弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ドイツ

2008年8月 4日

第三帝国の中枢にて

著者:ゲルハルト・エンゲル、出版社:バジリコ
 総統付き陸軍副官の日記というサブタイトルがついている本です。総統とは、もちろんヒトラーのことです。本のオビに、「1938年から1943年にわたり、ヒトラーの副官をつとめた若手将校の日記が伝えるナチス・ドイツ深奥の作戦中枢における生々しい人間模様」と書かれています。たしかに、ナチス・ヒトラーとドイツ陸軍との水面下のドロドロとした対立状況が伝わってくる第一級の資料です。先に紹介しましたヒトラー暗殺計画の動きも、この本とあわせて読むと、かなり理解できるところがあります。つまり、ドイツ陸軍内部が必ずしもヒトラー一辺倒だったわけではないことがよく分かります。
 ドイツ国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル長官は、ヒトラーに歯向かうことはほとんどなく、周辺から「おべっか使い」と揶揄(やゆ)されていた。
 ブラウヒッチュ陸軍総司令官も、妻と離婚に際して多額の慰謝料を支払うために引き受けたことから、ヒトラーに借りがあった。さらに新しい妻の素性が怪しかったため、ヒトラーにおもねるしかなかった。
 ヒトラーが任命した軍務大臣フォン・ブロムベルク陸軍元帥は、いかがわしい噂のある女性と結婚したことが原因で失脚した。結婚したすぐあとのことだったので、結婚立会人をつとめたヒトラーは非常にまずい立場に立たされた。保守的な将軍らの抵抗にもめげずに自分の政治的路線を支持してくれた信用できる男、ブロムベルクを犠牲にせざるをえなかったヒトラーは、その後、保守勢力による権力掌握阻止に動いた。陸軍と国家指導層との関係を改善できなかったことから、ヒトラーは常に不安にさいなまれていた。
 イギリス軍がダンケルクから脱出できた裏話も興味深いところです。要するに、ヒトラーが政権を握ったあとに創設されたドイツ空軍に決定的な役割を果たさせる点で、ヒトラーはゲーリングと意見が一致したのだった。ヒトラーが5月24日に停止命令を出したのは、ゲーリングの発言を信頼したから。ヒトラーは、伝統的に保守的傾向の強い陸軍より、空軍には国家社会主義(つまりナチス)の精神がよく浸透していると考えていた。
 ヒトラーは、世界観戦争の観点からも、また国内の士気を高めるためにも、スターリングラードの攻略は欠かせないと考えていた。したがって、ヒトラーは、突撃はやめるべきだという提言には、一切、耳を貸さなかった。
 スターリングラードで、ついにパウルス将軍が降伏したとき、ヒトラーは自分の非を認めようとせず、むしろほかの誰かに失敗の責任を転嫁しようとした。そして、その態度が戦線指揮官らの怒りを買うことになった。
 この日記は危機に直面したときのヒトラーの優柔不断ぶりを伝えている。その一方、ヒトラーには、細かい知識や情報を吸収して記憶する並はずれた才能があった。
 エンゲルが副官になったのは32歳のとき。エンゲルは1943年4月に実戦の指揮官に転出し、最終的には中将にまで昇給し、1944年12月のアルデンヌの森の反撃で負傷した。以下、少し紹介します。
(1938年6月25日)
 ゲーリングは元帥の地位にありながら、次々に陸軍を批判し、偏見にみちた参謀本部攻撃を行い、西部要塞監督局について無礼きわまりない意見をのべた。ヒトラーもこれに同調した。
 (1940年12月18日)
 バルバロッサ作戦の指示が出た。陸軍総司令官から、ヒトラーが本当に戦闘を望んでいるのか、それともこけおどしにすぎないのか探るように命じられた。ヒトラー自身も分かっていないと確信している。ヒトラーは、ロシアは弱い、イギリスの譲歩を期待し、アメリカの参戦はないと信じている。ドイツの空軍力に対する信頼は驚くほど高い。
 (1941年1月17日)
 ヒトラーは、ソ連赤軍の戦闘能力に関して、非常に楽観的だ。武器や設備は時代遅れで、とくに飛行機は少なく、戦車も旧式だ。
 (1941年7月28日)
 レニングラードとモスクワという2つの大きな腫瘍を除去しなければならない。それはロシア国民にとっても、共産党にとっても、大きな打撃となる。ゲーリングは空軍だけでやれると断言するが、ダンケルク以降、余(ヒトラー)は少々懐疑的になっている。
 (1943年2月1日)
 スターリングラードは、もう終わりだ。ヒトラーは深く落ちこんで、ミスや命令不履行がなかったかどうか、くまなく探している。
 軍事戦略の「天才」ヒトラーは、同じ「天才」スターリンとまったく同様の俗物そのものだったことがよく分かります。
(2008年4月刊。2600円+税)

2008年7月 4日

ティーガー戦車・戦場写真集

著者:広田厚司、出版社:光人社
 第二次世界大戦中、ドイツのティーガー戦車と呼ばれる重戦車は連合軍を次々に撃破し、鋼鉄の虎と呼ばれ、恐れられました。その実像に迫った写真集です。
 いやあ、ともかくでかいです。これぞまさしく重戦車と呼ぶのにぴったりです。
 1949年7月のクルスク大会戦は史上最大の戦車戦(チタデル戦)でした。ソ連赤軍とドイツ国防軍の双方で1000両以上の装甲戦闘車両が10数キロの幅で激突したのです。このとき、ティーガー戦車は115両も参加しました。400両もの赤軍戦車を撃破したとされています。
 ティーガー戦車は1943年から45年にかけて1800両ほど生産された。
 ティーガー戦車の時速は実際には20〜25キロ。
 ティーガー戦車は1943年夏には履帯の故障が続出した。
 昼間は時速10キロで走り、最初の5キロ地点に第1の修理所があり、次いで10〜 15キロごとに修理班が待機し、メンテナンスを行いつつ集結地に向かった。
 大戦後半のティーガー戦車の稼働率は68〜70%だった。パンター戦車(62%)よりは良かった。40〜45両のティーガー戦車を運用するのに、実に1000人ほどの大隊要員を必要とした。
 ティーガー戦車は、赤軍のT34戦車を距離1400〜1500メートルで撃破するのを最適距離とした。重量56トン。全長8.45メートル、前面装甲は100ミリ厚。そして強力な8.8センチ戦車砲を装備していた。ただし、非常に高価で、多くの製造工程を必要としたので、大量生産が難しかった。
 訓練不足の要員と悪い保守管理が重なると、長所を生かすことができなかった。とくに履帯の交換方式は実用的でなく、燃費も1.6キロ走行あたり12.5リットルを必要とし、航続距離は140〜150キロと短かった。砲手と車長が操作する油圧と主導のいずれも砲塔回転速度が遅く、戦闘時、目標を捕捉するのに影響を与えた。
 エンジンの短命さと変速機の信頼性も不足していた。
 生産テンポが遅かったため、当初考えられていた戦車師団に重戦車大隊を配備する計画を実行することはできなかった。広大な戦線にばらまかれたティーガー戦車は少ないままだった。
 1944年12月から始まったドイツの最後の反撃戦(バルジの戦い)に、ティーガー戦車123両が参加した。作戦稼動数は64%の79両だった。しかし、決定的な燃料の枯渇により、多くの戦車が放棄され、アルデンヌ攻勢はついに失敗した。
 赤軍の重戦車であるスターリン戦車は、近距離ではティーガー戦車との交戦を避けようとしたが、距離2000メートル以上だと砲力優勢により積極的となった。
 ティーガー戦車は、遠距離砲撃では、スターリン戦車の前面装甲を貫通できなかった。
 史上最強という伝説のあるティーガー戦車なるものの実体を、写真とともに知ることができました。
(2008年4月刊。1900円+税)

2008年5月28日

ヒトラー暗殺計画

著者:グイド・クノップ、出版社:原書房
 小説ではありません。歴史ドキュメントです。本文とあわせて、関係者の証言がエピソード的に紹介されていて、ヒトラー暗殺計画の周辺状況を多角的に知る事実ができます。初めて知ることがたくさんありました。
 もちろん、私は暗殺とかテロを支持しているわけでもなく、賛美したりなど決してしません。しかし、ヒトラーに限っては(実は、スターリンについても同じですが)、早いとこ暗殺されてしまったら、ヨーロッパ戦線で数百万人の兵士が死ぬ必要はなかったろうし、数十万人のユダヤ人が死ぬこともなかっただろう。著者の、この指摘には同感せざるをえません。
 ヒトラー暗殺の第一弾は、1939年11月8日のこと。ミュンヘンでヒトラーが演説し、いつもより早く1時間半ほどで切り上げて会場のホールから立ち去ったあと、その13分後に10キロの爆薬が爆発した。演壇そばのホールの支柱が爆発したのだった。8人が死に、数十人がケガをした。
 犯人は、一人の工芸家具職人であり、単独犯で、黒幕はいなかった。彼はドイツ共産党に投票していたが、党員ではなかった。ヒトラーは戦争だ、ヒトラーがいなくなれば平和になる。このように考えての行動だった。
 この暗殺者は、実行する1年前に会場の下見をした。そして、爆弾を購入するために、少しずつ家財道具を売り払って、材料を買いととのえた。会場の店には夜のうちに入っていて物置部屋に忍びこみ、ホールの支柱に工作した。大変な苦労をしたのですね。ヒトラーが、この日、天候を気にして早めに演説を切り上げたのは、まったくの偶然でした。まったく悪運の強い男です。
 「犯人」はザクセンハウゼン強制収容所に入れられましたが、ずっと他の囚人から隔離されていました。独房3室があてがわれ、1室で寝起きし、1室に作業台を置いて木材加工し、最後の1室にSS監視兵が1人つめていた。食事も衣料も好待遇だった。暗殺に失敗したあと、5年半も生きていて、1945年4月9日夜、SS兵にうしろから撃たれ、翌日、ダッハウ強制収容所の焼却炉で灰になった。
 ヒトラーは、ドイツ帝国の東部国境を、バクー、スターリングラード、モスクワ、レニングラードのラインまでずらす。この線から東をウラル山脈まで焼きはらい、その地域の生あるものすべてを抹殺する。そこに住むロシア人3000万人は餓死させる。レニングラードとモスクワは跡形もなく消し去る。このような戦慄のシナリオを知ったヒトラーの犯罪的所業を阻止する必要があると考えたドイツ国防軍の将校群が生まれた。
 ユダヤ人、捕虜、コミッサールの射殺は総じてドイツ国防軍の将校団から拒絶された。このような射殺はドイツ将校団の名誉を毀損すると見なされた。そして、前線にいるドイツ国防軍の将校は我々の想像以上にこれを問題にしていた。
 1943年3月7日、ドイツ国防軍防諜部(アプヴェーア)長官カナリス提督が幕僚を率いてスモレンスクへ飛んだ。オスター少将、ラホウゼン大佐、ドホナーニ特別班長が同行した。表向きの会談は前線司令部における情報将校の大会議。実は、ヒトラー暗殺のあと、ベルリンでどのように政権を引き継ぐか、そのときの措置、そして意思疎通のための暗号が取り決められた。
 1943年3月、成功できたはずのヒトラー暗殺計画が、2件、たて続けに失敗してしまい、クーデター将校は仕切りなおしを強いられた。
 ブライデンブーフ大尉がヒトラーを自分の拳銃で射殺することになった。しかし、なぜか、その日、ブライデンブーフ大尉はヒトラーの参加する作戦会議の開かれた会議室に入ることを拒まれた。
 「ああいうことは、一度きりだ」とブライデンブーフは語った。神経の緊張はあまりにも大きく、2度もそれに耐えるとは思えなかった。
 シュタウフェンベルクは、1943年4月、アフリカのチュニジアで敵機の機銃掃射を受け、命は助かったが右手を手首の上方で切断され、左手の小指と薬指を失い、さらに左目も喪った。やがてシュタウフェンベルクは、快復したあと1943年、本国へ異動した。そして、市民レジスタンスグループと連絡をとることができた。
 1943年9月にベルリンへ来てから、シュタウフェベルクは短期間のうちにクーデター計画のリーダー格になった。レジスタンスの最重要人物と連絡をとり、意見の相違はあっても、共通の目標に対する支持をとりつけた。
 1944年6月、連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功したとき、シュタウフェンベルクはクーデターに意義があるのか疑問を感じた。そのとき、トレスコウはこう言った。
 「いかなる犠牲をはらおうと、ヒトラー暗殺はなしとげなければならない。失敗するにしても、クーデターは起こさなければならない。もはや、重要なのは、現実の目標ではない。世界と歴史の前に、ドイツのレジスタンスが命を賭して決定的な一石を投じた、ということが重要なのだ。その事実に比べれば、ほかのことはどうでもよい」
 いやあ、すごい言葉ですね。しびれます。まったく、そのとおりです。私は、今は亡き、この2人の先人に対して心からの敬意を表します。
 いよいよ、ヒトラー暗殺を実行できるのはシュタウフェンベルク1人にしぼられていきました。日頃、口先で大きなことを言っていても、いざとなれば臆病風が吹いてしまうものです(なんだか、私のことを言われているようで・・・)。
 1944年7月15日に至る経過で明らかになったのは、ベルリンでクーデターを指揮できるだけの精神力と行動力をふりしぼることのできるのは、シュタウフェンベルクだけだった。彼は、刺客兼クーデター指揮者という2つの役を兼ねなければならなかった。
 しかし、片手の男が暗殺を決行するのは正気の沙汰ではなかった。ところが、ほかには誰もいなかった。シュタウフェンベルクと副官ヘフテンは書類カバンのなかに、それぞれ1キロのドイツ製プラスチック爆弾を隠していた。爆弾の組立は、きわめて複雑な作業である。確実に爆発させるためには1個だけでなく、2個か3個の信管を起動させる必要があった。ところが、2個目の爆弾をセットしようとする寸前にシュタウフェンベルクは謀議仲間から電話が入り、2個目の爆弾をカバンに入れることなく、ヒトラーの入る会議室に入ってセットせざるをえなかった。いやあ、これって、まさに運命のイタズラですね、仲間によって邪魔されたというのですから。
 シュタウフェンベルクがヒトラーをなぜ会議室で射殺しなかったのかというと、彼は暗殺が成功したときのことにまで責任をもっていたからだ。
 ああ、またもや悪運強し、です。ヒトラーは間一髪、爆死を免れました。ちょうどやってきていたイタリアのムッソリーニを無事に送り出し、ラジオで自分が元気でいることをドイツ国民に知らせることができた。
 ロンメル将軍は、ヒトラー暗殺計画に積極的に加担してはいませんでしたが、軍部レジスタンスの味方をしていました。ところが、7月20日の直前の7月17日にフランス国内でイギリス軍の機銃掃射にあい、予期せぬ重傷を負ってしまったのです。これまた、なんという皮肉な運命でしょうか。
 7月20日のヒトラー暗殺の失敗のあと、数週間のうちに800人ほどの人が逮捕され、200人が殺害された。ドイツ国民の大多数はヒトラーの暗殺未遂の知らせに驚愕し、激怒した。
 シュタウフェンベルクは1944年7月21日未明、直ちに銃殺された。8月7日、クーデター将校に対する裁判が始まったが、非公開で行われた。裁判を公開したら、被告人にしゃべらせなければいけない。それは危険だ。こういう判断でした。
 ゲッベルスはこの裁判の記録映画をドイツの映画館で公開するつもりだったが、むしろドイツ国民はフライスラー裁判長に対して嫌悪し、被告人たちに同情と尊敬を覚えるだろう。こう心配して、とりやめにした。
 8月8日、被告人たちに死刑が宣告され、ヒトラーの命令どおり、家畜のように絞首刑が執行された。その様子をカメラが記録していて、ヒトラーは、何度となく観賞してあきることがなかった。ヒトラーは、やはりサディストそのものです。
 死刑囚は、みな、嘆きの言葉一つも言わずに、背筋を伸ばして絞首台へ向かった。
 ずっしり重たい本です。東京からの帰りの飛行機で一心に読みふけり、時間のたつのを忘れましてしまいました。
(2008年3月刊。2800円+税)

2008年5月 8日

ヒトラーを支持したドイツ国民

著者:ロバート・ジェラテリー、出版社:みすず書房
 ヒトラー独裁といっても、それは多くのドイツ国民の最後までの支持なしにはありえなかったし、ドイツ国民は強制収容所の存在、そして、そこでの囚人虐待を知っていたという本です。ドイツ国民は何も知らなかったという従来の通説とは異なりますが、当時のマスコミ報道をふくめて資料を丹念に掘り起こしていますから、説得力があります。目を背けてはいけない事実です。
 いま日本で、75歳の人が後期高齢者として保険料の年金からの天引きそして医療費の大幅な制限が始まり、多くの人が怒っています。でも、それを決めたのは小泉元首相でした。小泉フィーバーに乗っていた人々が、いま手痛いシッペ返しをくらっているとも言える事態です。スケールは断然違いますが、事の大小はともかくとして、ドイツでも日本でも、本質的には似たようなものだと私は思いますが、いかがでしょうか。
 ヒトラーが1933年1月30日にドイツ(ワイマール共和国)の宰相に任命されたのは、43歳のとき。そのころのドイツには絶望感がみなぎっていた。それは自殺率に反映された。1932年には、イギリスの4倍、アメリカの2倍だった。そして、ヒトラーの任命前の3回の選挙において共産党は毎回3位を占め、得票は増えていた。
 ヒトラーが宰相に任命された直後の国会解散のとき、ヒトラーの選挙スローガンは、「マルクス主義を攻撃せよ」だった。これは、善良な市民と資産家に訴える効果を狙っていた。
 ヒトラーの1935年の徴兵制度の再導入は、労働市場から大量の就労年齢の男性を吸い上げ、失業者数を減らした。雇用と収入が突然戻ってきて、ドイツ国民に希望がよみがえった。それは、ことに青年男女にとって顕著だった。そこで、多くのドイツ国民が競ってナチ運動に参加しようとした。ナチ党員は、1930年に 13万人、1933年に85万人、その後、数年で500万人となった。ナチ党突撃隊 (SA)には1931年に8万人、1932年に50万人、1934年に300万人いた。女性も同じ。ナチの女性組織(NSF)は1932年に11万人、1933年に85万人、1934年に150万人、そして1938年には400万人だった。
 警察官はナチに簡単に順応した。98%の制服警察官、90%の幹部が引き続き勤務でした。いやあ、こんな数字をあげられると、大衆操作の怖さをつくづく実感します。
 ナチによる逮捕者は、裁判なしに強制収容所に送られたが、それは広く報道され、隠されてはいない。囚人の多くが共産党員であり、普通の監獄が満員なので、一時的に収容所に送られたと報道された。法なきところに罪なしという原則が、罰なき罪なしの原則に変えられたと市民に告知された。このスローガンは、犯罪者にあまりに権利を与えすぎて社会負担を無視する法制度にうんざりしていた人たちの心をつかむものだった。
 ヒトラーの新警察は、時間のかかる法手続を無視して迅速な措置がとれるうま味をいったん覚えると、もう二度と後戻りできなかった。
 1933年に非合法で逮捕され、強制収容所に収容された人は10万人をこえる。それらの人々は、なんらかの形で共産党に関係していた。ベルリンには、共産党員と社民党員の多い労働者居住区に100以上の拷問部屋があった。
 世論懐柔のため、強制収容所は、もっぱら共産党員用だと宣伝された。ドイツのほとんどの町にあるといってもよい強制収容所について、新聞が一斉に報道したのだから、収容所の存在は秘密でもなんでもなかった。しばらくとはいえ、むしろ町民たちは、町に強制収容所があることを誇りに思っていた。ええーっ、そうだったんですか・・・。
 警察は、ユダヤ人が共産主義者のような裏切り活動と結託していることを示す努力を払った。ユダヤ人憎悪を広めるもう一つのやり方は、ユダヤ人を犯罪と結びつけること。横領、詐欺、密輸、性犯罪、金銭、麻薬、どんな罪でも、ユダヤ人がかかわるものを新聞は記事にした。うむむ、まさに権力によるデッチ上げの犯罪行為ですね。
 ヒトラーは激烈な死刑論者だった。だから、ナチ党が権力につくと、死刑判決の数が増え、死刑執行も増えた。死刑判決を受けた者の80%が執行された。1933年から45年までのあいだにドイツ国内の法廷で1万6500人に死刑を宣告し、その4分の3は執行された。その大多数はユダヤ人ではない。また、軍事裁判は、1万5000人に近い人々に死刑を宣告し、その85%が執行された。
 ヒトラー独裁制は当初から反ユダヤ主義を培ってきた。けれども最初の2年半は、一般に想像されているよりも用心深くおこなわれた。ユダヤ人を狙った行動は、1935年5月から勢いを増し、7月半ばになると、ベルリン中心部の高級店を乱暴者が襲うようになった。それでも、地下に潜った社会民主党員は総じて楽天的でありつづけた。彼らは人々がナチの嘘を見破るのを期待し、多くのドイツ人がナチの仕業を支持するはずがないと信じこんでいた。しかし、ナチは、反ユダヤ主義を広めるバネとして、ユダヤ人の逮捕とは、共産主義者を逮捕することと同じなんだと請合った。これで、多くの善良な市民が騙されたわけです。
 ヒトラーは、1939年9月、ドイツ国民が外国放送を聴くことを禁止した。ナチ警察は、こんな法律を守らせるのはきわめて難しいという理由から態度を保留した。たしかに、ドイツ人は、禁止されたイギリスのBBC放送をしっかり聴いていたし、それは公然の秘密だった。外国放送を聴いているという密告が数多くなされたが、その75%は、ナチへの支持とは無縁の、利己的な目的によってなされた。ドイツ全土が密告の雰囲気に包まれた。普通のドイツ人は、ゲシュタポを心配して四六時中ビクビクするどころか、自分たちの利益になるように制度を操作するように、この制度に順応した。
 ドイツ人は、囚人服を着て木靴をはいた囚人を色眼鏡をとおして見た。よくて無関心か恐怖心、悪くて看守と一緒になって侮蔑、敵意、憎悪をむき出しにして囚人を見ていた。
 一般市民も囚人を自分たちのために強制して働かせることをなんとも思っていなかった。囚人は、人間以下の人間として、国家の敵、犯罪者としての烙印が押されていたから。そして、ドイツの民間企業こそが、強制収容所囚人の最大の搾取者だった。IGファルベン、ジーメンス、ダイムラー、ベンツ、フォルクスワーゲン、BMW、などなど。
 1941年にダッハウ収容所には、8つの衛星収容所があった。それは120ヶ所にまで増えた。衛星収容所の多くは市町村のまんなかに置かれたから、住民としては見ないわけにはいかなかった。ベルリンには30ほどの衛星収容所があって、そのうち半数は女性だった。そのほか、700の外国人労働者用のさまざまな収容所があった。このように囚人を住民の目と心から切り離すことは不可能だった。
 住民は、囚人を犯罪者か共産党員だと信じこんでいたし、無反応であり無関心だった。
 300頁ほどの本ですが、大変重たく感じる本です。いまの日本は、小泉元首相への熱狂によって悪い方向に大きく切り換えられてしまいました。このことは、今では明確だと思うのですが、まだまだ多くの日本人はそのことを自覚しないまま、景気回復の幻想にひたっているような気がしてなりません。残念です。
 連休は熊本以外、どこにも出かけず、モノカキと庭仕事に精を出しました。ウグイスの鳴き声を聞きながら、庭を掘り下げて、野菜と木を植えました。まずアスパラガスです。今年は例年とちがって、なかなか芽が出てきません。植えてから、もう10年にはなりますので、寿命が来てしまったのかもしれない。そう思って、新しい苗を買ってきたのです。そして、少し離れたところに沈丁花の木を植えました。毎年、早春に咲いてくれていたのですが、近くのアンデスの乙女にでも負けてしまったのか、枯れてしまいました。最後にツルバラです。フェンスにからんで咲いてくれていたのですが、これも枯れたので、前と同じ紅い花のツルバラを植えました。
 サクランボの実が、ぎっしりなっています。ヒヨドリが早速食べにやってきました。ヒマワリが庭のあちこちでぐんぐん伸びています。連休が終わると、もうすぐホタルも見れるようになります。初夏はもうすぐです。
(2008年2月刊。5200円+税)

2008年4月16日

ヒトラーとは何者だったのか?

著者:阿部良男、出版社:学研M文庫
 文庫本なのに、700頁もあります。ナチス・ヒトラーについて書かれた本を3000冊以上も読んだ人が、そのうちの220冊を厳選して要旨を紹介した本です。なんと、学者ではありません。銀行に勤めながら、長いあいだ、ヒトラー関連の文献を集めたというのです。私も、この220冊のうち、かなりの本は読んでいますが、負けました。といっても、私も、ナチス・ヒトラーに関連する本は300冊は読んでいると思います。
 ある分野について一応読んだと言えるためには最低300冊は読了することが必要だという説を読んだことがあるからです。ですから、私の書庫も、同じテーマのものは、集中しておくようにしています。そのテーマで書くときに必要な文献を、すぐに取り出せるようにするためです。私は、ヒトラーと同じように、ソ連とスターリンについても多くの本を読んでいます。
 ヒトラーは臆病で、総統などという柄じゃない。優柔不断で、考えがぐらつき、人の意見に左右される。いま誰かと話すと、そのたびにころっと意見が変わる。だが、抜け目がなく、立ち回りはうまいし、気の弱い人間に限ってそうなのだが、残忍なところがある。
 これはヒトラーと同時代の人の評価です。なるほど、と思います。ヒトラーは単純な精神異常者ではありませんでした。
 ヒトラーは、暴力行為がもっとも効果的な政治の手段であることはよく理解して実行していた。その効果は噂と恐怖の拡大現象で増殖し、次第に民衆の独立的な抵抗意識を奪っていった。
 アメリカのフォードは、ユダヤ人嫌いで、ドイツに輸出した自動車の売り上げから、ヒトラーに資金援助した。
 ナチス突撃隊(SA)のレームは、資本家と決別することをヒトラーに要求した。それは旧体制との妥協を考えているヒトラーには同意できないことだった。
 ヒトラーが1934年6月にSA隊長レームなど89人を粛清したことからナチ党の腐敗に対する断固たる処置としてヒトラーを高く評価し、神話が生まれた。
 ナチス・ヒトラーは、生きるに値しない障害者を計画的に抹殺した。精神障害者、結核患者、知的障害者など20万人がドイツ内の6施設で薬物やガスで殺された。
 この本で私が初めて知ったのは、アメリカ軍が200万人のドイツ兵を捕虜としたのに、通常の捕虜(POW)として扱わず、扶養する義務のない「新しい身分の捕虜」(DEF)と扱ったことから、100万人ものドイツ人が消えて(死んで)いったということです。アイゼンハワー元帥の考えによるものでした。
 「水晶の夜」の真相は、ゲッペルス宣伝大臣がチェコ人女優と恋に落ちて結婚を望み、宣伝大臣の辞任と日本大使を希望したのに対してヒトラーが怒ったことから、ゲッペルスが名誉挽回を図ったものだというのです。ひどーい話です。
 ホロコーストは、並の人間の想像力をはるかに超えていた。だからこそ、ホロコーストを否定する人々は、現在に至るまで、そんなことはウソだと言いはることができた。ナチ犯罪はあまりにも特異で、容易には理解しがたいものであるからこそ、これを否定しようとする、よどんだうねりは絶えることがなかった。
 それでも、ウソはウソなのです。日本軍が南京で大虐殺をしたことが事実であるのに、あたかもウソであるかのようにいいつのる日本人が絶えないのが悲しい日本の現実です。 1944年7月のヒトラー暗殺計画に直接加担したのは200人近い。21人の将軍、33人の将校、2人の大使、7人の外交官が含まれていた。処刑されたのは年内に5764人、年が明けてさらに5684人だった。ヒトラー最大の危機だったのですね。
 ヒトラーは、人種的観点からはむしろ問題の多い日本人との同盟を拒否はしなかったが、日本との対決を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーは、日本が話題になるたびに、いわゆる黄色人種と手を握ったことを残念がる口ぶりを示した。
 ヒトラーは黄色人種、つまり日本人も蔑視していました。ヒトラーの言葉が紹介されています。
 白色人種の国々が結束していれば、極東を手に入れて、日本がこれほどのさばることもなかったはずだ。
 ヒトラーと妻エヴァの遺体は、埋葬場所を転々と変え、1970年4月、ソ連のアンドロポフKGB議長が最終処分を指示した。遺体は火葬され、灰はエルベ川支流に捨てられた。
 ヒトラーについて、その全体像を知る手がかりを与えてくれる本です。
 昨日は絶好の春うららかな日和でした。車で山間部の支部まで出かけました。桜の花がハラハラと散っています。ナシの白い花が満開です。民家の庭先に咲くハナズオウの赤紫色の花があでやかに輝いていました。レンゲ畑となっていた田んぼにトラクターが入って、すきおこしをしています。
 わが家のチューリップは今400本咲いています。いまが真っ盛りで、写真でお見せできないのが残念です。
(2008年1月刊。1300円+税)

2007年12月 4日

魅惑する帝国

著者:田野大輔、出版社:名古屋大学出版会
 いやあ実に面白い本でした。知的好奇心をしっかり満足させてくれました。多読していると、こんな素晴らしい本にめぐりあることができます。著者はまだ30代後半の若手学者ですが、その問題関心と背景説明には、何度も、なるほど、なるほど、そうだったのかと、うなずいてしまいました。えっ、たとえばどんなことに魅かれたのか、ですか。
 ヒトラーは、スターリンや後世代の毛沢東と違って、その第三帝国が存在した12年のあいだ、彫像がまったくなかったというのです。あれほど絶対的に崇拝され、ほとんど救世主の地位にまで高められたドイツの独裁者の彫像が存在しなかったのはなぜか?
 著者はこのように問題を設定し、さまざまな角度からアプローチしていきます。
 写真集においては、「総統も笑うことがある」というように、制服を着用していないヒトラーが表情もなごやかで、民衆や子どもたちと気さくに談笑している。
 しかし、こうした親密な雰囲気は体制が安定期を迎えた1930年代中頃から次第に後退していき、やがてきまりきった儀礼的賛美へ転化する。とくに戦争がはじまると、ヒトラーは総統本営にひきこもって国民の前に姿をあらわさなくなったため、ますます遠い存在となった。
 ヒトラー自身、民衆との結びつきが何よりも重要なことを自覚し、独裁者のような印象を与えないよう十分に注意していた。ヒトラーは、民衆の感情に配慮して、ヒトラー自身も質素な服装を着用し、粗末な食事をとり、酒もタバコものまず、妻もめとらなかった。ヒトラーの趣味は、専制君主の権力誇示とは対象的に、謙虚さや質朴さを美徳として強調するものだった。
 ヒトラーは、みずからの生を公開し、親密さという価値を政治の中心にすえることで国民の信頼をかちとった。それは、疎遠でない政治、指導者と大衆が同じ目線に立つ政治であり、見とおしのきかない現代社会にあって、人々に政治参加の感覚を与える一種の「民主的」な政治形態だった。
 ヒトラーによる「親密さの専制」は、第三帝国においても市民的価値観が連続性を保っていたこと、それどころか、この価値観こそナチズムの基盤にほかならなかった。むしろ、スターリンのほうが例外的だった。
 ヒトラーが生前に描かせた肖像画は、つねに無表情で直立し、表情やポーズの硬さは、彼が総統として象徴的な意味を担っていることを示している。
 多くの人々は実物のヒトラーを見てぱっとしない印象しか受けず、公式のイメージとの落差に驚きととまどいを覚えた。ヒトラーの目つきには、どこか生気のないところがあり、それが強い印象を与えた。
 ヒトラーによって粛清された突撃隊のリーダーであるレームについても、鋭い指摘があり、目を開かされました。この突撃隊には、かつての共産党支持者が大量に鞍がえして入っていたというのです。あの有名なナチ・デマゴーグのゲッペルスは、闘争期には、共産主義への明かな共感を表明し、「私はプロレタリアートの社会主義を信じる」とさえ述べている。
 国民の圧倒的多数を占めながら、長らく政治的公益性、公共性から排除されつづけていた労働者に対して、ナチズムは門戸開放を約束することで、大きな原動力を手にした。
 しかし、ナチ党が権力を握ったとき、党指導部の統制に従わず、なおも第二革命を要求する突撃隊の急進主義は、国民全体を総合する「民族共同体」の建設にとっても、もはや障害でしかなかった。
 このようにしてレームの粛清は必然だったのです。
 さらに、ニュルンベルグで開かれていたナチ党全国大会についての実情紹介と、その分析もまた興味深いものがあります。参加者が50万人に達し、一糸乱れぬ統制とれた行進を写真でみると、いかに当時のドイツ国民がナチス・ヒトラーに心酔し、熱狂していたか、よく分かります。ところが、その内情はびっくりするものがありました。
 党大会は会場もプログラムも、それぞれの組織ごとに異なり、全体が一同に会することはなかった。独立王国の寄せ集めだった。 第三帝国は決して一枚岩ではなかった。むしろ、激しい権力闘争にひき裂かれた機構的アナーキーというべきものであった。左翼政党や労働組合は破壊されたが、それ以外の大部分の既成集団、とくに官僚機構、軍部、企業などはナチ党の侵入はほとんどなく、自由裁量を維持しており、圧力集団として機能していた。
 人々は概してナチ党全国大会に無関心だった。ニュルンベルグ観光ができるということで参加していた。汽車賃も食事も無料で、こずかいまでもらえた。
 行進や演説といった公式行事よりも、いろいろの催し・娯楽が人々を惹きつけていた。
 泥酔した党員が乱闘騒ぎをおこしたり、制服姿のまま売春宿に殺到したりする事態があり、主催者を悩ましていた。参加者は楽しいお祭りと受けとめていたのだ。
(2007年6月刊。5600円+税)

2007年11月 5日

「白バラ」尋問調書

著者:フレート・ブライナースドルファー、出版社:未来社
 無責任な暗い衝動に駆り立てられた支配者の徒党に、抵抗もなく「統治」を許すことほど、文化民族の名に値しないことはない。誠実なドイツ人ならば、今や誰でもおのれの政府を恥じているのではないか?
 これは「白バラ」が1943年1月にまいたビラの冒頭の文章です。その格調の高さに圧倒されます。20代も前半の学生が中心のグループが書いたのです。
 ドイツ民族のこのがん腫瘍が、初期にはそれほど目につかなかったとすれば、それを押さえるのに正義の力がまだ十分に力を発揮していたからに過ぎない。しかし、腫瘍がだんだん大きくなり、ついに忌まわしくも政治を腐敗させて権力を握り、同時にその腫瘍が破裂し、全身に毒が回ると、かつて反対した者の大多数が姿を消し、ドイツの知識人たちは地下の穴蔵に逃げ込んで、闇に生きる植物のように、日の光を浴びぬままやがて息絶えてしまった。今や、我々は終末を目前にしている。
 私は諸君に問いたい。もし知っているのなら、なぜ動かないのか。
 人間は、おのれの権利を要求する力すら残っていなければ、必然的に破滅してしまう。諸君の臆病さを、賢明さというマントの下に隠してはならない。
 これも同じく「白バラ」のビラの文面です。すごい問いかけですよね。
 「白バラ」は、ビラを9000部印刷し、計画的に配布した。アレクサンダー・シュモレルは1500通の封筒に入れたビラが入った荷物をもってウィーンに行き、そこから、フランクフルトなどへ発送した。ゾフィー・ショルは2500部のビラをハンス・ヒルチェルに渡した。シュモレルとハンス・ショルは、ミュンヘン市内中心部の路上に、夜間、5000部のビラをまいた。
 これらのビラは、大きな動揺をナチ党指導部に引き起こした。
 ゲシュタポに依頼された古典文献学者ハルダー教授は、次のように鑑定した。
 この作者は天分ある知識人であり、自分のプロパガンダを大学関係者、とくに学生のあいだに広めようとしている。文章にはある程度勢いがあり、政治的な意思による固い決断を感じさせるが、この知的産物は、しょせん机上の空論である。絶望視孤立した者の口調ではなく、背後に一定の仲間はいるようだが、政治的な力を持って活動しているグループから派出したものではない。それには文章が抽象的すぎる。これでは兵士や労働者から幅広い反響を得ようとしているとは、また得られるとは思えない。
 さすがに、なかなか鋭い分析で、感心します。
 「白バラ」の活動家たちは、仮面をかぶるのではなく、ごく普通に生活していた。それが隠れみのとして有効だった。
 「白バラ」はミュンヘン以外の都市にも定着させ、広域で把握しにくい、強力な組織をつくりあげようしていた。それが不首尾に終わったのは、声をかけられた人々の大多数がそれに応じなかったから。「白バラ」の活動がミュンヘン、しかも大学周辺の狭い範囲で行ったため発見される危険がますます大きくなったのは、単に協力者が少なかったからに過ぎない。
 うーん、そうなんですか、そうなんですね。まさしく、悲劇ですよね、これって。
 「白バラ」グループに関わっていたクルト・フーバー教授は、ドイツ人が犯した戦争の残虐行為の責任はひとえにナチス親衛隊にあると考えていた。しかし、前線での戦争体験をもつ「白バラ」の学生たちは、違った。国防軍は、後方での殺人行為を許し、見て見ぬふりをし、ヒトラーを止めようとはしなかった。国防軍は軍人の礼節のよりどころではなかった。ヒトラーの思いのままに操られる道具だった。やはり、軍隊ってー、どんなに起立がたもたれていたとしても、しょせんは人殺し集団なんですよね。
 法廷で「白バラ」のショル兄妹の裁判を目撃した人(司法修習生)は次のように語った。
 被告の態度に深い感銘を受けたのは、私だけではないだろう。そこに立っていたのは、まぎれもなく、自分たちの理想に満ちあふれた人物たちだった。被告たちは冷静沈着で、明晰かつ毅然とそれに答えていた。
 公判の日程は公表されず、傍聴席は、このために動員されたナチ組織のメンバーで占められていた。昼12時45分に死刑判決が宣告された。宣告後、親との面会が許され、看守は3人に一本のタバコを一緒に吸う機会を与えた。そして、17時、3人はギロチンで処刑された。
 「ついさっき、僕にはあと1時間しか残されていないと聞かされました。僕の死は安らかで、喜びに満ちていたと伝えてください」
 なんという気高い言葉でしょうか。
 ショル家の父親は、はじめからナチに対して非常に批判的でした。しかし、その子どもたち(殺された兄妹のことです)は3年間も、リベラルな父親の意見を聞く耳をもたず、ヒトラーを熱狂的に歓迎し、ヒトラー・ユーゲントに所属して、そのリーダーになっていたというのです。
 真実を見抜くには時間がかかる。そして、真実を実現するのは勇気が必要だ。こういうわけです。
(2007年8月刊。3200円+税)

2007年10月10日

イメージ、それでもなお

著者:ジョルジュ・ディディ・ユベルマン、出版社:平凡社
 タイトルからは何も分かりませんが、サブ・タイトルに「アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真」とあり、これでようやく本の内容が推察されます。
 いかにもフランス人の書いたと思われる難解な文章が続きます。著者の言わんとするところは、私には難しすぎてよく分かりませんでした。それでも、いくつか知らなかったことを大発見しました。やはり、人は自分のことを人に伝えようとする存在なのですね。
 それは、アウシュヴィッツでユダヤ人の死体処理をしている状況をまさに隠しどりしたユダヤ人がいて、その写真が強制収容所の外へ運び出されていたということ、死体処理の作業にあたらされていたユダヤ人(ゾンダーコマンド)は、いずれ順番に消されていったのですが、その人たちが自分の目撃したことを書いて地中に埋めたりしたものが戦後、何年もたってから掘り起こされているということです。私にとっては、いずれも大きな衝撃を受けました。
 最初のゾンダーコマンドがアウシュヴィッツで結成されたのは、1942年7月のこと。この日から、12の部隊があとに続いた。数ヶ月たつと、部隊は潰され、前任者の死体を焼くことが次の部隊にとっての通過儀礼だった。
 彼らの恐怖の一部をなしていたのは、彼らの全存在が避けがたい部隊のガス室送りの日まで、完全なる秘密のうちに保たれていたということである。すなわち、ゾンダーコマンドのメンバーたちは、他の囚人といかなる接触も持ってはならず、ましてや、ありとあらゆる外部世界とはおろか、不案内なSSたち、つまり、ガス室や焼却棟の正確な役目を知らない者たちとも接触を断たれている。秘密裡に置かれたこれらの囚人たちは、病気でも収容所の病棟に入ることが許されなかった。彼らは完全なる従属と焼却棟
での仕事に対する感覚麻痺、ー アルコールは禁止されていなかった ー のうちにとどめ置かれていた。
 ゾンダーコマンドの仕事は、彼らの同類の死を数千単位で処理すること、最後まで嘘をつきとおすのを強いられること。犠牲者たちに彼らの運命を伝えようとした者は、生きたまま焼却場の火に投げこまれ、他のメンバーは、その執行に立ち会わねばならなかった。
 自分自身の運命を知りつつ何も語らないこと。男たち、女たち、子どもたちがガス室へ入るのを見届けること。叫び声や壁を打ち鳴らす音、最期のうめきを耳にすること。続いて、扉を開けると崩れ落ちてくる、筆舌に尽くしがたい人間の山積み。肉でできた、彼らの肉、われわれ自身の肉でできた「玄武岩の柱」を、まるごと引き受けること。死体をひとつひとつ引っぱり出し、服を脱がせること(これはナチスが脱衣所のトリックを思いつく前のこと)。
 すべての血と体液、積み重なった血膿を、放水で洗い流すこと、金歯を「帝国」の戦利品として取り外すこと。死体を焼却棟の大かまどにくべること。非人間的なリズムを保ち続けること。コークスを供給すること。冷えるにつれて黒味を帯びる、溝から溢れ出す高熱の白っぽい不定形の物質という姿と化した遺灰をかき集めること。産業的破壊に対する身体の最後の抵抗である、人骨を砕くこと。
 これらすべてを山積みにし、近隣の河川に投げ入れるか、収容所近くで建設中の道路の舗装材に用いること。巨大なテーブルで囚人が15人がかりで解きほぐす、150平方メートルの頭髪の上を歩くこと。ときおり脱衣所のペンキを塗り直し、カムフラージュ用の生垣をつくり、想定外のガス殺のために予備の焼却溝を掘ること。焼却棟の大かまどを清掃し、修繕すること。SSに脅かされながら、これらを毎日繰り返すこと。こうして期限の定まらない時間を、酒に酔いつつ、できるだけ早く終わらせようと憑かれたように走り回りながら、昼も夜も働きどおしで生きる続けること。
 ゾンダーコマンドを目撃した囚人によると、彼らは人間の顔をしていなかった、あれは憔悴して狂った顔だった、という。
 ポーランド・レジスタンスの指導部が1944年に写真を発注した。これを受けて一人の民間労働者が強制収容所にカメラをひそかに持ち込み、ゾンダーコマンドのメンバーに手渡すことに成功した。そして、4枚の写真がとられた。
 囚人たちを写したビルケナウの写真を送る。一枚には屋外で死体を焼く火刑場の一つが写っている。焼却棟だけではすべてを焼ききれないのだ。火刑場の前には、これから投げ入れられる死体がある。もう一枚には、シャワーを浴びるためだと言われて、林のなかで囚人たちが服を脱ぐ場所が写っている。その後で彼らはガス室に送り込まれる。
 これは1944年8月にとられた4枚の写真に添えられた文章です。
 ガス室による死はおよそ10分から15分かかる。
 もっとも、おそろしい瞬間は、ガス室を開けるときの、耐えがたい、あの光景だ。
 人々の肉体は、玄武岩と言うのか。まるで石の塊のように凝固している。そして、そのまま、ガス室の外に、崩れ落ちてくる。
 何度も見たが、これほど、つらいものはない。
 これだけは、決して慣れることはない。不可能だった。
 そうなのだ。想像しなければならない。
 この文章を書き写している私の手は震えがとまりません。想像できない世界です。でも、でも、あえて想像しなければいけないのです。
 そして、ビルケナウの地中から、ゾンダーコマンドのメンバー5人の手記が見つかりました。掘り出されたのです。1945年2月、1945年3月、1945年4月、1952年4月、1961年7月、1962年10月、1980年10月にそれぞれ発見されています。フランス語、イデッシュ語、ギリシア語で書かれていました。
 実は、終戦後、近くのポーランドの農夫たちが、この死の収容所にユダヤ人の財宝が画されていると思いこみ、収容所を荒らしました。その難を逃れて発見されたものです。
 自分が何を見たか、何をしたのか、いずれ殺されることが分かっていたユダヤ人たちは、なんとかして、外の世界へメッセージを送りたいと思い、苦労して、苦心して地中深く穴を掘り、ビンの中にメッセージを入れて埋めていたのです。この状況を今の私たちはしっかり想像すべきだと心の底から思いました。
(2006年8月刊。3800円+税)

2007年10月 4日

せめて一時間だけでも

著者:ペーター・シュナイダー、出版社:慶應義塾大学出版会
 ナチスの支配するドイツの首都ベルリンで、ユダヤ人音楽家が活動して、無事に戦後まで生き延びたという感動の記録です。ナチス・ドイツのなかでも、ユダヤ人だと知ったうえで、ユダヤ人を生命がけで助けていたドイツ人がいたのです。映画『シンドラーのリスト』に出てくるシンドラーだけではありませんでした。ベルリンで地下潜伏生活をしてユダヤ人   1500人が生きのびたとみられています。相当数のドイツ人がそれを助けました。
 1500人が生きのびたといっても、戦前のベルリンに住んでいたユダヤ人は、実に 16万人いたのです。その半数は外国に逃れました。残る8万人は、強制収容所で生命を奪われました。
 ユダヤ人の夫を持つドイツ人の妻たちは、夫の即時釈放を求めて、数百人の女性が一週間にわたってデモ行進した。収容所の入り口を封鎖し、一歩も退かなかった。ナチの手先はドイツ女性に対して発砲できなかった。とうとう、ゲシュタポは、逮捕したユダヤ人の夫たち全員を釈放した。すごーい。すごいですね。やはり、女性の力は偉大です。
 ユダヤ人のコンラート・ラテは、キリスト教会のオルガン奏者になり、ひっぱりだこだった。天職に向かって自己を完成させたいという意思が、いつ捕まるかもしれない不安感を上まわり、日々、ベルリン中を動きまわる原動力になっていた。
 1人のユダヤ人を救うためには、7人の援助者が必要である。しかし、この推計は控えめすぎる。彼らを行動に駆り立てたものは、危険に対する無謀さなどではなかった。まず追い詰められたユダヤ人の苦境が目に入り、次に支援にともなう自らの危険を察知した。誰も、はじめから生命を失うことを覚悟して行動に出たわけではなかった。しかし、みんなすすんで、同情の念から、自尊心から、危険を引き受け、その後で危険を最小限にとどめようとした。
 ユダヤ人を生命がけで助けた一人のドイツ人の女性が戦後、インタビューを受けて、次のように語りました。
 毎朝、鏡のなかで自分の顔をきちんと正視したいからですね。
 うむむ、なんという崇高な言葉でしょう。
 私はドイツ人です。ヒトラーの時代にドイツで起きたことを、私は心底から恥ずかしく思っていました。それを埋めあわせることはできませんでした。ましてや同調するなんて、考えられないことでした。
 うひゃあ、こんなドイツも少なからずいたのですね。このとき、日本人はどうだったんでしょうか・・・。
 ナチス政府から死刑宣告を受けた政治犯を刑の執行まで拘禁しておくテーゲル刑務所のペルヒャウ牧師は、反ナチの人々をかくまう抵抗グループの一員でもあった。
 うむむ、これもすごいことですね。
 コンラートは、自分がユダヤ人であることを正直に話して救いを求めた。突然のことなのに、それにこたえてくれる人がいたのです。とても危ない日々を過ごしていたわけです。あらためて、人生を考えさせてくれました。
(2007年7月刊。1800円+税)

2007年10月 2日

顔のない男

著者:熊谷 徹、出版社:新潮社
 東ドイツの最強スパイの栄光と挫折というサブ・タイトルのついた本です。東ドイツのスパイ・マスターの実像を追跡しています。
 東ドイツには悪名高いシュタージ(国家保安省)がありました。シュタージは、国内の反体制勢力の監視と摘発を主たる任務とし、東ドイツ社会の隅々にまで目を光らせていた秘密警察です。
 シュタージは、ソ連のKGBと同じく軍隊組織だった。この本の主人公であるマルクス・ヴォルフは、陸軍大将の階級を与えられていた。
 東ドイツは盟主ソ連をしのぐ、世界最大の秘密警察国家だった。シュタージの正職員は、ベルリンの壁が崩壊した1989年秋の時点で、9万1000人いた。これは、東ドイツ市民180人に1人の割合で秘密警察職員がいたことを意味する。ナチスのゲシュタポが7000人だったことを考えても、はるかに多い。
 職員のほか、17万4000人の東ドイツ市民が非公然職員(IM)として登録し、情報を提供していた。その数はのべ60万人にのぼる。
 ヴォルフの率いるHVAが利用していた西ドイツ在住のスパイは、1988年の時点で1553人。のべにすると、6000人という推定、また2〜3万人にのぼるという推定もある。
 ヴォルフのつかったスパイのうち、もっとも有名な人物にブラント首相の側近(補佐官)として活躍していたギョームがいる。ただし、ギョーム事件は諜報作戦がうまく行き過ぎると、政治的な利益をそこなうことがあるという失敗例でもある。
 このギョームは、資本主義社会の現実に接しても、自分の使命を固く信じ、社会主義の理想を失わず、性格的にも実直であった。
 西ドイツの対外諜報機関BNDに潜入し、女性として幹部職員となり、その優秀さを買われて、ソ連情勢分析部の副部長にまで出世したスパイもいた。
 HVAにリクルートされた秘書スパイの半分以上はボーイフレンドがいなかった。  1949年からの38年間に、西ドイツの捜査当局が摘発した秘書スパイは58人にのぼる。誰かに愛されたい。もう独りぼっちはたくさんだと悩む女性の心につけいった。
 西側の人間がヴォルフのスパイになった動機は三つある。政治的な信条、恋愛関係、そしてお金。西ドイツの憲法擁護庁の対スパイ課員たちが次々にヴォルフのスパイになっていった。それは、給料や昇進に関する不満が高まっていたことによる。
 西ドイツの諜報機関BNDは、1925年以来、東ドイツの諜報機関を率いていたヴォルフの顔を20年以上も特定できなかった。このため、ヴォルフは、西側のスパイ機関から、「顔のない男」と呼ばれていた。それが発覚したのは、スウェーデンで不審な旅行者団をうつした写真のなかで発見されたため。1979年3月のこと。
 ヴォルフはHVAを隠退して、1989年にベストセラー作家としてデビューした。『トロイカ』という本を出版して、ベストセラーになった。
 その後、ヴォルフは東西ドイツの統一のあと、国家反逆罪で起訴され、一審では有罪となったものの、連邦憲法裁判所において、国家反逆罪は成立しないという勝訴判決を得ている。
 ドイツの検警当局は、統一したあと、2303人のHVA職員に対してスパイ活動などの疑いで捜査したが、そのうちの98%は嫌疑なしとして起訴されなかった。有罪判決を受けたHVA職員は12人にすぎない。
 HVAのスパイとして登録されていた1553人の西ドイツ人に対して捜査をはじめたが、そのうち有罪判決を受けたのは181人にすぎない。全体のわずか12%。2年をこえる禁固刑の実刑判決を受けたのは66人だけ。残り115人は、2年以下の禁固刑か、執行猶予または罰金刑だった。
 ヴォルフが亡くなり、HVAが消滅したあとも、統一ドイツはスパイの影に怯えている。
 HVAが西ドイツに送りこんでいたスパイの半分以上は10年以上も諜報活動に従事していた。なかには40年近くも東ドイツにスパイとして協力していた者がいる。
 うむむ、すごいことですね、これって・・・。
 映画『エディット・ピアフ』をみました。2時間20分、彼女の歌声に聞きほれ、至福のひとときを過ごしました。フランス語を勉強して良かったと思いました。もちろん、全部ではありませんが、今ではかなり会話そして歌詞が聞きとれます。
(2007年8月刊。1300円+税)

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