弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(古代史)

2019年7月13日

古代日中関係史

(霧山昴)
著者 河上 麻由子 、 出版  中公新書

熊本県の江田船山(えだふなやま)古墳から出土した太刀(たち)の銘文には、「ワカタケル大王」の名前が刻まれていて、これは5世紀後半の雄略天皇をあらわしている。この銘文に登場するムリテ、イタワ(伊太和)は、大王の側に仕えていた人間であるが、中国の皇帝への上表文を彼らのような倭国人が作成できたはずはなく、それは渡来人が作成していた。儒教的観念をふまえた上表文は、まだ倭国人には無理だった。
仏教は、「公伝」したのではなかった。倭国が百済に求めて導入していた。「公伝」というと、百済が仏教を「伝えてきた」ニュアンスだが、実際は違っている。
仏教に関する理解が東アジアでは知識人・文化人が当然身につけるべき教養となり、しかも中国(梁)との交渉に不可欠な要素となっていたからこそ、倭国は仏教の公的な導入に踏み切った。
かつて「日出処」は、朝日の昇る国、日の出の勢いの国、「日没処」は夕日の沈む国、斜陽の国と理解されていた。しかし、今では、「日出処」、「日没処」は、単に東西を意味する表現にすぎないことが証明されている。
「日本」という語は、7世紀の東アジアでは中国からみた極東を指す一般的な表現にすぎなかった。この「日本」を国号に用いることは、中国を中心とした世界観を受け入れることになる。つまり、「日本」とは、唐(周)を中心とする国際秩序に、極東から参加する国という立場を明示する国号だった。
「日本」は国号の変更を申し出て、それを則天武后が承認した。朝貢国であるからには、国号を勝手に変更することはできない。そのため、中国の皇帝の裁可を仰いだのである。ここに、中華たる唐(周)に朝貢する「日本」という国式が定まる。決して唐への対等とか優越と主張するためではなかった。
日本古代史についても、まだまだ解明されるべきことがたくさんあると実感しました。
(2019年3月刊。880円+税)

2018年9月 1日

蘇我氏の古代学

(霧山昴)
著者 坂 靖 、 出版  新泉社

蘇我の蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子が謀殺されたのは皇極4年(645年)の乙巳(いつし)の変。これによって蘇我氏の本宗家は滅亡した。しかし、その他の蘇我氏の血脈は連子(むらじこ)、亜麻呂、赤兄(あかえ)、果安(はたやす)らが政権の中枢で活躍し、蘇我氏の血統は脈々と受けつがれた。
連子の娘である蘇我娼子(しょうし)は、中臣(藤原)鎌子の子である不比等に嫁ぎ、武智麻呂(むちまろ)、宇合(うまかい)を産んだ。このように蘇我氏の血筋は藤原氏に受け継がれた。
5世紀の倭の5人の大王は、その政権の実在性は疑う必要性がなくとも、その実態は、はなはだ心もとないものだった。
江田船山古墳の被葬者は、中国南朝、百済王権、そして倭王武とつながっていた。
倭の5王の支配拠点や墳墓は、大阪平野南部や奈良盆地にあった。
ヤマト王権は、決して一枚岩ではなかった。
蘇我氏の出自は百済高官ではなく、全羅道地域を故地とする渡来人である。
5世紀において、倭(ヤマト王権)、百済・新羅のいずれも広域支配は達成しておらず、ヤマト王権はその足元すら危うい状況にあった。
東漢氏は、常に蘇我氏のもとにあった渡来人集団だった。
稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏4代が飛鳥に拠点をおき、渡来人生産者集団を主導しながら、政権の中心にあったことは争う余地がない。
飛鳥に大王を招き入れたのは蘇我氏である。蘇我氏は渡来人のリーダーとなり、洗心的開明的な思想をバックボーンにもちながら、飛鳥の地を大規模開発し、そこに大王を招き入れた。飛鳥時代のはじまりである。
蘇我馬子が百済の渡来人集団を統率し、法興寺をつくった。蘇我氏の権力の象徴を飛鳥の地につくることにより飛鳥文化を開花させた。まさに、蘇我氏は飛鳥をつくった。
蘇我馬子は、敏達・用明・崇峻・推古の4代にわたって、飛鳥を基盤にしながら権勢をふるった。馬子の墳墓には石舞台古墳と考えられる。この石舞台古墳は、墳丘と固濠斜面に貼石を施した1辺50メートルの二段築成の大型方墳である。石舞台古墳の造営意図は、蘇我氏の実力が大王よりの上位にあったことを墳丘や石室の上で表現しようとしたものだった。
渡来人は帰化人とは違う。日本国が成立する前に「帰化」人というのはおかしい。「帰化人」は、『日本書紀』をつくった人の歴史観によるもので、今では使われなくなった。
 そうか、そうだったのか、蘇我氏も渡来人のリーダーだったのですね・・・。なるほど、と思いました。
(2018年5月刊。2500円+税)

2018年7月22日

日本史のツボ


(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版  文春新書

天皇家は、地域の王から出発して、中国大陸から押し寄せてくる外来文化を積極的にとり入れながら、その文化に独自の改変を加えることで、大陸文化とは異なる「日本文化」をつくり上げることに寄与した。
ヤマト朝廷が支配していたのは、畿内を中心として、東は新潟県、西は九州北部まで。関東や東北、そして九州南部は「化外(けがい)の地」として、支配対象ではなかった。そして、ヤマト朝廷にとって死活的に重要なのは、中国大陸と朝鮮半島の情勢だった。
ヤマト朝廷って、意外に国際情勢に敏感だったのですね・・・。
戦国時代のあとは、天皇は権力を失っていて、天皇の位は権力闘争の対象にはならなくなっている。
鎌倉時代に起きた承久の乱のあと、次の天皇を誰にするかは、朝廷の一存では決められず、鎌倉幕府の承認が必要だった。
室町時代、足利政権は、思うがままに天皇をつくり出すことが出来た。
江戸時代、将軍の代替わりには必ず改元が行われているのに対し、天皇の代替わりでは改元されていない。
天皇は御所から出ることを禁じられ、外出するにも幕府の許可が必要だった。
江戸時代の一般の人々にとって、天皇は視野に入ってなかった。江戸後期になって、庶民が力をつけてくると、天皇を「再発見」した。
天皇家では、新道より仏教が重視されてきた。江戸時代まで、天皇家の葬儀は、神式ではなく、仏式で行なわれていた。神式にしたのは、明治以降のこと。
北条政子がいて、日野富子がいて、日本史のなかで女性が力を発揮した時代があったことは事実。ただし、彼女ら個人に限定された権力だった。女性は、政治というシステムの外側に置かれていた。
戦国時代の墓は夫婦墓が多い。つまり、夫婦で二つ墓が並んでいた。夫婦別性を反映している。江戸時代の元禄期になって以降、家族墓がふえてきた。夫婦同姓になっていった。
江戸時代になって女性の地位が低下したが、これは、世の中が平和な時代になったから。
日本史の現実を考えるときのヒント満載の本でした。いろいろ勉強になります。学者って本当にたいしたものです。
(2018年3月刊。840円+税)

2018年1月28日

文明に抗した弥生の人びと


(霧山昴)
著者 寺前 直人 、 出版  吉川弘文館

いま、弥生時代研究は百花繚乱のさまを呈しているのだそうです。たとえば、弥生時代のはじめの数百年間は、世界的には新石器時代に属する可能性がきわめて高くなっている。  
縄文時代は、ゆうに1万年をこえる長期間である。これは弥生時代の10倍以上となる。縄文時代の人々が栽培植物を利用していた可能性は高い。しかし、それが主なカロリー源となり、人口増加に大きな影響を与えた可能性は低い。
土偶は、縄文時代草創期の後半期(1万2000年前)に登場する。この土偶の分布は地域的にかたよっていて、縄文時代の前・中期では滋賀県より西では土偶が出土していない。西日本に土偶が出土するのは縄文時代後期になってからのこと。ハート形土偶が出土する。
弥生時代の前期、水田耕作とともに、短剣をつかう社会となった。携帯できる武器、石製短剣が登場した。弥生時代中期の遺跡には磨製石剣が刺さった人骨が発見されている。
弥生時代中期に入って金属器が普及しはじめても、各地で磨製石斧や石包丁などの石器が利用され続けている。鉄斧と併用されていた。石製短剣は、人々の半数ほどが所有できるアイテムだったと考えられる。
石という伝統的な材料で製作された武威の象徴を幅広い構成員が所有することによって、武威が特定個人に集中することを防いだとみられる。これは近畿南部の人々のすがたである。
弥生時代と農耕水田との関わり、エリートへの権力集中と、それに抗する動きと、さまざまな社会構造の可能性が大胆に問題提起されています。
すべてを理解できたわけではありませんが、弥生時代の複雑、多様な社会のあり方に触れることができました。
(2017年10月刊。1800円+税)

2017年12月30日

戦争の日本古代史


(霧山昴)
著者  倉本 一宏 、 出版  講談社現代新書

 高句麗好太王碑は有名です。413年に亡くなった好太王の墓の近くに大きな石碑が建てられ、今に残っています。
 明治13年(1880年)に発見され、1884年に陸軍の情報将校(酒匂景信)が拓本を日本に持ち帰った。この碑文について、酒匂が石灰を塗って碑文を改ざんしたという説があったが、今では完全に否定されている。
 この碑文では、倭国は大敗を喫している。ただし、倭国の将兵が渡を渡って朝鮮半島南部に上陸したというのは史実だと考えられる。倭国軍は、朝鮮半島に渡って、百済や加耶(かや)と共同の作戦をとって高句麗と対峙していた。
馬を「うま」と訓じるのは、中国語のマ(バ)が転じたもの。倭語には、この動物をあらわす言葉がなかった。倭に馬はいなかったし、見たこともなかったので当然のこと。また、馬を駒(こま)というのは、高麗(こま)から来ていて、高句麗の動物という意味だ。
筑紫磐井(つくしのいわい)は新羅(しらぎ)と結んでいた。倭国の継体大王は新羅遠征軍を派遣した。倭にとって「任那(みまな)復興」など、いかにも非現実的な願望にすぎないし、すぎなかった。そして、倭国の軍事出動が「平和を望んだ聖徳太子」なるものは、まったく史実に反する誤りである。
 鎌倉時代の蒙古襲来前に、刀伊(とい)が1019年に入寇(にゅうこう)してきた。刀伊は、東部満州のツングース系の民族。女真族は、このころ、しばしば高麗を掠奪していた。
 「ムクリ、コクリが来るよー・・・」と泣き叫ぶ子ども相手に叱る言葉。ムクリは蒙古つまりモンゴルのこと、コクリは高句麗・高麗のこと。
 古代日本が古代朝鮮半島の国々と、どのように関わったのかを考えさせてくれる本です。
(2017年5月刊。880円+税)

2017年12月24日

古墳時代の南九州の雄・西都原古墳群


(霧山昴)
著者 東  憲章 、 出版  新泉社

宮崎県の真ん中ほどの台地(丘陵地帯)にある西都原(さいとばる)古墳群をまだ見たことがない人、行ったことのない人は少なくないと思いますが、日本古代史に少しでも関心があるなら必見ですよ。ぜひぜひ見学されることを強くおすすめします。ちなみに私は数回行っています。
佐賀県にある吉野ケ里遺跡、青森県の三内丸山遺跡も素晴らしいと私も思いますが、なにしろ西都原古墳群は規模が大きい。300基以上の古墳が丘陵のあちこちにあるのは、実に壮観です。
南北4.2キロ、東西2.6キロで、面積58ヘクタールというのですから、その広大さは想像を絶します。そして、古墳時代の全期間を通じて古墳の築造が続けられています。前方後円墳だけでも、32基もあります。
男狭穂(おさほ)塚古墳、女狭穂(めさほ)塚古墳の二つには対になった古墳で、いずれも同じ全長176メートルもの巨大さです。男狭穂塚古墳は日本列島最大の帆立見形古墳であり、女狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳である。
ここからは、鉄製の甲冑(かぶと)が出土しています。さらに、埴輪(はにわ)船や埴輪子持家(こもちいえ)も出土しているのです。見事なものです。
鉄製短甲(要するに胴まわりの防具です)を3コも入れてもらった被葬者もいます。畿内中央政権につらなる九州屈指の上位首長とみられます。
古墳の様子と出土品が多数のカラー写真で紹介されています。まずは、ぜひこの本を手にとって、次には現地へ出かけてみてください。一見の価値ある偉大なるパワー・スポットです。
(2017年10月刊。1600円+税)

2017年8月13日

沖ノ島


(霧山昴)
著者 藤原 新也 、 出版  小学館

海の正倉院とも呼ばれる沖ノ島の写真集です。
8万点に及ぶ宝物があるそうですから、宝島とも呼ばれるというのは当然です。
女人禁制なのですが、この島自体は、田心姫(たごりひめ)という女神そのもの。むしろ女性上位だといいます。
男は、島に上陸する前に素裸になって海中に入って、身を清めなければいけません。歴史作家の安部龍太郎が海中で禊(みそぎ)をしている情景も紹介されています。
沖ノ島での祭祀を司(つかさ)どっていたのは宗像(むなかた)一族。古事記にも登場する豪族でしたが、秀吉の九州征伐の直前に宗像氏貞が病没し、後継ぎがいなかったので、宗像家は断絶した。
昭和29年から同41年までの学術調査によって、島内から10万点もの宝物が採集され、8万点が国宝に指定された。
写真で紹介されていますが、純金製の指輪や金銅製龍頭など、最高級工芸品と呼べるものが本当にたくさんあります。見事なものです。
ササン朝ペルシア製のカットガラス椀片は、明らかにシルクロードの交易品です。
島内には、たくさんの巨岩があちこちにありますが、ともかく人間は神職以外にはいないわけですので、まったく荒らされずに今日に至っています。
ところが、自然天然のまま林に埋もれてしまっているわけではありません。道があり、人の踏み歩く渡り石があるのです。そして、この渡り石は、大勢の人の足によって踏み荒らされていないので、青々と苔むしているのです。私も、これには驚きました。人の手が入っていながら、人が踏み荒らしてはいない自然状態があるのです。
いかにも神様がそこに存在し、生活しているのかのような沖ノ島を活写した価値ある写真集です。
(2017年4月刊。1200円+税)

2017年7月 1日

金工品から読む古代朝鮮と倭

(霧山昴)
著者 金 宇大 、 出版  京都大学学術出版会

古墳時代の日本が朝鮮半島の国々と、いかに関係が深かったのか、視覚的にもよく分かる本です。
新羅の耳飾、大刀そして百済の耳飾と大刀は、似ていますが、微妙に違います。
また、朝鮮半島南部には加耶諸国がありました。かつて任那の日本府といわれた地方でしょうか・・・。大加耶の耳飾と刀は、これまたデザインが違います。
そして、倭と言われていた日本です。耳飾には、新羅、百済、そして大加耶のそれぞれの影響が認められます。大刀も同じです。
冠や耳飾、帯金具、装飾、大刀などの金工服飾品が特定個人に威信を認定・付与する「威信財」として流通した。金工品は、各地の政治集団によって盛んに制作され、地方首長との関係構築の媒介品として配布された。
朝鮮半島の諸国にとって、「倭」との関係は、隣国との交渉を有利にすすめるための切り札、一種の抑止力として機能した。
金工品は、きわめて政治的なアイテムとして活用された。制作技術を周辺に拡散させることは、製品の配布主体である中枢勢力にとって、あまりメリットのあることではない。
ほとんど金でつくられる垂飾付耳飾は、素材確保の難度の構造の複雑さからみて、いろいろある金工装飾品のなかでも群を抜いて生産が困難である。にもかかわらず、垂飾付耳飾は、金工品のなかでもっとも盛んに制作され、流通していた。当時の朝鮮半島の人々が、いかに垂飾付耳飾に特別の価値を見出していたかがよく分かる。
現在、金工服飾品が中央の工房で一元的に制作され配布されたとは考えにくいとされている。今では、地方でも金工品が制作されていたと多くの人が考えている。
日本列島で出土する垂飾付耳飾の形態は、実に多種多様である。このことは、古墳時代の中期以降、朝鮮半島の各地から、系譜の異なる耳飾が継続的に流入し続けていたことに起因している。
日本列島で出土する長鎖式耳飾は、大加耶からの舶載品であるとみなすより、大加耶工人と同じ技術系統に属する工人が、大加耶で耳飾制作が始まるのとほぼ同じ時期に、朝鮮半島から渡来していて、その彼らが日本列島で制作したと考えるほうが自然ではないか・・・。
熊本にある有名な江田船山古墳の出土品は、金板圧着技法、環頭部基部の段差という百済の大刀制作技術の特徴を備えていて、百済で制作された搬入品と思われる。
在日三世の著者による画期的な本だと思いました。写真で紹介されている黄金色に輝く耳飾などは、あまりにすごくて、モノも言えません。私も、ぜひ現物をみてみたいです。
(2017年3月刊。4900円+税)

2017年4月13日

邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡

(霧山昴)
著者 七田 忠昭 、 出版  新泉社

 私は遠くから福岡に来た人には吉野ヶ里遺跡に行くようにいつも強くすすめています。青森の三内(さんない)丸山遺跡にも二度行きましたが、日本の古代国家をイメージするのには、なんといっても吉野ヶ里遺跡を抜きに語れません。行くたびに整備されていて、新しい発見があります。
この冊子は、その吉野ヶ里遺跡の意義を写真とともに分かりやすく解説してくれます。吉野ヶ里遺跡は、筑紫平野に位置します。佐賀市からは遠くありません。
 1989年2月に全国デビューを果たした。発掘が始まったのは1986年5月のこと。
 1988年9月、日本初の巴形(ともえがた)銅器の鋳型が発見された。
 1989年3月、朱塗りの甕棺から、類例まれな把頭飾付き有柄銅剣とあざやかに輝く青色のガラス管玉(くだだま)が発見された。これによって工業団地として造成がすすんでいた吉野ヶ里が遺跡として保全されることになった。売れるかどうかも分からない工業団地より遺跡として保全されたことを日本人の一人として素直に喜びたいと思います。
吉野ヶ里遺跡は、縄文時代そして弥生時代から始まる。そして、稲作を始めていた。
甕棺墓は、高さ1メートル以上の素焼きの巨大な土器を棺としている。大型は成人用、中型は女性と小児用、小型は乳幼児用。全帯で1300基の甕棺墓が確認されている。いくつかの家族の墓地が集まっているとみられる。
墳墓の副葬品からは、沖縄や奄美産の貝殻(イモガイ)製腕輪も発見されている。そして絹布(けんぷ)や大麻(たいま)布も見つかっていて、日本茜(あかね)や貝紫で染めたものもあった。つまり、袖のある華やかな衣装をまとった人がいたことを示している。
 300人分以上の人骨も出土していて、成人男性の平均身長は162.4センチと高身長。私は165センチですから、たしかに昔では高身長ですよね。高身長・高顔の渡来系人骨ということです。
甕棺のなかの人骨には、石鏃(せきぞく)。弓の矢先が突き刺さっていたり、頭骨のないもの、刃傷があるものなどもあり、その大半が戦いの犠牲者だと考えられる。
 女性の人骨は、左腕に11個、右腕に25個のイモガイ製の腕輪を装着していた。司祭者ではないか・・・。
 そして、吉野ヶ里遺跡から、銅鐸(どうたく)も発見されている。
 結局、邪馬台国時代に吉野ヶ里集落内で多くの人々が活発に生活していたことが証明されたのです。ということは、やっぱり邪馬台国は九州にあったということになりますよね・・。
 吉野ヶ里にまだ行っていないという人は、必ず一度は行くべきです。邪馬台国論争が加わりたいなら、まずは吉野ヶ里の遺跡に立ってみてください。奈良は、ずっとずっとあとなんですよ・・・。

(2017年13月刊。1600円+税)

2016年11月27日

纒向発見と邪馬台国の全貌

(霧山昴)
著者 白石 太一郎 ・ 鈴木 靖民ほか 、 出版  KADOKAWA

私は、もちろん邪馬台国は九州にあったと考えています。そして、いつのまにか奈良の大和(やまと)王朝にとって代わられたのです。
ところが、纒向(まきむく)遺跡が発見されてから、ヤマト王権は大和(奈良)にあったという考えが圧倒するようになりました。残念です。でも、本当にそうなのでしょうか・・・。
この本は、福岡と大阪のシンポジウムをまとめて本にしたものですから、最新の議論状況がよく分かります。いろんな問題が、まだ決着ついていないこともよく分かりました。こんな、たくさんの謎が残されているからこそ、歴史学は面白いのですよね。
『魏志』倭人伝という文献の解釈だけなら、九州説に分がある。しかし、考古学の側からは大和説はかなり優位にある。そして、倭国の王権の所在地が九州から東の大和に移ったとする、東遷説もある。
北部九州、とりあわけ福岡県内には額を割られた人骨、石や青銅の鏃(やじり)や剣の切っ先を体内に残して葬られた人骨が多く出土している。吉野ヶ里遺跡などには首が切断された人骨も出土している。
奈良盆地にある纒向遺跡には、幅6メートルもの大溝の護岸に天板を並べて運河がつくられた。大和で、墓への大量の副葬が始まるのは、この纒向遺跡のあとから。
纒向遺跡の前方後円墳が、もっとも古くて、もっとも巨大だ。長さ86メートル、96メートルある。他の地域のものは、3分の1,せいぜい3分の2ほどしかない。
倭国王は、2世紀には伊都国にいたから、倭国の王都は、3世紀に伊都から「やまと」へ遷都したことになる。卑弥呼は、邪馬台国の女王ではない。卑弥呼は、倭國王ではあったが・・・。
三角縁(さんかくぶち)神獣鏡は中国の工人がつくったものだった。
鏡は、中国では化粧道具である。日本(倭の国)では、呪術性が拡大され、支配者の象徴的な器物、政治的な配布物ともなるもの・・・。卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」には含まれていない。
三角縁神獣鏡について、その形状を改めて精査し、形状等をこまかく比較検討しているのです。古代日本では九州は先進地であり、さまざまな鉄や威信財が入ってくるときの窓口だった。
まだまだ九州説が完全に否定されたというのではなさそうです。なんとかして、巻き返したいものです。
それにしても遺跡の発掘って大変な根気のいる仕事ですよね。その地道な苦労に心より敬意を表します。

(2016年7月刊。2000円+税)

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