらに戦後の朝鮮王妃殺害事件、この3つの出来事は鎖でつながっているかのように相互に関連している。そして、この3つとも、日本政府はことの真相を内外に公表することがなかった。そうなんですね。まさしく日本史の重大な汚点です。
 さらに、日露戦争をはじめる前から、大山巖をトップとする参謀本部は、朝鮮を日本の支配下におくことを自明の方針としていた。ロシアは韓国(朝鮮半島)侵略の意図をまったく持たず、むしろ南満州から全面撤退してでも日本との戦争を回避したかった。なぜなら、当時、ヨーロッパ情勢が緊迫していたからである。
 つまり、日露戦争は、ロシアの南下政策が引き起こしたものではなく、日本の支配層の朝鮮半島を日本の領土にしたいという願望から始まったものなのである。いやはや、歴史の事実から目を背けるわけにはいきません。
 テレビを見て、間違った戦前の歴史観が定着してしまうのを私も恐れます。その意味で、この200頁ほどの本が一人でも多くの歴史好きの人にまず読まれることを願います。大変わかりやすく、読みやすい本です。
 
(2009年10月刊。1700円+税)

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2009年11月03日

棄民たちの戦場

著者 橋本 明、 出版 新潮社

 第二次大戦の末期、アメリカがナチス・ドイツを追い詰めていた。ところが、ドイツ軍の巧妙な反撃にあって、アメリカ軍の一部隊がフランスの山地で敵中に孤立してしまった。
 包囲されたテキサス大隊の兵211人を救出するため、日系アメリカ兵800人がフランスの山地、氷雨に煙るボージュで死んでいった。
 第二次大戦が始まると、日系アメリカ人はアメリカ政府によって、敵性国の人間だとして自由を失い、砂漠のなかの収容所に強制的に収容された。カリフォルニア州だけで10万人近く。ハワイやオレゴンなどをふくめると、全米で12万6000人もの日系アメリカ人が強制的に収容された。このとき、同じ枢軸国であっても、ドイツ系やイタリア系には同じような措置はとられていない。黄色い日本人は差別されたのですね。
 その強制収容所から日系アメリカ人の兵隊が誕生した。そして、この日系アメリカ兵の部隊に名声はいらない。果敢に任務を遂行するキツネ顔の日系人は、埋もれた消耗品に過ぎなかった。独立のコマンドとして差別し、動静を隠す。
 442歩兵連隊2800人。平均背高162センチ。在フランス師団の増強部隊として、欧州戦線のど真ん中に参戦した。第442歩兵連隊戦闘団は、「お釣りを絶対に期待できない」戦闘に首を突っ込んでいった。敵性国民という不当なレッテルと差別をはねのけるために立ち上がったタフガイ集団といえる。
山が山を覆い、森が森を連ねるフランスのボージュ戦域は、第二次世界大戦を通じてもっとも劇的なエピソードをつづる場に変わっていく。後に戦史家は、このテキサス大隊救出作戦を、アメリカ陸軍史上もっとも重要な「十大戦闘」の一つに数え、ペンタゴンの壁に永久表彰画を掲げた。
 テキサス大隊を自らの身を犠牲にして救出していった日系アメリカ兵の活躍ぶりがあますところなく活写されていて、まさに良質の戦争映画をスケールの大きな画面で身近に見ている気になり、手に汗を握ります。第二次大戦に従事した日系アメリカ兵は、総勢二万人を超えたということです。
 フランスに現地には、このときの日系アメリカ兵の活躍をたたえる碑が建っているそうです。感動的な、いい本でした。よくぞ、ここまで掘り起こしたものだと思います。
 
(2009年6月刊。1600円+税)

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2009年11月27日

朝鮮王妃殺害と日本人

著者:金 文子、出版社:高文研
 日清戦争のあと、1895年10月8日早朝、日本軍は突如として朝鮮王宮に乱入し、王妃を斬殺して死体を焼滅させた。
 この事件が世界各国から非難を浴びたため日本政府は8人の軍人と48人の非軍人を収監して取り調べたが、3ヶ月後、全員が無罪放免した。いやはや、ひどいものです。
 被害者の王后は明成皇后と呼ばれるが、日本では 閔妃(ミンピ)として知られている。
 1851年生まれの王妃は、まだ45歳であり、「女性として実に珍しい才のある、えらい人であった」(三浦梧楼)。事実上の朝鮮国王でもあった。
 ところが、この王妃がロシアと結んで日本に対抗する姿勢を見せていたため、日本政府は、これを力づくで除去し、親日政権の確立を目ざし、京城守備隊という日本の軍隊をつかって朝鮮王宮内のクーデターに見せかけようとした謀略事件である。
 この無法な殺害事件に星亨がかかわっていたというのに驚きました。星亨は弁護士でもあり、自由党員として自由民権運動にかかわっていたのですが、他国の自由民権運動を圧殺するのに狂奔していたとは、驚きです。
 星亨がこうなったのも、たび重なる選挙で無理をして、巨額の借金をかかえて破産状態になっていたからでした。それを見かねた陸奥宗光(外務大臣)が井上馨(朝鮮公使)外交機密費を流用して星亨を救済しようとしていたというのです。そして、事件後、星亨は駐米公使に任命されています。体よく日本を追放され、口を封じられたわけです。
 結局、この事件は、当時の大本営上席参謀川上操六と朝鮮公使の三浦梧楼が画策したものであることを本書は明らかにしています。
 そして、この事件を知った明治天皇の言葉が三浦梧楼の回顧録に紹介されています。
 「いや、お上(かみ)は、あの事件をお耳に入れたとき、やるときにはやるな、というお言葉であった」
 こうなると、明治天皇の意向を受けて隣国の皇后を日本軍が惨殺したと言っても過言ではないことになります。
 このような重大な恥部を日本政府は隠し通してきました。もちろん、許されることではありません。過去を真正面から見つめることは、決して自虐史観というものではありません。
 よくぞ調べていただきました。著者に感謝します。
(2009年2月刊。2800円+税)

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2010年01月06日

昭和20年夏、僕は兵士だった

著者 梯 久美子、 出版 角川書店

 この本で紹介されている三国連太郎の話には驚きました。彼は大正12年(1932年)生まれで、召集されます。しかし、その前に日本を逃げ出すのです。
 鉄砲を持たされて人を撃つのもいやだし、自分が殺されるのもいやだ。徴兵検査には合格したけれど、入隊するのは何としても免れたかった。それで、とにかく逃げよう。逃げるんなら、大陸がいいんじゃないかと、中国にわたり、朝鮮・釜山に行き、また日本に舞い戻ってきた。そして入隊通知が実家に来ているのを知り、九州・唐津へ逃げ、そこで特高警察に捕まった。
 刑務所には入られず、すぐに入隊させられて中国戦線の戦地へ送られた。入院したりしているうちに幸いにも終戦を迎えて日本に戻ってきた。
戦争の中では美しい人間も美しい出来事も一度も見なかった。
 戦争で死ななかったことより、戦後、いろいろなことを偽って生きてきたことの方に負い目がある。人を利用し、便乗し、嘘をつき、そんなふうに生きてきた。
 俳優になってロケで地方に行くことがあるが、昔の自分を知っていそうな所に行くのは怖い。正直、今でもそんなところがある。
 こんな自分の体験を率直に語るのですから、やはり正直な人だと私は思います……。
 別の人の話です。レイテ沖海戦で戦艦に乗っていた人です。
 陸の戦いでは寝泊りしている場所と戦場は普通は別である。生活の場を離れて出陣していくわけだ。しかし、海の戦いでは、そこで眠り、飯を食った場所に何時間か後には遺体が散乱し、負傷者が横たわっているという状況になる。生の営みと死とが、同時にそこにある。このレイテ沖海戦で、まさにそんな体験をした。そうなんですね、海上では逃げるところがありません。
 もう一つ。これも船に乗っていて、アメリカ軍に沈没させられた人の話です。
 もう駄目だと思ったとき、ズタズタに切れたクレーンのワイヤーロープが何本もぶらさがっているのに気がついた。思わず、そのうちの一本にとびついた。うまく捕まることができると、脚にだれかがすがりついてきた。その重さでずるずると下に落ちて行きそうになる。そのまま落ちれば、下は燃えさかる船底だ。そこで、しがみついてくる者をけり落とし、ふりほどいた。必死だった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と同じである。誰だか分らない兵隊をけり落として、反動をつけて甲板によじ登り、そこから海に飛び込んだ。けり落とされた兵隊は死んだはずだ。人を殺してしまった……。
 船がやられたら、泳いだらいけない。船が沈むときには、いろんなものが浮くから、それにつかまること。つかまって、早く船から離れる。
 いやはや、すさまじい戦争のむごさを改めて実感させられました。戦争は絶対にいやです。
 
(2009年9月刊。1700円+税)

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2010年01月19日

在日一世の記憶

著者 小熊 英二・姜 尚中、 出版 集英社新書

 780頁もある新書です。とても新書とは思えない異例の厚さです。もちろん中身もぎっしり詰まっています。
 「在日」の人たちの生きざまを知ると、戦前・戦後の日本の実像が見えてくる思いがしました。この本には、52人もの在日コリアン一世のライフ・ヒストリーの聞き取りが収録されています。あとがきを読むと、膨大な分量だったのをぐっと減らす作業はかなり大変だったようです。私も弁護士の講演録を編集したことがあります(今もしていますが……)ので、その大変さはよく分かります。話し言葉は冗長になりやすいので、それを読みやすいように要点に絞って削っていくのです。
 「在日」一世たちは、明らかに日本社会における「異物」であったが、現在の三世・四世の在日は、言語的・文化的に日系日本人と差異はない。日系日本人との通婚率も高くなり、国籍法が男女両系主義に変更されて以来、生まれる子どもは日本国籍になる可能性も高まっている。したがって、在日六世・七世という存在はありうるが、ごく少数でしかないのではないか。しかし、今後とも「在日」は存在し続けるだろう。
 1952年のメーデー事件のときに、人民広場の決起大会に参加した。日本共産党が始動したが、デモの最先頭にいた人々はほとんど在日だった。ええーっ、そうだったんですが……。私は、「ナンジ臣民、飢えて死ね。朕はたらふく食っているぞ」とプラカードに書いて不敬罪で捕まった松島松太郎氏を知っています。
 日本にパチンコが一番はじめにできたのは新潟。新潟の人が栃木県に来てすすめるので始めた。パチンコには、韓国人・朝鮮人を問わず、血を流した歴史がある。今はそうじゃないけど、当時はお金があるから、土地があるから、出来るという商売ではなかった。どの町でもヤクザと喧嘩して、それでパチンコを守ってきた。殺された人もいるし、命がけだった。
 北朝鮮に1983年をふくめて、もう3回行った。行ってみて、ああ、こんな社会主義があるかと思った。こうしようと思って、こんなに苦労してきたのか……。上と下の差がすごい。体制だ。上の人はそれこそ天国。下の人は地獄。貧富の差っていうもんじゃない。それで総連をやめて民団に移った。
 タイにある俘虜収容所には1万1000人の俘虜がいた。これを日本下士官17人と130人の朝鮮人軍属で管理する。朝鮮人軍属のうち148人が戦犯になり、23人が死刑を宣告され、現地で処刑された。
 朝鮮高級学校の教員生活をしていたので、卒業生に謝らなければならないことがある。一つは、全世界をキムイルソンの主体思想に一色化するというイデオロギーを掲げ、押しつけたこと。二つには、キムイルソンだけを将軍とし、自分の国の歴史と地理をきちんと教えなかったこと。
 なるほどですね。歴史を偽って子どもたちに教えてはいけませんよね。それは、今の日本で自虐史観とかいって、日本の戦前の侵略戦争を引き起こした事実を認めない誤りと根は一つだと思います。
 四・三事件は、無残な敗北だった。しかし、四・三事件は不正を認めない、祖国分断を許さないという民衆のエネルギーから起きたのだ。四・三事件では、南労党(南朝鮮労働党)の済州島軍事委員会が武力抗争の核になっていたのは事実だ。しかし、民衆が軍事委員会に呼応したのは、呼びかけがあったからだけではない。アメリカに対して恨みが一杯あったんだ。当時の民衆は、山に入って武装した南労党の部隊が自分たちの思いを晴らしてくれると信じていた。
 憲法改正や自衛隊派兵の理由として、「北朝鮮の脅威」を挙げるのはガセネタに過ぎない。これはまったく同感です。
大変な労作です。多くの人に一読をお勧めします。
私が子どものころ、近所に朝鮮人部落がありました。ときどき警官隊がドブロク密造を検挙するため、そこに出動していると聞いていました。

 
(2008年10月刊。1600円+税)

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2010年03月24日

軍艦島(上)(下)

著者 韓 水山、 出版 作品社

 崎戸島(三菱崎戸炭鉱)は幽霊島、高島(三菱高島炭鉱)は白骨島、端島(三菱端島炭鉱)は地獄島と呼ばれた。端島はその形格好から軍艦島とも呼ばれた。
 朝鮮人の皇民化教育を推進するなかで、朝鮮人を半島に居住する日本国民と定め、朝鮮人を半島人と呼ぶようになった。
 三白一黒一青という言葉があった。日本が朝鮮から持っていこうとしたものである。三つの白いものは、朝鮮の米と絹、綿花だ。黒いものは海苔、青いものは竹である。日本は朝鮮からこの 三白一黒一青を全て奪い、持ち去った。
 端島には、9階建てアパートが65棟も建っていた。この地獄島と言われる端島から逃亡した朝鮮人がいました。もちろん失敗して亡くなり、あるいは刑務所に入れられた人も少なくありません。逃亡しても、言葉の壁があるため、日本で自由に生活できるわけもありません。逃亡者の一人が長崎の造船所で働けるようになったのは、偶然といってよいほどの幸運でした。
 軍艦島では、売春宿まで三菱が直営していた。小さな島でしかないため、鉱夫が孤立して生活せざるをえない。ほかの炭鉱なら周辺の民間人が金もうけにやっている娯楽福祉も、ここでは会社が整えてやるしかなかった。その一つが売春と賭博だった。会社は娼婦を雇用し、売春事業の遊郭を直営にした。森田屋、本田屋、そして朝鮮人が経営をまかされていたこともある吉田屋という三軒の店があった。働いていた女性は1軒に9人、全部で27人だった。
 長崎に原爆が落とされた瞬間を目撃した人もいます。
目を開けると、あたり一面、火の海だった。燃え上がる炎は、太陽の下で黄金色に光っていた。周りには人影すらなかった。ピカッと光った瞬間、周囲は燃えあがる炎と化し、その炎がうねり、あらゆるものが狂ったように揺さぶられた。そして、どこからか地鳴りのような音が響いてきた。
 長崎には、昭和20年7月までに375人の捕虜がいた。彼らは朝6時から夜7時まで工場で働かされた。暖房のないバラックは、耐えられないほど寒い。冬の終わるころには、捕虜の4分の1にあたる、125人が肺炎で亡くなっていた。
原爆にあった朝鮮人は母国語で泣き、うめいた。
 救護隊の日本人は、アイゴー、オモニーと泣き叫ぶ朝鮮人は決して病院に運ばなかった。朝鮮語を話す者には水も食料も与えなかった。防空壕からでさえ、追い出された。そして、遺棄された朝鮮人たちは、崩壊した建物のガレキの下で死んでいった。最後まで取り残された死体も朝鮮人だった。一見、日本人と見まごうが、千切れた服から朝鮮服だと分かったり、アイゴー、オモニーという呻き声を聞いたりして救護隊は区別していた。
端島炭鉱に朝鮮で「募集」された朝鮮人労働者が働くようになったのは1918年(大正7年)5月からである。このとき、端島炭鉱に70人が就労した。1939年(昭和14年)には総動員体制の確立ともに、朝鮮人労働者の「募集」は微用となり、強制連行に等しくなった。
端島炭鉱をふくむ炭鉱に4000人の朝鮮労働者が微用されていた。
軍艦島が観光ブームで脚光を浴びていますが、このような過去はもっと知られるべきではないでしょうか。

(2010年1月刊。(2400円+税)×2)

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2010年04月06日

阿片王

著者 佐野 眞一、 出版 新潮社

 満州そして中国で日本が何をしたのか。そこでうごめき甘い汁を吸っていた人間が戦後の日本で素知らぬ顔で政財界などでのさばっていた、なんていうことを知ると、背筋に虫酸が走ります。つくづく日本って嫌な国だなと思います。そんな史実には目をつぶったらいいんだよというのが、例の自虐史観です……。でも、そんなわけにはいきませんよね。
 生アヘンには、平均8~12%のモルヒネがふくまれ、これが人間の神経を麻痺させて、肉体的苦痛を鎮静させる。アヘン煙膏を吸引すると、モルヒネの麻薬作用で、あたかも桃源郷に遊んでいるかのような幻覚に襲われる。
 ペインは、無色の結晶状のモルヒネを加工し、純度を上げたもの。
 アヘン中毒者は共通して、果物が猛烈に欲しくなる。
アヘンが厄介なのは、性欲という人間の本能と分ちがたく結びついていること。アヘン常用者の性交時間の調査によると、最高17時間も陶酔感にひたっていた。その結果、男は精力を使い果たして腹上死する例が多かった。
 日本は幕末以来、アヘンを国家の厳重な管理下に置いた。日本がアヘンを禁制品としたのは、亡国に直結する隣の中国のアヘン禍に衝撃を受け、これを反面教師としたから。
 そして、それを承知の上で日本は、アヘンを中国に売り込んでいった。中国の奥地に日の丸の旗が翻っていたが、それはアヘンの商標だった。関東軍が中国の熱河に侵攻したのは、実はアヘン獲得作戦だった。
 日本軍は満州から金塊数十個、時価にして数百億円を上海に運び込み、これでペルシャ阿片を輸入した。
 ペルシャ産アヘンの海上輸送には危険がともなったため、日本の外務省と軍の保証がなければ不可能だった。上海には、常に阿片を必要とした人間が人口の3%、実数にして十万人いた。
 里見甫はアヘン取引で莫大な利益を上げ、軍の情報工作に欠くべからざるものとなった。アヘン売買による利益は日本の興亜院が管理し、3分の1が南京政府の財務省に、3分の1がアヘン改善局に、残りの3分の1が安済善堂に分配された。
 アヘン王の里見がGHQから起訴されなかったのは、当時の国際状況の生み出したパワーポリティクス力学が複雑に絡んでいる。里見が極東国際軍事裁判で裁かれることになれば、その過程で「戦勝国」中国の阿片との深いかかわりが必然的に明るみに出てくる。そうなると蒋介石政権も無傷では済まなくなる。蒋介石の率いる国民党軍の資金の少なからぬ部分がアヘンによってまかなわれていたことは、いわば公然の秘密だった。
 アヘン売買は割のいい商売だった。アヘン1両が内蒙古で20円、天津で40円、上海で80円、それがシンガポールでは160円に跳ね上がった。
 日本軍は南京攻略後、南京市財政の立て直しのためにアヘン売買を利用した。そのおかげで、たちまち南京市の財政は好転した。
 里見の前では、東条英機も岸信介も頭が上がらなかった。佐藤栄作も同じで、頭が上がらなかった。うひゃあ、恐ろしいことですね。戦時日本の首相を務めた兄弟が、中国で飽く逆の限りを尽くしたアヘンのおかげを蒙っていたとは……。アヘンは中国の人々をダメにしただけでなく、その経済もめちゃくちゃにしたのですから、責任は極めて重大です。こんな事実を覆い隠そうと言うのは、間違っています。やっぱり、悪いことはきちんと糺されなければいけません。青臭いと言われるかもしれませんが、私は本心からそう思います。皆さんは、どう思いますか?
 440頁もの労作なので、いくらか、冗長すぎる気はしました……。すみません。でも、労作です。

 
(2005年9月刊。1800円+税)

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2010年04月21日

ノモンハン事件

著者 小林 英夫、 出版 平凡社新書

 今から70年前の1939年、満州国とモンゴルの国境線上にあるノモンハンで、日本軍とソ連軍が戦い、日本軍は壊滅的な敗北を蒙った。
 日本にとって、航空機や戦車が戦場を駆け巡った最初の近代戦であった。このとき、圧倒的な物量を誇り、爪の先まで鋼鉄で武装したソ連・モンゴル軍を前にして、肉弾で対抗した日本軍は粉砕されてしまった。
 1939年時点で、ソ連を100とした時の日本軍の兵力は、師団数で37、航空機で22、戦車で9に過ぎなかった。
 ソ連軍にはスターリンの大粛清の嵐が吹いていて、指揮系統は一時的に不能な状況にあった。しかし、ジューコフ元帥は健在だった。ところが、関東軍は、スターリンの大粛清によって、ソ連軍・モンゴル軍が弱体化していて、一撃で打倒できると踏んでいた。つまり、ノモンハンにソ連は大軍を繰り出すことはできないと想定していた。関東軍にとって、ノモンハンは200キロの地点にあるが、ソ連にとっては750キロも離れているので、輸送力の点でも関東軍が圧倒的に優位だと考えていた。
 しかし、ジューコフ司令官の指揮するソ連軍は、兵力的に日本の1.5倍、砲は2倍、戦車・装甲車で4倍の兵力を集めていた。ソ連軍は、軽戦車に代わる中戦車の投入と火炎放射戦車の登場で、日本軍陣地を蹂躙し、焼き尽くした。
 航空線でも、ソ連軍が日本軍を圧倒した。量的に優れていただけでなく、ソ連の航空機には防御についていろいろ改善され、戦法においても日本の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法が一般化するなど、質的向上を遂げていた。
 ノモンハンにおける日本軍第24師団の死傷率は、兵員1万5975人のうち、死傷・行方不明ふくめ1万人以上と、消耗率は7割を超え、ほぼ全滅状態となった。
 そして、ソ連軍に捕虜となった日本兵は、帰還したあと、軍法会議にかけられ、将校には自決勧告、下士官兵には免官、降等、重謹慎、重営倉となった。
 こんなむごいことはありませんよね。日本軍が人間の生命をいかに軽んじていたか、良く分かります。そして、日本軍はこの重大な敗北から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入していき、さらに大きな過ちを繰り返したわけです。たとえ悲惨な過去であっても、目を閉ざすわけにはいきません。
 
(2009年8月刊。760円+税)

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2010年06月08日

トレイシー

著者:中田整一、出版社:講談社

 日本軍の将兵は捕虜になるな、死ねと教えられてきた。ところが、戦場では「不覚にも」捕虜になる事態が当然ありうる。捕虜になったときに、敵に対していかに対処すべきか教えられたことのなかった日本の将兵は実際にどう対処したのか・・・。本書は、その実情を明らかにしています。要するに、日本の将兵はアメリカ軍の尋問に心を開いて、軍事機密をすべて話していたのでした。
 もちろん、これにはアメリカ軍による盗聴を生かしながら尋問するなど、テクニックの巧妙さにもよります。しかし、それより、無謀な対米作戦の愚かさを自覚したことによる人間として当然の本能的な行動だったのではないかという気がしました。
 つまり、こんな愚かしい戦争は一刻も早く終わらせる必要がある。そのために役立ちたいという心理に元日本兵たちは駆られたのではないでしょうか。
 アメリカ軍は日本の将兵を捕虜にしたあと、カリフォルニア州内の秘密尋問所に閉じこめて、といっても虐待することなく、供述を得ていき、それを戦争と終戦処理に生かしたのでした。
 捕虜たちを一人ずつ直接尋問する。そのあと、他の捕虜たちと自由に交わることを許す部屋に移す。そこには隠しマイクを設置しておき、別室で会話を聴く。捕虜は初対面だと、尋問で経験したことをお互いに話し合い、情報を交換し、それについてコメントする。ただし、盗聴はジュネーブ条約違反なので、厳重に秘匿された。ちなみに、スガモ・プリズンでも、アメリカ軍は盗聴していたとのことです。
 アメリカ軍は日本語を習得する将兵を短期養成につとめた。ただし、海軍は日系アメリカ人を信用せず、白人のみだった。これに対して陸軍は、日系アメリカ人も活用し、終戦のころには、2000人にもなっていた。
 尋問では丁寧語は使わず、なるべく相手に威圧感を与える日本語を使った。勝者と敗者の立場を明確に認識させる必要があった。
 手だれの尋問官であればあるほど、乱暴な尋問は捕虜のプライドを傷つけ、口を閉ざし、かえってマイナスになることを十分に心得ていた。尋問では、侮辱や体罰や脅しはほとんどなされなかった。
 捕虜となった日本の将兵は、自分が捕虜になったことを故郷に通知されることを望まなかった。自らの意思で、祖国や家族との絆を断ち切った。
 トレイシーと名づけられた尋問所に2342人の日本人捕虜がいた。
 太平洋艦隊司令官ニミッツ大将が1943年12月27日にトレイシーを訪問した。その重要性を認識したあと、さらに強化された。
 1945年4月、新国民放送局として、日本へ向けてのラジオ番組が始まった。30分足らずの番組だったようです。こんなトーク番組があったというのは初耳でした。どれだけの日本人が聞いていたのでしょうか、知りたいものです。
 日本人の戦前の実情を知ることのできる、いい本でした。
 
(2010年4月刊。1800円+税)

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2010年06月16日

在郷軍人会

著者:藤井忠俊、出版社:岩波書店

 戦前の日本の実情を深く知った気になりました。在郷軍人会というのも決して一枚岩ではなく、矛盾にみちみちた存在であったようです。
 1910年(明治43年)に発足した在郷軍人会は最盛時には300万人に及ぶ会員がいた。しかし、会員に軍服の着用をすすめても、軍服を着た会員はほとんどいなかった。軍服を着た市民があふれたのは戦後日本の平和な社会であった。個々の在郷軍人は軍服を着たがらなかったのである。ただし、米騒動で騒動の先頭に立った者が軍服姿となり、また、神戸の造船所での大ストライキのとき、労働者側の在郷軍人が軍服を着て市中をデモンストレーションして人々を驚かせた。デモクラシーの波が、この皮肉な反抗を演出した。
 日露戦争のとき、日露両軍が全兵力を投入した大会戦の戦い方を通して、将来の戦争と在郷軍人の関係に気づいた軍人の一人に田中義一がいる。
 その実戦の中で、常備師団に比べて後備師団は弱い。しかし、今後の戦争は在郷軍人が主体になる。なぜなら、来るべき戦争は総力戦であり、現役兵だけでは絶対に兵力が足りない。数倍の在郷軍人が召集されなければならない。それは補充のレベルではなく、従来の後備師団が逆に主体にならなければならないというものだ。そのためには訓練と戦意が大切であり、国民の支持が絶対要件である。田中義一は、在郷軍人会の組織と経営に熱意をもった。
 在郷軍人会は会費収入を期待できなかった。軍隊生活を除隊した経歴の在郷軍人には、心底から貧乏くじを引いた思いがある。表面上、いかに光栄ある国家の干城と言われても、入営中、出陣中の家計・生活上のマイナスはたしかなこと。したがって在郷軍人会が成立しても、事業にみあうような会費を出してまで会員になる在郷軍人は、まずいない。当初から、町村の有志の援助をあてにした集団だった。
 日露戦争後、帰郷した在郷軍人のモラルにはよい評価を与えられなかった。兵隊あがりという蔑称さえつけられた。そして、在郷軍人の半数以上が一種の詐欺的行為にあり、委任状を渡して年金を他人にとられていた。
 米騒動(1918年、大正7年夏)に参加した在郷軍人は多く、刑事処分を受けた人の
12.1%を占めた。このことに在郷軍人会は驚愕した。工場でのストライキ、そして農村で起こった小作争議でも指導層にも在郷軍人が多かったからだ。騒動や争議は社会不安につながったが、下層民の社会的力量を押し上げもした。在郷軍人は、広く考えると、この下層民の押し上げにも乗っていた。
 在郷軍人という基盤の上に立った在郷軍人会は、当時の組織された民衆としては最大のものであり、普通選挙が実施されたら最大の選挙民になる可能性があった。この大正デモクラシーに対しては、軍全体で、その風潮に対抗する措置がとられた。それほど大正デモクラシーは、在郷軍人にも大きな影響を及ぼした。在郷軍人会自体も民主化に対応しなければならなかった。
 在郷軍人会本部が大正末期につくった悪思想退治のレコードを紹介します。野口雨情の作詞、中山晋平の作曲です。
 狭い心で世の中渡りゃ、マルキシズムにだまされる。マルキシズムにだまされりゃ、可哀想だが心が腐る。
 なんと恐ろしい偏向した歌でしょう・・・。怖いですね。
 日中戦争の大動員が始まると、質的にも量的にも、国防婦人会の役割が急上昇した。出征兵士の見送り行事には決定的な役割を果たし、不可欠の要素となった。
 作戦本位の軍部も、国民の支持に頼らなければならなかった。国防婦人会の見せるパフォーマンスの威力は、日本全国をゆるがせた。これは軍部の予想しなかったことであり、慌てた。
 逆に、在郷軍人は、もはや銃後の構成員とは言えなくなった。大動員によって、在郷軍人会の社会的活動は大幅に後退せざるをえなくなった。
 1937年中に動員された兵士は93万人に達した。現役兵は33万6千人に対して、開戦後の召集兵は59万4千人。これらの召集兵は、充員召集であれ赤紙召集であれ、在郷軍人である。
 日中戦争では、たしかに在郷軍人の大量動員で数量的には在郷軍人が主体となった。しかし、出来上がった形に軍は動揺した。在郷軍人の質が問題だ。特設師団は戦闘主力として使えるのか。未入営補充兵をどのように訓練して戦闘にまにあわせるのか。当惑が渦巻いた。
 特設師団は編成・素質不良にて、訓練の時間なく、幹部の死傷者が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立たないと兵が従わないため。
 日中戦争途中の帰還兵を待っていたのは、きわめて冷たい出迎えだった。派手な出迎えはしない。歓迎会は禁止、楽隊は絶対禁止。軍紀を基準にした言動調査で、盛り上がりつつある銃後の戦意昂揚に水をさすような実践談をされては困るのだった・・・。
 戦場の実態について、美談や大和魂でしか伝わっていない国民のなかに、戦場の実態が赤裸々に語られるマイナスが当局の心配事になった。戦場における兵たちの軍紀の乱れを国民に知られないようにする必要があった。
 1941年(昭和16年)の関特演(関東軍特殊演習)による秘密動員については、暗い秘密動員として記憶された。つまり、夜中に誰にも気づかれないように普段着を着て、召集場所に集まるようにとのことだった。この秘密大動員は、軍に士気の衰えを感じさせた。高揚するかと思われた国民の気持ちを萎えさせるように働いたのだった。
 在郷軍人会は、徴兵制を維持し、国民の支持を得るための最大の地域組織だった。
 十分に本書を理解できたという自信はありませんが、読んでいて、とても納得感のある本でした。
(2009年11月刊。2800円+税)

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2010年06月22日

政党内閣の崩壊と満州事変

著者:小林道彦、出版社:ミネルヴァ書房

 戦前、軍部が一枚岩でないどころか、内部では熾烈な抗争が絶え間なかったこと、政党も軍部と結びついていたことなどを知りました。本格的な研究書ですから、理解できるところを拾い読みした感じですが、それでも得るところ大でした。
 これまで上原勇作派の実態は過大評価され、その反対に政党政治の発展に陸軍を適合させていこうとした桂太郎─田中義一─宇垣一成という軍政系軍人の系譜は過小評価されてきた。しかし、政党政治の全盛期には、陸軍すら、政党に順応しようとしていた。
 山県有朋の死後、陸軍では長州閥(田中義一)と上原派との対立が表面化した。
 上原は、陸軍きっての「進歩派」であり、自らもフランス語に堪能だった。つねに列強の近代軍に関する最新の軍事情報の収集に努めていた。上原こそ、陸軍の近代化の急先鋒だった。
 1920年代の日本陸軍では、軍政(陸軍省)優位の陸軍統治が実現しており、参謀本部は事実上、田中―宇垣のコントロール下に置かれていた。
 1921年10月、陸軍省で開かれた会議で議論されたのは、日本の兵器生産能力と戦時40個師団という兵力量とのギャップだった。参謀本部が作戦上の観点から40個師団にこだわっていたのに対して、陸軍省は武器弾薬の補給能力の観点から、それに待ったをかけた。陸軍省の指摘によれば、40個師団という大兵力に満足な武器弾薬を補給するのは、当時の日本の工業能力ではきわめて困難だった。
 これに対して、参謀本部が40個師団にこだわったのは、40個師団あれば、長江流域のある程度、つまり漢口・武昌付近まで手をのばせるからというものだった。
 参謀本部は軍隊の質的向上よりも戦時総兵力の多い方を望み、陸軍省は総兵力を多少削ってでもその質的向上を追及した。作戦計画の立案をつかさどる参謀本部は、運動戦・短期決戦志向が組織原理として刻印されている。政治や経済との接点に位置する陸軍省は、どうしても戦争の長期化を考慮せざるをえない。陸軍省は量より質の軍備整備に傾いていったのは、その組織原理によるものであった。
 陸軍がとくに強い関心を寄せていたのは鉄資源の確保であった。第一次大戦の大量弾薬消費・大量人員殺傷の現実は、田中義一をはじめとする陸軍指導部に衝撃を与えた。その結果、彼らは、揚子江中流域の大冶鉄山からの鉄の安定供給を重視するようになった。ところが、やがて、満州の鞍山が鉄資源供給先として脚光を浴びるようになった。
 1925年(大正14年)4月、田中義一が政友会の総裁に就任した。田中義一は在郷軍人会の創始者として、その300万人会員をあてにできた。また、政友会は、陸軍との間に強力なパイプを確保できる。田中にしてみれば、政党勢力と陸軍を一身でコントロールするという桂太郎はもとより山県有朋や伊藤博文すらも構築できなかった政治権力を自らの手に握ることを意味していた。
 山県は官僚制と陸軍をほぼ完璧に掌握していたが、自ら政党組織に乗り出そうとは思わなかった。伊藤は自ら創設した立憲政友会の運営に苦しみ、ほどなく枢密院に祭り上げられてしまった。また、憲法体制の修正による内閣権限の強化を目ざしたが、山県の反発によって失政に終わった。桂は、新政党を自ら組織して利益誘導型の政党政治を刷新し、山県と陸軍を押さえ込む新たな政治構造を創出しようとしたが、明治天皇の急逝と世論の無理解によって、失意のうちにこの世を去った。
 つまり、日本憲政史上、政党勢力と陸軍を同時に直接コントロールできた権力者は一人もいなかった。田中義一は、自らにならそれは出来るし、機もまた熟していると考えていた。政友会総裁に就任したときの田中義一は、自信と野望にみちあふれていた。
 ところが、田中の政治力は、陸軍方面では比較的に安定していたが、肝腎の政友会方面では、きわめて不安定だった。
 張作霖暗殺のとき、田中義一のやり方に不信感を抱いていた昭和天皇は、田中外交の協調的側面をまったく理解できなかった。天皇は、「支那赤化」の脅威を田中ほど深刻には考えていなかった。
 事件の調査結果について参内し上奏した田中義一は、昭和天皇から、前と内容が変わっていると厳しく叱責され、ついに内閣総辞職に追いこまれた。
 天皇側近は、事態が宮中と陸軍との正面衝突に発展することを危惧していた。
 多年、反政友会勢力の中心に位置していた犬養は、田中義一以上に党内権力基盤は薄弱だった。
 天皇は常日頃から、丹念に新聞を読んでいて、軍政改革問題にはとくに大きな関心を払っていた。
 天皇側近グループ、とりわけ牧野や鈴木、一木らに対する平沼系や皇道派の怒りは深く静かに進行していた。「君側の奸」から「玉」は奪還されねばならない。平沼らのイメージでは、天皇は牧野を中心とする側近グループと民政党によって籠絡されているのだった。
 関東軍は、鉄道沿線を離れては行動できない軍隊だった。後方補給部隊を完全に欠いていた。関東軍は、鉄道輸送に大きく依存した、野戦のできない野戦軍であった。鉄道戦争しかできなかった。
 武器・弾薬の補給も実は十分でなく、第二師団は、しばしば中国側の遺棄兵器を利用して作戦を継続せざるをえなかった。ところが、皮肉にも、その多くは、三八式歩兵銃などの日本製武器だった。
 北満の酷寒に日本馬は適応できず、多くの満州馬を現地調達して作戦をすすめた。
 満州国の成立は、本来、犬養の望むところではなかった。陸軍省では、永田鉄山軍事課長が中心となって、関東軍の独走を阻止しようとしていた。
 上海事変のとき、天皇は心労のあまり動揺はなはだしく、側近の目にも日々憔悴の色を濃くしていた。思いつめた天皇は御前会議を開いて時局を収拾しようと考えた。
 国務と統帥の分裂を眼前にして、肝腎の天皇が精神的に追い詰められてしまった。天皇は上海の戦争を心配するあまり、深夜に鈴木侍従長を宮中に呼び出したり、夜もおちおち眠れないような有様だった。
 戦前の日本の当局内部の実情の一断面が鮮やかに切り取られていて、深い感銘を覚えました。
(2010年2月刊。6500円+税)

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2010年07月14日

吉原花魁日記

著者:森 光子、出版社:朝日文庫

 オビに欠かれている著者略歴を紹介します。
 1905年、群馬県高崎市に生まれる。貧しい家庭に育ち、1924年、19歳のとき、吉原の「長金花楼」に売られる。2年後、雑誌で知った柳原白蓮を頼りに妓楼から脱出。1926年、本書、1927年『春駒日記』を出版。その後、自由廃業し、結婚した。晩年の消息は不明。
 売春街、吉原で春をひさいでいた女性は自由恋愛を楽しんでいたのではないかという声が今も一部にありますが、決してそんなものではなかったことが、当事者の日記によって明らかにされています。
 19歳で吉原に売られてから、嘆きというより復讐のために日記を書きはじめたというのですから、まれにみる芯の強い女性だったのでしょうね。
 ちなみに、女優の森光子とはまったく無関係です。同姓同名の異人です。
 うしろの解説にはつぎのように書かれています。
 「怖いことなんか、ちっともありませんよ。お客は何人も相手にするけれど、騒いで酒のお酌でもしていれば、それでよいのだから・・・」
 そんな周旋屋の甘言を真に受けて、どんな仕事をさせられるかも知らぬまま、借金と引き換えに吉原に赴き、遊女の「春駒」となった光子。彼女の身分こそ、まさに公娼制度の中にある娼妓であった。
 周旋屋に欺されたことを知ったとき、彼女は、日記にこう書いています。
 自分の仕事をなしうるのは、自分を殺すところより生まれる。わたしは再生した。
 花魁(おいらん)春駒として、楼主と、婆と、男に接しよう。何年後において、春駒が、どんな形によって、それらの人に復讐を企てるか。復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。それは、今の慰めの唯一であるとともに、また彼らへの復讐の宣言である。
 わたしの友の、師の、神の、日記よ、わたしは、あなたと清く高く生きよう。
 客よりの収入が10円あれば、7割5分が楼主の収入になり、2割5分が娼妓のものとなる。その2割5分のうち、1割5分が借金返済に充てられ、あとの1割が娼妓の日常の暮らし金になる。
 一晩で、客を10人とか12人も相手にする。
 客は8人。3円1人、2円2人、5円2人、6円1人、10円2人。
 客をとらないと罰金が取られる。花魁は、おばさん、下新(したしん)、書記などに借りて罰金を払う。指輪や着物を質に入れて払う花魁もいる。
 朝食は、朝、客を帰してから食べる。味噌汁に漬け物。昼食、午後4時に起きて食べる。おかずは、たいてい煮しめ。たまに煮魚とか海苔。夕食はないといってよいほど。夜11時ころ、おかずなしの飯、それも昼間の残りもの。蒸かしもしないで、出してある。味の悪いたくあんすらないときが多い。
 花魁なんて、出られないのは牢屋とちっとも変わりはない。鎖がついていないだけ。本も隠れて読む。親兄弟の命日でも休むことも出来ない。立派な着物を着たって、ちっともうれしくなんかない・・・。
 みな同じ人間に生まれながら、こんな生活を続けるよりは、死んだほうがどれくらい幸福だか。ほんとに世の中の敗残者。死ぬよりほかに道はないのか・・・。いったい私は、どうなっていくのか、どうすればよいのだ。
 花魁13人のうち、両親ある者4人、両親ない者7人、片親のみ2人。両親あっても、1人は大酒飲み、1人は盲目。
 原因は、家のため10人、男のため2人、前身は料理店奉公6人、女工3人、・・・。 吉原にいた女性の当事者の体験記が、こうやって活字になるというのも珍しいことだと思いました。貴重な本です。
(2010年3月刊。640円+税)

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2010年07月31日

たった独りの引き揚げ隊


著者:石村博子、出版社:角川書店

 ロシア人(コサック)の母と日本人の父のあいだに生れた10歳の少年が終戦(日本敗戦)後、満州(中国の東北部)をたった一人で1000キロも4ヶ月歩いて、ついに日本(柳川)へ帰国できたという体験の聞き語りの本です。その状況がよく描けていることにほとほと感心しつつ、車中で読みふけってしまいました。
 満州と言えば、私の叔父(父の弟)も、敗戦後、八路軍に徴募して技術者として何年も転々としました。そのことを叔父の書いた手記をもとに少し調べて小篇にまとめてみました(残念ながら、力不足で本にまでは出来ませんでした)。また、母の異母姉の夫(中村次喜蔵)が満州の日本軍の師団長として敗戦直後に自決していたことも少し調べて、母の伝記に取り入れてみました。このときは、東京の偕行社に依頼して調査に協力してもらいました。旧軍の将校クラブが生きていることに少しばかり驚いた覚えがあります。
 主人公のビクトルは1935年、満州国ハイラルで生まれた。父親は日本人の毛皮商人、母親は亡命コサックの娘。その父はロシア皇帝ニコライ2世の直属コサック近衛騎兵をつとめていた。
 父・古賀仁吉は、1910年に、柳川で生まれた。満州事変(1931年)ころに中国大陸へ渡り、会社を営んでいた。
 敗戦後、両親と生き別れ、日本への帰国団から、ロシア人の子どもとして2度も排斥されてしまった10歳のビクトル少年は、一人で歩きはじめ、日本への帰国を目ざすのです。その旅行の描写は、体験した者ならではの迫真力にみちみちています。すごいです。
 左に線路、上に太陽、前方に木。これだけあれば前に進める。雨にうたれると体力を急速に奪われるから、気をつけていた。
 野宿で重要なのは、眠っている間に身体の熱が奪われないようにすること。ねぐらを決める前にまず確認すべきなのは天候。夜中に雨が降りそうなら、身体全体がすっぽり隠れるくらいの場所があって、足元には水を吸収しやすい砂地っぽいところを探す。次に、風向き。それから、オオカミや野犬などが来ないところ。そして、土地の人にも見つかる恐れのないところ。
 だから、ねぐらにしたのは、窪みや岩陰など、身を隠せるところが多かった。そこなら、風が当たらないし、体の熱も逃げない。首には必ず毛布を巻いておく。
 夜は怖い。月や星がなければ、あたりは漆黒の闇。音も匂いも、昼間よりずっと鋭く伝わってくる。怖いけれど、バタバタするな、落ち着けって、自分で自分に言い聞かせる。暗いときには、身動きしてはいけない。じっとして、夜の音を用心深く聞きとらなければいけない。耳はすごく敏感になる。聴覚は良かったから、相当地小さな音も聞き分けることができた。風に鳴る木の葉の音、草の揺れる音、虫の声・・・。全部が生きている。すごいなと思いながら聴いていた。一番怖いのは息を殺して近づいてくる気配だ。
 食べ物探し。草も食べた。よく分からないものがあったときは、茎を折って、出てくる汁で見分けをつけた。みずみずしくて水分が豊かなら、食べても恐らく大丈夫。すぐにしおれるものは危ない。うへーっ、そ、そうなんですか・・・。知りませんでしたね。すごい野性児ですね・・・。
 『花はどこへ行った』というアメリカのフォークシンガーであるピート・シーガーが歌ったものの原詞がコサックの子守唄だったことを初めて知りました。
 少年ビクトルはロシア語を忘れないように歌ったのでした・・・。
 あしの葉は、どこへ行った?
 少女たちが刈り取った
 少女たちは、どこへ行った?
 少女たちは嫁いでいった
 どんな男に嫁いで行った?
 ドン川のコサックに
 そのコサックは、どこへ行った?
 戦争へ行った
 11歳になっていた少年ビクトルは日本人の引き揚げ隊を見て、こう思ったといいます。
 日本人って、とても弱い民族だ。打たれ弱い。自由に弱い。独りに弱い。誰かが助けてくれるのを待っていて、そのあげく気落ちして、パニックになる。
 巻末に主要参考文献のリストがのっています。かなり本を読んできたと自負する私ですが、こんなリストを見ると、まだまだだと思わざるをえません。
 とても面白い本でした。
(2002年3月刊。1600円+税)

 駅前で選挙運動をしていた人が、ポスターを近くに仮留めしていたところ警察に逮捕されるという事件が発生しました。なんと20日間も拘留され、家宅捜索までされたというのですが、不起訴で無事に決着しました。
 それにしても、こんな事件で20日間の拘留を認める裁判官というのは常識はずれではないでしょうか。もちろん、警察が一番ひどいのですが……。
 インターネットの自由な使用も認められない今の公職選挙法のなんでも禁止というのは、まさに時代錯誤の法律です。戸別訪問の解禁を含めて、一刻も早く選挙のときこそ国民が大いに政治をのびのび語りあえるように法改正してほしいものです。
 ちょこちゃん、いろいろ情報提供ありがとうございました。

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2010年08月19日

内奏

著者:後藤致人、出版社:中公新書

 上奏とは、大日本帝国憲法を最高法規とする明治憲法体制に位置づけられた奏のこと。大日本帝国憲法で上奏という用語は1ヶ所しか出てこない。
 「両議院は、各々、天皇に上奏することを得」(49条)
 上奏とは、首相・国務大臣・統帥部・枢密院・議会など国家諸機関による、法律・勅令など、天皇裁可を必要とする公文書の天皇への報告手続きであった。
 奏上は、天皇に申し上げる行為全般を指す。
 近代以降の上奏は、天皇大権と密接に関係している。
 輔弼(ほひつ)とは、憲法上、国務大臣が行う天皇の補佐を表す用語である。ほかに内大臣と宮内大臣に輔弼規定がある。それ以外の天皇補佐には、輔翼という用語を用いる。参謀総長・軍令部総長については輔弼とは言わず、輔翼と表現する。
 惟幄(いあく)上奏とは、統帥部が軍機・軍令について、直接、天皇に上奏すること。この惟幄上奏には、二つの問題があった。第一に、惟幄上奏が拡大解釈され、本来は統帥部だけであったものが、内閣の一員である軍の大臣が首相を超えて惟幄上奏した。第二に、統帥部と陸海軍省が対立したとき、惟幄上奏が軍内部の調整を経ずに行われ、政治問題化すること。
 陸軍統帥部は天皇からの御下問を極度に畏れていた。そこで御下問が、陸軍の暴走の歯止めとの一つとして作用していた。
 御前会議によって最高国策が最終決定されるのではなく、天皇の退出後、あらためて政府・統帥部が上奏手続きをして、天皇の裁可を得る必要があった。御前会議の法制上の位置づけは明確ではなかった。
 内奏とは、正式な上奏に先だち、内意をうかがうもの。そこで、これでよろしいとなると、その後、正式な上奏の形式に現れた「勅旨」になる。
 戦前そして戦中、帝国議会について、首相は天皇に内奏する習慣があった。
 天皇が発する言葉には、御下問(ごかもん)、御沙汰(ごさた)、御諚(ごじょう)、優諚(ゆうじょう)など、さまざまな表現がある。どう違うのでしょうか?
 優諚とは、天皇のめぐみ深い言葉のこと。
 昭和天皇は、上奏前の内奏段階では、かなり踏み込んだ御下問をする。しかし、上奏については、必ず裁可を与えている。
 天皇の御下問は、宮中の人間の助言を受けず、直接、内奏する統帥部の軍人に行われていた。昭和天皇は、統帥関係の御下問については、木戸幸一内大臣に相談せず、直接、統帥部に対してするのが普通だった。
 昭和天皇は、上奏については裁可すべきだと認識していたが、内奏段階では御下問を通じ、輔弼者らに意見を表明してもよいと考えていた。天皇は、参謀総長・軍令部総長の上奏・内奏に対しては、強い口調でその矛盾をつくことがあった。
 宮中側近の助言を受けずに発せられる天皇の御下問は率直であり、軍を悩ましていた。
 戦後、日本国憲法が施行されてから、内閣から天皇に法律の公布を求めるときの用語が、かつての上奏から、「奏上」「奏請」に変わった。
 日本国憲法の施行後、上奏は消滅した。しかし、内奏のほうは生き残った。
 昭和天皇は、人事への関心が深く、佐藤首相にしばしば意見を言った。
 1966年、認証式や叙勲などの天皇の国事行為の機会の前後に、佐藤首相は一般政務の内奏を行っていた。昭和天皇は、この内奏によって人事や政情について、より深く情報を得て、御下問していた。
 1969年1月の東大紛争の際の秩父宮ラグビー場での大衆団交についても、佐藤首相は天皇に内奏した。うひゃあ、これには驚きました。私は駒場に残って待機していたように思います。それにしても、こんなことまで首相は天皇と会話していたのですね。なんと言ったのか、知りたいところです。
 昭和天皇は、長く政権を担当して気心が知れる佐藤首相に対して、御下問を通じて率直に政治的な意見表明をすることに慣れていた。昭和天皇は、保革対立に揺れる保守政権を励まし、あえていうと保守政治の精神的な核のような存在であった。警察庁長官も、定期的に(年1回)天皇に報告している。そして、天皇への内奏、天皇による御下問の内容を外にもらさないことは、政府部内で暗黙の了解事項だった。
 この本を読むと、戦後日本においても天皇に対して政治情勢等について政府の説明が定期的になされ、そのことが政府の確信ともなっていたことを知ることができます。私たち一般国民にとって意外なほど、天皇の言葉は政府にとって重い意味をもつもののようです。
(2010年3月刊。760円+税)

 ディジョンからSNCF(フランス国鉄)に乗ってオータンを目ざしました。12世紀に建立されたサン・ラザール大聖堂のある大きな町です。ところが、日本で買って持っていったトマス・クックにある乗り継ぎ列車がありません。途中のエタンで立ち往生しました。駅前にタクシーが1台とまっているのを見つけて交渉し、なんとかオータンに辿りつくことができました。
 曇り空だったのが一時的に快晴になりましたので、絶好のシャッターチャンスとばかりに写真を撮りました。
 オータンにはローマ時代の劇場跡が残っていて、今も野外劇場として活用されています。背後に湖があり、階段式の観客席が大部分残っています。
 2万人収容というフランス最大の劇場跡ということでしたが、成るほど広大なものです。ローマ軍団の偉大さを偲びました。

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2010年08月28日

母(オモニ)

著者:姜 尚中、出版社:集英社

 戦後日本の実情が描かれています。著者は団塊世代の私より2つ年下ですので、そこで紹介されている在日朝鮮人の生活は私にとっても、身近な存在でした。
 舞台は熊本市内ですが、私も福岡県南部で生まれ育ったので、よく分かるのです。
 熊本と朝鮮人労務者との関係は、韓国併合よりも早い、1908年(明治41年)にまでさかのぼる。人吉─吉松間の鉄道ループ工事に数百人の朝鮮人労務者が使役された。三井系の三池炭鉱や阿蘇鉱山、三井三池染料、三菱熊本航空機製作所などで強制労働に従事していた。
 そして、朝鮮人の集落があり、そこではドブロクの密造もされていた。
 私の住む町にも、近くに朝鮮人の集落があり、豚が飼われ、ドブロクがつくられていました。たまに、警官隊が踏み込んで密造酒づくりを摘発したという話を、私も幼い子どものころに聞いていました。
 オモニは文字の読み書きが出来ない。ところが、不思議なことに、その口調にはナマリがなかった。朝鮮人を思わせるイントネーションはまったくなかった。
 総連と民団という言葉も、今となってはなつかしい言葉です。もちろん、今もこの二つの団体は存在しているのですが、30年前には、お互いに張り合っていました。どちらかというと、今と違って総連のほうが活動家に勢いがありました。同胞の面倒みの良さも上回っていたと思います。
 戦前の日本で憲兵となった著者の叔父は単身、韓国に帰った。そして、苦労して弁護士になり、大出世します。反発していた著者も韓国に渡って、祖国を見直すのでした。ただ、成功した叔父も、晩年は人に騙されて哀れだったとのことです。栄枯盛衰は世の常ですね。
 この本は母(オモニ)を主人公とした小説の体裁をとっていますから、すっと感情移入して読みすすめることができ、大変読みやすい本になっています。そのなかで在日朝鮮人の家族の歴史を理解できる本です。ますますのご活躍を祈念します。
 ちなみに、私も母の生きざまを描いてみました。やや中途半端で終わっていますので、この本のように、もう少し小説仕立てにしたほうが読みやすいのかなと思ったことでした。
 一読をおすすめします。
(2010年6月刊。1200円+税)

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2010年09月03日

昭和天皇、側近たちの戦争

著者:茶谷誠一、吉川弘文館

 昭和天皇をめぐって、さまざまな思惑が微妙にすれ違い、天皇自身の意思も必ずしも貫徹してはいなかったという実情が詳細に、また実証的に明らかにされていて、大変面白く、興味深く読みました。著者はまだ30歳台の若手研究者です。学者ってやっぱりすごいなと思いました。
 遅くとも1946年1月までに、マッカーサーをはじめとするGHQは、日本占領統治の円滑化のために天皇制を利用することを決め、アメリカ本国にもその意見を伝えていた。つまり、GHQとアメリカ政府の日本占領統治方針として、天皇制の存続と昭和天皇の在位(退陣させないこと)が申し合わされていた。
 しかし、天皇の周囲には、天皇を戦犯・罪人として裁くべきだという声があり、少なくとも退位させようという声も強かった。
 昭和天皇は、即位直後から「統治権の総攬者」としての地位を自覚し、天皇大権の取り扱いについても、自分の意思を無視した恣意的な運用に厳しい目を向けていた。1927年に田中儀一内閣がおこなった中央・地方の官吏異動につき、天皇は牧野内大臣に対して反対の意思をもらした。
 張作霖爆殺事件が起きたのは1928年6月4日のこと。関東軍の謀略計画によってひき起こされた。翌1929年6月、田中儀一首相が張作霖事件の最終報告のため参内して昭和天皇に拝謁した。昭和天皇は、牧野内大臣らとの手はずどおり、田中首相に前回の上奏内容と矛盾していると叱責し、田中首相からの再説明を拒否して拝謁を打ち切った。結果として、田中内閣は総辞職した。
 牧野グループによる輔導の結果、積極的な政治介入の姿勢を見せる昭和天皇は、田中首相を叱責して内閣総辞職に至らしめるという事態までひき起こしたのである。
 田中首相叱責事件によって、天皇の政治意思の表明や親裁が抑制されていた大正時代とは異なり、あらためて天皇の意思が政局に重大な影響を与えることが各政治勢力に認識させる契機となった。そのため、天皇の意思と異なる政治思想や政策を抱く政治勢力からは、天皇の君徳輔導にあたる側近、とくに牧野グループへの批判が噴出するようになった。
 1930年7月のロンドン条約批准の際の惟幄(いあく)上奏阻止問題により、軍部や右翼から牧野内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら天皇側近を批判する声が高まった。側近を批判する人々にとって、牧野や鈴木は、天皇の政治意思を独占し、自分たちに都合のよい聖意を形成させていると認識されていた。1930年代を通じて激化する側近攻撃は、いよいよ本格化のきざしを見せていった。
 1935年、国内では、天皇機関説排撃運動とそれに連動した天皇側近への排斥運動がおこっていた。なかでも、在職歴の長い牧野内大臣と美濃部達吉の師であった一木枢密院議長への批判が激しく、いわゆる重臣ブロック排撃が叫ばれた。
 牧野が内大臣の辞位を決意した背景には、軍部や右翼勢力になすすべなく追随していく時局への憂慮と側近間の意見対立から、それを阻止できないみずからの無力と孤立を感じていたことにある。
 1935年12月、牧野が内大臣を辞任した。これは昭和天皇にとっても衝撃であった。天皇は裁可したあと、声をあげて泣いた。
 1937年、日中戦争が勃発したあと、天皇は重要な外交問題が発生すると、御前会議の招集を主張することがあった。しかし、湯浅内大臣は、天皇の親裁や政治責任の波及という問題を避けるため、御前会議ではなく、閣議に親臨という形式にこだわった。失敗したときの責任追及が天皇に及ばないようにしたいということである。
 即位以来、天皇の大権意識は強く、輔弼(ほひつ)者による勝手な大権の行使には厳しい目を向けてきた。日中戦争以降も、天皇は輔弼者の施政に一任していたわけではなく、天皇大権にかかわる事柄には、とくに注文をつけ、適切な処理を求めていた。
 天皇は、防共協定強化問題に限らず、1939年5月から8月の平沼内閣総辞職までの期間において、天津租界封鎖事件と日英会談、ノモンハン事件、ナチス党大会への寺内寿一元陸相の派遣問題など、自身の信条とする強調外交路線に反する陸軍の行動全般について、不信感をいだいていた。
 天皇や湯浅内大臣の陸軍批判は痛烈となり、7月5日、天皇は板垣陸相に対し、陸軍内部の下剋上風潮や幼年学校からの軍事教育の偏重、板垣陸相の能力にまで言及しながら詰問した。湯浅内大臣は、陸軍は乱脈で、もうとても駄目だ、国を滅ぼすものは陸軍じゃないか、と憤慨していた。逆に、陸軍内では天皇の政治意思や権威が軽視されていた。
 天皇を、タテマエはともかく、ホンネでは単に利用できればいいと考えていた軍部。天皇に失敗した政策の責任が波及しないように汲々としていた側近など、さまざまな思惑が交錯していたことが、この本のなかで生き生きと描かれていて、大変勉強になりました。
(2010年5月刊。1700円+税)
フランスで日本のマンガが大人気であることを知り、大変驚きました。
 ディジョンの中央郵便局の前にはマンガ専門の小さな店があります。そこには日本のマンガ(もちろん、フランス語です)しか置いてありません。実は、2年前にエクサンプロヴァンスでも同じような店を見つけたのでした。ディジョンの店で私は『神の滴』を1冊買い求めました。フランス語にもワインの勉強にもなると考えてのことです。
 そして、中央郵便局の近くの大きな書店の2階にもマンガのコーナーがあり、そのなかには「少女」の棚までありました。こまやかなマンガのストーリーが好まれているようです。

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