弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2014年9月24日

やっぱり九条が戦争を止めていた


著者  伊藤 真 、 出版  毎日新聞社

 伊藤真弁護士の本は、どれを読んでも本当に勉強になります。とても大切な話が繰り返し強調されるだけでなく、毎回ちがった角度から問題の本質に光をあてて、目を開かされます。まさしく、貴重な憲法の伝道師です。
近代憲法の存在理由である立憲主義こそ、憲法のなかで何より知らなければいけない最重要のキーワードである。
 多数意思は常に正しいのか? 多数決でも変えてはならない価値を、前もって憲法のなかに書き込み、民主的正当性をもった国家権力をも制限するのが、立憲主義という法思想である。
 行政権は、国家権力の中枢に位置する「権力中の権力」とも言えるもの。それは、人権を侵害する危険や、国民主権に背く危険性がもっとも高く、憲法でコントロールする必要がもっとも高い権力である。その権力の長(内閣の長、すなわち首相)が、自分の考えで憲法解釈を変えようというのは、まさしく立憲主義の否定である。
立憲主義が縛ろうとしている「国」とは、人為的に作った権力主体としての国の権力であり、具体的には国会や内閣、裁判所などの権力である。
 この立憲主義の考え方は、決して現代社会において古臭くなってしまった、昔の考え方というものではない。
 立憲主義の究極の目的は、人権を保障することにある。では、日本国憲法が真っ先に人権保障規定をもってこず、なぜ天皇と戦争放棄をその前に置いたのか・・・。
 それは、天皇の権威と軍事力に対して憲法が歯止めをかけないと、人権保障ができなくなるからだ。この歯止めがあってこそ、人権保障は実質化する。
明治憲法も、天皇の権限を憲法で拘束するという立憲主義が全体として貫かれていた。しかし、明治憲法には、大きな欠点があった。それが統帥権(とうすいけん)の行使である。この統帥権についてだけは、議会の関与も、国務大臣の輔弼(ほひつ。アドバイス・助言)も必要なかった。これは、軍部だけの判断で戦争が始められ、国会は戦争を止めることができないことを意味した。
 軍部が天皇の名のもとに政治に介入し、独断で戦争を始め、日本国民を否応なしに引きずり込んでいった。
 「現実に即して、九条を改正せよ」
 こう言う人がいる。しかし、現実に日本が70年間、平和であり続けることに比べると、そのような主張は、仮定や憶測にもとづくものでしかない。
「積極的平和主義」というのは、構造暴力を除去して「積極的平和」を追及するという考えのもの。そこらでは、あらゆる暴力から解放された状態が目ざされる。
 これに反して、安倍首相の言う「積極的平和主義」というのは、まったく似て非なるもの。世界秩序を維持するために、積極的な役割を担う。その際には、武力行使も辞さないというもの。
戦争は人殺し。日本人の税金で生活している在日米軍兵士がアフガニスタンやイラクなどへ出かけていき、日本で殺人訓練を受けて、戦場でそれを活かしている。このようにして日本人は、間接的に戦争に加担している。
古今東西、そもそも軍隊は、住民や国民を守るものではない。日本軍がアメリカ軍と行動を共にすることによって、アメリカの敵は日本の敵になり、日本は今まで以上に攻撃されやすくなる。
 軍隊はテロ攻撃を防ぐことも出来ない。
 集団的自衛権の行使を容認し、そのための法制化をすすめようとする安倍政権は、一刻も早く退陣してもらう必要があります。日本の平和な社会、女性も若者も、すべての人々が安心して毎日を生活できるようにするためです。軍事(兵器と兵士)で平和を守るなんて、まったくの幻想です。
(2014年8月刊。1200円+税)

2014年9月22日

歩いて行く二人


著者  岸 惠子・吉永 小百合 、 出版  世界文化社

 パリのセーヌ川のほとり、ノートルダム寺院(カテドラル)をバックとして、岸恵子と和服姿の吉永小百合が並んで立つ写真が本の表紙になっています。
 私は「キューポラのある街」以来のサユリストです。この映画は1962年制作といいますから、なんと50年前です。私はまだ高校生のころです。
吉永小百合は、先日も映画「不思議な岬の物語」でモントリオール映画祭で受賞し、フランス語でスピーチをしました。すごい女優です。ますます好きになってしまいました。
そんな吉永小百合が24歳のとき、失恋して、単身フランスに渡ったといいます。誰でしょう、かの吉永小百合を振り切って別の女性と結婚しただなんて・・・。
 吉永小百合は反戦・非核のために声を上げてきました。今では原発なくせの声も高らかに叫んでいます。これまた、拍手・喝采です。この本のなかにも、何回も、その主張が展開されています。地道に、いつでも、どこでも核兵器や原子力発電所をなくそうという声を上げつづけている、その姿勢に心がうたれます。
 もう丸2年も、私はパリに行っていませんが、岸恵子の豪華なアパルトヘイトマンをふくめて、素敵なパリの写真がたくさん紹介されていて、楽しい対談集になっています。
 私は大学生のときから長くフランス語を勉強していますので、なんとか日常会話の最低レベルはこなせるようになりました。ところが、岸恵子によると、そのフランス語には4種類あるというのです。
 インテリや文化人が話す言葉、ブルジョワジーの言葉、プチブルの言葉、労働者の言葉。言葉を聞けば、すぐに違いが分かる。この人は、どういう家庭に育ち、この人は、どんな教育を受けてきたのか・・・。いくら隠しても分かる。
 では、私が学んでいるフランス語はこのどれなのでしょうか・・・。
自分が願うことを声に出したいと思っている。憲法のことも、九条があるから、日本はほかの国で人を殺さないですんでいるわけだし・・・。もし、世界中に九条が広がれば、それこそ核兵器だけではなくて、戦争がなくなる日が来るかもしれないという望みをもって・・・。
 日本は核武装をすべきかどうか議論するよりも、日本だけは核アレルギーでずっといて欲しい、いるべきだという思いがある。
やっぱり、日本ではもう原発はやめてほしい。地震の多いこの国は危険がいっぱいだし。故郷に帰れない福島の人々の現状をみていると、多少不便でも、すべてを電気に頼っていなかったころの生活に戻したほうがよい。その覚悟をもたなければと思う。
 経済のためになる原発は不可欠という発想は、もうやめたほうがいいと思う。
 安倍首相がトルコに原発を売るというけれど、それより前に、まず今の福島のトラブルを、トラブルをおこしている原発をきちんと収めてもらいたいと切に思う。
 日本政府が、核廃絶の署名に賛同しなかったのはおかしい。
 みんながあきらめてしまう前に、「私はこう思う」という声を上げていくことが大事だと思う。
 広島の原焼資料館の声のガイドはやらせてもらった。
 中国と日本はいろんなことで交流してきたのに、尖閣諸島問題で、いさかいをするというのは悲しい。どんなときでも、文化の交流を絶やしてはいけないと思う。
 一方で、恋に走りそうになる私がいて、それを、いっちゃいけないと止める私もいて・・・。
 皆さん、ぜひ手にとって、二人の写真と対談集を眺め、読んでみてください。心が洗われますよ。
(2014年8月刊。1800円+税)

2014年9月17日

弁護士 馬奈木 昭雄


著者  松橋 隆司 、 出版  合同出版

 福岡の現役弁護士のなかでは今や最長老となった馬奈木弁護士の活躍ぶりを、その取り組んだ事件ごとに本人がまとめて語ったという本です。
 『たたかい続けるということ』(西日本新聞社)、『勝つまでたたかう』に続く本です。160頁の薄さですし、事件ごとにまとまっていますので、すっと読むことができます。
 「ムツゴロウの権利を守れ」という裁判では、そもそも勝てるわけがない。実務家として、裁判には勝たないと意味がない。負ける結果になった裁判であっても、それは「心ならずも」であって、負けることを前提として始めた裁判は一つもない。
 水俣病裁判のとき、国側についた医師は、「自分たちは医者として中立だ」と言った。しかし、医師は、そもそも患者のために存在するのであるから、患者の立場に立たなくて、どこに立場があるというのか。医師が「自分は中立だ」と言った瞬間、それは患者の側には立たないと宣言したと同じことを意味する。
 母親の胎盤がガードしているから、胎児には毒はいかないと考えられていた。しかし、このバリアが機能せず、胎児性水俣病の赤ちゃんが生まれてしまった。それは、人間がつくり出した毒だったから。35億年かけてガードしてきたのは、自然環境のなかにある毒である。ところが、それとは違う人工の毒物なので、人体の防御機能が働かなかった。そこに、人間のつくり出した毒物の恐ろしさがある。
 弁護士は、ときには暴力団と怒鳴りあわなければならないときがある。ゴミ問題にとりくむと、暴力団が出てくることもある。そのとき、怒鳴り負けない。「声の大きさなら、おまえたちには負けんぞ!」と怒鳴る。こちらが怒鳴ったら、相手は黙る。
かつては、相手を侮辱することを弁護士の商売と考えていた。この相手は普通の事件ではなく、国や権力機関、とりわけ裁判所を相手にするときのこと。ともかく、裁判官とケンカして一本取らないといけないと思っていた。しかし、それは決して正しいことではなかった。相手を侮辱しても相手の敬意は勝ちとれない。要は、相手をいかに説得するか。相手にいかに共感しあえるか、そこが勝負なのだ。
 なーるほど、ですね。でも、裁判官とケンカすること、出来ること自体は大切ですし、必要なことです。理不尽なことを言ったり、したりする裁判官に対しては、その場で反撃しなければいけません。そのときに、侮辱的な言動をしてはならないということなのです。
 公害発生源企業(加害企業)が裁判に負けたとき、被害者・患者に対して土下座することがある。しかし、それは本当に本心からお詫びし、反省したのか。口先だけ、マスコミの手前の格好だけで頭を下げても、何の解決にもならない。世間から「もう許してやったらどうか」という同情を狙っているにすぎない。必要なのは、本当の意味で謝ること。それを明確にしたスローガンが、じん肺裁判の「あやまれ、つぐなえ、なくせ、じん肺」である。
 この点は、私も本当にそうだと思います。
 ハウツー本によれば、企業幹部は、謝罪すると腰を何度に曲げて頭を下げ、それを45秒間続けることと、されているのです。マニュアルどおりの謝罪に、本心は感じられません。
裁判官のなかには、何が何でも国を負けさせてはならない。国を勝たせるべきだと頭から思い込んでいる人が少なくない。これは、いかんともしがたい事実だ。
 これは、本当に私の実感でもあります。正義と良心を貫くには勇気がいります。ときには、いくらか俗世間の誘惑を拒絶する覚悟もいるのです。そんなことの自覚のないままに流されている裁判官が、なんと多いことでしょうか・・・。
 「国の基準を守れば安全だ」という論理は、3.11福島原発事故によって完全に破綻している。しかし、今なお、「原発神話」にしがみついている行政、官僚、司法界とマスコミの人々、そして企業サイドが、いかに多いことでしょうか・・・。
 馬奈木弁護士の今後ひき続きの健闘を心から期待します。ぜひ、皆さん、気軽な気持ちでお読みください。
(2014年9月刊。1600円+税)
 雨の日が多い夏でしたが、いつのまにか秋の気配が濃くなりました。稲穂が垂れ、畔には彼岸花が立ち並んでいます。
 連休に庭の手入れをしました。いま一番は朝は純白で、夕方になると酔ったように赫くなる酔芙蓉の花です。
 庭のあちこちにリコリスが咲いています。紅ではなく、純白なクリーム色です。すっと立つ姿は気高いりりしさを感じさせます。
 ナツメの実がたくさんなっていました。高いところにあるので、枝ごと切り落としました。ナツメ酒をつくろうと、日干しすることにしました。
 ヘビが庭をうろうろしていますので、ジャガを整理して、すっきりさせました。
 そろそろチューリップの球根を植える時期です。ツクツクホーシという夏の終わりを告げるセミの声が秋風のなか響きわたりました。

2014年9月10日

世界の「平和憲法」新たな挑戦


著者  笹本 潤 、 出版  大月書店

 日本国憲法9条は「古臭い」どころか、紛争の絶えない現在の国際社会のなかで、ますます光輝く、希望の星になっています。いえ、ひとり日本人の私だけがそう思っているのではありません。9条の存在を知った世界中の心ある人たちが、自国にとり入れようとしているのです。そんなときに9条をなくしてしまおうとする安倍政権は反動的というより、犯罪的だと言わなければなりません。一刻も早く、退陣してもらう必要があります。
 紛争の絶えない中東米諸国では、政権の交代や紛争の終結などをきっかけとして平和憲法がつくられていった。軍隊を廃止したコスタリカ憲法(1949年)も、60年の歴史をもって生命力を発揮している。
 著者は半年間、コスタリカに留学したとのこと。偉いですね。尊敬してしまいます。
 2009年6月、ベトナムのハノイで開かれた国際民主法律家協会の大会では、「日本の9条を各国でとり入れていこう」という方針が採択された。
 国際的な紛争や問題を軍事力で解決してはいけない。だからこそ、9条を守って自衛隊を海外に派兵させないことが大切である。
 国際的な平和運動で、最初に日本の9条が取りあげられたのは、1999年にオランダで開かれた「ハーグ平和市民会議」でのこと。このとき、各国議会は、日本国憲法9条のような、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきだと明記された。
 そして、2008年5月に、日本の千葉「幕張メッセ」で「9条世界会議」が開かれた。予想をはるかにこえる2万人もの人々が集まった。海外からも100人以上の参加があった。
 コスタリカの隣国のパナマでも、軍隊を廃止する憲法が1994年にできた。
 2008年、エクアドルで、外国の軍事基地を認めない新憲法が国民投票で制定された。
フィリピンの1987年の憲法は外国軍事基地の撤去と核兵器の保有を禁止した。そして、1991年にアメリカのクラーク空軍基地、スービック海軍基地がフィリピンに返還された。現在、スービック海軍基地跡は商業地域になって、経済的に繁栄している。
 韓国の憲法は国軍の存在を認めている。そこで、武力行使に限界がない。韓国軍が、アメリカのベトナム侵略戦争に加担し、内外に大きな悲惨を生じてしまったことは、よく知られていること(多くの若者は知らない・・・?)でもあります。
 軍隊をもたないコスタリカは教育を重視している。憲法には教育費をGDPの6%以上にすべきだ。日本の教育費は、わずかGDP比で3.3%に過ぎない。許せない低さです。
真面目な弁護士による、至って生真面目なケンポーの話です。世界のなかで日本の憲法9条が高く評価されていることがよく分かる本でもあります。
(2010年10月刊。1600円+税)

2014年9月 3日

憲法主義

著者  南野 森・内山 奈月 、 出版  PHP研究所

 まことに失礼ながら、実は、あまり期待せずに読みはじめたのです。そこらの若いオネーチャンに、大学の先生が難しい話をして煙に巻く・・・、なんてことまでは、さすがに思いませんでしたが・・・。
 ところが、AKB48の一員という女子高生(今は、慶応大学生)の受け答えが、実に明確で講義する南野教授とのからみあいも絶好調で、話がスムーズに進行していくのです。聞き手の良質な受け答えがあるため、南野教授も大いに乗って話が弾みます。
 あまりにポイントを突いた指摘がありすぎて、つい、この女性(ひと)は、本当に歌手で、高校生なのかしらんと、疑ったほどです。まあ、皆さん、私に騙されたつもりで、ぜひ手にとってこの本を読んで、憲法の本髄をつかんでくださいね。
 内山さんという女性(ひと)は、なんと、日本武道館のコンサートで、憲法48条と100条を暗誦したというのです。ええっ、48条と100条って、何が書いてあるんでしたっけ・・・。
 48条  何人も、同時に両議院の議員たることはできない。
 100条 ①この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する。
 実は、私も南野教授と変わらず、AKBのことをほとんど知りません。その歌を聞いたこともなければ、彼女らの姿を見たこともありません。新聞記事で「総選挙」なるものがあることを知っているだけです。私は新聞の芸能とスポーツ欄を読むことはありません。
 この本が読みやすいのは、重要なところは赤エンピツでアンダーラインが既に引いてあることです。先手を打たれています。そして、ところどころに、内山さんの手書きと思われるノートがあって、これまた復習の要点(ポイント)が明示されていて、理解を助けてくれます。
 明治憲法には違憲立法審査の制度がなかったというのを初めて認識しました。そして、明治憲法の下では、違憲の法律があったかどうか、はっきり分からないというのです。
 もちろん、現行憲法には、法律が憲法に適合しているのかどうか審査する条文があります。この始まりは、1803年、アメリカの最高裁判所が言い出したこと。
 何が人権なのか、何をもって人が生まれながらにしてもっている権利とするかは、実は、すごく難しい問題だ。
 人権を脅かす国家を倒して、あるいは、そこから離れて新しい国家を設立する。そのときに書かれたのが憲法。だから、憲法の目的は人権を保障することにある。
 立憲主義とは、権利を保障するために国家権力を分立する。そうすることによって、国家権力を制限するというもの。
 法律は一般の人々を相手にするもので、憲法は国家権力を相手にしている。
 憲法を守らなければいけないのは国家権力。一般人、国民は法律を守らなければいけない。国民は憲法によって縛られる存在ではない。だから、99条に国民は入っていない。
日本の政治はうまくいっていないかもしれないが、仕方がない。民主主義は、決して最高の政治体制ではないけれども、民主主義よりましなものはない。
 集団的自衛権の行使容認を閣議決定で安倍首相は強行しました。この本は、その直前に書かれています(発行は7月29日ですが・・・)。そこで、次のように指摘されています。
 これまで国家権力ができないとしてきたことを内閣の解釈でできるとするのは非常に危ない。国家権力を縛る憲法を、国民の判断を経ずに弱めることになるから。
 南野教授の講演を聞いたことがありますが、とても明快・平易で、爽やかでした。この本が若い人に広く読まれることを心から願っています。
(2014年8月刊。1200円+税)

2014年8月26日

憲法の招待


著者  渋谷 秀樹 、 出版  岩波新書

 日本国憲法は、人類普遍の原理を調和的に組み込んだすぐれた内容をもっている。それは、世界各国の現行憲法の水準からみても、いまなお最先端かつ最高の内容をもち、世界に誇るべき究極モデルである。
 いま、憲法を取り巻く状況は風雲急を告げている。風通しの悪い、息苦しい、生きていくのが大変な日本にならないように、私たちは政治の動きをしっかり監視していかなければ、ならない。
 私も、まったく同感です。選挙のときに棄権するなんて、とんでもないことです。いま、投票率は全体で6割未満、若者にいたっては3~4割という悲惨な状況です。これでは日本の政治が良くなるはずがありません。主権者たる自覚をもって投票所に出かけましょう。
 憲法の「憲」という字は、上半分が勝手な動きをおさえることを意味し、その下に目と心があるので、全体として、人間の勝手な心の動きや見方を上からおさえるという意味の言葉だ。これって、初めて知りました。
 権利の保障と権力の分立が備わった憲法こそ、真の意味の憲法なのである。
 聖徳太子の17条憲法は、いま一般的に使われている憲法と同じもの、つまり立憲主義的憲法、真の意味での憲法であるとは言えない。
 納税の義務(憲法30条)は、政府が課税するときには、必ず法律をつくって内容や取り立て方法を定めることを義務づけた点にこそ意味がある。
 憲法は誰を支配し、誰が守らなくてはならないものか?
 それは、統治活動を担当する政府であり、それを担う人なのである。憲法に、一般市民に対して憲法を守れと命じた条項がないのは、「法の支配」からして、当然の論理的な帰結である。
 憲法上の「国民」とは、国籍を保有するものに加えて、日本政府の統治権の及ぶ空間内に生活の本拠を有する者(定住者や特別永住者など)であると解すべき。
 特定秘密保護法は、明治憲法下の戦争遂行時の情報管制の時代に時計を戻そうとしている。
 第一に、いまどき本当に国家機密というべきものが存在するのか。国民主権の原理からして、国民誰もが、本来、それを知る権利をもっている。ところが、この法律によると、最長60年間も隠せるし、さらには永久に隠すことも可能としている。
 第二に、特定秘密の内容があいまいで、恣意的に指定される危険がある。時の政権や官僚機構にとって不都合な情報が指定される可能性は大変大きい。
 第三に、報道機関の取材活動を委縮させて、国民の知る権利を狭めてしまう。
靖国神社は、敵味方を区別なく弔うという収容的伝統からかけ離れた存在である。「朝敵」を排除し、民間人の戦争犠牲者も対象としていない。そのうえで、A級戦犯14人を合祀している。
靖国神社は、一宗教団体が運営する宗教施設である。そこに神道の礼法にのっとって参拝するのは、まぎれもない宗教的活動である。政府首脳が参拝するのは、この神社を特別扱いしている印象を国民に与えるもので、憲法で定められた政教分離原則に反し、違憲である。
 まことに明快です。本当にそのとおりだと思います。だからこそ、昭和天皇(A級戦犯が合祀されたあと)も、今の天皇も、靖国神社には参拝していないのです。
 「国政」を「国の政治」と理解するのは誤りで、「統治活動」の意味である。
自衛隊を取り巻く現実をみたとき、日本で発生した大規模・特殊災害への対処こそ、自衛隊の本来的任務の一つに揚げられるべき。
 日本国憲法のもつ意義を、最新の社会状況にあわせて、とても分かりやすく、明快に解説している新書です。難しいことを分かりやすく伝えることが、今ほど求められているときはありません。ぜひ、ご一読ください。
(2014年2月刊。800円+税)

2014年8月 7日

弁護士の失敗学


著者  高中 正彦・市川 充 、 出版  ぎょうせい

 つい最近、恥ずかしながら弁護士賠償責任保険の適用を申請しました。控訴状のなかに当事者の表示が抜けているところがあったのです。もちろん私のミスだったのですが、運悪く年末年始の時期だったので、控訴期間内の補正が間にあわなかったのでした。私の方は上告したのですが、身内をかばう習性の強い高裁は棄却してしまいました(簡裁が一審だったのです)。
 弁護士過誤を避けるための5ヶ条。①受任事件を吟味する。②依頼者とのコミュニケーションに万全を期する。③ケアフルな執務を実践する。④知識・技能をアップする。⑤誰に対しても誠実に執務する。
弁護過誤を防ぐ7ヶ条。
 ①むやみに人を信用しない。
 ②こまめに報告する。
 ③常に冷静であれ。
 ④説明の腕を磨け。
 ⑤すべての事件で手を抜かない。
 ⑥おカネに魂を売らない。
 ⑦謙虚であれ。
 依頼を断る勇気をもつ。弁護士という職業は、どこから弾が飛んでくるかもしれない、危険一杯の職業である。
 依頼者は、えてして移り気なもの。そのような依頼者からの報酬で事務所を維持して生計を立てていかなければならないのが弁護士の宿命。
直感で、「あれ?」と思ったら、必ず、六法全書や基本書にあたること。この直感はかなりあたる。
裁判官は国家からの給与で生計を立てるのに対して、弁護士は依頼者からもらう弁護士報酬で生計を立てる。
ミスを防ぐには、多重の防止策が有用。事務員と連携して防止策を重ねる。場合によっては、複数の事務員に確認させる。
 「現場百回」、一度でも現場に足を運んでいると強い。
弁護士は、他人(ひと)の失敗でメシを食っている職業なのだから、弁護士が失敗しては、話にならない。性善説では、弁護士は生きていけない。
 いつでも、何年たっても、「思い込むな。初心に返れ」が必要である。
時間管理ができない人は、それだけでその人の評価を下げてしまう。
 必要でない原本は、なるべく預からないこと。
 依頼者層は、その弁護士の人格を写す鏡である。スジの悪い事件は、スジの悪い弁護士に自ずと集まってくる。
 「すべて先生(弁護士)におまかせします」というタイプは要注意。そんなことをいう依頼者は、決してすべてを弁護士に任せる気などない。
 弁護士のなかには、自分の依頼者はすべて正しく、相手方はすべて悪だと思い込み、断言するタイプがいる。
 本当に困ったタイプの弁護士がいます。一見すると、依頼者にとって「頼もしい」存在なのですが、適正・妥当な解決を遠ざけてしまって、紛争の泥沼のなかで、もがくばかりという危険もあるのです。その見きわめは、大変困難です。
 依頼者に、こまめに報告書を送るのが大切。できるだけ、その日のうちに送る。
私は、この報告書は、FAXとかメールでしてはいけないと考えています。あくまで郵送です。この間に、別の事件処理ができるからです。メールではレスポンスが早すぎます。
若いときには、小手先だけで要領よくやろうとするのではなく、徹底的に考え、調べて書面をつくるべき。若いときに努力しなかったら、弁護士としての成長はありえない。
事件ファイルは、弁護士の命である。きちんと整理しておくこと。
去っていった依頼者は追わない。
依頼者とのトラブルが生じたときには、気心の知れた弁護士に相談すべきである。
 依頼者に共感することはあっても、この依頼者は自分が絶対に幸せにしなければならないと思い詰めてはいけない。依頼者と手を取り合って泣いたりしてはいけないのだ。
 この40年間、私も思い返せば恥ずかしきことの数々でした。それでも、なんとか仕事を続けることができています。ありがたいことです。初心に立ち返ることの大切さを改めて認識することのできた本です。多くの若手弁護士に読んでほしいと思いました。
(2014年7月刊。3000円+税)

2014年8月 1日

私たちはこれから何をすべきなのか


著者  金子 武嗣 、 出版  日本評論社

 著者は私と同世代、団塊の世代の大阪の弁護士です。
 明治以来の弁護士の歴史を振り返り、また、40年間の自分の弁護士生活で得たものを語っていて、大変よみやすい本になっています。
司法改革について、最近、何となく弁護士会の内部に全否定してしまうような風潮があります。著者は残念がっています(121頁)が、私もまったく同感です。
 司法制度改革は、当時の社会状況を抜きに語るわけにはいきません。ある意味では、ひどい弁護士叩きが進行していました。政府と財界は弁護士自治を骨抜きにしようとしていましたし、マスコミと市民は弁護士は市民と縁の薄い、独善的な存在だと厳しく批判していました。弁護士自治が解体させられたら、たまりません。どうやったら弁護士自治を守り抜けるか、市民のための司法の理想に一歩近づけるためにはどうしたらよいのか、必死の模索をしたのです。それを「後知恵」で、陰謀でもあったかのように批判する人がいて、司法制度についての議論が混迷させられました。
 私自身は、地方都市での弁護士生活を40年近く続けてきて、弁護士はまだまだ多くの市民と縁遠い存在だということを実感しています、かつての司法試験も難しすぎました。2万人の受験者で500人の合格者だなんて、少なすぎます。もっと早くから1000人、1500人の合格者にしておくべきだったのです。
そして、司法修習生を無給にして、奨学金を貸すなんて、国はせこすぎます。今度、1機100億円のオスプレイを17機導入するそうです。1700億円です。強襲揚陸艦とか、そんなものに使うお金はあっても、人材養成にはお金をケチる。国のあり方として、根本的に間違っていると思います。
この本を読んで初めて知ったこと、再認識させられたことがいくつもありました。
 弁護士自治を定めた弁護士法が成立したのは昭和24年(1949年)5月のこと、9月から施行された。この成立にあたっては、政府も裁判所も乗り気ではなかった。それを弁護士出身の国会議員の力で成立させた。弁護士が力を合わせて勝ちとったものと言える。
昭和11年に施行され旧弁護士法で、初めて女性弁護士が誕生した。
 このとき、弁護士試補は1年半の研修を義務づけられた。しかし、無給だった。そこで、政府から手当が弁護士会に支給された。弁護士会も予算措置をとって、弁護士試補一人に25~30円を支給した。
 司法修習生にアルバイトを禁止し、修習専念義務を課しておいて無給とするなんて、野蛮国のすることです。一刻も早く、司法修習生に対して、以前のように給費制を復活すべきだと思います。
 この本で、江戸時代の公事師と代言人について低く評価している点は納得できませんでした。まず、江戸時代にはたくさんの訴訟があっていたこと、それを公事師が支えていたこと。この点の積極評価がありません。
さらに、明治前半には裁判がとても多かったこと、江藤新平は、その点で積極的役割を果たしたこと。「多すぎる」裁判の抑制策として高額の印紙税制度が導入されたこと、そして、代言人の多くは自由民権運動の闘士として活動していたこと。これらの記述が抜けています。この点については、著者に補正してほしいと思いました。
 それはともかくとして、とりわけ多くの若手弁護士に読んでほしい、弁護士と弁護士会のあり方を論じた本です。
(2014年7月刊。1800円+税)

2014年7月31日

冤罪判決実例大全


著者  日本国民救援会 、 出版  桐書房

 裁判員向けのテキスト、読本です。裁判員にあたった人には、ぜひ裁判とは何かを予習するうえで、読んでほしいと思いました。
 プロ(裁判官)の常識は、素人(市民)の非常識。これがサブタイトルになっています。長く(40年も)弁護士をしている私はまったく同感なのですが、当の裁判官は、自分こそ豊富な常識をもっていると自負している人が大半です。
 重箱の隅をつつく議論は得意とするところですが、大局的な見方とか、社会正義の実現という点では、それこそ致命的な弱点をもつ裁判官のなんと多いことか・・・。ときに絶望的な思いに駆られてしまいます。でも、たまに意欲的で良心を忘れていないと思える裁判官にあたると、そうだ、まだ司法は生きている、とうれしくなってしまいます。先日の大飯原発差止訴訟の判決の格調高さに、私はしびれてしまいました。何度も判決文を読みかえしました。
 刑事裁判官のデタラメ判決が、いくつも紹介されています。驚き、かつ呆れはててしまいます。そのきわめつけが、血液型の混合判決です。
被害者はA型、加害少年はB型。乳房に残っていた唾液はAB型。加害少年の唾液と被害者の垢が混じってAB型になったという判決を書いた裁判官がいたのです。その裁判官の名前は、森岡茂、小田健司、阿部文洋です。そして、清水湛、瀨戸正義、小林正という3人の裁判官が、それを再び支持しました。まったくバカバカしい判決です。こんな裁判官に裁かれた被告人は哀れです。この人たちも、今では、心から反省しているものと期待します(反省してますよね・・・?)。
 自らは有罪を言い渡しながら、「もし、やっていなければ・・・」と説示したという裁判官にも呆れてしまいます。
 「以上のとおり、当裁判所は有罪と認定した。キミは、ずっと有罪を主張してきた。もし、やっていなければ仕方ありませんが、もしやっているのであれば、反省してください」
 こんな判決は許されるのでしょうか。疑わしきは罰せず、という法格言を裁判官は忘れてしまっているようです。
 元裁判官が、署名運動には効果があることを認めて、次のように語っています。
 「どんな人でも、自分のやろうとしていることについて、多くの人が関心を寄せていることを感じると、必ずこれは一生けん命にやろう、誰からもケチをつけられないように、批判に耐えられるように、しっかりしたことをやろうと思う。人間心理として当然です。
 投書の内容を読まなくても、これだけ関心を持たれているんだったら、しっかりした判断をしなければダメだという気持ちになる。それは、必ずプラス効果がはたらく」
300頁にみたない本なのですが、ずっしり重たい本です。救援会の意欲は大いに買いますが、もっと薄くして読みやすい冊子にしないと、ぜひ読んでほしい裁判員とその候補者のなかに十分広まらないような気がしました。
 それはともかくとして、大変内容の濃い読本です。ぜひとも読んでほしいと思います。
(2012年7月刊。1500円+税)

2014年7月 1日

刑事裁判ものがたり


著者  渡部 保夫 、 出版  日本評論社

 27年前の本の復刻版です。前にも読んでいましたが、司法、とりわけ刑事裁判の本質を当の刑事裁判官が鋭く語った本として一読してほしいものです。
ただし、木谷明弁護士(元裁判官)の解説によると、著者(渡部保夫)は、平賀書簡問題では所長を擁護するばかりで、的確な行動をとることが出来なかったと厳しく批判されています。司法行政官としては欠陥もあったようですが、刑事裁判官としては、大いに実績を上げたようです。
 日本では、刑事裁判の原則が奇妙に転倒している。無実の者であっても無罪判決を得るのは非常に困難であり、検察側が有罪の判決を得るのは簡単である。
日本では、重罪も軽罪も、1年間に400万人が起訴されて被告人となるが、そのうち無罪になるのは全国で1年間を通じて、わずか400人ほど。
 自白こそは、刑事裁判における最大の「つまずきの石」である。
 人は、ある身体的、心理的な環境の下では捜査官から追求されると、意思の弱さなどのために、案外、簡単に虚像の自白をするものだ。罪を犯していないのに、捜査官からさまざまな圧力を受けて虚像の自白をした場合には、機会をみて自白を翻そうとする。
 誤判の起きる根本的原因には、誤った意味の経験主義がある。次のように考えがちだ。
 我々は毎日、犯罪の捜査をやり、また裁判をやっている。それだけで、犯罪の操作や事実認定について十分に熟達できる。それ以上、ことさら研究する必要なんかない。
 しかし、どんなことでも、単に経験を重ねるだけで熟達できるわけではない。
 長年、同じような仕事を続けていると、とかくマンネリズムに陥り、新鮮な感覚を失いがちになる。そうすると、「疑わしきは被告人の利益に」という裁判原則に対する忠誠心がゆるみがちになる。そうなんですよね。マンネリズムは怖いものです。
裁判官の洞察力にも限界がある。裁判官は、自己が平凡な通常人であることを自覚すべきである。裁判官は謙虚でなければならない。
 今も新しい、学ぶべき司法の本です。
(2014年6月刊。900円+税)

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