日本史(古代史)
2007年03月08日
古代史の流れ
著者:上原真人、出版社:岩波書店
列島の古代史・全8巻の第8回目の本です。大宝2年(702年)の遣唐使が自らの国を「日本」と名乗るまで、日本列島に形成されていた国は、東アジア世界では「倭国」と認識されていた。
政治連合(倭国連合)全体を「ヤマト政権」、その盟主として中枢を担った政治勢力を「ヤマト王権」と呼んで区別する。
ヤマト王権は、畿内南部地域を基盤とする。「やまと」の地域には、三輪山の西麓を中心に古墳時代前期でも古い段階の巨大な前方後円墳が集中している。
箸(はし)墓古墳(280メートル)、西殿塚古墳(234メートル)、外山茶臼山(とびちゃうすやま)古墳(208メートル)、メスリ山古墳(250メートル)、行灯(あんどんやま)古墳(242メートル)、渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310メートル)の順に3世紀中葉すぎから4世紀中頃にかけて営まれた。これはヤマト政権の盟主、すなわち倭国王の墓ということになる。
箸墓古墳は、260年前後に造営された。卑弥呼の没年は247年前後なので、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性はきわめて高い。そうすると、卑弥呼の後継者である壱与の墓として西殿塚古墳が考えられる。
うむむ、ここまでしぼって特定されているのですねー・・・。
ヤマト政権の盟主墓は、奈良盆地東南部から同北部の佐紀古墳群をへて大阪平野へ移動している。大阪平野への倭国王墓の移動は、大阪平野の勢力が倭国王の地位についた結果にほかならない。
5世紀の後半に、畿内の王と地方の首長との関係が大きく変化した。それまで「王」と称していた倭国王が5世紀後半になって、「大王」を称するようになった。
地方の首長層は、直接、畿内の大王に仕えるのではなく、大王の下で特定の職掌を分担する中央豪族とその職掌を通じて密接につながっていた。
6世紀の継体王統は、近江・尾張など畿内東辺の勢力が大きな役割を果たした。それまで畿内南部の大和・河内の勢力に押さえられていた摂津の勢力が、畿内東辺の勢力と提携して王権を掌握した。
ところが、継体は、即位してから20年間も大和に入ることができず、山背など淀川水系を転々としていた。大和に入ることができたのは、それ以前の王統の血を受け継ぐ仁賢大王の娘・手白香皇女と結婚し、入り婿の形でヤマトの王統につながることができたから。
古墳時代の倭国には夫婦合葬の風習はなかった。渡来人集団では夫婦合葬だったが、倭人集団では違った。妻は死ぬと、里方の父の墓などに合葬されるのが一般的だった。つまり、同族関係が合葬の原理だった。
うへーっ、そうなんですか・・・。昔の日本では、夫婦は死んだら別々のお墓に入っていたのですか・・・。知りませんでした。最近、そういうのが増えているそうですが、先祖がえりなのですね。
8世紀末ころの日本の人口は540〜590万人程度だった。
天平7年(735年)ころ、五位以上の位階をもつ官人は、天皇に親しく仕えつつ国政を領導する「マヘツキミ」で、8世紀はじめに150人いた。ところが、天平末年から人数が増えて200人ほどになり、その後は300人台で推移した。
奈良朝では、事務決裁は口頭でなされていた。下級者が文書内容を読申し、上級者が口頭で「宣」を下す。これが読申公文(どくしんくもん)という、律令制本来の決裁方式だった。ところが、文字文化が浸透していったので、決裁者が文書を黙読し、次々に決裁を下していく新しい方式に変わった。これを申文刺文(しんぶんしぶん)という。どちらも私の知らない用語でした。古代史の研究は相当すすんでいるようです。
2007年05月22日
蘇我氏四代
著者:遠山美都男、出版社:ミネルヴァ書房
蘇我入鹿は王位の簒奪という許されざる野望を抱いたため、それを阻止しようとした中大兄皇子に大極殿で討たれた。そして、その父蝦夷もまた討伐軍に滅ぼされ、ここに権勢を誇っていた逆臣蘇我氏は滅亡し去った。これが通説です。しかし、著者はこれに対して敢然と挑戦します。わずかの資料を手がかりに想像力をフルに発揮して謎解きをしていきます。学者って、すごい才能とくに想像力と総合力の持ち主だということを痛感します。
蘇我氏の活躍した時代はまだ天皇とは呼んでいなかったので、大王と表記されています。ですから、皇子も王子です。この時期、王宮内に「大極殿」はない。
蘇我氏を百済系の渡来人とする説がありますが、著者はそれを否定します。
5世紀の日本では、大王位は後世のように特定の一族に固定はしていなかった。この時期、大王を出すことができる一族は複数存在した。ところが、5世紀後半から6世紀半ばは欽明大王の時代には、大王位が特定の一族、すなわち欽明の子孫で限定、固定されるようになった。ここに初めて、厳密な意味での王族(大王家)が成立した。
蘇我氏とは初代の稲目が葛城氏の娘と結婚し、葛城氏の血脈に連なることによって成立した豪族だった。稲目は、かつて大王を出すことができた一族で、その資格をもっとも早く否定された葛城氏の血脈を相承する存在だったからこそ、彼の娘は大王の妃として迎えられる資格を存在的に認められていた。
蘇我氏とは大和国高市郡の曾我の地名に由来する。曾我というのは、この一帯がスゲ(菅)の繁茂する地として知られていたことによる。スゲは事物を浄化する呪力を秘めた神聖な植物と見なされていた。蘇我というウジナは、大王に奉仕する一族の政治的な称号だった。
初代の稲目は、今では、その祖父の名前すら伝わらない、その限りでは氏素性の分からない人物だった。そのような稲目が大王の政治・外交を補佐する筆頭である大臣という住職に就任できたのは、やはり稲目に代表される蘇我氏が葛城氏の血脈を継承していたから。厩戸は王位継承資格者の一人ではあったが、皇太子ではなかった。この時期にはまだ摂政と呼ばれる公的な地位もない。唯一の皇位継承予定者としての皇太子の地位が成立するのは100年後の689年のこと。
厩戸の両親は、いずれも蘇我稲目の娘を母としていたから、彼が蘇我のテリトリーのなかで育てられたことは疑いない。
蘇我蝦夷は、その母を介して、自分は物部氏の一員であるという意識をもっていた。当時のこの階層の者は等しく、父方・母方いかなる一族に属するかということで自己を認識していた。
皇極大王と軽王子という姉弟は、いわば共謀して入鹿を殺害し、中大兄皇子の即位資格を否定した。入鹿暗殺の責任は皇極大王と、皇極の同母弟である軽王子(のちの孝徳大王)だった。
斬りつけられたときの入鹿の言葉が、有名な次の言葉です。
臣、罪を知らず。
この言葉は、蘇我家が大王家乗っとりなどとはまったく無縁であったことを反映するものだというのです。うむむ、これだから歴史書を読むのは大変楽しいんですよね。
2007年06月08日
吉備の弥生大首長墓
著者:福本 明、出版社:新泉社
岡山に楯築(たてつき)弥生墳丘墓というのがあります。この楯築という珍しい名前は、桃太郎伝説の下地にもなったという温羅(うら)伝説によります。温羅が城を築いて人々を襲うので、考霊天皇は皇子を派遣して退治しようとする。温羅と対峙して防御するために石の楯を築いた。これが楯築神社に今もある立っている巨石である。たしかに、写真でみると、かなりの巨石が立っています。
楯築弥生墳丘墓も、都市化の波に洗われて、すぐ近くまで民家がたち並ぶようになりました。そして、給水塔がつくられることになったのです。ところが、給水塔によって墳丘墓の全部が破壊されたわけではありません。突出部の列石は保存されています。
想定復元された楯築弥生墳丘墓の全容がカラー画像となっています。中心は円形になっていて、上下に長方形の突出部がくっついています。円丘部分は40メートル、突出部を含めると80メートルとなります。かなりの大きさで、弥生墳丘墓としては最大です。
墳丘墓の中央に木棺がありました。木材は腐朽して残っていませんが、棺の底に朱が敷かれていました。今も鮮やかな赤色を放っています。厚さ1センチ、総重量32キログラムもありました。「途方もなく膨大な量」だと指摘されています。
朱というのは、水銀の化合物である硫化水銀のこと。天然には辰砂(しんしゃ)と呼ばれる鉱物として存在する。この朱の産地がどこであるかは、まだ特定できていない。中国や朝鮮から搬入された可能もある。
朱の役割は、引き継ぐべき首長の霊を復活させ、その霊力を高めるために使用されたもの。鎮魂のための道具立てとして大量の朱が用いられたと考えられる。
この棺内から、鉄剣一口と三連の玉類が出土しました。翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)、瑪瑙(めのう)の棗玉(なつめだま)、碧玉(へきぎょく)の管玉(くだたま)です。
円丘部の斜面にめぐらされた二重の列石と、その間を埋める円礫、そして墳頂部に立ち並べた巨大な立石群、周囲に敷かれたおびただしい数の円礫は、墳端から見上げると、そびえ立つように見えただろう。いやがうえにも神聖さと首長の偉大さを強調したと思われる。たしかに巨大な墳丘墓であることが写真と図版でよく分かります。
岡山は日本文明発祥の地だと口癖のようにいつも言っていた同期の弁護士(山崎博幸弁護士)のふくよかな顔を思い出しました。
2007年09月07日
多賀城、焼けた瓦の謎
著者:石森愛彦、出版社:文藝春秋
アテルイが活躍していた時代の様子が絵で再現されています。イメージを豊にふくらませることができました。
奈良時代の780年、伊治公呰麻呂(これはりのきみまろ)が朝廷に対して反乱を起こした。按察使(あぜち。長官)の紀広純(きのひろずみ)を取り囲んで殺害した。
645年の大化の改新のあと、東北地方にも奈良朝廷の勢力が次第に拡幅していった。現在の新潟県の阿賀野川の河口に渟足柵(ぬたりのさく)がつくられ、次第に北上していった。今の仙台に近い多賀城がつくられたのは724年、秋田城は733年、伊治(これはり)城は767年。
この朝廷の柵より北側に住む人々を「蝦夷」(えみし)と呼んだ。この蝦夷を中央集権国家に組み込むため、城柵(じょうさく)をつくった。だから、城柵には三つの役目があった。饗給(きょうきゅう)、斥候、征討というもの。饗給とは、物資や位を与え、朝廷へ恭順させること。
このころ東北地方で砂金がとれるようになって、奈良の大仏を金で飾ることができた。金のとれる東北地方に朝廷はますます目を向けた。
朝廷は蝦夷を征服すると、全国へ強制的に移住させた。九州にも776年に400人近くの蝦夷が送られている。ひゃあ、そうなんですか。九州にも蝦夷の血が混じっている人がいるのですね。
圧迫され、隷従を強いられた蝦夷たちが反乱にたちあがり、多賀城が焼きうちされた。その後、なんと25年間も争いが続いた。
789年3月、5万の朝廷軍が蝦夷を攻めた。ところが、アテルイやモレたちの反撃によって朝廷軍は大敗した。
794年、今度は坂上田村麻呂は10万の兵とともに進撃し、ついにアテルイたち蝦夷軍をうち破った。アテルイとモレは降伏し、京都に送られた。坂上田村麻呂は助命を願ったが、2人は斬首されてしまった。
『火怨』(高橋克彦。講談社)に描かれたアテルイの知略にみちた戦いを思い出しました。
焼き討ちにあった多賀城の焼けた瓦が最近になって発掘されたのです。この本は、その発掘調査をふまえて、つくられました。
(2007年7月刊。1429円+税)
2007年11月22日
空母エンタープライズ
著者:エドワード・P・スタッフフォード、出版社:元就出版社
夜間戦闘機のない時代の航空母艦です。
ミッドウェー海戦の前、アメリカ海軍のニミッツ大将は敵(日本軍)には知られていない武器、空母部隊一つ分に相当するものを持っていた。それは暗号解読班である。日本軍の暗号を知っていた。ニミッツは山本五十六大将の攻撃計画のいつ、どこへという重要な要素を知っていた。
1941年12月から1942年6月まで、日本海軍の絶対優勢期、そして日米海軍がほぼ互角の戦力で死闘をくり広げたソロモン諸島での戦いで、ビッグEと呼ばれた空母エンタープライズは主要な海戦のほとんどに参戦して大活躍しました。もちろん、日本海軍を次々に撃破していったわけです。読んでいると、日本軍って、どうしてこんなにバタバタと撃ち落とされてしまうんだろうと歯がゆさを覚えるほどです。彼我の科学技術力と物量の差を改めて感じざるをえませんでした。
ところが、無敵を誇っていたかのような空母エンタープライズは、日本の敗戦間近の5月14日、フィリピン海において神風特攻機によって戦闘不能となって、戦線を離脱せざるをえなくなり、修理のためパールハーバーへ向かった。
その前の年の半年間で、空母エンタープライズ一艦によって、日本海軍は、艦艇19隻、飛行機300機を失っていた。
戦艦武蔵に対する雷爆撃では外れたのが少なかった。18個の1000ポンド爆弾のうち11個が命中した。多くが中心線に沿って中央部の近くに当たった。魚雷は8本全部が命中した。巨大な戦艦は一瞬、至近弾と命中した魚雷が高く上げた水飛沫、炸裂した爆弾から舞い上がった白い煙、火災による黒煙により見えなくなった。それから長く黒い艦首が沸騰する大釜からゆっくりと滑り出てきた。武蔵は艦首から沈んで停止し、炎上した。これは、最高の対空兵器を装備した近代戦艦が航空機の攻撃だけで沈められた最初の例である。
マリアナ沖海戦のとき、空母エンタープライズは2隻の敵空母に10個の爆弾を命中させ、12機の敵機を撃墜した。そのかわり、飛行機5機を失った(ただし、戦闘で失ったのは1機のみ)が、人員の損失はなかった。
攻撃機216機のうち、100機が失われた。20機は戦闘で、80機は燃料切れと着陸時の事故により。その100機の搭乗員209人のうち死亡したのは49人のみ。
アメリカ軍の戦死者は全部で55人。そのなかには、事故による死亡6人も含んでいる。
この本を読むと、日本軍と違って、アメリカ軍が末端兵士に至るまで、その人命の損失を重大視していたことがよく分かります。そこに初めから勝負があったのではないでしょうか。
ミッドウェー海戦、ガダルカナル上陸作戦そしてソロモン海戦などで、アメリカ海軍も日本軍よりは優れたレーダーをもっていても、今のように衛星から追跡できなかったわけですから、広い太平洋のなか、いつ、どこで遭遇するか分からないという賭けをしていたのだということがよく分かります。アメリカ側からみた太平洋戦史を日本人が知るのも、あの戦争の実相を認識するうえで大切だと思いました。
ちなみに、空母エンタープライズは2万トン弱で、飛行機も90機しか運んでいませんでした。まさに中型空母です。
(2007年8月刊。上下巻。2300円+税)
2007年12月17日
広開土王碑との対話
著者:武田幸男、出版社:白帝社
高句麗の「広開土王碑」は、日本でもよく知られた存在です。
広開大王といいますが、本名は談徳で、生前は永楽太王と称し、広開土境好太王とか、いろいろな名前で呼ばれる。
著者は、この広開土王碑を現地で3度も見たそうです。1984年、1985年、 1997年です。私も一度、現地で見たいとは思いますが、恐らく無理でしょうね。
1913年初冬に撮られた広開土王碑の写真が紹介されています。広い大平原が雪に覆われ、民家のそばに碑がむき出しのまま、ポツンと建っています。
広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。
1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。今は、建物内にきちんと保存されているようですが、長く風雪にさらされていたことが分かります。
この碑文の拓本が古くから出まわっていましたが、実は、石灰拓本でした。ニカワと水で練った石灰泥で崩れた字画を整え、明晰な碑字に手直しして拓出したものです。
つまり、碑面や碑字をそのまま拓出した墨本ではない。したがって、一次資料ではない。それを無視して、一次資料と広く扱われてきた。
現在、肝心の碑面は永久に復元不可能の部分があり、多くの碑字は今なお釈文不能である。王碑の完全完璧な釈文は望めない。しかし、先人の英知と努力を継承して、ほぼ8割が釈文され、推釈可能なものを加えたら9割近い。
著者は広開土王碑が発見されたのは1880年のことで、それは当時の中国の懐仁県知県(知事)によるものだとしています。
そして、日本陸軍参謀本部につとめる酒匂景信(さかわかげあき)陸軍少尉が1883年に「拓本」(墨本)を取得して日本へ帰って、広めた。
碑面を目にした著者は、波うつような凹凸の碑面、碑面に穿たれた数えきれないほどの傷痕に驚いています。満身創痍の王碑なのです。なぜか?
1600年間にこうむった風化作用の結果が第一。自然石は、比較的軟弱な角礫凝灰岩である。拓本の作成者たちは、たえず碑面に石灰を塗り、石灰で補修をつづけてきた。
しかも、1880年に発見された碑石の拓本をとるため、からみついていた苔蘇に火をかけて除去した。碑石が埋もれていたとか、水難にあったというのは考えられないが、たしかに火難にはあっているというのが著者の考えです。
1913年に碑石を実見した中野政一陸軍少佐は、拓匠が碑面の凹所に石灰を塗りこみ、字を刻って石摺りするのを見て憤慨しました。
つまり、拓本作製者は、「碑文抄本」にしたがい、あれこれの碑字を確かめながら、碑面に石灰をぬって石灰整形をほどこしていたのです。継続して大量の石灰が塗布され、激しい風化や罹災等で損傷し、荒みきった碑面を平らに調整しつづけた。
実は、広開土王碑については李進熙氏による日本軍が石灰で加工し、偽造したものだという説が1972年から唱導されており、私もそれを読んで、大いに動揺したものでした。
著者は、日本軍部による偽造説をまったく根拠がないと排斥しています。
私も、この本を読んで、なるほどと思いました。というのは、碑文の読み方が、これまで、まさにてんでんばらばらだったからです。たとえば、於と自、山と岡、黄と履、負と首・頁、土と上、碑と稗、永と衣・木・不というように、同じ字について見解が分かれ、あるいはいくつもの読み方が充てられているのです。
この碑文が日本で有名なのは、倭が登場するからです。辛卯年(391年)に、高句麗と倭のほか、百済(百残)と新羅の両国が再出し、かつて高句麗が両国を属民・朝貢関係においたこと、わけても倭がその只中に登場して、両国を臣民にしたことが読みとれるからです。つまり、大和朝廷が日本全土を統一して、朝鮮半島まで進出していたと解するわけです。そこで、それは日本軍部が偽造したという説が出てくるのです。
李進熙氏は意識的なすり替えを主張したが、では本来の碑字が何であったのか明らかにしない。本字があっての「すり替え」偽造のはずなのに、その本字を明らかにしないのはおかしい。著者は李氏を、このように厳しく批判しています。
ただし、この倭とは何者なのかについて著者はこの本ではふれていません。倭を大和朝廷を中心とする日本のことと考えることはできないというのが今日の学者の多くの考えだと思いますが、いかがでしょうか。朝鮮半島と日本(とくに九州)とにまたがって勢力をふるっていた人々を倭と呼んだという考えです。
いずれにしても大変勉強になる貴重な本で、広開土王碑についての認識を深めました。
(2007年10月刊。1800円+税)
2008年02月15日
継体天皇と即位の謎
著者:大橋信弥、出版社:吉川弘文館
継体天皇はそれまでの大和王朝が途絶えて、外部から侵入してきた「革命」政権であるという見方があります。継体天皇は目が離せない存在です。
6世紀に登場する継体天皇(当時の呼び名は天皇ではなく大王です)は、古事記では父母の名さえ書かれていない。
雄略天皇(大王)が死んだあと、王統が断絶する危機が顕在化し、傍系の「王族」の中から葛城氏を中心とする勢力によって擁立された顕宗・仁賢と、和邇氏を中心とする勢力により擁立された継体が有力化し、2つの王統が対峙する展開となった。比較的長い並立状態が続いたあと、両王統のあいだで妥協が成立し、継体の即位が実現した。
継体の擁立勢力の中心となったのは、あくまで越前三国の豪族であった。息長(おきなが)氏の役割は、それほど大きいものではなかった。
継体は、近江あるいは越前から中央に進出し、武力で王位を簒奪した地方豪族ではなく、5世紀の大王家と系統譜的につながる傍系の王族であった可能性が高い。
継体の母は、越前の諸豪族と婚姻関係のあった越前三国に本拠を置く地方豪族であったことは間違いない。
継体天皇は、即位して20年もたって、ようやく大和の地に入ることができた。それまでは大和の周辺をうろうろするだけだった。継体は、実質的には新しい王統を切り開いた。 著者は、継体の出自を近江の古代豪族である息長氏とする説を否定しています。
継体天皇の末期に北部九州(八女)で、筑紫君磐井を中心とする一大内乱が生起し、近江臣毛野(おうみのきみけぬ)を将軍とする新羅派遣軍の渡海が阻止された。今城塚古墳が継体天皇の墓だと推測される。ぜひ、発掘してほしいものです。宮内庁が発掘を許可しないのは間違いだと思います。日本が決して「万世一系」の国ではないことが実証されるでしょう。
いずれにしても、日本の天皇家が単純に「万世一系」というようなものではないということは間違いないと改めて思いました。
(2007年12月刊。2400円+税)
2008年12月12日
筑紫の磐井
著者:太郎良 盛幸、 発行:新泉社
6世紀の初め、北部九州、八女の地に巨大な岩戸山古墳を築いた偉大な王がいました。大和王権に対抗して戦った筑紫の大王(おおきみ)・磐井(いわい)の偉大な生涯を描いたスケールの大きな小説です。
私は八女によく行きますが、岩戸山古墳は遠くから見るくらいです。この本を読むと、「大和朝廷に反逆した」という通説がいかに間違っているか、再認識させられます。九州には、奈良にいた大王(おおきみ)と対抗していた立派な大王がいたのです。
著者は岩戸山歴史資料館の館長をつとめる、元は高校教師だった人です。それにしても、よく描けた小説だと感心しました。古代朝鮮半島の状況、そして、大和朝廷における諸勢力の抗争との関連で、筑紫の大王・磐井の活躍ぶりが生き生きと語られていて、一気に読みとおしました。今度こそ、岩戸山古墳にのぼって実見してくるつもりです。著者も、この小説が縁となって、多くの人に八女を訪れていただければ幸いです、と語っています。
この時期、筑紫・肥・豊国などの北部九州の豪族は、個々には独立した国であったが、筑紫君を盟主として穏やかな連合王国を形成していた。そして、各豪族は、周辺諸国との友好関係と先進文化を求めて、後継者と目される男子を大和王権や朝鮮半島の新羅・百済などに留学させていた。
筑紫連合王国は、大和王権とは一線を画し、つかず離れずの状態にあった。連合王国にとっては、大和・新羅・百済が対立を強めず、伽耶(かや)諸国が安定していることがもっとも望ましいことだった。
この当時、多数の人に聞こえる大きな声を出すことは、王や将軍にとって欠かせないことだった。磐井は、上に立つ者は、はっきりと大きな声で話すことが大切だ、日頃から心がけておくように、と常日頃から言われていた。
南九州一円には、大和王権の支配に属さない隼人(はやと)という勢力がいた。その中でも、急速に勢力を拡大しつつあったのが、薩摩隼人だった。今でも、ものすごく毛深い男性を時折見かけます。きっと隼人の血筋を引いているのでしょうね。
501年9月5日、磐井は筑紫君(つくしのきみ)を襲名した。
今後さらに筑紫連合国を発展させて、大和王権や朝鮮半島諸国と対等に親交できる国としたい。そのためには、まず、政(まつりごと)の仕組みの充実と、鉄製武器・農具の生産を増加させることだ。磐井は、政を政部(まつりごとぶ)、大蔵部(おおくらぶ)、司法部、戦部(いくさぶ)の4部門に分けた。そして、司法部の充実にとくに力を入れた。
磐井は、筑紫連合王国全体から大王(おおきみ)と呼ばれることになった。
奈良では、継体大王の即位に大和豪族が根強く反対したため、継体大王はなかなか大和に入ることができなかった。そうなんです。継体大王とは何者なのか。今も議論が続いています。日本の天皇は万世一系ではないのです。
岩戸山の古墳が完成したのは518年。墳墓の特徴は別区にあった。別区には、裁判の様子を表すため、中央に解部(ときべ)に見立てた一丈(つえ。3メートル)もある大石人が立てられ、前には盗人に見立てた正座をした石人が置かれ、傍には盗んだものと分かる猪が4頭置かれた。
東側には、2丈四方の石で造った3つの宮殿、北側には1丈半四方の2つの石蔵が置かれた。石殿は、門、階段、しきりのある部屋、屋根など、実物そっくりに造られていた。西側には3体の武装石人、3正の飾り馬が並べられた。また、墳墓の周りには、武装した石人、石盾が120体も並べられた。
墳墓の入口にあたる北と南には、赤・青・白などの顔料で飾った力士に見立てた石人も墳墓の番をするように2体ずつ立てられた。
526年9月、継体大王は、ようやく大和入りした。そして、磐井を討たなければ大和王権は危うい、として3万の討伐隊を九州に差し向けた。
このあと、磐井の指揮する連合王国軍が大和王権の討伐軍と果敢に戦う様子が活写されます。この本がどこまで史実を反映しているのか知りませんが、古代日本が奈良の大和朝廷によって一元支配されていたわけではないこと、朝鮮半島と古代日本とは人的にも政治的にも密接な関連があったこと、そして継体大王と戦って敗れた磐井大王が、単なる大和朝廷への反抗児でなかったことは確実だと思ったことでした。
(2008年1月刊。2000円+税)
2008年12月21日
日本の原像
著者:平川 南、 発行:小学館
5世紀の倭国王は、稲荷山古墳出土鉄剣や江田船山古墳出土鉄刀の銘文にみられるように、仕え奉っている人からは「大王」と呼ばれていた。しかし、鉄剣銘に「王賜」と見えるように、倭国王自身は日本列島の内外で「王」と名乗っていた。王の一字だけでもオオキミと読まれる。
607年に派遣された小野妹子が携行した国書を見て隋の煬帝は怒った。それは、中国の皇帝と同じ「天子」を蛮夷の国である倭国王が名乗っているのを無礼としたのである。煬帝は、「天子」という対等関係を記した国書を許さなかった。つまり、煬帝は「日出づる処」とか「日没する処」というのに怒ったわけではないというわけです。
推古朝のときは、国内的には「王」か「大王」を、対外的には「天子」を用いていて、まだ「天皇」という言葉は使っていなかった。
日本の君主の称号が公式に「天皇」と定められたのは、「皇后」の呼称と同じ飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によってのこと。(689年)。
中国の唐朝において、高宗を「天皇」、武后を「天后」と称した。天皇というのは、本来、宇宙を統治する天帝という意味である。武后は皇帝より一階級下げた意味で「天皇」号を定めた。つまり、中国では「天皇」号は「皇帝」の称号より下位に位置づけられていた。したがって、日本が「天子」「大王」にかわって「天皇」号をつかっても中国にとって何ら不都合はなかった。
天皇の和訓はスメラミコトである。スメラとは「澄む」に由来し、聖別された称号である。ヤマトの大王は天子またはアメタリシヒコと称していたが、天武朝に至って、このアメタリシヒコから「清浄な神」スメラミコト=天皇へと昇華した。
古事記には一例も「日本」が出てこない。日本書紀の「日本」に対して、古事記は「倭」と呼んでいた。「天皇」号も「日本」国号も、その大前提として中国の承認が必要だった。中国にとって不都合でないと認められたものを選ばなければならなかったのである。
日本は、仏典の説く「日出ずる処は是れ東方」という位置づけに置いた。あくまでも中国的世界像の東方に位置づけたことから、中国側も容認したのであろう。
うむむ、日本という国名も、天皇という称号も、ともに中国の許容しうる範囲内のものであったというわけなんですね。驚きました。知りませんでした。
稲の品種名は、古来、和歌や農書など、さまざまな文献に記されてきた。国家経済の根幹である稲作に対して、人々が常に関心を寄せてきたことの表れである。
出挙(すいこ)は、毎年、春3月と夏5月に国家が農民に稲を貸し付けて、秋の収穫時に普通は5割の利息とともに徴収する制度である。この5割の利息は、国家財政にとって魅力的なものであった。
稲の品種改良が多かったことは、品種ごとの成長時期のずれによって、風倒などの被害の危険性が分散されるわけである。風水害だけでなく、病害虫に対する備えとしても多品種の作付けは有効である。
古代日本と中国の関係について、さらに認識を深めることができる本でした。
(2008年9月刊。933円+税)
2009年03月02日
継体大王の時代
著者 高槻市教育委員会、 出版 吉川弘文館
淀川流域にある今城塚(いましろづか)古墳こそ継体大王のお墓であることは反論もなく定説化している。このころは、まだ天皇と呼んでいなかったので、大王となっています。
それまでのヤマト王権の大王たちの地域的な基盤は、ヤマトや河内にあった。その北になる淀川水系は、ヤマト王権の本来の領域には含まれていなかった。継体大王を支えたのは、近江、尾張、越前といった畿内東辺の勢力、そして淀川水系の勢力であった。
継体大王のあと、また大王のお墓は大和川水系の大和、河内に戻っていった。
古墳時代の前期や中期のヤマト王権は、列島各地に基盤を置く首長たちが首長連合とでも呼んだらいいような政治的まとまりを形成していた。その中心が畿内連合で、その頂点に大王が位置していた。
5世紀後半からの後期になると王権は、より中央集権的で強力な体制の形成を目指し、各地に盤踞(ばんきょ)していた大首長勢力(旧勢力)の在地支配を弱体化する、あるいは解体するとともに、この時期に台頭してきた新興の中小首長層や広汎な有力家長層(新興勢力)を王権の新しい支配秩序のなかに組み入れようとしはじめた。
ヤマト王権の動揺期に、それに乗じるかのように九州勢力が強大化し、西日本を中心に日本海沿岸の各地や瀬戸内海沿岸の所々に勢力を拡大していった。
九州の宇土(熊本県)に産する阿蘇ピンク石(馬門石、まかどいし)製の刳抜(くりぬき)式石棺が畿内や近江に運び込まれた。この阿蘇ピンク石製刳抜式石棺は、中期の王権に批判的な立場の畿内やその周辺の一部の勢力が、九州有明海周辺の勢力との関係のなかで石材を求め、独自の石棺をつくった可能性が高い。
九州勢力は、一つの強固なまとまりというより、中期的な比較的緩やかな首長連合的まとまりで、畿内を圧倒するに至らず、かえって王権による中央集権的な体制づくりが進行するなかでは解体されるべき運命のものであった。磐井の乱は、そのような性格の戦いだった。ふむふむ、九州人の私としてはとても残念な気はしますが、そうだったのでしょうね。クシュン。
有明海沿岸の勢力が朝鮮半島との交渉、交易に中心的な役割を果たしていた。これは、江田船山古墳(熊本県)の見事な百済、大加那系の金銅製の装身具を見ても確実である。
有明海沿岸に産出される石が継体大王の墓に運び込まれていることを初めて知りました。やはり、八女の磐井の乱は、九州勢力の強大さを意味するものだったのですね。よかった、よかった・・・。
(2008年10月刊。933円+税)
2009年03月09日
原の辻遺跡
著者 宮崎 貴夫、 出版 同成社
壱岐島へ行ったら、ぜひ原の辻遺跡にも行ってみてください。一見の価値はあります。吉野ヶ里遺跡ほどのすごさはありませんが、古代日本が朝鮮半島そして中国と密接なつながりを持っていたことを実感させてくれる遺跡です。今では、立派な博物館もすぐ近くに併設されていて、解説によってさらに理解できます。
原の辻遺跡は、「一支国(いきこく)」の中心となる王都であることが今では確定している。「一支国」は、3世紀の中国の正史「三国志」魏書東夷伝倭人の条。いわゆる『魏志倭人伝』に登場している国の一つである。「官を卑狗(ひこ)と言い、副を卑奴母離(ひなもり)という」「3千ばかりの家」があるとされている。他の国が「戸」という世帯数で表されているのに、一支国と不弥国のみ「家」というあいまいな表現になっている。これは、島民の航海のための長期にわたる海外出張や、大陸や本土からやってくる交易のための渡航者が多いため、人数が確定しにくく、魏の使者から人口を問われて、あいまいに答えたことによると考えられている。
うへーっ、そんな違いがありうるのですか……。
遺跡から、ココヤシ製笛、青銅製ヤリガンナ、権(はかり。チキリのこと)が出土した。環濠に棄てられた人骨は、男と女、子どもも含んでおり、北部弥生人や西北九州弥生人タイプも認められた。そして、人骨には関節がついた状態や刃物の痕跡も認められた。
4世紀の壱岐をめぐる情勢は、高句麗が313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼし、315年に玄蒐城を攻破している。原の辻遺跡は、中国との対外交渉の場所である楽浪郡・帯方郡との足がかりを失ったことが決定的な打撃となった。また、日本列島のほうでは、中国の魏と西晋を後ろ盾とした「邪馬台国連合体制」から「ヤマト政権」への再編がすすんでいた。そのなかで原の辻遺跡の存立基盤が失われていた。
原の辻遺跡には、船着場跡がある。これは、日本最古であり、東アジアにおけるもっとも古い船着場跡でもある。原の辻遺跡には、楽浪系土器、三翼鏃(やじり)、五鎌銭(前漢)などの中国系文物も出土している。韓人、倭人のほか、楽浪漢人も訪れ、交易をしていたことが分かる。
王奔の「新」14年に作られた「貨泉」も出土している。
原の辻遺跡は、まだ10%が発掘されたにすぎないそうです。だったら、これからの発掘調査の進展が楽しみですね。
現場は、だだっぴろい平野地帯です。人家もあまりありませんので、これからも続々すごい遺物が出てくるのではないでしょうか。大いに期待しています。
土曜美に大分に行ってきました。夜、フグをしっかり賞味しました。いやあ、美味しかったです。フグ肝がこんなに素晴らしい味だとは思いませんでした。いえフグ肝を初めて食べたのではありません。とにかく形は大きいし、その柔らかさといい、とろけるほどの舌触りで、なんとも言えない絶品です。私の前にいた大分の弁護士は、だけどこれを食べ過ぎると痛風になってしまうんだよね、と言いつつ食していました。
フグ刺しも身が厚くて、ネギを巻いて堪能しました。あっ、フグの唐揚げも絶妙な味でしたよ。それに、あのヒレ酒が出てきたのですが、これがまたなんとも言えぬほどのまろやかな味わいで、ついついおかわりを所望したくなるほどでした。ごちそうさま。
(2008年11月刊。1800円+税)
2009年03月27日
継体天皇、二つの陵墓 四つの王宮
著者 森田 克行・西川 寿勝・鹿野 塁、 出版 新泉社
継体天皇(大王)の実態を知るために、多くの図と写真があって、大変楽しく学べる本です。
継体天皇が注目される理由の一つは、現在の天皇家につながる最初の天皇ではないかと考えられていることによる。
天皇家の系統は実は3系統ある。えっ、日本って、万世一系の天皇が支配してきたんじゃなかったの……。そう思った人は、皇国史観に毒されています。それは間違った認識です。
よく調べると、皇位継承が円滑にいかなかった時期が2回ある。第1回目は仲哀天皇から広神天皇の間で、2回目が武烈天皇から継体天皇の間。
日本で馬の国産化が定着するのは400年代後半のこと。このころ朝鮮半島では高句麗が南下し、百済や伽耶諸国を圧迫する。500年ころからは、日本にも騎馬兵が増加する。古墳に副葬されたヨロイが短甲から桂甲、つまり徒歩用から乗馬用に変化した。
継体天皇にとって、仏教の拡散は耐えがたい憂鬱だったと推測できる。継体天皇が死んで7年目(538年)に、仏教が日本に公伝した。
鐘の縁に鈴を鋳造した鈴鏡(れいきょう)と呼ばれる一群の鏡が500年代前半の古墳から全国的に出土した。これは中国起源ではなく、日本独自のものである。鏡の周辺部にあとから鈴を溶接したものではなく、鋳型に金と鈴を同時に彫り込み、一鋳づくりで仕上げたもの。
400年代前半ころから、古墳の副葬品に馬具がみられる。これらの馬具は、乗馬の風習がこのころ伝わって来たこと、馬具が当時の人々にとって非常に重要なものであったことを示している。
この本には、数多くの図版が入っているため、本来の古墳がどのように作られていたのかを容易に理解することができます。
そして、朝鮮半島からの渡来系の人々が日本の有力な支配層になったことは間違いないと思いますが、いったい言葉はどうしていたのでしょうか。文字は、どうなのでしょうか。いろいろ疑問も湧いてきます。まあ、だからこそ本を読む楽しみは尽きないわけですが……。
(2008年8月刊。2300円+税)
2009年07月03日
律令期陵墓の成立と都城
著者 今尾 文昭、 出版 青木書店
私は、もちろん奈良に行ったことはありますが、そこに下ツ道、中ツ道などがあるというのは知りませんでしたし、ましてや、そこを歩いたことがありません。ぜひとも、近いうちにこの奈良の古道を歩いてみたいと思っています。
藤原京の復元案について、1965年来の定説が、最近の発掘の成果として再検討されている。
江戸時代、元禄期(1700年ころ)、京都所司代は、奈良奉行所を通じて奈良の村々に陵墓の探索を命じた。天皇陵の調査は、江戸時代から始まっていたわけですね。
天皇(大王)の葬送儀礼は道路、それも交差点(チマタ)で行われることがあった。うひゃあ、そ、そうなんですか……。いわば、大きな広場における大々的な葬式ということなんでしょうね。
7世紀から8世紀にかけて、八角墳がつくられた。これは、即位した大王や天皇が採用した墳形であったと考えられる。当時、優勢だった大豪族の蘇我氏が、積極的に採用していた大形方墳に代わるものとして新たに作り出されたのが、この八角墳ではなかったか。つまり、八角墳の出現は、この時期に大王が諸豪族に超越した地位を目ざしていたことと不可分の動きなのだ。
なるほど、ですね。でも、私は、八角墳というものの存在を、この本を読むまで認識していませんでした。
高松塚の古墳の壁画は、中国南朝の塼画塼室の壁面構成の思想が6世紀に朝鮮半島の百済に伝わり、それが温存された後、唐の画風を日本で再現したものと考えられる。
いやあ、古代日本って今の私たちが想像する以上に、国際交流が盛んだったのですね。著者は、天皇陵だとして宮内庁が厳重に管理して学者の発掘調査を許さないことを厳しく批判していますが、まったく同感です。
天皇一族の祖先が朝鮮半島からの渡来者であることは間違いないものと私は考えています(それでいいじゃないですか。何にも問題なんてありませんよ……)。そのことが発掘調査で裏付けられたら困るというのが宮内庁の考えのようです。でも、そうだったら、それでいいと思うのです。日本だけが優秀な民族だなんていうのは、誤った狭い考えですよ。
昔は、朝鮮半島そして中国大陸のほうが日本列島よりはるかに高度に文化が発達していたのは間違いないのですから。
(2008年5月刊。5500円+税)
2009年08月08日
縄文の豊かさと限界
著者 今村啓爾、出版 山川出版社
青森市の郊外にある三内丸山(さんないまるやま)遺跡を久しぶりに訪れました。佐賀県にある吉野ヶ里遺跡も行くたびに整備がすすんでいて驚かされますが、ここでもエントランスに大きな建物がたっていて、超近代的装いで迎えてくれました。
三内丸山遺跡は、縄文時代の前期から中期にかけての遺跡である。500以上の住居址、多くの貯蔵穴、2列に並列する墓壙群、直径2メートルもある巨木による掘立柱の建造物が発掘され、一部は見事に復元されている。
ここでは、人が居住を開始した縄文前期の中頃に森林が焼き払われた形跡がある。次いで、人間が植林したクリ林となって、クリを主とする食料資源が人々の生活を支えた。
縄文時代の食用植物で今も続いているのは、クリとヤマイモである。
縄文時代は南北に長い日本列島で1万年以上も続いた。
縄文時代には、主として鹿と猪を捕獲するため、陥し穴が広く用いられた。動物は燻製にされ、また、塩漬けにもされていた。
三内丸山遺跡は、直径1メートルのクリの巨木を3本×2列の配置で6本埋め立てたもので、中央広場に繰り返し立てられた。柱根部のみ残っている。物見台なのか、記念物的な列柱が、屋根があったか意見は分かれている。
三内丸山遺跡に行ったのは、7月12日(日)のことでした。よく晴れていましたが、まだ梅雨は明けていないこともあって、それほど暑くもなく、ヨシキリと思われる小鳥が盛んに鳴いていました。
復元された巨大な六本柱の構造物は近くによると、ますます圧倒されてしまいます。この構造物に屋根があったのかという議論には決着がついていないそうですが、私はやはり何らかの屋根はあったと思います。
それにしても見上げると、いかにも高い、巨大な構造物です。昔の人の力を軽視することは許されません。建造に要した膨大な労働力を考えると、やはり何かの宗教的な意味が込められたものであろう。著者はこのように言っています。
青森市内から空港へ行く途中にありますので、一度ぜひ立ち寄ってみてください。
(2008年9月刊。800円+税)
2010年02月06日
超訳 古事記
著者 鎌田 東二、 出版 ミシマ社
うひゃあ、こ、こんな本の作り方があるなんて……。信じられませんよ。畳に寝そべって話す人がいて、それを聴きとる人がいて、そうやって本を作ったというのです。
バリバリと雷鳴が轟き、ピカピカと稲妻が走り、激しい雨音がザアーッと地面を打ち続けているなか、寝そべって話したんだそうです。それも、目をつぶって、なのです。もちろん、参考文献も何も持たず、ひたすら記憶とイメージを頼りに、心の中に浮かんでくる言葉の浮き出るままに語り、録音していったのです。さすがに学者ですね。大したものです。
この本は、「古事記」の上巻の神話を口語に訳したものです。そして、原文に沿った通語訳ではありません。「古事記」自体が古くからの口承伝承にもとづいているので、それにもとづいてつくったというのです。
私は、過去、何度も「古事記」に挑戦しましたが、思うように理解できませんでした。今度の本は、リズム感もあり、なるほど、こういう内容の本だったのかと、すんなり腑に落ちてくれました。とても面白い本です。
(2009年11月刊。1600円+税)
2010年02月07日
合戦の文化史
著者 二木 謙一、 出版 講談社学術文庫
日本には、いわゆる青銅器時代はない。木・石器から、いきなり青銅・鉄器がほとんど同時にもたらされ、その後も、超スピードで鉄器時代へと進んだ。
刃が両側についている両刃の武器を剣、片刃のものを刀と区別している。甲はヨロイ、冑はカブト。平安期以降は、鎧、兜の字をあて、上代の遺品については甲冑を用いて区別している。
日本原産の馬は、木曾馬や道産子馬のように小型であったため、乗用としては適さなかった。6世紀ごろになって、大陸や朝鮮半島との交流のなかで騎乗に適した良種の馬がもたらされ、騎馬による戦闘が各地にあらわれた。
6世紀から8世紀にかけて、日本をとりまく東アジアの情勢は、今日の日本人には想像もできないほど緊迫した状況にあった。
6世紀前半には、日本は伽耶諸国(任那)や百済を支援して高句麗に対抗したこともあったが、6世紀後半には、朝鮮半島から手を引いた。
日本国内は、継体天皇以降、皇位をめぐって凄惨な争いが繰り返されていた。
奈良時代の日本の人口は800万人。そのころ、総兵力は12万9000人と想定されている。きびしい徴兵制度がとられていた。1軍団は1000人ほど。国には3ないし4つの軍団があった。
日本の宮廷親衛隊の多くは農民からの徴兵によるものだった。天皇から軍事指揮権の象徴である節刀(せっとう)を受けて、臨時に任命される征夷大将軍が衛府や軍団の集合軍を指揮して軍事行動を行った。1万人以上を大軍と称した。
大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)らの古代豪族の系譜を引く有力氏族の力を無視できない天皇の地位は、中国の皇帝とは大違いであった。今日の『象徴天皇』と同じようなものである。
日本史の古代より明治期までの軍事史を、ざっと見る思いのする本ですが、知らないことがたくさんありました。
(2008年3月刊。960円+税)
2010年05月24日
天孫降臨の夢
著者:大山誠一、出版社:NHKブックス
とても面白い本です。歴史学界でどのように評価されている本なのかは知りませんが、なるほど、そういうことだったのかと思わず一人で興奮してしまうほど、知的刺激に満ちた本です。東京から帰りの飛行機のなかで読み耽っていると、いつもより早く福岡に着いた気がしました。
著者は、なにしろ聖徳太子は実在していなかったし、憲法17条が、そのころ成立するはずはない、後世の人々がある意図をもって作りあげたものだというのです。そして、この本を読むと、それがまったく納得できるのです。
我々は王家(皇室)は一つと考えているが、実は複数の王家があり、交代で大王(おおきみ)を出していた。その一つが蘇我家である。うむむ、そうだったのですか・・・!?
天皇と皇帝とは、まったく別のものである。何よりも、天皇は皇帝のような専制君主ではない。日本の歴史全体を通じて、一人として唯一絶対の権力者、つまり専制君主であった天皇はいない。
国政のうえでも、現実の場においても、天皇は権力から疎外されており、現実の権力者は常にほかにいた。では、天皇の役割は何だったのかと言うと、客観的事実として、現実の権力者に正当性を与えることだった。日本の天皇には権力はないが、権威はあった。ただし、飛鳥時代までの大王(おおきみ)は、権力者であった。
憲法十七条は、名を聖徳太子にかりて、『日本書紀』編纂に携わった奈良時代初期の為政者によって作られたものである。このような津田左右吉の考えは、今日の通説である。
聖徳太子がつくったという『三経義疏』は、中国からの輸入品であった。ながいあいだ日本人の信仰の対象となってきた聖徳太子は実在しなかった。
『日本書紀』が完成したとき(720年)、藤原不比等は右大臣、長屋王は大納言であった。長屋王の変というのは、長屋王が謀反を起こしたのではなく、光明子と武智麻呂が襲いかかって、政敵である長屋王を虐殺した事件である。
天平時代、天皇も皇后も、彼らを取り巻く女性たちも、すべて藤原不比等の子孫かその近親であった。天皇自身を含めて、皇位にかかわる人間は、実質上すべてが藤原一族であった。皇室といっても、実質的には、藤原氏の一部に過ぎなかった。
仏教というのは、単なる思想・宗教ではなく、建築、土木、金属の鋳造・加工、医学、織物、染色それにもまして文字(経典)という魔術を有する巨大な高度かつ神秘的な技術の集大成なのであり、最高の国家機密に属するものである。したがって、百済が、交戦中である相手の大和王権に仏教をもたらすなど考えられない。
『隋書』に出てくる倭王は男王であり、推古は女性であり、また卑弥呼のような女王でもない。そこで、それは、蘇我馬子だったと考えるしかない・・・。ええっ、そうなんですか・・・?
現代日本人は聖徳太子が実在する存在として考えていますが、それは後世の人が自らの権威づけのためにこしらえた存在であること、それを推進したのは藤原不比等であることが、とてもわかりやすく論証されています。
日本の古代史も、こうやってみると、本当に謎だらけです。また、それだからこそ、面白いのです。私も『憲法十七条』について少し調べてみようとしたことがありますが、役に立つ文献がほとんどなくて困った覚えがあります。
(2009年12月刊。1160円+税)

