福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

日本史(古代史)

2013年5月23日

出雲と大和

著者  村井 康彦 、 出版  岩波新書

大変刺激的な本です。従来の通説に果敢に挑戦しています。
邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである。
 これは、この本のオビに書かれた文章です。本当なのでしょうか・・・。
奈良の三輪山は、大物主神を祭っている。そして祭神の大物主神は出雲の神なのである。
 古事記や日本書紀は、天皇勢力の前に出雲勢力が大和進出を果たしていた事実を記述しているのだ。出雲王国の中枢(みやこ)は、出雲国を象徴する斐伊川の流域にあるはずだと考えてきたが、「風土記」によって、それが裏付けられた。
 出雲国の西部奥地は古くから鉄の主要な生産地帯であった。
出雲文化圏を特徴づけるのが、方形墓の四隅がヒトデのように突出する、いわゆる「四隅突出型墳丘墓」の存在である。丹後をふくめた、出雲から越(こし。高志)に至るまで日本海沿岸に存在する四隅突出墓は、出雲後からが遠く北陸の地にまで及んでいたことを示す何よりの証拠であった。それはフォッサマグナを束限とする。信濃は、出雲国にとって、束限の重要な土地であった。
 邪馬台国は出雲との関わりを抜きにしては語れない。
 卑弥呼は大和朝廷の祖先ではなく、無縁の存在であると考えられていたので、「日本書紀」に書きとめられなかった。すなわち、卑弥呼は、大和朝廷の皇統譜に裁せられるべき人物ではないのである。したがって、邪馬台国も大和王朝の前身ではなかった。そこで、大和朝廷を立てたのは、外部から入った勢力だということになる。神武軍の侵攻を阻んだ軍勢は、まぎれもなく出雲勢力であった。卑弥呼亡きあとの邪馬台国連合は、王国を守るために勢力を結集していた。しかし、ついに神武軍は大和に入ってきて、大和朝廷を成立させた。
 邪馬台国は外部勢力(神武軍)の侵攻を受けて滅亡したが、それは戦闘に敗れた結果ではない。総師・饒速日命(にぎはやひのみこと)が最後の段階で戦わず帰順したから。饒速日命は、もっとも信頼のおける部下の長髄彦を殺してまでも和平の道を選んだのである。
同じ出雲系氏族のなかでも、中央の政治に関与した氏族は、葛城氏や蘇我氏のように、いっときの栄光のあとに無念な没落が待っていた。これに対して出雲氏、海部氏・尾張氏などは、神を奉祭する祝の道を歩んだころで存続し、長く血流を伝えている。物部氏は少し特異な生き方をした。
 とても全部は理解できませんでしたが、出雲の勢力が鉄を武器として中央へ進出していったというのは十分にありうる話だと思いました。なにしろ、文明の地(朝鮮半島)にも近かったわけですからね。たまには、卑弥呼の昔をしのんでみるのも、いいことです。
(2013年3月刊。840円+税)


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2013年4月29日

縄文土器ガイドブック

著者  井口 直司 、 出版  新泉社

縄文土器は、なんといっても燃えあがる炎のような見事な形が印象的ですよね。ところが、この本を読むと、いえ写真もあります、いろんな形の土器があり、しかも、地域によって形状は大きく違うというのです。見て楽しいガイドブックでもあります。
 九州の縄文土器には豪快な隆起性に富んだ装飾文様は見られない。
 西日本の縄文土器は、文様が簡素化、省略化している。容器づくりの点で技術的に優れていて、これは実用性を優先させた合理的な思考による。薄く作ることに比重をおき、容器としての機能を高めることに労力をかけている。
 これに比して、東日本では技巧をこらし、精緻さを増しながら文様が発達する。東北地方の縄文土器は美と実用性とが一体化し、洗練された装飾文土器として完成する。
 関東地方の縄文土器は大陸文化の影響がもっとも伝わりにくい地域の土器群だった。日本列島ではじめて誕生した土器は、深鉢形をしていた。中期になると、浅鉢が増え、後期には、皿・注口付・壺が増えて弥生式との差が少なくなる。
 縄文時代には、茶わんや皿に類する小形の食器類の土器が存在しない。土器類であった可能性が考えられる日常雑器としての茶わんや皿が深鉢形土器とセットで普通に存在することはなかった。
 土器がまず創造され、それを使ううちに煮炊きにも使用されたのではないか。煮炊きのために土器が誕生したのではないと考えるべき。
 たくさんの写真と解説によって、楽しく縄文土器について学ぶことができました。
(2012年12月刊。2200円+税)


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2013年4月21日

古代天皇家の婚姻戦略

著者  荒木 敏夫 、 出版  吉川弘文館

倭王権の婚姻の特質として、閉鎖的であることが言える。婚姻相手を近親に求める近親婚が盛行していた。
 その理由として、母系を通じて他氏族へ血統が流出しない閉鎖的な血縁集団が形成できること、豪族層から外戚として介入を受けない。自立した王家が確立できることがあげられている。
 日本古代の婚姻は異母兄弟姉妹間の婚姻は許されており、その実例は多い。内親王以下、四世王までの王族女性は臣下との婚姻の途が閉ざされていた。厳禁されていたのである。
絶体大王が手白髪と婚姻したが、大王になる前のヲホド王を一地方豪族とみると、王族女性と臣下の婚姻を示す。唯一の例となる。
大王のキサキやミコ、ヒメミコたちは大王と同居している場合は希であり、通常はそれぞれの居住空間である「ミヤ(宮)」に住んでいた。
 蘇我稲目は、戦時下の略奪によって倭国に来た二人の高麗の女性を「妻」とした。蘇我氏の婚姻の相手は列島内に限定されていなかった。倭国・日本にも、中国・百済・高句麗・新羅・伽耶などと同様に、国際婚姻が存在していた。
桓武天皇は、婚姻関係を結ぶ氏族を広くしており、9氏族からキサキを迎えている。藤原氏の南家・北家・武家・京家の四家からキサキを迎えている。
 桓武天皇の母は百済系和氏であった。桓武天皇自身も、百済王氏から、百済王教仁・百済王貞香、百済王教法の3人を入内させている。
 日本における王済王氏の存在は、天皇が元百済王族の者を臣下においていることを日常的に示すことで、天皇が東アジアの小帝国の君主であることを国内外に向けてアピールするうえで好都合の存在であり、象徴的な機能を果たしていた。
 古代天皇家の実体を改めて考えさせられました。
(2013年1月刊。1700円+税)


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2013年1月13日

金属が語る 日本史

著者  斉藤 努 、 出版  古川弘文館

日本の金属貨幣は、7世紀後半の無文銀銭(むもんぎんせん)や富本銭(ふほんせん)に始まる。無文銀銭は、純度95%以上の銀を円盤にしたもので、真ん中に小さな丸い穴が開いている。富本銭は、銅でできているが、ほかにアンチモンという金属も含んでいる。
 皇朝十二銭は銅銭だが、鈍銅ではなく、青銅でできている。その銅山は山口県の長登(ながのぼり)銅山や蔵目喜(ぞうめき)銅山である可能性が高い。
和同開珎(わどうかいちん)の「和銅」は、「日本で初めて」という意味ではなく、「にきあかがね」と読み、製錬しなくても既に金属となっている銅のこと。
 日本刀は、折らず曲がらず、よく切れる。本来は相反する硬さと軟らかさの性質が日本刀という一つの製品の中で共存しているということ。日本刀には、硬い鉄と柔らかい鉄が巧みに組みあわされて作っている。
炭素が多いほど鉄は硬くなる。ここらあたりは、実際に刀匠の働き現場で見せてもらった経験が生きているようです。
刀身製作の最終段階の「焼き入れ」は刀に命を吹き込む瞬間である。これは、刀匠がもっとも神経をつかうドラマティックな工程だ。焼き入れの目的は刃部に焼を入れて硬くすること。焼きの入っている部分を入っていない部分の境界に刃文(はもん)を作ること、刀身に「反(そ)りを入れることの三つ。「反り」は日本刀を特徴づけるものの一つだ。
鉄炮は、炭素濃度0.1%以下の軟鉄で出来ている。日本刀と鉄炮は違う素材で出来ている。鉄炮は、火薬が爆発する衝撃で銃身が割れたりしないように、日本刀のような鋼ではなく、柔らかくて粘り強い軟鉄が使われている。
現代のライフル銃は鉄の丸棒の真ん中にあとから穴を開けて銃身にする。しかし、火縄銃は鉄の板を巻いて筒をつくっていた。
硬貨、日本刀、鉄炮について、改めて、その違いが少し分かりました。
(2012年11月刊。1700円+税)


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2012年10月28日

倭人伝を読みなおす

著者   森 浩一 、 出版   ちくま新書  

 邪馬台国が九州に会ったというのは、ごく自然なことです。なにしろ、当時の文化文明は朝鮮半島の先、中国大陸にあったのですから。奈良の大和朝廷というのは、そのあとのことですよね。吉野ヶ里遺跡、そして西都原古墳群を現地で見たら、ここに古代日本の中心があったことを、きっとあなたも確信するはずです。
倭人は中国周辺の異民族のなかでは特異な集団として扱われていた。
 『魏志』倭人伝は、3世紀の倭人社会を知るうえでは最重要の史料である。しかし、この史料は日本列島の全域ではなく、九州島の北部、とくに北西の玄界灘にのぞんだ土地を詳しく書いている。
 倭人伝研究は書斎にこもって出来るものではない。日本列島にだけ関心のある人は、ときとして倭人伝しか読まない。それでは東夷伝の高句麗や韓の条で、すでに説明されていることを知りようがない。そして、倭人伝は近隣の国のなかでもっとも多い2013字を費やして説明されている。また、登場人物も10人と最多である。
 西暦紀元頃から、倭人は漢字に親しみ、その漢字を日本文化に取り入れていった。
景初2年(238年)までは、倭は公孫氏勢力の設置した帯方郡に属し、景初3年からは魏が任命した太守のいた帯方郡を介して魏に属するようになった。
 狗邪韓国には、貿易や航海の便宜のための拠点となる土地に倭人が住んでいたとはいえ、狗邪韓国全域を倭人が掌握していたのではない。
対馬は、昔は津島と読んでいた。津は、古代の港のこと、津島とは、津の多い島のこと。浦とは漁村のこと。浦のなかでも、交易のできるような港を津と言った。津々浦々というのは海国日本の側面をとらえた言葉だ。
常に伊都国にいた「一大率(いちだいそつ)」は、一人の大率の意味であり、公孫氏勢力の帯方郡が派遣していた。伊都国には、代々、王がいた。女王国より北の6ヶ国で『倭人伝』において王がいたというのは伊都国のみ。伊都は、ヤマト政権や、その後の律令政府にとっても、重要な地であった。
 全国の弥生土器のなかで、もっとも端正で品のよい土器は、人吉盆地を中心にして出土する免田式土器と東海のパレス式土器(宮廷土器)であろう。
卑弥呼の死について「以死」とあるのは、老齢の卑弥呼が権力闘争に敗れて従容として死を選んだということ。それは、倭国を分裂された責任をとらされての自死であった。卑弥呼が死んだのは、正始8年(247年)や、その翌年だろう。
心強い九州説の本でした。
(2012年3月刊。2800円+税)

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2012年8月19日

遣隋使がみた風景

著者   気賀澤 保規 、 出版   八木書店

 中国の隋王朝は、唐朝300年にとどまらず、後世にまで計りしれない影響を支えた、中国史上の大きな節目に位置づけられる。隋は、法令と仏教という日本の柱を通じて、初めて東アジア世界に共通する足場を築き、その中心に立つことになった。
 隋王朝では、万事締まり屋の文帝に対し、その後の煬帝(ようだい)は派手好きで権勢欲に燃えた皇帝だった。14年間の治世において、父の残した蓄えを使い尽くし、全土に広がった反隋の嵐の中で没した。
 煬帝に暴君の汚名を着せた第一の要因は、その即位以来、休むことをしらない大規模土木事業によって、民衆を疲弊の底に落としたこと。洛陽をつくり、大運河をつくった。洛陽には、在位中、3分の1ほどしかなかった。そして、3回にわたって、高句麗遠征が強行された。
 煬帝は兄を押しのけて権力の座についたが、煬帝の行動に無駄なものはなく、着実に一つの方向に向かって歩を進めていることが明らかである。統一帝国の隋を強化し、南北を一体化させ、次いで周辺諸国を従えた東アジアの盟主となる道である。
 倭国は、隋末の動乱が激しさを増している、まさにその時期に遣隋使を出した。倭国は、高句麗や反済などを通じて、隋の国内の動きや高句麗遠征の結末、煬帝の置かれた立場などを把握する努力をしていたと思われる。
 隋に渡った官人である小野妹子の位階である大礼は冠位十二階のなかの第五位であり、それほど高くはない。しかし、晩年は大徳の地位にあり、冠位十二階の最高位となった。
 日出処と日没処について、従来の有力な学説は日出処は日没処に優越すると解釈していたが、それは成立しがたいことが明らかになった。要するに日出処は東方、日没処は西方というだけなのである。方角の違いで価値判断が動くわけはなく、むしろ問題になったのは「天子」という言葉。国書に「菩薩天子」と書かれているが、これは当時の皇帝である煬帝ではなく、先代の文帝をさす。
朝鮮半島から渡来した僧侶が政治的に重用されるのは、推古朝で珍しいことではなかった。
 当時の中国王朝の認識は、倭国とは遠い海の彼方から文明の恩恵を求めてやって来た未開の小国というものだった。
 7世紀の奈良時代、箸(はし)が一般的に使われはじめていた。まださじは使っていなかった可能性がある。地方では、ほとんどの食事は手づかみだったろう。
このころ(8世紀末)、日本の人口は600万人もいなかった。したがって、遣隋使の時代である7世紀前半は400万人より少なく、2~300万人だったろう。
 6世紀末の日本では、文字文明の進んだ朝鮮半島からやってきた渡来系の人々だった。文字を使いこなすのは、6世紀末の日本では、まだ一般化していなかった。
 倭からみた遣隋使の派遣回数は4回、隋からみて3回ということになる。
遣隋使のころの日本と中国、そして朝鮮半島の状況を知ることのできる本でした。440頁もある骨のある大作です。
(2012年2月刊。3800円+税)

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2012年6月 1日

西都原古代文化を探る

著者   日高 正晴 、 出版   宮崎文庫

 3月に2度も宮崎へ出張することがあり、宮崎空港の書店で目にして購入した本です。
 西都原(さいとばる)古墳の壮大さには圧倒されます。まだ行っていない人には、ぜひ現地へ足を運ばれるよう、強くおすすめします。佐賀県の吉野ヶ里遺跡も一見の価値が十分にありますが、規模では西都原のほうがすごいと私は思います。
 なにしろ宮崎県内には前方後円墳が160基、古墳全部では1590基もあるというのです。ここに古代文明の一大拠点が遭ったことは、このことからも明らかです。そして、宮崎県の中央平野部地帯に1200基あまりの古墳がまさに群在しているのです。奈良の古墳群だけを見て日本の古代文化を語るのは少し公平を欠くと思います。西都原だけで600基に及ぶ大古墳群があるのです。現地に行くと、その壮大な規模に圧倒されます。
 西都原古墳群には、前方部が細長く、その高さが低くて幅も狭い、特殊な形成の柄鏡(えかがみ)式古墳が散在する。この柄鏡式古墳は、広義の分類では前方後円墳の一形式である。
 そして、古墳群の中核をなす墳基として、男狭穂(おさほ)塚と女狭穂(めさほ)塚の存在が特筆される。全長200メートル前後、高さ15メートル以上、経100メートル前後というもの。帆立貝式古墳である。畿内と吉備地方以外には存在しない、西日本最大の巨大古墳である。
 なぜ、こんな辺鄙なところに160基もの前方後円墳があるのか?
『日本書紀』に語られる景行天皇の熊襲(くまそ)征討の伝承の九州行幸ルートにそって、柄鏡式系統の前方後円墳が点在している。
 男狭穂塚・女狭穂塚の築造された5世紀前半において、西都原地区を中心に古代日向の政治的本拠が確立されたと推測できる。畿内大和王権と密接な関連をもつ日向王権の勢力のもとに、西進・南下政策がとられてきた。
 飛鳥時代においても、古代日向の本拠は西都原地帯にあった。鬼の窟(いわや)古墳は、西都原古墳群のほぼ中央部に、一基だけ独立して存在する大形の円形墳である。
 私もこの「おにのいわや」古墳にのぼりましたが、広々とした草原の中央に大きな古墳があることに大いなる驚きを感じました。
 昔、この日向地区は、代表的な馬の産地でした。「日本書紀」下巻にもそのことが明記されているとのことです。そう言えば、都井岬には、今も野生馬がいるそうですね。
 「日本書紀」には応神天皇は、筑紫の蚊田(かだ)に生まれたと書いてあるとのこと。この応神天皇が九州にゆかりの深い天皇だということを知って驚きました。
 西都原を中心とした大古墳文化に象徴される日向勢力が畿内の大和王国と協調しながら、九州における中心的な拠点として、その地位を確立していた。
 大首長墓としての男狭穂塚、女狭穂塚の築造も、西九州のクマソ勢力に対して誇示するために巨大古墳の出現となった可能性が強い。
クマソに対抗する文化として西都原を拠点とする文化があり、それは、畿内の王権と密接な関係をもっていたようです。
 そうは言っても、現代日本では、西都原は福岡からはとても遠くて、行くのは大変で苦労するのですが・・・。
(2009年8月刊。1800円+税)

 今の時期しか食べられないエツのフルコースをみんなで食べに行きました。筑後川の下流、海水と河川の混じる気水域でしか取れないカタクチイワシの仲間です。ほっそりとした白身の魚で、刺身、煮つけ、塩焼、南蛮漬け、てんぷらと手を変え品を変えてフルコースで出てきます。
 今回は調理師による実演まであり、美味しくいただきました。佐賀県諸富町にある津田屋が行きつけです。

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2011年3月21日

前方後円墳の世界

著者 広瀬 和雄、  岩波新書  出版 
 
3世紀中頃から7世紀初めにかけての350年間に、日本列島に5200基もの前方後円墳が築造された。そのうち墳長100メートル以上の大型のものは302基。畿内地域に140基が集中している。 
首長の生活拠点や生産基盤から離れた地点に前方後円墳がつくられた背景には、多数の人々に見せるという目的があった。 
古墳時代の共同体の繁栄には、亡くなった先代と当時の二人の首長によって保証されるという共同幻想があった。 
古墳のふもとに埴輪群像を立てている区画がありました。その再現写真は見事なものです。首長権の継承儀礼、もがり、葬列、生前顕彰、墓前、祭祀などのシーンがさまざまな形をした埴輪によって再現されているのです。
 弥生墳墓によるかぎり、大和地域の政治勢力が他地域の首長層を力で屈服させたという説明は困難である。むしろ、各地の勢力が共存していたのではないか。
 前方後円墳と前方後方墳の併存は、各地の首長層に政治的なランク付けがあったことを物語っている。前期古墳の墳丘規模や埋葬施設、あるいは副葬品の各寡からすれば、東国首長層には一段低い地位が与えられていたと解される。
古市古墳群と百舌鳥古墳群を造営した二つの有力首長が、津堂城山古墳、石津丘古墳、仲津山古墳、誉田山古墳、大山古墳、ニサンザイ古墳、丘ミサンザイ古墳の順で、輪番的に大王の地位を七大にわたって世襲した。したがって、百舌鳥・古市古墳群における巨大古墳の登場を、大和から河内での政治中枢の移動、もしくは河内で力を蓄えた政治勢力が大和勢力から政権を奪取したとみなす「河内政権論」は成立しがたい。
平城宮をつくるとき、巨大前方後円墳である市庭古墳の前方部が削平された。ほかにも、いくつか完全に破壊された古墳がある。
中央と地方の首長たちを結びつけ、代々の系譜的なつながりで政治的正統性を確証し、首長層の一個の価値体系をなしてきた前方後円墳を、奈良時代の貴族は見事に否定している。個々には連続性ではなく断絶、異質のものが認められる。
うむむ、前方後円墳を知らずして日本の古代は語れませんが、そこに新しい視点が持ち込まれています。大変に刺激的な内容ですし、大いに勉強になりました。
(2010年8月刊。720円+税)

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2010年12月 5日

倭人伝を読みなおす 

 著者 森 浩一、 ちくま新書 出版 
 
 最近のことですが、奴(な)の国のあった春日市へ行ってきました。ずっと前からぜひ行きたかった須玖岡本遺跡を見てきたのです。
 奴国は1世紀の中ごろは、単独で後漢(中国)に使者を送るほどの大国だった。倭人伝に記されている奴国は、それより200年ほど後の姿である。人口は2万戸あって、北部九州の女王国を構成する国々のなかでは、抜きんでた大国だった。3世紀の奴国は、女王国に属しているとはいえ、卑弥呼が景初3年に魏に遣使したときの大使は難升米(なしめ)だった。難升米は奴国の王か王族とみられ、魏も難升米を丁重に扱い、銀印や官職を与えた。
江戸時代に志賀島で発見された金印については、偽物説もありましたが、いまでは本物と確定しているようです。
 春日市は、まさに、その奴国のあったところです。住宅地のなかに遺跡と資料館があるのですが、よくみると、実は、そこだけではなく春日市の内外はすべて遺跡なのです。かつての米軍基地が今は自衛隊の駐屯地になっていますが、そこも掘ったら遺跡が出てくるそうです。私は、自衛隊の基地なんか移転させて、きちんと発掘してそれなりに再現すれば、吉野ヶ里遺跡と同じほどに有意義な学術的展示場になり、観光客も集めて、一大産業、町おこしが出来ると思いました。自衛隊が住宅地のど真ん中にあるなんて、時代錯誤でしかありません。
壱岐島にある原(はる)の辻遺跡は私も行ったことがありますが、大集落というより小都市といってよいほどの規模です。かなりの広さがあり、中心部に資料館があって、往時を偲ぶことが出来ます。
この原の辻は、壱岐国(一大国。一支国)の国色(首都)であった。伊都国は、今の糸島市にあった。ここには、古墳時代前期の前方後円墳が数多く築造されている。
 卑弥呼の「以死」について、著者は卑弥呼が魏から見放されて自死したと解しています。
 正始8年(247年)に女王国と狗奴国との戦いが始まった。その知らせを受けた魏は、帯方郡から張政を派遣した。魏は倭国に励ましではなく、厳しい言葉を送って倭の人たちに卑弥呼の政治的失敗を周知させた。つまり、魏の政府は、卑弥呼を見限り、卑弥呼の大夫(部下)だった難升米を引き上げて女王国の代表として扱った。卑弥呼も事態を認識して、従容として死を選んだ。このように、卑弥呼の死は自然死ではなく、倭国を分裂させた責任をとらされての自死とみられる。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・・。「以死」にそんなに深い意味が隠されていたとは・・・・。さすが学者ですね、かないません。
 筑後の山門郡は邪馬台国九州説の古くからの候補地である。門脇禎二氏(故人)も著者も、長らく邪馬台国ヤマト(奈良県)説だったが、大和説と決別して、今や九州説に転換した。うれしいですね。やっぱり九州それも山門郡(今のみやま市)に邪馬台国はあったというんですから・・・・。女山(ぞやま)あたりにそれらしき確たるものが発見されないか、待たれてなりません。
 邪馬台国はヤマト、つまり今の大和(奈良県)にあったというのではないのです。ぜひこの本を読んで、あなたも確信を持ってくださいな。

(2010年8月刊。740円+税)

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2010年11月29日

倭王の軍団 

 著者 西川 寿勝・田中 晋作 、 出版 新泉社
 
 巨大古墳時代の軍事と外交というサブタイトルのついた本です。古墳から出土した、たくさんの武器・武具の写真があります。なるほど、軍団がいて不思議ではないと思わせます。『古事記』『日本書紀』に登場する応神天皇と仁徳天皇については、実は同一人物の伝説とする見方があり、実は両人とも存在していないという有力学説もある。中国の史書に登場する倭の五王についても、讃と珍については、どの天皇とも決めがたいままだし、この五王の陵墓も定まっていない。
 うへーっ、日本の古代って、まだ分からないことだらけ、なのですね・・・・。
 古代日本の軍団については、史料がないため、その実態はほとんど判明していない。石母田正は、律令初期の軍政について、その大きな特徴は伴造軍(ばんぞうぐん)から脱却し、国造軍(こくぞうぐん)としたことにあると強調した。国造軍とは、国司を頂点とする国単位の行政組織に徴兵・編成・運用までの権限が与えられていたこと。伴造軍とは、有力な豪族の私軍のこと。
 遣隋返使は、日本に軍団なしと報告した。
壬申の乱(672年)は、皇族や畿内の有力豪族を二分する政争であったが、その勝敗は国造軍の動向によって決まった。
律令期の軍団の特質は、兵員の入れ替えや補填のシステムを完成させたところにある。国造が戸籍を管理し、平時に役務と訓練をおこない、有事になると必要数に応じた兵士を送り出す組織をつくっていた。
軍団の主力武器は打刀(うちがたな)だったと復元されている。打刀とは、刀を下にして腰に佩帯(はいたい)する大刀(だいとう)で、古墳時代は直刀(ちょくとう)、中世以降は刃反(はぞ)りがつく湾刀(わんとう)だった。反(そ)りのない直刀や剣は衝撃を吸収できない。手をしびれさせず、そぐように斬るには高い習練が必要だった。
しかし、著者は打刀は主力兵器にならないという考えです。
鉄砲の普及以来の主力兵器は、古代にさかのぼっても刀剣ではなく弓矢であり、矢合戦が戦闘の普遍的な姿だった。
疾走する騎馬による投射戦が発達しなかったのは、馬の頭が邪魔になって、正面を狙えないから。下を短く、上を長く傾けずに持つ日本の長弓を馬上で構えたとき、馬の頭をはさんで反対側は常に死角となる。そこで、馬を静止させた騎射では、馬を横向きにして敵と対峙する。
 巨大古墳時代においても、戦争は弓矢による戦いが主流だったと考えるべきである。
 日本列島には、当時の朝鮮半島と違って、堅牢な防禦施設をもった城塞がみられないという特徴がある。
巨大古墳の発掘を宮内庁が許さないというのは本当におかしなことです。一般人の立入はともかくとして学術調査は認めるべきです。古代日本に騎馬民族が中国そして朝鮮半島から渡ってきたのではないかという指摘がかつてありました。それを知って、私など、胸がワクワクしたものです。ロマンを感じました。
もっともっと古代日本のことを知りたくなる本です。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

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